Month: January 2021

タイマー (サウジアラビア) – Wikipedia

タイマー(アラビア語: تيماء‎, DMG Taymāʾ)は、サウジアラビアにある大規模なオアシスであり、長期にわたる定住の歴史がある。ヒジャーズ北東部に位置し、おおむね古代のヤスリブ(今のマディーナ)とドゥーマ(サカーカの近く)を結ぶ香料の道(英語版)がネフド砂漠にさしかかる場所に相当する。タイマーはタブークの264キロメートル南東、マディーナの400キロメートル北に位置する。 タイマ、テイマ[1]とも呼ばれる。 タイマーは海抜830メートルの高さにあり、西はヒジャーズ山地の東の山麓、東はネフド砂漠の間の低地に位置する。現在の定住地の北には湖の跡があり、現在はほとんど水は集まらず、また塩原(アラビア語でサブカと呼ばれる)を発達させている。2万年前にはかなり大きな湖であり、おそらく紀元前5千年紀に干上がった。塩原の泥を使って古代の町の壁の建設のための日干しレンガが作られた[2]。 地下水位はもっとも深いところで地表から1.5メートルしか離れていないが、他の所では40メートルにも達する。このオアシスは何千年にもわたってもっとも重要なヤシのオアシスのひとつであり続けてきた。人工的な灌漑により、現在ナツメヤシの数は8万本に達し[2]、1950年代にくらべて4倍にあたる。 タイマー一帯には人間や動物の絵を描いた無数の岩の彫刻が残されており、新石器時代にすでに人類が住んでいた証拠になっている。 オアシスを調査したドイツ考古学研究所の学者によると(外部リンク参照)、紀元前3千年紀以来ベドウィンが水を求めてこの地を訪れていたと考えられる。 2010年7月、サウジアラビア遺跡観光庁(Saudi Commission for Tourism and Antiquities (SCTA))の報告によれば、タイマー近辺で、サウジアラビアでは初めてとなるヒエログリフで書かれた古代碑文を考古学者が発見した[3]。碑文には紀元前1156年に没したファラオであるラムセス3世のカルトゥーシュが書かれていた。考古学者によれば、当時タイマーを経由してナイル川デルタと紅海を結ぶ重要な貿易路があり、香料・銅・黄金・銀が運ばれていた。 都市の建設[編集] この地域にシュメールや北部レバント海岸にならった新しい都市が発達した時期は不明だが、紀元前2千年紀以降のことである。都市の外壁は日干しレンガと砂岩製で10メートルの高さがあり、20ヘクタールほどの土地を囲んでいた。最初に作られた壁はその後数世紀にわたって拡張され、最終的には15キロメートルの長さに達した[2]。この要塞化した都市は11世紀のアラブ歴史家であるアブー・ウバイド・バクリーに注目されている。 外壁のすぐ内側にある墓は木と象牙で作られ、その飾りは紀元前2千年紀後半の青銅器時代の終わりを示す。 紀元前1千年紀に、外壁から約100メートル離れた距離に内壁と塔が建設された。考古学者の解釈によれば、タイマーの150キロメートル南西に位置するダダン(今のアル・ウラー(英語版))のオアシスにあったリフヤーン王国(英語版)のような他の地域勢力との武力衝突があったことを示す。

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中院通守 – Wikipedia

中院 通守(なかのいん みちもり)は、室町時代前期の公卿。権大納言・中院通氏の子。別名・三条坊門権大納言。官位は正二位・権大納言。 応永6年(1399年)に参議兼右近衛中将に任ぜられる。応永9年(1402年)に従三位に叙される。応永11年(1404年)に権中納言に任ぜられる。応永13年(1406年)に正三位に叙される。応永17年(1410年)1月に従二位に叙され、10月に権中納言を辞して同月中に還任する。 応永21年(1414年)3月に権中納言を辞するが、12月に権大納言に任じられる。応永22年(1415年)権大納言を辞任。応永23年(1416年)に正二位に叙される。応永24年(1417年)に権大納言に還任するが、翌応永25年(1418年)2月10日に自邸の持仏堂にて自らの首を小刀で掻き切って自殺した(『看聞日記』応永25年3月8日条)。 通守の自殺[編集] 『看聞日記』によれば、通守の自殺は以下の事情があったという。 当時の治天の君であった後小松院は今年の春日祭の上卿に通守を任じた。だが、近年の経済的困窮によって上卿として必要な準備を揃えられない通守は再三にわたって辞退を申し入れたが、院はこれを認めず準備を整えることを厳命した。通守は経済的困窮によって朝廷への奉仕(上卿の役目)を果たせないことに苦悩して自殺を口にするようになり、2月10日に自殺に至った。 大臣家の家格であった中院家は上級公卿の一員として朝廷の行事における上卿を任じられる事が多く、こうした奉仕を果たしてこその身分を保つことになる。それを果たすためには装束や調度の準備、人員の確保などに多額の費用を要していたが、現実には長年の戦乱や半済令などによる公家領の経営の不安定は多額の費用を必要とする上級公卿には大きく堪えた。また、当時の公家社会において治天の君の勅勘や室町将軍の突鼻(譴責)を受ける事は直ちに家の取り潰しにつながる可能性もあった。こうした中で、上卿の事態も準備もままならない状況に追い込まれた通守は後小松院の処罰によって中院家が潰されることを憂慮して自らの命を絶ったとみられている。 参考文献[編集] 橋本政宣 編『公家事典』吉川弘文館、2010年 ISBN 978-4-642-01442-7 P685 井原今朝男「室町廷臣の近習・近臣と本所権力の二面性」『室町期廷臣社会論』塙書房、2014年 ISBN 978-4-8273-1266-9

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チャールズ・サックヴィル=ジャーメイン (第5代ドーセット公爵) – Wikipedia

第5代ドーセット公爵チャールズ・サックヴィル=ジャーメイン(英語: Charles Sackville-Germain, 5th Duke of Dorset KG PC、出生名チャールズ・サックヴィル(Charles Sackville)、1767年8月27日 – 1843年7月29日)は、イギリスの貴族、政治家。主馬頭(英語版)(在任:1821年 – 1827年、1835年)を務めた[1]。 ジョージ・サックヴィル卿(1716年 – 1785年、初代ドーセット公爵ライオネル・サックヴィルの末男、1770年に姓をジャーメインに改め、1782年に初代サックヴィル子爵に叙爵)と妻ダイアナ(Diana、旧姓サムブルック(Sambrooke、1730年/1731年 – 1778年1月15日、ジョン・サムブルック(英語版)の娘)の息子として[2]、1767年8月27日に生まれ、9月25日にウェストミンスターのセント・ジェームズ教会(英語版)で洗礼を受けた[1]。ウェストミンスター・スクールで教育を受け、1785年8月26日に父が死去するとサックヴィル子爵位を継承した[1]。1815年2月14日に伯父の孫にあたる第4代ドーセット公爵ジョージ・サックヴィルが死去すると、ドーセット公爵位を継承した[1]。 1821年7月のジョージ4世戴冠式に出席した後、同年にリヴァプール伯爵内閣の主馬頭(英語版)に就任、12月10日に枢密顧問官に任命された[1][3]。1826年1月30日にガーター勲章を授与された後[4]、1827年に主馬頭を退任した[1]。第1次ピール内閣期では1835年1月1日[5]から1835年4月まで再び主馬頭を務めた[1]。

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田村徳治 – Wikipedia

田村 徳治(たむら とくじ、1886年7月14日 – 1958年11月25日[1])は、日本の行政学者・政治学者。蠟山政道と並ぶ日本の行政学創始者の一人。博士(法学)(京都帝国大学)。秋田県鹿角郡花輪町(現在の鹿角市)生まれ。 目次 1 人物 2 主著 3 関連項目 4 脚注 5 外部リンク 秋田師範学校では土田誠一・菊地寅七とともにクラスの三羽烏に数えられた。四年間級長を務めて1907年卒業[2]。1913年東京高等師範学校英語科卒業。1916年京都帝国大学法学部政治科卒業。1916年京都帝国大学大学院(旧制)特別研究生。後に、京都帝国大学法学部助手。1920年京都帝国大学法学部助教授に就任。1922年ドイツ・イギリス・フランス・アメリカに2年間留学。1924年京都帝国大学法学部教授に就任。1933年滝川事件によって京都帝国大学を退職。1934年関西学院大学法文学部教授に就任(~1940年)。1934年立命館大学非常勤講師(~1936年)。1941年同志社大学法学部教授・同志社大学文化研究所長(~1947年)、1947年財団法人中京法律学校(現・中京法律専門学校)客員講師(~1951年)。1948年関西大学や立命館大学の非常勤講師(~1950年)。1951年関西学院大学法学部教授。1958年関西学院大学在職中に逝去。 『思想財産の移入の原理』(大村書店 1922年) 『行政學と法律學』(弘文堂書房

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ロストディメンション – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ロストディメンション” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年10月) 『ロストディメンション』は、2014年8月7日にフリューから発売されたPlayStation 3、PlayStation Vita用ゲーム。 PS3版はフリューの同ハード参入第1弾タイトルにして、同社初の据置型ゲーム機向けタイトルとなる。 この節の加筆が望まれています。 世界にテロ行為を行い、核ミサイルを突きつけた謎の男”ジ・エンド”と特殊能力者の組織S.E.A.L.E.D.との戦いを描いたコンピュータゲーム。 バトルは3Dキャラクターを使用したのSRPGで、敵を倒していき、その後のアドベンチャーモードで基本的に1階層6つあるクエスト(メイン3つ・サブ3つ)をこなしつつ、やり直したり周回するごとに変化する裏切り者を割り出し、ジャッジで排除していく。 クエストごとに経験値が溜まり、装備や特殊能力のスキルが強化することが出来る。 自らが潜む謎の建造物「ピラー」に突入してきたS.E.A.L.E.D.のメンバー11人に対し、自分を殺したければピラーを登ってくる必要があること、そして彼らの中に裏切り者がいる事を告げる。 システム[編集] ジャッジ[編集]

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合従攻秦の戦い – Wikipedia

合従攻秦の戦い(がっしょうこうしんのたたかい)は、合従軍が秦を攻めた戦い。戦国時代、合従軍は秦を4度攻めている。 秦を攻めた4度の合従軍はそれぞれ紀元前318年、紀元前298年から紀元前296年、紀元前247年、紀元前241年に起きた。4戦とも函谷関が戦場となっているが、合従軍は一度も函谷関を落とすことはできなかった[1]。このうち秦の勝利に終わったのは紀元前318年と紀元前241年の戦いである。 函谷関の戦い(紀元前318年)[編集] 秦の東方拡大戦略は、東方六国[注 3]を深刻に脅かした。紀元前319年、公孫衍は韓の支持の下、張儀に取って代わり魏の国相となった。魏の恵王は張儀を追放し、秦へ亡命した。 紀元前318年、公孫衍は魏・趙・韓・燕・楚の合従軍を率いて秦に侵攻した。合従軍の総大将は楚の懐王が努めた。公孫衍は義渠へ遊説し、合従軍に組み入れた。秦は綾絹1000匹と婦女100人を義渠へ送り、秦への脅威感を和らげようとした。しかし、義渠国君は厚いもてなしが策略であることを見抜いた。秦の危機に便乗し、出兵し秦軍を李帛で大敗させた[2]。しかし、合従軍の五国はそれぞれの利害のため足並みが揃わず、実際に出兵したのは魏・趙・韓の三国のみであった。合従軍は函谷関を攻撃したが、秦軍によって撃破された[3]。 紀元前317年、秦は庶長の樗里疾率いる秦軍が函谷関から打って出て、韓趙魏の軍に反撃した。趙・韓軍を修魚で大敗させ、韓将の申差は捕虜とした。合従軍の8万2千人が斬首された[4]。 函谷関の戦い(紀元前298年)[編集] 紀元前299年、秦と趙は盟を組み、斉と断交した。秦の相で斉の公子の孟嘗君は斉に逃避した。紀元前298年、孟嘗君の指揮下で斉と韓・魏が合従し秦を攻めた。函谷関まで攻め入り、秦軍は函谷関を死守した。紀元前297年、三国は継続して函谷関を攻めた。紀元前296年、三国合従軍は函谷関に攻め入り、塩氏城を占領した。秦は合従軍に和を求め、魏に封陵(中国語版)を韓に武遂を割譲した[5][6]。 当時、趙と宋と秦は盟を結んでいて、合従軍には加わらなかった。しかし、趙は中山の攻略戦(中国語版)により、秦へ援軍を派遣できなかった。燕は斉に亡国(中国語版)の仇があった。三国合従軍は函谷関の戦い後、斉将の匡章が率いる軍によって、燕軍を大敗させた[7]。楚の懐王が秦に騙され、幽閉されたまま死去した。しかし、紀元前301年に斉・韓・魏の三国合従軍が垂沙の戦い(中国語版)で楚軍を大敗させたため、合従に参加しなかった。 斉は勝利を獲得したが、大きな利益を得ることが出来なかった。韓・魏は秦の恨みを買い、紀元前294年、白起率いる秦軍に伊闕の戦いで大打撃を受けた。 河外の戦い[編集] 背景[編集] 紀元前257年、信陵君魏無忌は邯鄲の戦い(中国語版)で趙を救った功があった。その兄の魏の安釐王の虎符を盗み取り、魏の将軍の晋鄙を殺した[8]。勝利したものの、魏の安釐王の大きな怒りを買うと解っていたので、兵は自分の命令に従っただけで罪はないとして魏に帰し、信陵君と食客は趙に留まった。秦の荘襄王は信陵君が趙に滞在しているを知り、魏に大打撃を与える好機と思った。紀元前247年、大将の蒙驁は秦軍を率いて東向し魏を討伐するように命令した。秦軍は魏に侵攻し、魏軍は敗れた。秦軍の進攻に抵抗できず、魏の安釐王は使者を派遣し信陵君に帰国するように頼んだ。魏王の派遣した使者は黄金の綵幣を持参して、信陵君に帰国して秦軍に抵抗するように求めた。毛公と薛公の勧めもあって、信陵君は魏に帰国することを決意した。信陵君と魏の安釐王の兄弟は十年程会っておらず、再会すると互いに涙した。魏の安釐王は信陵君を上将軍に任命し、魏軍の最高統帥となった[9][10]。 戦闘過程[編集] 信陵君の帰国後、魏の安釐王は邯鄲の戦いでの罪を赦し、上將軍の印を授けた。信陵君は各国に書を送り、兵を派遣して魏を救援するように請求した。趙・韓・楚・燕等の国君は信陵君を丁重に迎え入れ、魏に援軍を送った。然し、斉だけは発兵しなかった。信陵君は魏・趙・韓・楚・燕の五国合従軍を率いて秦に侵攻した。黄河の南で秦軍を大敗させて、秦軍は敗退した。合従軍は河外まで追撃し、秦軍を包囲した。河外でも勝利を収めた。合従軍は勝に乗じて、函谷関まで追撃した。秦軍は函谷関を堅守し、撃って出なかった。合従軍は退兵した。魏の安釐王は秦を破り、失った関東の地の快復の功により、上相となり、五城を封邑として賜った[11][12]。 函谷関の戦い(紀元前241年)[編集] 紀元前242年、秦の蒙驁が魏を攻撃し、酸棗・燕・虚・長平・雍丘・山陽など20城を奪い、東郡を置いた。これにより燕を除く、五国と秦は国境を接するようになった。おそらく、これが函谷関の戦いの発生の原因であると考えられている。 紀元前241年、趙・楚・魏・韓・燕は、秦を共同で攻撃するために、総大将を楚の考烈王、総司令を春申君として合従軍を組んだ。然し、実際の合従軍の盟主は趙だとも考えられている。その理由として、まず楚はこの年に郢から寿春に遷都したことが挙げられる。そのため、楚は合従軍には大軍を送ることが不可能であったと考えられている。また、趙は長平の戦いや邯鄲の戦い(中国語版)など、何度も秦に対して敗戦を重ねていて、秦への恨みが深かったである。合従軍は寿陵を取り、函谷関を攻撃した[20]。合従軍に対して、函谷関で秦軍は迎え撃った。全軍の総指揮を採ったのは、この時点で権力を握っている相国の呂不韋と考えられている。また、函谷関で秦軍の指揮を採った将軍は不明である。然し、過去の戦歴等を考慮すると蒙驁が指揮を採ったと考えてもおかしくはない。 また、今回の合従軍では以前(函谷関の戦い

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金福漢 – Wikipedia

金 福漢(きん ふくかん、キム・ポクハン、김복한、1860年7月24日 – 1924年3月29日)は、李氏朝鮮の文臣・儒者、大韓帝国期の義兵長。字は元五、号は志山、本貫は安東金氏。丙子胡乱時に殉節した金尚容の12代孫、吏曹参判金光炫の子孫で、水北公派の宗孫である。 忠清南道洪城郡朝暉谷[1]の安東金氏の김봉진と延安李氏の間で生まれて漢学を習った。当色は老論であった。幼少時代は不遇であった。6歳の時の父親が死んで、1年経たずに母親も世を去った。翌年には面倒を見た祖父も他界した。従祖父김민근に引き取られ、学問を教わり育った。蔭位で官職を始めた。参奉を執り行なって純宗が皇太子時代書収官として働き、1892年に別試に合格して弘文官校理になった。以後弘文館・司諫院・成均館・承政院に勤めた。その後堂上官に昇進して大司成・承旨などを歴任した。[2] 1894年の甲午改革に反撥して官職を辞任した後都落ちしたが、翌年乙未事変が起きて断髪令が出ると、悲憤慷慨した儒生を集めて洪城で義兵を起こした。この時李偰と安炳瓚などが一緒に参加した。しかし、洪州牧師李勝宇が心替りし、逮捕されて義兵抗争は失敗、西大門刑務所に収監されて服役した。 1896年釈放された。以後 大司成などに任命されたが辞退した。以後高宗の特旨で釈放された後、成均館場・中枢原義官に任命されたが出仕せずに故郷で後進育成に力をつくした。[2] 1905年の第二次日韓協約締結後、李址鎔、朴斉純、李完用などの売国奴処断を上訴し、再び李偰、安炳瓚、閔宗植と一緒に義兵を起こしたが再び失敗して逮捕された。この時日本軍の拷問で不具になった。1905年また投獄されてから、後に釈放された。 1906年参判閔宗植と一緒に忠清道洪州でまた義兵を起こし、官軍によって逮捕されてソウルへ押送、警務庁に収監された。裁判中酷い拷問を受けながらも、乙巳五賊の処断要求を繰り返した。1910年国権被奪後には門外不出であった。 1919年3月三・一運動時には嶺湖南楡林を閨閤して、儒林代表で郭鍾錫などとともにパリ強化会議に朝鮮の独立を要求する独立請願書を発送し、投獄された。 西大門刑務所に収監され、90余日で重病のため釈放された。1921年からは私立学院仁智社を設立して、後進養成に力をつくした。[2] 1963年に建国勲章独立章が追贈された。忠清南道洪城の秋陽祠に影幀が奉納されている。 参考サイト[編集] ^ 公州郡出身という説もある。 ^ a b

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