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May 2021 – Page 18 – Enzyklopädie

Month: May 2021

乙川電力 – Wikipedia

乙川電力株式会社(おとがわでんりょく かぶしきがいしゃ)は、大正から昭和戦前期にかけて、現在の愛知県岡崎市山間部への供給を担った電力会社である。 1915年(大正4年)に当時の額田郡河合村に設立。翌年に開業し、以後20年余りにわたって同村と豊富村・宮崎村への配電にあたった。1939年(昭和14年)、大手電力会社東邦電力に統合され解散した。 1897年(明治30年)7月、額田郡岡崎町(1916年市制)にて、後に西三河を代表する電力会社へと発展する岡崎電灯(後の中部電力〈岡崎〉)が愛知県下3番目の電気事業者として開業した[5]。この岡崎電灯は、開業から15年以上が経過した1914年(大正3年)までの間に、額田郡内では北部の岩津村・常磐村や東海道沿いの村(藤川村・本宿村など)を供給区域としている[6]。 額田郡内で岡崎電灯の供給区域とならなかった地域のうち、山間部の河合村・形埜村・豊富村・宮崎村(4村とも現・岡崎市)は1914年12月19日付で電気事業許可を得た「乙川電力株式会社」の供給区域に入った[7]。この乙川電力は翌1915年(大正4年)8月8日付で、河合村大字秦梨字川手(現・岡崎市秦梨町)に設立される[1][8]。設立時の資本金は2万5000円[1]。役員は株主中より選出され、設計施工を担当する岡崎の技術者門池七郎が社長に選ばれた[8]。 乙川電力は矢作川支流乙川(おとがわ)から取水する水力発電所を河合村の「天恵峡」と呼ばれる地点に建設する[9]。発電所から配電線を北は秦梨方面、南は男川沿いに豊豊村の樫山方面へと伸ばし[9]、1916年(大正5年)12月14日付で開業した[8]。翌年には豊富村の夏山地区や宮崎村の亀穴地区でも点灯し[9]、乙川電力は順調に電灯供給を拡大していく[8]。ところが収益の伸びがそれに伴わず、会社の資金繰りは悪化した[8]。 1918年(大正7年)4月に社長の門池が引責辞任したのち、同年5月の増資決議とともに会社整理のため武田賢治が招かれ初め相談役、8月からは社長となった[8]。社長に就任した武田は宝飯郡国府町(現・豊川市)の医師兼実業家で、当時は豊橋市の電力会社豊橋電気で専務取締役を務めていた[10]。またこのときの増資額は5万円で、年1割の優先配当を付された優先株式の発行によるものである[11]。資本金についてはその後1920年(大正9年)12月より普通株式の償却[12]、優先株式の優先権抹消[13]、乙川製綿株式会社の合併による5万円増資(1921年5月合併登記)[14]、という操作がなされ、最終的に10万円となっている[8]。 1921年の時点で、乙川電力による配電済み地域は河合村の9集落、豊富村の14集落、宮崎村の3集落であった[8]。逓信省の資料によると、この段階で許可を得ていた供給区域は河合・豊富・宮崎の3村であり、形埜村の名は見えない[15]。ただし名古屋逓信局作成の1930年(昭和5年)時点の供給区域図[16]では、形埜村のうち河合村に隣接する一部も乙川電力の供給区域となっている。この間の1924年(大正13年)より、需要が供給力(乙川発電所の出力は20キロワットであった[17])を上回ったため岡崎電灯からの受電を始め、供給力を補った[8]。 1930年代後半に入ると、1939年(昭和14年)の日本発送電設立に至る電力国家管理の流れの中で小規模事業者の整理・統合が国策と定められたのを機に、全国的に事業統合が活発化した[18]。中京・九州地方を地盤とする大手電力会社の東邦電力(1937年8月に中部電力〈岡崎〉を合併)も小規模事業者の統合を積極的に実施し、1937年から1941年までの間に愛知・岐阜・三重3県だけで計27事業者から電気事業を譲り受けている[18]。乙川電力もその一つであり[18]、1939年1月23日付で事業譲渡契約成立ののち[8]、同年6月1日付で東邦電力への事業譲渡を実施して[18]、同日付をもって会社を解散した[2]。統合時の資本金は10万円(うち6万2500円払込)[18]。社長は1937年12月に武田賢治が死去したため地元河合村の蜂須賀重則(1921年6月専務就任)が務めていた[8]。 供給区域[編集] 1937年12月末時点における乙川電力の供給区域は以下の愛知県内4村であった[19]。 1938年11月末(下期末)時点での供給成績は、電灯需要家1,257戸・灯数2,568灯(ほかに無料灯15灯あり)[20]、電力供給9.2キロワットであった[21]。 供給区域は上記4町村であったが、区域内にあっても乙川電力による配電がなされない地域も存在した[9]。例えば宮崎村北部の千万町(ぜまんぢょう)では、配電線が長くなり不採算という理由で乙川電力が住民の要望に応えず供給しなかったため、1924年より住民の自家用水力発電によって電灯がつけられた[9]。千万町の動きを見て宮崎村南部の河原・雨山地区や豊富村南部の鳥川地区も同種の方法で相次いで点灯していく[9]。しかし宮崎村南端の大代地区については水力発電に適した場所がないため、1944年(昭和19年)に当時の中部配電によって配電が始まるまで電灯のない地域であった[9]。 乙川電力の自社水力発電所は乙川発電所といい[17]、額田郡河合村大字秦梨(現・岡崎市秦梨町)に位置した[15]。具体的には茅原沢地区から秦梨集落へと向かう途中、乙川(矢作川支流)の「天恵峡」と呼ばれる渓谷にあった[9]。 発電所建屋の上流約360メートルで乙川から取水し、幅1間(約1.8メートル)・深さ3尺(約0.9メートル)のコンクリート水路にて発電所へと導水するという仕組みであった[9]。1937年の時点で有効落差7.12メートル・使用水量0.53立方メートル毎秒で、電業社製フランシス水車および東西電気製三相交流発電機各1台にて最大25キロワットを発電する[22]。発電所出力は元々20キロワットであったが[17]、1937年(昭和12年)2月に25キロワットへと引き上げられた[23]。 乙川発電所は東邦電力への事業譲渡後、1942年(昭和17年)4月配電統制令に従って供給区域とともに中部配電へと移管される[24]。次いで戦後の1951年(昭和26年)の電気事業再編成で中部電力に継承されるが、翌1952年(昭和27年)4月に廃止され現存しない[25]。 参考文献[編集] 企業史 中部電力電気事業史編纂委員会(編)『中部地方電気事業史』上巻・下巻、中部電力、1995年。 東邦電力史編纂委員会(編)『東邦電力史』東邦電力史刊行会、1962年。

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天才犬ピーボ博士のタイムトラベル – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “天才犬ピーボ博士のタイムトラベル” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年8月) 天才犬ピーボ博士のタイムトラベル Mr. Peabody & Sherman 監督 ロブ・ミンコフ 原案 ジェイ・ウォード 製作 アレックス・シュワルツデニース・ノーラン・カシーノ

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水圏生態系 – Wikipedia

水圏生態系(すいけんせいたいけい)とは、水域にある生態系のことで、水界生態系とも呼ばれる。水圏生態系の中では、生物の群集がお互いに、また環境にも依存して生活している。水圏生態系には大きく分けて「海洋生態系」と「淡水生態系」がある[1]。 海洋[編集] 海洋生態系は、すべての生態系の中で最大のものであり[2]、地球表面の約71%を占め、地球上の水の約97%を含んでいる[1]。世界の純一次生産量の32%を生産する。淡水生態系とは、水中の溶存化合物、特に塩類の存在で区別されている。海水中の溶存物質の約85%はナトリウムと塩素である。海水の平均の塩分は35‰である。実際の塩分は海洋生態系によって異なる[3]。 海洋における生息地の分類 海洋生態系は、水深や海岸線の特徴によって多くの区域に分けられる。外洋域は、クジラ、サメ、マグロなどの動物が生息する広大な海洋の部分である。底層は、多くの無脊椎動物が棲む水面下の生息環境で構成されている。潮間帯は満潮線と干潮線の間の領域で、この図では沿岸帯と呼ばれている。その他の沿海域には、河口、塩沼、サンゴ礁、ラグーン、マングローブ湿地などがある。深海では熱水噴出孔があり、そこでは化学合成硫黄細菌が食物網の基盤を形成している。 海洋生態系で見られる生物の綱には、褐藻、渦鞭毛藻、サンゴ、頭足類、棘皮動物、サメなどがいる。海洋生態系で捕獲された魚類は、野生生物から得られる商用食料の最大の供給源である[1]。 海洋生態系に関する環境問題には、持続不可能な海洋資源の利用(特定の種の乱獲など)、海洋汚染、気候変動、沿岸域での造成などがある[1]。 淡水[編集] 淡水生態系は地球表面の0.78%、総水量の0.009%を占める。淡水生態系は、地球の純一次産出量の約3%を生み出している[1]。淡水生態系に世界の魚類の41%が生息している[4]。 淡水生態系には、基本的に3つの種類がある。 静水(止水):水たまり、池、湖など、ゆっくりと動く水 動水:小川や川など、動きの速い水 湿地:少なくとも一時的に土壌が飽和しているか、浸水している水域[5] 静水[編集] 湖の3つの主要なゾーン。 湖の生態系は区分できる。一般的なシステムでは、湖を3つの水域に分けている(図参照)。1つ目の水域である沿岸域は、汀線近くの浅い水域である。ここでは、根を張った湿地植物が生息している。沖合はさらに、開水域と深水域の2つの水域に分かれる。開水域(または有光層)では、太陽光が光合成藻類とそれを餌とする種を支えている。深水域では太陽光が利用できず、食物網は沿岸域と有光層から入ってくるデトリタスを基礎とする。一部のシステムでは他の名称を使用する。沖合の水域は沖帯と呼ばれ、無光層は深底帯と呼ばれることもある。沿岸域から内陸部には、湖の存在によって影響を受ける植物が存在する水辺を確認できる。湖全体の生産は、沿岸域に生育する植物の生産と、開水域に生育するプランクトンの生産が組み合わさっている。 湿地は、ほとんどの湖岸に沿って自然に形成されているため、止水域の一部と言えて、 湿地と沿岸帯の幅は、汀線の傾斜や年単位の水位の自然変化の程度に依存する。枯れた木は、湖岸の風倒木や洪水の際に運ばれた丸太などで、この水域に集められることが多い。この流木は、魚類や営巣する鳥に重要な生息地を提供するだけでなく、湖岸線を浸食から保護している。 湖には2つの重要な副分類があり、一般的には湿地との移行途中の小さな湖である池と貯水池である。長期間にわたって、湖やその中の湾は徐々に栄養分を蓄え、有機物の堆積物でゆっくりと満たされていく。人間が流域を利用すると、湖に流入する土砂の量がこの過程を加速させることがある。湖へ堆積物や栄養素を加えることは、富栄養化として知られている[1]。 池[編集]

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ワラビ属 – Wikipedia

ワラビ属 (Pteridium)は、コバノイシカグマ科のシダ植物の分類群。ワラビを含み、この種のみを含むと長らく扱われてきた。現在では多くの種に分けられている。 根茎はやや深いところを長く横に這い、表面に毛があるが鱗片はない[2]。維管束は2環の網状中心柱となっている。また、シダ植物では例外的に、道管を持つ[3]。葉は3回羽状複葉で、部分的には4回羽状複葉まで分かれ、葉の先端はある程度の期間は伸び続ける。葉脈は胞子嚢以外の部分では遊離している。葉にも毛がある[4]。胞子嚢は葉脈の先端を連ねるようにして続く脈の上に生じ、結果として葉の縁沿いに長く伸びる。葉の内側からは包膜が伸び、縁側からは葉の縁が反転して生じた偽包膜が胞子嚢群を覆う。ただし、胞子嚢群が葉の縁の折れ曲がり部分に着いてるため、上を覆うのは偽包膜で、その下に胞子嚢群があり、包膜は胞子嚢群の下、胞子嚢群と葉裏の隙間にある[5]。胞子は4面体形。 和名は日本産の種名による。英名は総じてbracken という。 葉身の様子ワラビ(広義)・以下も 伸展する若葉側羽片は下から順に展開する 根茎の断面・中心柱を示す イノモトソウ属の胞子嚢群Pteris hillebrandii 分布と種[編集] もっとも分布域の広いシダの一つである[6]。世界中に広く分布する。南極以外の全ての大陸に産し、その生育環境も寒冷地と熱帯の砂漠以外、あらゆる環境に出現する[7]。しかも、それら全てが同一種に扱われてきた経緯がある。このような広域の分布は、化石の証拠から漸新世、2380万年前に遡るとされ、これを可能にしたのは胞子による長距離の分散であると考えられる[8]。 上位分類[編集] 本属に見られる葉の縁に長く続く胞子嚢群は、イノモトソウ属に見られるものに似ている。本属を含むコバノイシカグマ科は、他の科を含め、かつてはイノモトソウ科に含められていた。ただし、あまりに内容が広範囲であったこと、また研究が進み、多系統であると判断されたことから、細分された経緯がある。ただしこの時にも、本属と、類似の胞子嚢群をつけるユノミネシダ属はイノモトソウ科に残す判断があり、これはこの胞子嚢群の形質を重視した判断である。他方、この2属は栄養体の構造から見るとイノモトソウ科よりコバノイシカグマ科のものにより似ている[9]。現在ではこの判断が正しかったという格好である。 コバノイシカグマ科の中では上記のように胞子嚢群の特徴で本属とユノミネシダ属が似ているが、本属では包膜と偽包膜があるのに対して、ユノミネシダ属では偽包膜のみがあり、包膜はない[10]。他に、葉脈の様子も異なり、本属では基本的に葉脈は遊離するが、この属のものは網状になる。また、ユノミネシダ属のものは葉の先端成長がいつまでも続くものがあり、羽片が1段ずつ次第に展開してゆく特徴があるが、本属のものにもこれに近い傾向が見られる[11]。 下位分類[編集] 本属に含まれるものは上記のようにきわめて広い地域に分布し、その生育環境もきわめて多様である。そのために地域による変異が多く、多形的である一方で、幾つかの型には中間型も見られるなど、分類的扱いが困難であった。Tryonが1941年にこのグループの全世界のものについて分類の見直しを行った際、対象となった名は135を超えたという。彼はこの見直しによってそれら全てを単一の種 P. aquilinum とし、その下に2亜種12変種を認めた。そのため、この属は長く単形属であると扱われてきた[12]。しかしながらこれに疑問を呈する向きは長くあり、例えば田川(1959)も「数種に分けるほうがよいであろう」と記している[13]。近年になって分子系統の情報なども利用出来るようになり、この属の分類は再検討され、以下のような種や亜種に区分されている[14]。このうち広義のワラビであるP.

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