アブドゥッロ・ラヒンバエフ – Wikipedia
アブドゥッロ(アブドゥッラ)・ラヒンバエヴィチ・ラヒンバエフ(ロシア語: Абдулло (Абдулла) Рахимбаевич Рахимбаев, 1896年6月1日 – 1938年5月7日)、民族名アブドゥッラ(アブドゥッロ)・ラヒンボエヴィチ・ラヒンボエフ(ウズベク語: Abdulla (Abdullo) Raximboyevich Raximboyev)は、ソビエト連邦で活動したウズベク人の政治家。 青年期[編集] 1896年6月1日(ユリウス暦5月19日)[1]、ロシア帝国サマルカンド州ホジェント、ラッザク[4]の小さなウズベク人商家に生まれた[2]。ムッラーから初等教育を受けた後はマドラサに進み、余暇には家業を手伝った[5]。そのあとに進んだロシア語学校では生徒にロシア人風の姓を名乗ることが求められたが、当時のテュルク人には特定の姓を名乗る習慣はなかった[5]。そこでアブドゥッロは父の名である「ラヒンバイ」にロシア語姓風の語尾を付け、「アブドゥッロ・ラヒンバエフ」と名乗るようになった[5]。こうして1910年から1912年まで通ったサマルカンド男子ギムナジウムを優秀な成績で卒業すると[5]、1917年にはタシュケント教職神学校(ロシア語版)も卒業し、この時までに14の言語を操れるようになったという[6]。 革命期[編集] やがて革命思想に接近するようになったラヒンバエフは、同年からホジェントでシューラ・イ・イスラーム(ロシア語版)の指導者となり、現地のムスリム労働者ソビエト書記を務めた[1]。翌1918年1月から12月まで教師として働くとともに[5]、ラヒンバエフは1919年1月にボリシェヴィキへ入党した[1]。当時の中央アジアは反革命勢力の方が力を持っていたが、ラヒンバエフは富裕層や聖職者とも対話することによってボリシェヴィキへの支持を集めようと試みた[5]。また、ボリシェヴィキの政策がロシア化の様相を帯びていると感じた際には、クリミア・タタール人の学者ベキル・チョバンザーデとも接触して少数民族の保護を試みた[5]。 ラヒンバエフは1919年からゴロドノステップ郡ソビエト執行委員会書記やホジェント郡 (ru) ソビエト執行委およびホジェント市ソビエト執行委の議長を務め、同年12月から翌1920年5月まではトルキスタン共産党(英語版)サマルカンド州委書記に就いた[1]。同年8月から翌1921年5月まではトルキスタン自治社会主義ソビエト共和国中央執行委議長を、同年からはロシア連邦共和国人民委員会議(ロシア語版)、全ロシア中央執行委(ロシア語版)およびロシア共産党中央委のトルキスタン局員とトルキスタン委員に、同年3月からは民族問題人民委員部参議員も務めている[1]。 翌1922年6月から10月までは再度トルキスタン自治共和国中央執行委議長に就き、同年4月2日から翌1923年4月17日まで、および1924年5月31日から翌1925年12月18日まではロシア共産党中央委員候補、1923年4月25日から翌1924年5月23日まではロシア共産党中央統制委員(ロシア語版)を歴任[1]。1922年12月30日にはソビエト連邦の結成に関する条約(ロシア語版)への署名者の一人となった[7]。
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