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Month: June 2020

春は溶けて – Wikipedia

「春は溶けて」 Radio Bootsy[注釈 1]の楽曲 リリース 2021年4月26日 規格 デジタル・ダウンロード ジャンル J-POP レーベル ワーナーミュージック・ジャパン 作詞者 川谷絵音 Radio Bootsy 年表 – 春は溶けて(2021年) –

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天凰山豊 – Wikipedia

天凰山 豊(てんこうやま ゆたか、1961年8月25日-)は、春日山部屋に所属した元力士。本名は近藤 英夫。愛知県知立市出身。175cm、143kg。最高位は東十両13枚目。得意技は押し。 中学生の時は地元の野球チームに入っており、3年生の時は三塁手のポジションで5番打者を務め、知立市大会でも優勝してゆくゆくは地元球団である中日ドラゴンズに入団するのが将来の夢だった。しかし、知人と一緒に7月場所を観戦し、春日山部屋に寄って一緒に食事をした時に「休みの時は東京へ遊びに来なよ」と誘われたので、その言葉通りに夏休みと冬休みに上京して部屋で遊んでいく内に部屋の雰囲気に自然と馴染んでいき、中学校を卒業したら入門すると決意した[1]。1977年3月場所にて本名である近藤の四股名で初土俵。1年で三段目に昇進するなど順調に出世した。その後はやや苦労したが、西三段目筆頭で迎えた1983年7月場所での6勝1敗の大勝ちを皮切りに、以降6場所連続で勝ち越しを続けて1984年9月場所に十両昇進を果たした。新十両の場所は千秋楽に負け越して7勝8敗の成績に終わり、翌11月場所に幕下陥落。その後は主に幕下中位で取り続けたが十両への返り咲きはならず、1989年7月場所に27歳で廃業。廃業した後は愛知県知立市で相撲料理店「天凰山」を経営した。 実子の正道も力士で2014年7月に式秀部屋に入門。本名で初土俵を踏み、新序出世披露で父の化粧回しをつけた。2014年11月場所以降は正龍道一成(しょうりゅうどうかずなり)の四股名を名乗り2021年9月場所終了時点の最高位は序二段[2]。 主な成績[編集] 通算成績:269勝257敗 勝率.511 十両成績:7勝8敗 勝率.467 現役在位:75場所 十両在位:1場所 場所別成績[編集] 天凰山 豊 一月場所初場所(東京) 三月場所春場所(大阪) 五月場所夏場所(東京) 七月場所名古屋場所(愛知)

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純資産 – Wikipedia

株式に関係する変数の関係 純資産(じゅんしさん、英: net worth、net asset)は、会計学の用語であり、簿記における勘定科目の区分の一つである。会社の資産総額から負債総額を差し引いた金額を指す。なお、差引金額がマイナス(欠損)であっても「純資産」と呼ぶ。 貸借対照表は、資産の部、負債の部、純資産の部しか存在しない。純資産は、負債とともに貸方に記載される(貸借対照表に載る項目のうち「負債でないもの」である)。純資産は、株主に帰属する純粋な資産(株主資本)となる部分とそれ以外の部分に区分される。 かつては、資本(しほん、英:capital)あるいは(広義の)自己資本(じこしほん、英: ownership equity)、株主資本(かぶぬししほん、英: shareholder’s equity)と呼ばれていた。日本では2005年12月9日に企業会計基準委員会の企業会計基準第5号「貸借対照表の純資産の部の表示に関する会計基準」において、「純資産」を正式名称と定義された[1]。 表記と分類[編集] 株主資本 資本金 – 法定資本 (legal capital) 新株式申込証拠金 –

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エンリル・バーニ – Wikipedia

エンリル・バーニ[nb 1](Enlil-bāni)は、古代メソポタミアの都市国家・イシン第1王朝の王。 在位期間は低年代説(英語版)によると紀元前1798年から紀元前1775年、中年代説によると紀元前1860年から紀元前1837年。ウル・イシン王名表によると24年を治めた[i 1]。エンリル・バーニの出世は伝説的な、おそらくアポクリフ的な方法で最もよく知られている。 イクアンピィー・イシュタール[nb 2]は、年代記の変形した2つの写しによると、イルラ・イミッティとエンリル・バーニの治世の間に、6ヶ月か1年の間、支配したと記録されている[1]。エンリル・バーニの出自をさらに明らかにする可能性のあるもう一つの年代記は[i 2]、損傷が酷く翻訳が不可能である。長い碑文には次のように書かれている。 ニップルでは正義を確立し推進した。私は羊のように彼らに栄養を求め、新鮮な草を食べさせた。私は彼らの首から重いくびきを取り除き、しっかりとした場所に落ち着かせた。ニップルに正義を確立して彼らの心を満足させた後、イシンに正義と義を確立して、その地の心を満足させた。五分の一だった麦の税を十分の一に減らした。muškēnum[nb 3]が仕えたのは月に4日だけであった。宮殿の家畜が「シャマシュよ」と叫んでいた人々の畑に草を食んでいたので、私は宮殿の家畜を耕した畑から追い出し、「シャマシュよ」と叫んでいた人々を追放した。[2] —Enlil-bāni Inscription、CBS 13909[i 3] ニップルの支配権はイシンとラルサの間で何度か行き来していた。ウルクもまた、エンリル・バーニの治世の間に離反し、彼の権力が崩壊していく中で、エンリル・バーニは『初期王記』[i 4]を修正して、平凡な簒奪行為というよりも、即位についての伝説的な物語を記したのかもしれない[1]。それによると、イルラ・イミッティは庭師のエンリル・バーニを選び、彼を即位させ、王室のティアラを彼の頭につけた。イルラ・イミッティは熱い粥を食べている間に死亡し、エンリル・バーニが王座を辞めることを拒否したために王となった[3]とある。 アッシュールバニパルの図書館からの医学書「人の脳に火があるとき[nb 4]」のコロフォン[i 5]にはこう書かれている。「証明され、テストされた軟膏や湿布、使用に適している。Šuruppakからの洪水の前からの古い賢者によると[nb 5]、Enlil-muballiṭ、ニップルの賢者(apkallu)は、エンリル・バーニの2年目に(後世に)残した[4][5][6]。」 エンリル・バーニは「老朽化したイシンの壁を新たに建てる」必要があることに気付き[i

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チラデンテス – Wikipedia

処刑直前のチラデンテス チラデンテス(Tiradentes)、本名ジョアキン・ジョゼ・ダ・シルヴァ・シャヴィエル(ブラジルポルトガル語: Joaquim José da Silva Xavier、1746年8月16日 – 1792年4月21日)は、ブラジルの独立運動の先駆者で、ポルトガルの支配に抵抗し、ブラジルの独立に大きく貢献した。最終的にポルトガル政府に逮捕され処刑されたが、現在はブラジルの英雄として広く国民に知られている。ティラデンテスとも呼ばれる。 生い立ち[編集] ブラジル南東部のミナスジェライス州サン・ジョアン・デル・レイの近郊にある小さな村の貧しい農家の息子として生まれた。両親の死後、名付け親に引き取られヴィラ・リッカに移り住んだ。 チラデンテスは外科医だった家庭教師に育てられたため、公教育は受けていないものの高い教育が施され、歯科医師になった。チラデンテスとはポルトガル語で「歯を抜く」という意味をもっていて、この通称は彼の職種に由来している。彼は歯科医師の他にも牛追いや炭坑夫などいくつかの職業を経験しており、ミナスジェライス地方の竜騎兵連隊の一員でもあったが、地元貴族ではなかったため昇進は少尉止まりであった。 政治的思想[編集] チラデンテスは金に恵まれた地方に住んでいたことで養われた鉱物に関する知識を元手に公共サービスの事業に参加して、金をポルトガルに運ぶのに使われていたヴィラ・リッカ – リオデジャネイロ間の道路沿いにある町に仕事で行くことになった。当時、ブラジルはポルトガルの植民地であり、ポルトガルは多くの金を欲していたが、ブラジルにおける金の産出量は減少の一途をたどっていた。ブラジルはポルトガルの求める量の金を用意することができず、それに対するデラマ税(デハマ、derrama)とよばれる追徴税をポルトガル政府から求められていた。赴任してから彼は金をはじめとする多くの鉱山資源がポルトガルに流れ出しているのを目の当たりにして、いかにブラジル人がポルトガル人に搾取されているかを知った。彼は赴任地までの道のりの途中でヨーロッパ人から自由のための独立という概念を学んだ後、1788年にヴィラ・リッカ地方の軍司令官の息子であるジョゼ・アルヴァレス・マーシェル(José Alvares Maciel)と出会い、ともに独立運動のグループを立ち上げ、このグループはブラジル中に独立思想を広めようと活動した。 ルソーの思想とアメリカ独立革命から影響を受け、チラデンテスは自由を求めるミナスの陰謀に加わった。これは独立と大学設立を求めるものであった。その団体の旗は現在ミナスジェライス州の州旗として使用されている。 逮捕・裁判と処刑[編集]

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顕本寺 (桑名市) – Wikipedia

顕本寺(けんぽんじ)は、三重県桑名市にある日蓮宗の寺院である。山号は自栄山[1][注 2]。旧本山は身延山久遠寺、莚師法縁(隆源会)。檀家には桑名藩士が多く、関連する墓が多数現存する。中でも、吉村又右衛門宣充、水谷九左衛門光勝の墓は桑名市指定文化財に指定されている[1]。 開創については不詳だが、かつては天台宗寺院で大泉寺と称し、桑名城三ノ丸にあった。のちに当時の藩主である本多忠勝の「慶長の町割り」と呼ばれる都市計画事業によって、現在地である萱町に移された[2]。 永正6年(1509年)[注 1]、身延山久遠寺第12世法主である円教院日意が上洛する際に当寺に滞在して布教した。その結果、当時の住職である実成は、日意に心服して弟子となり、当寺を顕本寺と改称、日意を中興第1世、自らは日相を名乗り第2世となった。この時、塔頭大泉院をはじめとして、僧坊は19院もあった[2]。 しかし、第5世日実の頃は衰退し、塔頭も大泉院ひとつだけになっていた。さらに、その頃起きた洪水によって、仏像、仏具類残らず全て流される。のちに大鳥居村(現・三重県桑名市多度町大鳥居)で仏像を得て持ち帰り、草庵を建てて祀った。この時、四日市代官であった水谷九左衛門光勝は、仏堂を再興し、日透( – 万治2年8月8日(1659年9月24日)[3])を招聘して第14世住職とした[2]。 その後、檀家であった桑名藩士の久松忠義は、吉村又右衛門宣充らの隣の土地を購入して当寺に寄付する。次いで、忠義の子である久松義重や吉村権左衛門宣秀らは堂宇を建立し、他の久松氏一族も各自宝物等を寄進した[2]。 文政3年(1820年)火災で類焼するが、天保6年(1835年)には本堂が再建された。この頃の境内は、表側南北に36間余、裏側南北に25間、東西に35間余であった。塔頭大泉院には、南柳院と実成坊という2院もあったが、後に廃絶された[2]。 昭和20年(1945年)7月に、太平洋戦争の空襲を受けて焼失、のちに再建されて現在に至る。当寺檀家には桑名藩士が多く、関連する墓が多数祀られ現在に至っている[2]。 桑名市指定史跡[編集] 水谷九左衛門光勝墓 – 昭和41年(1966年)11月22日指定。五輪塔の形式の墓で、水谷光勝の墓以外の2基も含めた3基で指定されている。向かって右端の五輪塔が光勝の墓で、空、風、火、水、地輪に渡って「南無妙法蓮華経」、地輪中央に「昌慶位」、地輪両側に「真如院逆修元和四暦戊午七月吉日」とあり、高さは128cm。 中央の五輪塔は光勝の妻の墓で、光勝の墓と同様に、空、風、火、水、地輪に渡って「南無妙法蓮華経」、地輪中央に「妙寿位」、地輪両側に「安立院逆修元和四暦戊午七月吉日」とある。 向かって左端の五輪塔は、当寺過去帳にも「古帳損□之故不分明」記載され、誰の墓にあたるかは不明。地輪に「浄智院澄月一栄位」、「寛永5年7月18日」とある。 光勝とその妻の墓にある「逆修」とは、生前に建てた墓ということをあらわす。二人の実際の没年月日は、光勝が寛永7年12月12日(1631年1月14日)、妻が寛永8年8月8日(1631年9月4日)である。建立日の元和4年(1618年)7月は、現存する当寺の墓碑の中でも最古にあたる[20]。 吉村又右衛門宣充墓 –

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メットライフ生命保険 – Wikipedia

メットライフ生命保険株式会社(メットライフせいめいほけん)は、日本の生命保険会社で、アメリカ合衆国の生命保険会社であるメットライフの日本法人である。 日本国内におけるアメリカン・ライフ・インシュアランス・カンパニー(以下、アリコ)の営業は、長らくアリコが日本支社(通称・アリコジャパン)を設けて直接行っていた。2011年4月にアリコがメットライフ傘下になったことを受けて通称を「メットライフアリコ」に変更した。 2012年4月、新たに日本法人となるメットライフアリコ生命保険を設立し、従来のアリコ日本支社が締結した保険契約をすべて日本法人に移している。2014年7月に商号をメットライフ生命保険に、ブランド名を「メットライフ生命」にそれぞれ改めた。 外資系生命保険会社の第1号であり、日本で40年の歴史を有する。販売経路としては、約5,000名のコンサルタント社員、約10,500店の保険代理店、テレビや新聞広告等を媒介とする通信販売、102の銀行や信用金庫等を通じた金融機関による販売の4つにチャネルが分かれている。 1954年 – アメリカン・ライフ・インシュアランス・カンパニーが日本支社を開設し、日本在住外国人向営業を開始。 1973年 – 日本支社が、日本人向営業を開始。 2010年 4月 – 新CIを導入。 11月 – 本社の買収手続完了に伴い、親会社がAIGからメットライフへ変更。 2011年4月 – ブランド名を「メットライフ

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アリー・アブドゥッラー・サーレハの政策 – Wikipedia

この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2020年5月) この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2020年5月) アリー・アブドッラー・サーレハの政策(-のせいさく)では、イエメン共和国の元大統領であるアリー・アブドッラー・サーレハが在任中に行った政策を、内政・外交・経済の三つの分野に分けて列挙する。 内政政策[編集] コオプテーション[編集] サーレハ大統領のコオプテーション政策(潜在的な対抗勢力を体制内に取り込むこと)は主に二つの社会階層・勢力を対象に行われた。第一の対象は部族勢力であり、その始まりは旧北イエメン時代にさかのぼる。1987年から石油の輸出を開始し国家収入が急増したことを背景に、サーレハ大統領は各地域で政治的な影響力を持つ部族勢力をはじめとする様々な社会集団を優遇することで、彼らの支持を集めるようになった。サーレハ大統領が各地方を訪問する際や、地域コミュニティのリーダーがサナアの大統領府に赴いた際には、現金が手渡されていたと言われている[1]。また、現金の受け渡しは地方自治省の部族事務局を通して行われることもあったようだ。 国外からの支援による開発プロジェクトもまた、サーレハ大統領が地方の有力者を優遇し、支持を得るための道具として使われていた。特にハーシド・バキール両部族連合の居住地であるイエメン北部にお府の開発・福祉政策や海外からの援助が優先的に行われた[2]。 第二の対象は軍である。サーレハ大統領は軍や治安部隊のトップに自身と近い関係の人物を任命し、個人的なつながりを強化した。異母弟で第一機甲師団司令官のアリー・ムフシン・アル=アフマル(英語版)や、政権の中枢精鋭部隊である共和国警備隊と中央治安部隊のトップを務めるアフメド・アリ・アブドゥッラー・サーレフ・アル=アフマール(英語版)(サーレハ大統領の息子)やヤヒヤー(サーレハ大統領の甥)はその一例である。 南北イエメンの統一後、サーレハ大統領は石油産業から得られる収入のみならず、貿易・工業・サービス業など、幅広い分野における利権を上級の軍人に分配し始めた。それにより、彼らを参加させて利益の一部を与えない限りイエメンでのビジネスは絶対に成功しないという状況を作り上げた。 前者の部族に対する優遇は、1995年から国際通貨基金(IMF)・世界銀行(以下世銀)の支援を受けた構造調整プログラムがスタートすると同時に減少していったものの[3]、後者の軍部への利権の分配は衰えを見せず、むしろ海外から流入する経済援助の額が増加することによって一層拡大した。 このように、サーレハ大統領は開発プロジェクトや新規ビジネスなどの様々な利権を利用して、潜在的な対抗勢力となりうる部族勢力や軍部を巧みに懐柔し、サーレハ大統領個人に対する忠誠心を育てていた。 旧南北イエメン統一[編集] サーレハ大統領は1990年に南北イエメンが統一した際の北イエメンの大統領であり、統一後の大統領にも就任した。本項ではイエメン統一の経緯に軽く触れつつ、統一プロセスにおいてサーレハ大統領がとった役割、その後1994年に起きた内戦でのサーレハ大統領の対応について整理する。 1990年、北イエメンとイエメン人民民主共和国(旧南イエメン人民共和国、以下南イエメン)が統一し、イエメン共和国が誕生した。当時の北イエメン大統領であったサーレハ大統領と南イエメンの国家元首であったアリー・サリーム・アル=ビード書記長が1987年に初めて会談し、南北間の自由通行に合意したことが統一の第一歩であった。 しかしながら、この統一は反対する勢力の拡大を恐れて急ピッチで進められたため、イエメン共和国は様々な不安定要素を抱えることになった。例としては、軍隊の再編成がなされず南北両軍が並存したことや、政府機関の人事が決まらず南北の行政が別々に機能していたことなどが挙げられる。また、1993年に行われた第一回国会選挙の結果により国民全体会議(GPC)とイエメン社会党(YSP)、イエメン改革党(イスラーハ)の三党からなる連立政権が誕生したが、YSPとイスラーハの政権内における対立が絶えなかった[4]。対立の主な原因は、世俗・革新を掲げていたYSPがハーシド・バキール両部族連合への優遇政策に反発して急進的な改革を求めたところ、旧北イエメンの部族勢力とウラマー層からなる保守的なイスラーム政党であるイスラーハがそれに反発したからである[4]。この対立関係の中、イスラーハの支持者によるYSP幹部への襲撃事件が続発したこと、YSPが保守的な政策を続けるサーレハ政権への不信感を募らせたことなどから、ビード副大統領をはじめとするYSP幹部の一部は1993年の夏以降アデンに引きこもり、連立政権は事実上崩壊した。この危機に対して国内外で様々な勢力が仲介を試みたものの失敗に終わり、1994年5月4日にイエメン内戦が勃発した。 内戦が本格化した翌日の5月5日、サーレハ大統領は非常事態宣言を発した。ビード副大統領の勢力(以下便宜上「南軍」と表記)を「統一を損なう分離主義者」と断じて「反乱軍」であるとし、南北間の内戦ではなく、あくまでも国際的な調停の必要がない国内問題として処理しようとした。圧倒的な軍事的優位に立つサーレハ大統領側の勢力(以下便宜上「北軍」と表記)は順調に南下し、開戦から1~2週間後には南軍の立てこもるアデンを包囲した。 一方劣勢に立たされたビード副大統領は、5月21日に「イエメン民主共和国」の建国を宣言することで、外交戦略によって戦況を立て直そうとした。この宣言への反応として、6月1日に国連安全保障理事会が開かれ、即時停戦などを求める決議が採択された。また6月4日には湾岸協力会議の外相会議において「イエメン民主共和国」の独立を暗黙裡に認める声明が発表された。サーレハ大統領はそのどちらにも内政干渉だとして強く抗議したが、6月7日から停戦に入る姿勢を明らかにした。しかし北軍は停戦を守らず、戦闘を続行した。その後もサーレハ大統領と北軍は国際連合やアメリカ合衆国、ロシアなどの調停を受け、停戦の合意や安保理決議の受け入れをその都度発表するも、実際に戦闘を停止することはなく、そのまま7月7日にアデンを制圧した。 反体制勢力への対応[編集] アンサール・アッラー(フースィー派)[編集] アンサール・アッラー(通称フースィー派)は、1970年から80年代にかけてイエメン北部のザイド派地域、特にその中心地であるサアダでサウジアラビアによるワッハーブ派の教育活動が盛んにおこなわれた際、それに対抗してフセイン・バドルッディーン・フーシがザイド派の復興運動を始めたことをきっかけに誕生した。活動内容としては、誕生から2000年代初めまではバドルッディーンによる教育活動やその息子フセイン・フースィーの議員活動、反サラフィー主義・反サウジアラビアの演説が中心であった。1990年前後には北イエメン政府がこの演説を支援していた、という説が一定の信憑性を有している。これは当時南北イエメンの統一プロセスが進んでおり、サウジアラビアによるワッハーブ派の教育活動はその妨害工作の一端であった、という考えによる。サウジアラビアによる妨害を排除し、イエメン統一を推進するために、北イエメン政府がフースィーらザイド派のウラマーを支援した、という構図のようだ。

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ディスガヌス – Wikipedia

ディスガヌス(Dysganus)(「粗い琺瑯」を意味する)は、後期白亜紀カンパニアン期の恐竜の独自性が疑わしい属の一つ。歯の化石がモンタナ州のジュディスリバー層でエドワード・ドリンカー・コープによって発見された。 4つの種、D・エンカウストゥス(D. encaustus)、D・ビカリナトゥス(D. bicarinatus)、D・ペイガヌス(D. peiganus)そしてD・ハイデニアヌス(D. haydenianus)がディスガヌスとして記載された。全てがコープによって1876年に発見された歯のみに基づいている。それぞれの模式標本は単離した1本から8本の歯で構成されている。1907年、ジョン・ベル・ハッチャーはディスガヌスの歯を再記載し、本属を疑問名であると結論づけた。D・ペイガヌスの歯は、1942年にリチャード・スワン・ルルらによって剣竜類のものと記述された[1]。 コープは最初、ディスガヌスをハドロサウルス上科トラコドン科に分類した。トラコドン科は今日ハドロサウルス科のジュニアシノニムであると考えられている[2]。1901年、フランツ・ノプシャはコープの原記載を読み、ディスガヌスを角竜類の属と同定した。1890年にコープが間接的にトラコドン科ではなく角竜類であることを示唆した為とも言われる。後の1907年には、ハッチャーらが再記載し、ディスガヌスのホロタイプにはハドロサウルス科(トラコドン科)の歯と角竜類の歯が含まれていると推論している[3]。 4種全てがジュディスリバー累層から知られている。パラエオスキンクス、ケラトプス、キオノドン、ディクロニウス、プテロペリクス、ザプサリス、デイノドン、アウブリソドン、トラコドン、モノクロニウスと並ぶ同層の疑わしい恐竜の属の一例である[4]。 ^ Lull, R.S.; Wright, N.E. (1942). “Hadrosaurian Dinosaurs of North America”. Geological

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倉橋町 – Wikipedia

倉橋町(くらはしちょう)は、かつて広島県安芸郡に存在した町であり、平成の編入合併により、呉市に移管された。町域は呉市南方の瀬戸内海に浮かぶ倉橋島の中部および南部を占めており、広島県最南端の町でもある。 2005年3月20日に安芸郡の音戸町・蒲刈町および豊田郡の豊浜町・安浦町・豊町とともに呉市に編入された。 山[編集] 岳浦山 (491.1m) 火山 (408m) – 「ひやま」と読む。名称は「火山」だが、噴火歴はない。かつて狼煙を上げていた名残という。登山道が整備されている。 千本岳 (164m) 島[編集] 倉橋島 鹿島 羽山島 横島 黒島 1889年4月1日 – 市町村制施行、安芸郡倉橋島村が成立した。名称変更を経ているとはいえ単独村政→単独町制がこの後116年間続くことになる。

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