Month: August 2021

セルヒー・デミデュク – Wikipedia

セルヒー・デミデュク 2007年大阪世界選手権 選手情報 フルネーム セルヒー・オレクサンドロヴィチ・デミデュク ラテン文字 Serhiy Oleksandrovych Demidiuk 国籍  ウクライナ 競技 陸上競技 (障害走) 種目 60mH, 110mH 生年月日 (1982-06-05) 1982年6月5日(39歳)

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ラウンデル・パーマー (初代セルボーン伯爵) – Wikipedia

イギリスの政治家 初代セルボーン伯爵ラウンデル・パーマー Roundell Palmer1st Earl of Selborne 生年月日 1812年11月27日 出生地 イギリス イングランド・オックスフォードシャー・ミックスベリー(英語版) 没年月日 (1895-05-04) 1895年5月4日(82歳没) 死没地 イギリス イングランド・ハンプシャー・ブラックモア(英語版) 出身校 オックスフォード大学リンカーン法曹院

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クリケットボールの不正改造 – Wikipedia

クリケットボールの不正改造は、クリケットにおいて野手(英語版)が使用するボール(英語版)を違法なコンディションに改造する反則行為である。不正改造の主な目的はボールの空気力学の特性を妨害することにある。 クリケット競技規則(英語版)の第42条(英語版)第3項では、野手(英語版)はボール(英語版)が濡れている場合はタオルで乾かしても良いし、審判員(英語版)の監督下で泥を落としても良いし、人工素材を使用しなければ研磨することも認められている。これ以外のボールを変形させる行為は全て反則行為と見なされる。地面にボールをこすりつけたり、指の爪やその他の鋭利な物で傷付けたりする行為も禁止されている[1]。 ボールを変形させる主な目的はボウリングをするための、より良好な条件を整えることにある。不正改造の例としてはボールを鋭く変化させることが狙いで、野手がリップクリームや糖分の含まれる唾液などの物質を塗布してボールの片側を輝かせたり、ボールの縫い目を押し上げる行為が主に挙げられる[2]。同様に、ボールを鋭く変化させることが狙いで、靴のスパイクやボトルキャップなどを利用してボールの片側を粗面化する行為もボールの不正改造に該当する[3]。 合法的な改造[編集] 任意の物質を使用してボールを研磨することが禁止されている野球とは異なり、クリケットでは大量の唾液や汗を付けることが許可されている[4]。過去にはボールを水分で濡らすことが、より容易にボールを鋭く変化させることに繋がると考えられており、ボールに汗を付ける行為が一般化していたが、近年の研究では自然な酵素が出てくるのを阻害するため、実際には水分で濡らすのは逆効果であることが指摘されている[5]。 審判員はボールのコンディションを頻繁かつ定期的に点検しなければならず、ボールの使用に関するトラブルが発生した場合、審判は協議後にボールを問題が起こる前と同程度のコンディションのものと変更する必要がある[6]。審判員がボールの不正改造であると見なした場合には、ペナルティとしてエキストラ・ポイント(英語版)の5得点(英語版)が攻撃側の相手チームに与えられることになる[7]。 国際大会でもボールの不正改造は何度か発覚している。ワカール・ユニス(英語版)は2000年の試合の後、ボールの不正改造が原因で出場停止処分を受けた最初の選手となった[8]。 2006年8月20日に行われたイングランド代表対パキスタン代表の最高峰国際大会テストクリケットのシリーズ最終戦では、パキスタンチームの野手がボールの不正改造に関与していたとの判定が下された。イングランドチームにペナルティとして5得点が与えられ、使用するボールも交換された。パキスタン側はこの決定に抗議し、試合続行を拒否した[9]。審判員が放棄試合を宣告し、イングランド代表が勝利を収めた[10]。テストクリケットの130年の歴史で初めての放棄試合であった[11]。

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枝廣淳子 – Wikipedia

枝廣 淳子(えだひろ じゅんこ、1962年11月23日- )は、日本の環境ジャーナリスト、同時通訳者、翻訳家[1]。京都府出身。有限会社イーズ代表取締役、環境NGOジャパン・フォー・サステナビリティ代表、有限会社チェンジ・エージェント取締役会長、幸せ経済社会研究所所長[2]。大学院大学至善館教授。 経歴・人物[編集] 東京学芸大学教育学部附属高校、東京大学教育学部卒業。夫の留学について渡米したことから29歳で英語の勉強を開始。どうせ勉強するならと、同時通訳者を目標に掲げる。以後、通訳や翻訳の仕事を行う中で環境問題に目覚め、環境ジャーナリストとなる。2002年にはジャパン・フォー・サステナビリティを設立、2003年に有限会社イーズを設立、2005年に有限会社チェンジ・エージェントを共同設立し、各代表を務める[1]。2児の母。 福田・麻生内閣「地球温暖化問題に関する懇談会」委員、環境省中長期ロードマップ小委員会委員、東京大学人工物工学研究センター客員研究員などを務める。環境問題に関する講演、執筆、翻訳などを通じて、変化を創り出し広げるしくみづくりを研究。地球環境の現状や世界・日本各地の動きを、環境メールニュースで提供。 2003年から有限会社イーズおよび有限会社グラム・デザインにより温暖化コミュニケーションサイト「日刊温暖化新聞」を主催し運営をしている[3]。東京電力をファウンディング・スポンサーとして森林コミュニケーションサイト「私の森.jp」の立ち上げも行っている[4]。私の森.jp、チェンジ・エージェント、幸せ経済社会研究所のインターネットによる情報発信もグラム・デザインのサポートを得て行っている[5]。「100万人のキャンドルナイト」呼びかけ人代表[2]。2011年6月には首相官邸で開催された「総理・有識者オープン懇談会」にも出席した。 アル・ゴア『不都合な真実』の翻訳者としても知られる。 単著[編集] 『エコ・ネットワーキング! 「環境」が広げるつなげる、思いと知恵と取り組み』海象社 2000 『朝2時起きで、なんでもできる!』1-3 サンマーク出版 2001-04 のち文庫 『地球のセーターってなあに? 地球環境のいまと、これからの私たち』海象社 2002

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キャシー・キニー – Wikipedia

キャシー・キニー(Kathy Kinney, 1954年11月3日 – )は、アメリカ合衆国の女優である。 1954年、ウィスコンシン州に生まれる。両親は共にアイルランド系だった[1]。高校を卒業した後、1972年から1974年までの2年間カリフォルニア州保全部隊のメンバーとして働き、ウィスコンシンの大学へ進学[1]。その後ニューヨークへ渡ると、テレビ局WCBS-TVの秘書としての仕事に就いた[1]。同時期にスタンダップコメディアンとしてバーやクラブへの出演を開始し、コメディエンヌとしての才能を開花。ロサンゼルスへ移った後は、テレビや映画のオーディションを受け続け、小さいながらも様々な映画やテレビドラマの役を得てキャリアを重ねていった。 彼女のキャリアで特に知られているのは、トークショーの司会者、コメディアンとして知られるドリュー・キャリーのシットコム『ドリュー・ケリー DE ショー!』への出演。番組ではドリュー・キャリー演じる主人公の妻ミミを演じており、その強烈な印象から一気に人気に火がついた。それ以降も主にテレビで活躍しており最近ではコメディドラマ『The Secret Life of the American Teenager』へもレギュラー出演している。 出演作品[編集] 映画[編集] テレビドラマ[編集] ニューハート Newhart

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八方・陣内・方正の黄金列伝 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “八方・陣内・方正の黄金列伝” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年6月) 『八方・陣内・方正の黄金列伝』(はっぽう・じんない・ほうせいのおうごんれつでん)は、読売テレビで2012年8月15日から放送されているトークバラエティ番組。月亭八方・陣内智則・月亭方正の冠番組。 2014年までは『笑いの金字塔 よしもと黄金列伝!』(わらいのきんじとう よしもとおうごんれつでん!)という番組名で放送していた。 毎回一人、もしくは一組の芸能人をゲストに招き、これまでの人生の浮き沈みを年表やインタビュー映像と共に、トークで振り返る。当初は吉本興業所属芸人を中心にキャスティングしていたが、次第に非吉本所属芸人や歌手・アナウンサーといった幅広いジャンルの芸能人が登場するようになった。 放送時間は2014年秋以降、概ね月1回日曜夕方での放送が定着している。また同年以降、『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』開催週の土曜午後の放送も恒例となっている。 MC 放送リスト[編集] 2016年(平成28年) 回

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タイ古式マッサージ – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “タイ古式マッサージ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年10月) タイ古式マッサージ、施術(ストレッチ)の様子。 タイ古式マッサージ(タイこしきマッサージ、通称: Nuat phaen boran、タイ語: นวดแผนไทย)は、タイ伝統の一種のマッサージであり、指圧による揉み動作だけでなく四肢を曲げ伸ばすストレッチを含んでいる。「古式」とあるが、西洋近代医学を取り入れたアレンジも行われており、宮廷に伝承されたものにはストレッチの技法はない。 「Nuat phaen boran」を正確に翻訳すると古式マッサージないし伝統的マッサージであるが、現在、タイマッサージ、古式マッサージ、伝統的なタイのマッサージ、タイのヨーガマッサージ、タイの古典のマッサージ、タイの整体、受動的ヨーガ、あるいは支援つきヨーガとしても知られている。 本来タイ式医療(英語版)の一部であり[1]、長い伝統医療、宮廷医療としての歴史がある[2]。1990年代にスパにおける健康法・美容法として行われるようになった。現在知られるものは、1980年頃を境として、タイ政府の後ろ盾を得ながら復興・構築してきたタイ式医療の一分野、タイの無形文化遺産であり、観光文化のひつと目されている。近年では、タイ以外の国々でも健康法やリラクセーションとして親しまれている[3]。 「セン」と呼ばれるエネルギーライン上の指圧点を表した図(ワット・ポー寺院・バンコク)

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ブルノ市電 – Wikipedia

ブルノ市電(ブルノしでん、チェコ語: Tramvajová doprava v Brně)は、チェコの都市・ブルノに存在する路面電車。総延長70 kmを超える大規模な路線網を有し、2021年現在は路線バス、トロリーバス(ブルノ・トロリーバス)等の公共交通機関と共にブルノ公共交通会社(チェコ語版)(Dopravní podnik města Brna, a. s.、DPMB)によって運営されている[1][2][5]。 馬車鉄道[編集] ブルノ市内における最初の軌道交通は、1869年8月17日にブルノ旅客・貨物輸送会社(Brünner Tramway Gesellschaft für Personen und Frachtenverkehr)によって営業運転が開始された馬車鉄道であった。これは当時のオーストリア=ハンガリー帝国においてウィーン、ブダペストに続く馬車鉄道網の開通事例であり、現在のチェコにおける最古の都市内の軌道交通でもあった。だが、当初こそ利用客は多かったが運賃の高さなどが起因となり経営は低迷し、1874年に廃止された[3]。 一方、1876年には新たに設立されたブルノ軌道(Brünner

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地球球体説 – Wikipedia

中世の球状の地球の芸術的表現 – それぞれ大地、大気、水を表す区域に分けられている(1400年頃)。 地球球体説(ちきゅうきゅうたいせつ、英: Spherical Earth)とは、地(大地)は球体である、とする説、考え方のことである。英語 Earth を「地球」と訳すのが一般的であることが原因だが日本語としては少々ぎこちなくなっている面があって、大地球体説(だいち きゅうたいせつ)または大地球形説(だいちきゅうけいせつ)としたほうが古代に唱えられた説の感覚に近い。 大地球体説(地球球体説)とは、我々の足元にある地(大地)[注 1]は球体である、とする説である。その起源は紀元前6世紀頃の古代ギリシア哲学に遡るが[1]、紀元前3世紀にヘレニズム天文学によって自然学的に所与の事として確立されるまでは哲学的考察の対象であり続けた。このヘレニズムのパラダイムが古代末期から中世にかけて旧世界全体に徐々に取り入れられていった[2][3][4][5]。大地が丸いことの実際的な証明はフェルディナンド・マゼランとフアン・セバスティアン・エルカーノの世界一周旅行(1519年−1521年)によってなされた[6]。 歴史的にみると、地球球体説に取って代わられるまでは、地球平面説が主流であった。古代のメソポタミア神話では、世界は平らな円盤状で大洋に浮いており、球状の空に包まれているように描かれており[7]、こういった世界観が、アナクシマンドロスやミレトスのヘカタイオスによる初期の世界地図の前提となっていた。地球の形状に関するその他の考察としては、アヴェスターや古代ペルシアの著作物で言及されている七層から成るジッグラトあるいは世界山、リグ・ヴェーダで言及されている車輪、お椀、あるいは四角い平面といったものがある[8]。 地球の形状は18世紀により精確に回転楕円体(扁球)として理解された(モーペルテュイ)。19世紀初期には、地球楕円体の扁平率が概ね1/300程度と決定された(ドランブル、エベレスト)。アメリカ国防総省の世界測地系により1960年以降決定されている現代の扁平率の値は1/298.25近くになっている[9]。 古典古代[編集] 古典期ギリシア[編集] 地球球体説を示す最古の史料は古代ギリシアの文献に遡る[10]。大地が球体であることがどのようにして発見されたのかについての説明はそこにはないが、東地中海沿岸(特にナイル川デルタとクリミアの間)においてギリシア人の移住の際の劇的な変化であった周極する星々の測定しうる高度と位置の変化を説明するための旅行家の提案ではないかと考えられる[11]。 ディオゲネス・ラエルティオスによると、「ピュタゴラスは大地が丸いと言った最初のギリシア人であった。しかしテオフラストスはこれをパルメニデスに帰し、エレアのゼノンはヘシオドスに帰した。」 ピュタゴラス 初期のギリシア哲学者達は地球球体説を唱えたが、いくらか曖昧なやり方でそれに言及した[12]。彼らの中でも特にピュタゴラス(紀元前6世紀)が球体説の創始者とされるが、これは、あらゆる発見を古代の賢者の数人に帰そうとする古代ギリシア人の慣習による可能性がある[10]。ある程度の地球球体説は紀元前5世紀のパルメニデスやエンペドクレスにも知られており[13]、高い信頼性をもって球体説をピュタゴラスに帰することはできないが[14]、それにもかかわらず、球体説は紀元前5世紀にピュタゴラス派によって明文化された[10][13]。紀元前5世紀以降、声望あるギリシア人著述家で大地が球形以外の形だと考える者はいなくなった[12]。 ヘロドトス

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摂津丸 – Wikipedia

この項目では、日本陸軍・日本水産の船について説明しています。日本海軍の船については「摂津艦」をご覧ください。 摂津丸(せっつまる)は、日本陸軍が大阪商船の名義で1945年(昭和20年)に竣工させた揚陸艦。上陸用舟艇の母艦機能を有し、陸軍特殊船と呼ばれた。太平洋戦争末期の完成のため日本近海での輸送に使われ、機雷により損傷して航行不能の状態で終戦を迎えた。戦後は復員船として使用された後、日本水産の漁業工船へ改装、捕鯨やマグロ漁に従事した。1953年(昭和28年)に南極海で捕鯨操業中、配水管のバルブ操作を誤る事故により浸水し、沈没した。 陸軍特殊船時代[編集] 日本陸軍は、1934年(昭和9年)に建造した「神州丸」の成功を踏まえ、同種の陸軍特殊船の量産を計画した。しかし、平時から大型船多数を維持することは予算的に困難であった。そこで、民間船会社に補助金を交付して民間船扱いで建造させ、有事にのみ徴用する形式が採られることになった[6][注 1]。太平洋戦争勃発後も陸軍特殊船の整備は続行され、一般的な戦時標準船と並びM型と称して4隻が計画造船の枠内で民間船として建造された。 M型船2番船として、大阪商船が船主となって発注されたのが本船である。建造は、M型船を一手に受注した日立造船因島工場が担当した[2]。1944年(昭和19年)5月15日に起工され、1945年(昭和20年)1月5日に竣工した。陸軍特殊船の船名は上陸戦という用途にちなんで港を意味する「津」が付いた名前が多く、本船もそれに倣っている[7]。 陸軍特殊船のうち基本形の甲型系列に属し、M甲型と称される。外形は「神州丸」が軍艦に近い特異な姿だったのに対し、正体を秘匿するため通常の貨客船などに似せた姿となっている[6]。しかし、船体内は全通式の舟艇格納庫となっており、船尾に上陸用舟艇を急速発進させるための大型ハッチを有し、商船とはまったく異なった構造である。日立造船が以前に建造した陸軍特殊船「吉備津丸」を原型に、第一次戦時標準船に準じた簡素化が施された。姉妹船としてM甲型1番船の「日向丸」があるが、本船が左右並列式の2本煙突であるのに対し、「日向丸」は煙路をまとめて1本煙突としている点で姿が異なる[2]。ただし、本船も終戦後に1本煙突へ改装されている[2]。このほかM型の残り2隻「熊野丸」と「ときつ丸」は航空機運用能力を有するM丙型で、本船とは全く異なった航空母艦類似の船型をしている[注 2]。 竣工時期が遅かったため、本来の用途の上陸戦に投入される機会は無く、わずかに日本近海に残された航路での輸送に使用された。1945年2月9日-14日には「日向丸」とともにタモ41船団を組み、海防艦「生名」・第67号・第76号の護衛で基隆港から六連島錨地まで航行している[8]。同年3月28日午前5時53分に蓋井灯台南方1900m付近で機雷と接触し、機関室に浸水した[9]。前日夜からアメリカ軍機による機雷投下「飢餓作戦」が始まったばかりであり、その最初の被害であった[9]。 終戦後、修理された「摂津丸」は、復員兵・引揚者の輸送任務に従事した。ビルマ、台湾[10]、葫芦島在留日本人大送還[11]などへ赴いている。 漁業工船時代[編集] 復員・引揚輸送船としての任務に続き、1947年(昭和22年)、「摂津丸」は日本水産により漁業工船として使用されることになった。日本水産は、1946年(昭和21年)11月から、日本政府の要請で鯨肉生産による食糧確保と鯨油輸出による外貨獲得を目的として南極海での捕鯨を操業していた[12]。その鯨肉の加工と輸送を担当する船が必要とされていたのである。三菱重工業長崎造船所で塩蔵工船へ改装された「摂津丸」は、1947年11月24日に日本水産によって取得された[13]。ただし、『大阪商船株式会社八十年史』によれば売却は翌年11月である[14]。改装が終わった「摂津丸」は、捕鯨母船「橋立丸」(タンカー改装)を中心とする戦後第2次の捕鯨船団へ加入した[12]。 第2回までの捕鯨操業の結果、塩漬肉では長期航海の間に品質が著しく低下することが問題となった。そこで、冷凍船を整備することになり、日本水産は「摂津丸」を1948年(昭和23年)10月31日までに冷凍工船へ再改装した[15]。さっそく同年11月13日出漁の第3次船団[注 3]へ参加し、シロナガスクジラ換算(BWU)504単位のクジラから15504トンの鯨肉(塩蔵含む)を生産した[12]。以後、第4次(1949/50年)、第5次(1950/51年)、第6次(1951-52年)の南極海捕鯨に従事した。うち第6回では、「橋立丸」に替わって「図南丸」(沈没船を再生)が母船となっている[16]。 捕鯨のほか、1951年(昭和26年)5月11日から、マッカーサー・ライン外でのマグロ遠洋漁業へ母船として出漁した。これは日本水産にとって初めての遠洋マグロ漁であった。27隻の独航漁船を率いた「摂津丸」船団は、3750トンを水揚げした[17]。 1952/53年漁期の第7次南氷洋捕鯨が「摂津丸」の最後の航海となった。操業中の1953年(昭和28年)3月7日午前8時過ぎ、緊急用排水ポンプの点検作業を行っていた見習機関員が、上司の指示を誤解して排水ポンプのバルブではなくキングストン弁を分解してしまう事故が発生した[5]。開放された取水系から毎時350トンの割合で浸水が始まり、発電機などが停止、同日午後2時にはポンプによる排水も不可能になった。同日午後7時40分に主機関の中ほどまで水位が達した時点で、船長は総員退去を発令した。「摂津丸」は乗員337人が全員無事に退去した後も1週間浮いていたが、3月13日早朝についに沈没した[5]。鯨肉3800トンが船とともに失われ、これは前回の船団全体での鯨肉生産量の4割に相当する[16]。本船の事務長(英語版)は沈没の責任を取って辞職した[16]。沈没の直接の原因は船員の未熟であるが、太平洋戦争による熟練船員の大量戦死がその背景にあった[5]。その後、日本水産は、本船の代船として冷凍工船「宮島丸」を新造し、次の第8回南極海捕鯨から参加させた[16]。 注釈[編集] ^ 商船として実際に運航する意図があったかについては、所有船会社の関係者の立ち入りすら規制されていたことから、疑問視する見方がある[6]。 ^

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