Month: May 2020

水谷章 – Wikipedia

水谷 章(みずたに あきら、1957年11月3日 – )は、日本の外交官、学者。一橋大学法学部教授、立命館アジア太平洋大学特別教授等を経て、駐オーストリア特命全権大使[1]。 目次 1 経歴・人物 2 同期 3 著書 4 脚注 5 外部リンク 経歴・人物[編集] 愛知県出身。1980年(昭和55年)一橋大学法学部を卒業して、外務省に入省する。ドイツ語研修を受け、ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン留学を経て、1983年在ベルリン総領事館副領事着任。在ドイツ日本国大使館一等書記官、外務省国際科学協力室長、東宮侍従、外務省領事移住部邦人保護課長、内閣官房副長官補付内閣参事官、在トルコ日本国大使館公使、在ドイツ日本国大使館公使、在パキスタン日本国大使館公使を経て、2009年(平成21年)一橋大学大学院法学研究科教授及び一橋大学国際・公共政策大学院教授[2]。2011年(平成23年)4月、ミュンヘン総領事。2014年(平成26年)4月15日からモザンビーク駐箚特命全権大使[3]。2017年(平成29年)立命館アジア太平洋大学アジア太平洋学部特別教授(国際関係)[4][5][6]。2019年(令和元年)駐オーストリア兼コソボ特命全権大使[7]。 末松義規(12年内閣府副大臣・96年衆議院議員) 石井正文(17年インドネシア大使・13年国際法局長)

Continue reading

中嶋富蔵 – Wikipedia

中嶋 豊蔵(なかじま とよぞう、1926年 – 1945年6月3日)は、大日本帝国陸軍軍人。1945年6月3日に第48振武隊隊員として、沖縄方面にて特攻戦死、享年19歳。 愛知県豊橋市の農家に生まれた豊蔵は、家が貧しかったことから、中学時代、このままずっと勉学を続けるにはどうしたら良いか悩んでいた。学校での成績は優秀で、体格も視力も良かったことから、中学の教師に軍隊の教育部に編入してみてはどうかと薦められる。これだ!と思った豊蔵は、15歳の時に両親の承諾を経て、大日本帝国陸軍飛行教育科を受験し、見事に合格。こうして、少年飛行兵第12期となる。 学校は福岡にあった、15歳の少年は独り、故郷を後にしている。飛行少年兵としての生活を送る訳だが、幾ら15歳の子供でも、志願し、入隊したからには立派な軍人である。隊での生活は非常に厳しく、容赦なかった。学問の他に、軍人としての教練がある。そして、僅かながらも報酬が貰えた。親孝行の豊蔵は、その金を殆ど故郷の両親に宛てて送金している。 昭和19年10月、内地から台湾に戻る途中、同僚で親友だった松本真太治(またじ)軍曹と共に陸軍最大の特攻基地があった知覧に立ち寄り、10日間そこに滞在している。この時、豊蔵たちが食事をしていた所が富屋食堂で、そこの主人が鳥浜トメだった。トメは性格が明るく、温厚な人で、兎に角、肝っ玉母さんそのものであった。そういう人だったから、豊蔵ら少年兵たちは皆、彼女に懐き、いつの間にかトメのことを「お母さん」と呼ぶようになっていた。トメにも二人娘がいて、少年兵たちとほぼ同じ年頃だったから、二人を育てようが何十人育てようが、同じことだと思った。それに、少年兵たちには家庭がいない、15歳で家を出て軍人として教育されていても、やはりまだ母親が恋しい年頃である。トメは、時に少年兵たちの心の支えとなり、時に相談者となり、そして、いつも彼らの母親代わりだった。 こうして豊蔵たちも、この10日間の間は毎日、富屋食堂で朝・昼・晩と食事をし、休息時間になると必ずこの食堂の二階の畳部屋でくつろぐのだった。当時はまだ、この二階の部屋には少年兵がいつも絶えることなくいた。 豊蔵と真太治が再び知覧を訪れることになったのは、昭和20年5月25日のことだった。今度も飛行機で知覧入りし、丘の上にある知覧基地から軍トラックで、麓の村の富屋食堂に行った。前回と全く同じ懐かしい道のりだったが、この時、知覧は既に特別攻撃作戦の最大基地と化しており、豊蔵たちの最初で最後の軍命令が特攻だった。 軍トラックが富屋食堂に着くか否かの寸前に、懐かしい鳥浜トメの姿を見た富蔵は、走っているトラックの後ろから飛び降りた。そして、利き腕の右腕を捻挫し、腫れ上がるほどの怪我をしてしまった。利き手は痛くて動かせなくなったが、トメに再会できたことは嬉しかった。豊蔵がまだ動いているトラックから飛び降りたのは、富屋食堂を素通りしようとしたからだった。しかし、これから出撃する者として、この怪我は最悪の事態を招いていた。ただ、豊蔵本人は、「これしきの怪我、出撃命令が出たら、どうしてでも行きますよ」と言うだけで、けろっとしていた。処が、5月28日の出撃リストには、松本真太治の名しかなく、豊蔵は外されていた。 出撃日、豊蔵は入隊してから初めて親友の松本真太治と離れ離れになった。しかも、これは永遠の別れである。真太治を送った後、豊蔵は富屋食堂で独り号泣した。親友を失った悲しさだけでない、隊と離れ離れになってしまった寂しさ、そして、他の見知らぬ隊と行く辛さ、など豊蔵の心は乱れに乱れた。トメはそんな豊蔵の心と怪我の看病をし、食事を与え、慰めてやった。 そんな時である、突然、富屋食堂の戸が開き、なんと死んだ筈の松本真太治の姿がそこにあった。松本機は途中で故障して引き返してきたのだ。上官にはこっぴどく怒鳴られたが、真太治も豊蔵に会えて嬉しかった。 豊蔵と真太治は再び、次の出撃命令が出るまで三角弊社と富屋食堂を一緒に行き来するようになった。こうして、6月2日を迎えて、翌日の出撃命令を受ける。 この2日の日、「ずっと風呂に入ってない」と言う豊蔵の言葉を聴いて、トメは風呂を沸かし、背中を流してやった。右腕は動かすとまだ痛むようだった。しかし、今度こそは絶対に何がなんでも真太治と一緒に出撃するときかない。 「中嶋さん、ちゃんと腕の養成をしてから行きやんせなぁ。そいじゃかとよか手柄は立てられもはんど…」「お母さん、今はそんな悠長なことを言っている場合じゃないんだよ、僕らが早く行かないと日本は勝てないんだ」こんなにも健康で、立派に育った子供たちが次から次へと出撃していく。トメは豊蔵の背中を擦りながら泣くのを堪えていた。 「お母さん、痛いよ」「そうら、痛かんどが、やっぱい治ってから行かんな」「違うよ、お母さんが、同じ所ばかり擦るから背中が痛いんだよ」トメはもう涙を抑えることが出来なかった。 「お母さん、泣いているのか」「いいや、ちっと腹が痛かもんごわんで」「それはいけない。お母さんこそよく養成をしてくださいよ。あすは見送りに来なくてもいいですから」 この会話が、鳥浜トメが死ぬまで彼女の心の中で生き続けた中嶋豊蔵という一少年特攻兵の想い出である。 中嶋豊蔵というこの少年の話は、トメの回想禄にしか見ることが出来ない。昭和20年6月3日、豊蔵と松本真太治は愛機に乗った。豊蔵は利き腕を自転車のゴム・タイヤで操縦棒に括り付けての出撃だった。そして、その晩も、翌日も、また、次の日も、彼らが知覧に戻ってくることは二度となかった。この時、中嶋豊蔵も松本真太治もまだ19歳の少年だった。

Continue reading

ワンダ・パンフィル – Wikipedia

ワンダ・パンフィル 選手情報 フルネーム ワンダ・マリアンナ・パンフィル=ゴンサレス ラテン文字 Wanda Marianna Panfil-Gonzalez 国籍 ポーランド 競技 陸上競技 種目 長距離走 生年月日 (1959-01-26) 1959年1月26日(63歳) 出身地 ポーランドトマシュフ・マゾビエツキ(ポーランド語版) 3000m

Continue reading

山村乳業 – Wikipedia

有限会社山村乳業(やまむらにゅうぎょう)は、三重県伊勢市に本社を置く、日本の乳製品メーカー。三重県牛乳協同組合に加盟している[3]。山村牛乳のほか、山村コーヒー、山村フルーツ、山村ヨーグルト、山村ぷりんに加えアイスやジャム、菓子など18品目60種類の商品を製造・販売、その中で瓶入り乳製品は14品目47種類[4]を数え、日本最多[4]の商品ラインナップを展開している。1919年(大正8年)に創業し、2019年に創業100周年[4]を迎えた。パスチャライズ殺菌によるコクのある牛乳を提供する[1][5]。地域では「山村さん」と呼ばれ親しまれる[1]。 1919年(大正8年)創業[6]。当時は本社裏で乳牛を飼育し[5]、箱車に牛乳を載せ、伊勢の各家庭に配達を行っていた[6]。その後、山村乳業の周辺は住宅地化し、牛の飼育が困難となったため、牧場は移転し、本社兼加工場のみ現地に残った[5]。 2000年代以降、山村乳業では新商品の開発や販売促進活動に力を入れている。この頃よりプリンやプレーンヨーグルト(無糖)の開発を始める。 2002年(平成14年)11月には自社のウェブサイトを開設した。 2005年(平成17年)、愛知万博(愛・地球博)の「コーカサス共同館」で、山村乳業が製造したヨーグルトが販売された[8]。このヨーグルトは、山村乳業社長とグルジア政府文化通商センターの職員が東京で開かれた見本市で知り合ったことをきっかけに、グルジアのヨーグルト研究者から提供された「タネ菌」を使って製造されたものである[8]。この商品は、「山村グルジアヨーグルト」として後に山村乳業の店頭とインターネットで販売されることとなった[9]。 2012年(平成24年)5月28日、ソフトクリームのテイクアウト専門店「アイス工房直売店」を開店[10]。 2013年(平成25年)7月20日、伊勢神宮豊受大神宮(外宮)と伊勢市駅を結ぶ外宮参道前に「山村みるくがっこう 外宮前店」を開店、観光客向けに山村乳業の製品の販売を開始した[5]。外宮前では2013年の神宮式年遷宮に合わせ、新店舗の開業が相次いでいた[11]。 2019年(令和1年)に三重県が運営するみえセレクションに山村牛乳一合瓶が選定[12]。 2020年(令和2年)7月、伊勢神宮皇大神宮(内宮)の鳥居前町であるおはらい町に「山村みるくがっこう 内宮前店」を開店[13]。 主要な製品である「山村牛乳」のほか、コーヒー牛乳やフルーツ牛乳、ヨーグルト、プリン、アイスなど、18品目60種類の商品を製造・販売、その中で瓶入り乳製品は14品目47種類を数え、日本最多の商品ラインナップを展開している[4][5]。製品は主に瓶に封入する[2]。 山村牛乳[編集] 山村牛乳は、三重県産の新鮮な生乳(ホルスタイン)を85℃で15分間のパスチャライズ殺菌で、手間と時間をかけてじっくり殺菌、大手メーカーが採用する殺菌製法では味わうことのできない、牛乳本来の豊かなコクや芳醇な香りが売り。山村乳業の看板商品[14]。 山村濃厚乳[編集] 創業以来の製法により、コクと甘さが自慢の山村牛乳に生クリーム等を絶妙なバランスでブレンド。山村牛乳よりもまろやかで濃厚な味わいが特徴[14]。 山村コーヒー[編集] 粗挽き豆から丹念に抽出した本格コーヒーと、新鮮な山村牛乳をブレンドして作られる(牛乳50%)人気商品[14]。 山村フルーツ[編集] 山村フルーツは、山村乳業の製造するフルーツ牛乳であり、昔ながらの瓶詰めで紙栓をして販売している[15]。2012年(平成24年)時点で、日本では瓶入りのフルーツ牛乳はほとんど姿を消しており、珍しい存在である[15]。宅配のほか、伊勢市や鳥羽市の宿泊施設の浴場の自動販売機で販売している[16]。山村フルーツは、2012年(平成24年)公開の映画『テルマエ・ロマエ』で阿部寛が演じるルシウスが風呂上りにフルーツ牛乳を飲んで衝撃を受けるシーンで登場した[15]。映画の美術担当者がインターネットで山村フルーツを発見し、1通のFAXを送ったことをきっかけに映画に登場することとなった[15]。映画の公開により、山村乳業では売り上げが1.5倍に伸びたという[17]。

Continue reading

前田隆平 – Wikipedia

前田 隆平(まえだ りゅうへい、1954年 – )は、日本の運輸・国土交通官僚、外交官。2013年(平成25年)1月15日からスイス兼リヒテンシュタイン駐箚特命全権大使。 目次 1 人物・経歴 2 同期 3 脚注 4 外部リンク 人物・経歴[編集] 静岡県静岡市出身。 1973年(昭和48年)武蔵中学校・高等学校卒業[要出典]。1977年東京大学法学部を卒業後、運輸省に入省し、航空局国際課に配属される。 1992年6月外務省在アメリカ合衆国日本国大使館一等書記官、1995年7月関西国際空港株式会社業務部長、1997年7月運輸省運輸政策局国際業務第二課長、1998年7月運輸省航空局監理部国際航空課長、2001年1月国土交通省鉄道局財務課長、2002年7月16日国土交通省政策総括官付政策調整官、2003年4月国土交通省総合政策局観光部企画課長、2004年7月1日国土交通省鉄道局総務課長、2005年8月国土交通省大臣官房審議官(国際、国土計画局担当)、2006年7月国土交通省大臣官房審議官(総合政策局、航空局担当)、2008年7月国土交通省航空局長、 2010年8月10日から国土交通省政策統括官として国際問題を担当。2011年(平成23年)7月、初代国際統括官を経て、2013年(平成25年)1月15日からスイス兼リヒテンシュタイン駐箚特命全権大使[1]。2016年(平成28年)3月退官。2016年(平成28年)7月よりANAホールディングス株式会社 常勤顧問

Continue reading

ファタヒラー級フリゲート – Wikipedia

ファタヒラー級フリゲート(英語: Fatahillah-class frigates)は、インドネシア海軍が運用するフリゲートの艦級。 従来、インドネシア海軍の水上戦闘艦は、いずれもアメリカ海軍やイギリス海軍の退役艦を購入したものであった。本級は、インドネシア海軍として初めて、新規に建造・取得した排水量1,000トン以上の水上戦闘艦であり、最も強力な艦とされていた。発注は1975年8月に行われ、3隻がオランダ・スヒーダムのウィルトン・フェイエノールト造船所で建造された[1]。 船型としては中央船楼型が採用されており、その上に2層の艦橋構造物が設けられている。また「ナラ」では、船楼甲板を後方に延長するかたちでヘリコプター甲板を設けており、その直前にはハンガーを設置する甲板室も新設された。なお本級はいずれも熱帯地域での活動が主となることから艦内には空調設備が備えられており、またNBC防護シタデルを設けて防御力を確保している。船体安定化のためフィンスタビライザーも備えている[1]。 主機関としては、巡航機としてドイツのMTUフリードリヒスハーフェン社製MTU 16V956 TB81ディーゼルエンジン(4,000馬力)2基、高速機としてイギリスのロールス・ロイス社製オリンパスTM3Bガスタービンエンジン(22,360馬力)1基を搭載し、減速機を介して2軸の可変ピッチ・プロペラを駆動するCODOG方式が採用された[1]。 戦闘システムの中核となる戦術情報処理装置としてはDAISYが採用された[2]。対空捜索レーダーとしては、SバンドのDA-08を船楼後端部の後檣上に備えている。また艦橋構造物上の前檣に設置されたWM-28は、砲射撃指揮用とともに低空警戒にも用いられる。一方、ソナーとしては、10キロヘルツ級の中周波ソナーであるシグナール(現在のタレス・ネーデルラント)社製のPHS-32を船底に備えている[1]。 兵装面で最大の特徴が、主砲としてボフォース社製46口径120mm単装速射砲を採用していることである。これは高い発射速度(80発/分)と優れた操縦性能(旋回40度/秒、俯仰32度/秒)を備えた両用自動砲で、砲塔重量も28.5トンと比較的軽量である。ただし本級以外には、フィンランド海軍がトゥルンマー級コルベット(英語版)や機雷敷設艦で搭載したのみで、あまり普及しなかった。最大射程は18,500メートルであった[3]。またこれを補完する高角機銃として、70口径40mm単装機銃が船楼後端に備えられているが、「ナラ」ではハンガーの両脇に2基備えるよう変更された。弾薬としては、120mm砲弾が400発、40mm機銃弾が3,000発搭載されている[1]。 対潜兵器としては、船楼前端にボフォース社製のSR-375A 375mm連装対潜ロケット砲を備えており、弾薬としてはネリまたはエリカを54発搭載している。また「ナラ」を除く2隻では、さらにMk.32 3連装短魚雷発射管2基およびMk.44短魚雷12発も搭載されている。対水上火力としては、エグゾセMM38艦対艦ミサイルを連装発射筒2基に収容して、煙突後方の中部甲板に搭載している[1]。 # 艦名 起工 就役 361 ファタヒラーKRI Fatahillah

Continue reading

アンジェロ・コマストリ – Wikipedia

アンジェロ・コマストリ(伊: Angelo Comastri, 1943年9月17日 – )は、イタリア出身のローマ・カトリック教会の枢機卿。 1943年9月17日、イタリア・トスカーナ州グロッセート県ソラーノに生まれる。ピティリアーノ神学校とヴィテルボの地方神学校で学び、その後、教皇庁立ラテラン大学(英語版)に入学。神学の学位を取得して卒業した。1967年にピティリアーノ教区の神学校の副学長に指名された後、同年3月11日、司祭に叙階される。1968年、ローマ教皇庁の司教省、ローマ小神学校(英語版)、レジーナ・チェリ刑務所で働く。1971年、ピティリアーノ・ソヴァーナ・オルベテッロの司教区神学校に務め、1979年にはルト・サント・ステファノの教区司祭に任命された[1]。 1990年7月25日、マッサ・マリッティマ・ピオンビーノ(英語版)の司教に指名され、9月12日、教皇ヨハネ・パウロ2世によって司教に叙階された。1994年3月3日、心臓病を患い健康上の理由により司教を辞任。病状の回復後に、マッサ・マリッティマ・ピオンビーノの名誉司教に任命され、1994年にイタリア国立職業訓練センターの会長に就任した。1996年11月9日、ロレートのサントゥアリオ・デッラ・サンタ・カーザの大司教および教皇代理(英語版)に任命され、2000年にはグレート・ジュビリー(英語版)・オブ・ザ・イヤーのイタリア国内委員会の会長に就任した。さらに同時期、イタリアの全国聖体大会委員会とイタリア聖域の全国ネットワーク、マルケの司教会議の議長、教皇庁立無原罪の聖母アカデミー(英語版)の副学長に任命された[1]。 2005年2月5日、教皇ヨハネ・パウロ2世によって、バチカン市国の教皇代理(英語版)、サン・ピエトロ大聖堂の大司教補佐官およびサン・ピエトロ大聖堂管理局(英語版)責任者に任命され、同年から列聖省(英語版)のメンバーも務める。2006年10月31日に教皇ベネディクト16世によってサン・ピエトロ大聖堂の首席司祭(英語版)に、2007年11月24日には枢機卿(ラウロのサン・サルヴァトーレ教会(イタリア語版))に任命された[1][2]。2013年、教皇フランシスコを選出したコンクラーベに参加[1][3]。 2021年2月20日、教皇フランシスコよって、コマストリのバチカン市国の教皇代理、サン・ピエトロ大聖堂首席司祭およびサン・ピエトロ大聖堂管理局責任者の引退が承認された[4]。 Alguien allá arriba te ama (Lassù qualcuno ti ama), RnS

Continue reading

千秋楽 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “千秋楽” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年11月) 千秋楽(せんしゅうらく、千穐楽、千龝樂)は、複数日にわたって同じ演目を行う興行において、「最終日」を指す業界用語。縮めて楽日(らくび)や楽(らく)ともいわれる。本来は江戸期の歌舞伎や大相撲における用語だったが現在では広く演劇や興行一般で用いられている。[要出典] これにちなみ、千秋楽の前日、もしくはひとつ前に行われる公演は前楽(まえらく)、また、ひとつの演目で各地を巡業した場合、最後の公演地で行われる千秋楽の公演を、特に大千秋楽(おおせんしゅうらく)、略して大楽(おおらく)ともいうことがある。 「千穐楽」など異体字での表記は「秋」の文字にある「火」を忌んで、同音にもなる音符亀に置き換えたものである。これは、江戸時代の芝居小屋は特に出火や延焼に悩まされることが多かったための忌避である。 千秋楽の語源は諸説あるが、 雅楽を演奏する際、1日の最後の曲には祝言の意味から必ず「千秋楽」を演奏したという古い風習 能の付祝言において、「高砂」キリの「千秋楽は民を撫で」以下が謡われることが多かったため とする説が一般的である。いずれにしろ地口の一種であり、雅楽や能の曲目と直接の関係があるわけではない。 興行の中で、初日・中日(なかび)・千秋楽の3日が特に重要な日として考えられており、出演者が互いに楽屋を訪れ挨拶するなどの習慣がある。現在では儀礼が簡略化され、中日の挨拶などは略されることが多いが、初日と千秋楽は重要視されている。 歌舞伎や商業演劇のように、一座の座頭や花形役者が明確に決まっている場合、下回りの役者に対して座長が振る舞いをする習慣もある。興行における一座の一体感を確認し、共にひとつの舞台をつくりあげてきたことを喜び合う日として、千秋楽は独自の意味を持っているといえ、商業的な演劇でなくともこの日にいわゆる「打ち上げ」が行われることも多い。 千秋楽の日の舞台は歌舞伎などにおいては役者のふざけや冗談が許されるという不文律があり、芝居の流れを壊さない程度で、しゃれやいたずらを用意して共演者をからかうこともある。これをそそりという。立役と女形またはベテラン役者と若手が役を入れ替えて上演する「天地会」を行ったりすることもある。 その時限りの台詞や演出の変更があったり、アドリブをきかせたり、サプライズゲストが登場したりすることがある。また、カーテンコールで俳優が謝辞などを述べることもある。そのため千秋楽の公演は人気があり、他の公演日に先駆けて前売りチケットが売切れになったり、人気公演ではプレミア化することもある。

Continue reading

熊本地方気象台 – Wikipedia

この記事の出典や参考文献は、一次資料や記事主題の関係者による情報源に頼っています。信頼できる第三者情報源とされる出典の追加が求められています。出典検索?: “熊本地方気象台” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年5月) 熊本地方気象台(くまもとちほうきしょうだい)は、熊本県熊本市にある地方気象台。福岡管区気象台の下部機関として、熊本県の陸上と海岸線から概ね20海里以内の海域における気象観測や予報・警報等の発表を行っている。これらの業務に加え、福岡管区気象台の支援を受けて熊本県に係る火山観測や地震、津波予報等の気象業務を実施・管轄している[1]。現在の台長は板東恭子[2]。 〒860-0047 熊本市西区春日2丁目10番1号 熊本地方合同庁舎A棟12階[3] 電話番号 : 096-352-7740 熊本地方気象台 年・月 出来事[1] 明治23年2月 熊本市被分町(現:水道町)に熊本県立熊本一等測候所を創立、気象観測業務開始

Continue reading