我が名は狼 – Wikipedia

『我が名は狼』(わがなはうるふ)は、たがみよしひさによる日本の漫画。 架空の避暑地・野枝(のずえ)高原にあるペンションの居候である主人公と女性宿泊客との(主に性的)関係を描いた作品。初期の『週刊少年チャンピオン増刊 ヤングチャンピオン』(秋田書店;後に休刊[1])連載中は全て一話完結であったが、『プレイコミック』(同社刊)連載となってからは複数話完結や、ミステリー的な話も増えていった。 各エピソードごとにサブタイトルが付けられ、「〇〇〇の(女性名)」の形式となっている。並行して書かれた『軽井沢シンドローム』と同様、シリアスな場面とくだけた場面を織り交ぜる手法をとり、登場人物もコミカルな三頭身とリアルな八頭身が、コマ単位で切り替わるように同居している。また、ルビの使い方も特徴的である。 あらすじ[編集] 各地を放浪する男・犬神内記が、父親の親友である高梨宗国が経営する「ペンションたかなし」に居候として転がり込む。 内記はペンションに宿泊する女性客を次々に抱いていく女たらしだが、宗国の三女・聖は本気で内記に惚れてしまう。内記はそのことを認識しつつも、男女関係の意識の究極が結婚に尽きる時代である限り、最後まで責任はとれないとして、聖を抱くことも、聖に遠慮して女を抱かないこともしないまま日々を過ごしていた。 しかし、やがて内記はお互いにまずいと思いながらも聖の姉である誠とも関係を持つようになり、聖と所帯を持つでもなく「たかなし」に居座り続けることは難しいことを指摘される。 さらに、聖の存在がかつて亡くした女のことを乗り越えさせてくれるかもしれない、という趣旨のことを言われた内記は何事かに思いを馳せる素振りを見せ、持っていたバイクを売り、「たかなし」の金庫を漁って金を集めだした。その様子を目撃した「たかなし」の面々は内記が黙って出ていこうとしているのだと考え、そのことを聖に伝え後を追わせる。 しかし内記が集めた金は新しいバイクのための頭金で、ローンも宗国に押し付けるつもりであった。「真剣に家を出ることを考え、そのために大きなバイクが必要だと思った」と言い訳がましく述べる内記はローン返済のため、今日も元気に「たかなし」で働くのであった。 登場人物[編集] 犬神 内記(いぬがみ ないき) 主人公。周りからは「うるふ」と呼ばれ、本名で呼ばれることはあまりない。高校一年で中退してふらっと家を出たきり、日本各地を巡る放浪者だったが、縁あって「ペンションたかなし」の居候となる。とてつもない女好きで、女性の一人客と次々と肉体関係を持つ。飄々とした性格で、腰まで届く束ねたロングヘアーと前衛的なファッションがトレードマーク。 バイクは初登場時はスズキGNであったが、盗まれて解体されたため、その後はヤマハRZ350と、ある賭けで巻上げたヤマハDT50。 愛車は三菱ジープJ58であったがある女性客に大破させられてしまった。 高梨 誠(たかなし まこと)

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ひろちひろ – Wikipedia

ひろ ちひろ(10月30日[1] – )は、日本の漫画家。東京都出身[1]。血液型A型[1]。デビュー作は『ユメミルカタボシ』[2]。 2014年 – 1月期第26回マーガレットまんがゼミナールSUPERストーリー部門において、『ユメミルカタボシ』でBEST長編、入選受賞。この作品がデビュー作となった(当時27歳)[2]。 作品リスト[編集] 全て集英社、マーガレットコミックスから刊行されている。 年下の男の子[3](2015年 – 2016年、全3巻) 2015年9月25日発売[4]、『マーガレット』2015年12号[5][6] – 15号、17号 – 18号、ISBN 978-4-08-845445-0 2016年1月25日発売[7]、『マーガレット』2015年19号 – 21号、23号

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ムジナクグ – Wikipedia

ムジナクグ(学名:Carex x takoensis Endo et Yashiro)は千葉県香取郡多古町と千葉県山武郡横芝光町にまたがる多古光湿原にのみ生育するカヤツリグサ科スゲ属の植物である。 カヤツリグサ科スゲ属のムジナスゲとオオクグの交雑種。 1989年に生育が確認され、1995年に新種として発表された。学名の「takoensis」は多古光湿原の多古町側で発見されたことによる。 多年生草本。湿地性である。葉は単葉で互生。風媒による受粉し、水散布をする。親であるムジナスゲよりも幅広の葉を持ち、葉の裏面はオオクグに似て粉白色を帯びている。茎の先端に雄小穂、その下に雌小穂が出る。雌小穂の果胞はオオクグのように固く、表面に微細な毛が生えている。果胞の毛はムジナスゲの果胞の毛よりも短い。 ムジナクグは地下走出枝により生育範囲を拡げているが、元は1個体だった可能性があるという。 ムジナクグの親にあたるムジナスゲは本来高層の湿地に生育し、オオクグは汽水域に生育する植物である。本来は同じ場所に生育しないムジナスゲとムジナクグが生育する多古光湿原は内陸にあるが、縄文海進とその後の気候変動による海退により湿地化したエリアである。そのため、かつて汽水域だった時代に生育したオオクグと、寒冷だった時代に生育したムジナスゲがこの湿地の中に残り続け、ムジナクグという雑種を生むことになった。 およそ2000年前にムジナクグが形成されたと考えられている。 ムジナクグの親にあたるオオクグ ムジナクグが自然の状態で生育しているのは栗山川と借当川の合流点に位置する多古光湿原以外に発見されていない。湿原の中央部に点在し、群落を形成する箇所もある。他に、栗山川中流域の湿性植物を保護・育成する目的で作られたふれあい坂田池公園湿性植物園に移植されている。 参考文献[編集] 千葉県史料研究財団 『千葉県の自然誌 別編4 千葉県植物誌』 51巻

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相馬地方広域市町村圏組合 – Wikipedia

相馬地方広域市町村圏組合(そうまちほうこういきしちょうそんけんくみあい)は、福島県相馬市、南相馬市、相馬郡新地町及び飯舘村の2市1町1村が組織する一部事務組合。 事務所[編集] 福島県相馬市中村字北町63番地の3(相馬市役所内) 主な事務内容[編集] 消防に関すること(消防団に関することを除く。) 看護専門学校の設置及び管理運営に関すること。 ごみ処理の広域化に関すること。 救急医療対策事業にかかる補助金交付に関すること。 構成市町村に波及する地域振興事業の実施に関する事務 組織[編集] 組合議会 議員定数:12人(相馬市:3人、南相馬市:5人、新地町:2人、飯舘村:2人) 執行機関 管理者:1人(組合市町村の長の互選によるものとする。) 副管理者:3人(管理者以外の組合市町村の長をもってこれに充てる。) 会計管理者:1人(相馬市の会計管理者をもってこれに充てる。) 監査委員:2人 施設[編集] 相馬地方広域消防本部 南相馬市原町区高見町一丁目272番地

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リスト・フェレンツ音楽大学 – Wikipedia

リスト音楽院 改装前 1858年のフランツ・リスト リスト・フェレンツ音楽大学(リスト・フェレンツおんがくだいがく、ハンガリー語: Liszt Ferenc Zeneművészeti Egyetem リスト・フェレンツ・ゼネミューヴェーセティ・エジェテム, 地元内での通称:Zeneakadémia ゼネアカデーミア, 英語:Franz Liszt Academy of Music)は、ハンガリーの首都ブダペストに拠点を構える音楽大学である。日本語では従来より「リスト音楽院」表記の方がより普及している。現地語での学校名を厳密に日本語へ訳すと、zeneművészetiは名詞の形容詞形であり、zeneは音楽、művészetは芸術を意味し、egyetemは大学であるので、リスト・フェレンツ音楽芸術大学となる。略称:LFZE。 1867年オーストリアハンガリー二重帝国成立後、ハンガリーにおける高等音楽教育の必要性を考えた貴族、政治家、芸術家らにより、欧州を代表する芸術家として著名なリスト・フェレンツ(フランツ・リスト)を代表とする音楽院の設立への機運が高まった。当時ハンガリー国内の中等音楽学校として、ナジメズー通りの音楽学校 a pesti Nemzeti

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金澤昭雄 – Wikipedia

金澤 昭雄(かなざわ あきお、1932年(昭和7年)1月19日[1] – )は、日本の警察官僚。元警察庁長官、警察協会会長、警察育英会理事長。 茨城県出身。1954年、東京大学法学部を卒業。同年、国家地方警察本部(現警察庁)に入庁[1]。同期入庁に佐々淳行(初代内閣安全保障室長)、鎌倉節(第75代警視総監)等がいる。警視庁日本橋警察署に配属[2]。 以後、広島県警察本部警務部監察官、宮崎県警察本部警務部警務課長、警視庁本富士警察署長、警視庁刑事部捜査第三課長、大蔵省主計局主計官補佐、高知県警察本部長、田中角栄内閣総理大臣秘書官、警視庁警務部長、警察庁長官官房長、警察庁刑事局長、警察庁次長などを歴任[2]。1988年1月、警察庁長官に就任し1990年12月まで在任した[3]。2002年、勲二等旭日重光章受章[4]。 退官後、自動車安全運転センター理事長、全日本指定自動車教習所協会連合会会長などを歴任[2]。 [脚注の使い方] ^ a b 『現代日本人名録98』2、9頁。 ^ a b c 『日本警察官僚総合名鑑』142頁。 ^ 『日本官僚制総合事典:1868

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夜の牙 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “夜の牙” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年5月) 「夜の牙」は、1958年1月15日に公開された日活映画。 石原裕次郎が主演した「サスペンス映画」である。ただし配役序列は月丘夢路(井上梅次監督夫人)がトップになっている。 あらすじ[編集] 銀座に近いガード下で診療所を開いている杉浦健吉(石原裕次郎)はチンピラ達をカタギになる事を条件に無料で治療していた。ある日健吉を兄貴と慕う掏摸の三太(岡田真澄)が足を洗って俳優になる為、オーディションを受ける時に必要な前科のない戸籍を健吉に貸して欲しいと頼む。仕方なく区役所に戸籍を取りに行くと何と健吉は死亡した事になっていた。届出人は行方知れずの弟・忠夫なので健吉は可愛がっている掏摸のお銀(浅丘ルリ子)と三太、恋人の看護師朱美(白木マリ)の協力を得て弟を探し出す事にした。健吉の死亡診断書を書いた医師(浜村純)によると死因は轢死で遺体は激しく損傷していたと言う。遺体を運んで来たのは4人の男と言う事もわかった。手がかりを求め伊豆の菩提寺を訪ねるとそこには健吉の墓が立っており謎めいた女(月丘夢路)が墓参りをしていた。卓然和尚(森川信)は死んだ筈の健吉がやって来たので狐につままれたようだと話し埋葬しに来た忠夫は健吉そっくりだったと証言する。さらに健吉の父親が亡くなり莫大な遺産を残した事を知るに及び弟は遺産相続を巡るトラブルに巻き込まれたのではないかと言う疑念がわく。調査を進めるうちに遺体を運んだ4人のうち3人を特定する。杉浦の実家を管理する加納執事(西村晃)、顧問弁護士の赤沼(安部徹)、キャバレー支配人の土井(小林重四郎)である。もう一人が親分格の黒ずくめの男で土曜日になると土井のキャバレー「カサブランカ」に姿を現すと言う。そして「カサブランカ」の元ホステスで何かをきっかけに発狂してしまったトキ(南寿美子)が忠夫の恋人だった事が分かる。一方、黒ずくめの男が自分を口封じの為に消すのではないかと恐怖に怯えた加納は健吉に全てを話し助けを求めようとして殺されてしまう。鍵を握っているのは謎の女真理。健吉は真相を解明する為、真理に接近を試みる。真理は一体何者なのか?黒ずくめの男は弟なのか?荒木刑事(安井昌二)率いる警察が動き出す中、事件は意外な展開を迎える。 スタッフ[編集] キャスト[編集]

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ウィリアム・ラウザー (第3代準男爵) – Wikipedia

第3代準男爵サー・ウィリアム・ラウザー(英語: Sir William Lowther, 3rd Baronet、1727年ごろ – 1756年4月15日)は、グレートブリテン王国の政治家。1755年から1756年まで短期間庶民院議員を務めた[1]。 第2代準男爵サー・トマス・ラウザーと妻エリザベス(Elizabeth、旧姓キャヴェンディッシュ(Cavendish)、1747年11月7日没、第2代デヴォンシャー公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュの娘)の息子として[2]、1727年ごろに生まれた[1]。1745年3月23日に父が死去すると、準男爵位を継承した[2]。同年7月2日、ケンブリッジ大学クレア・カレッジ(英語版)に入学した[3]。 1755年1月2日に遠戚にあたる第4代準男爵サー・ジェームズ・ラウザー(英語版)からホワイトヘイヴン(英語版)の地所を継承[1][4]、さらにジェームズの死に伴いカンバーランド選挙区(英語版)で行われた補欠選挙に出馬して当選した[5]。 1756年4月15日に生涯未婚のまま死去した[1]。後継者がおらず準男爵位は廃絶した[2]。遺産のうち、ランカシャーのホルカー・ホール(英語版)は母の兄の息子にあたるジョージ・キャヴェンディッシュ卿(英語版)が継承、1794年にジョージが生涯未婚のまま死去すると母の実家であるデヴォンシャー公爵家が継承した[2]。マースク・ホール(英語版)は遺言状に基づきエドワード・ウィルソン、ジョージ・ウィルソン、トマス・ウィルソン、ダニエル・ウィルソン(4人は兄弟だった)が継承した後、1762年にトマス・ダンダス(英語版)(後の初代ダンダス男爵)が購入した[6]。ホワイトヘイヴンの地所は遠戚にあたる第5代準男爵サー・ジェームズ・ラウザー(英語版)が継承した[1][4]。ホレス・ウォルポールによれば、ウィリアム・ラウザーは気前のいい人であり、遺言状で友人13人の1,500ポンドずつ贈与したという[1]。 ^ a b c d e f Namier, Sir

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ビセンテ・イボーラ – Wikipedia

この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の姓)はイボーラ、第二姓(母方の姓)はデ・ラ・フエンテです。(Template:スペイン語圏の姓名) ビセンテ・イボーラ レバンテUDでのイボーラ (2013年) 名前 本名 ビセンテ・イボーラ・デ・ラ・フエンテVicente Iborra de la Fuente ラテン文字 Vicente Iborra 基本情報 国籍 スペイン 生年月日 (1988-01-16) 1988年1月16日(34歳) 出身地

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台湾の地震一覧 – Wikipedia

台湾の地図に関する地震データのプロット。 台湾の地震一覧(たいわんのじしんいちらん)では、台湾島に大きな影響を及ぼした地震を列挙する。 台湾は環太平洋火山帯上、フィリピン海プレートの西端の地震活動が活発な地域に位置する[1]。台湾島では、42の活断層が地質学者によって特定されているが、台湾で観測された地震の大部分は、フィリピン海プレートと、島の東のユーラシアプレートの収束によって発生した[1][2]。歴史上、台湾で記録された地震の大部分は台湾東方沖で発生しており、被害は軽微である。一方、島直下の直下型地震では、規模に比して大きな被害が生じている。台湾における最古の記録地震は、オランダ統治時代、1624年に発生したものである[3]。20世紀には、91回の大規模な地震が観測されており、うち48回では死者が発生している[4]。直近の大地震は1999年9月21日に発生した921大地震で、2415人が死亡した。 現代台湾における多くの建築物は、地震に対する耐性を考慮して建設される。台北101もそのひとつで、ウインドシアに耐えられる堅さと地震に耐えられる柔軟性を両立する必要があった。また、台湾高速鉄道は大規模な地震が観測された際にすべての列車を安全に停車させるための自動安全装置が組み込まれている[5] 。それにもかかわらず、1906年の梅山地震や921大地震など、多くの主要地震では死傷者が発生したことに関し劣悪な建築基準が問題視された。台湾国内では中央気象局が地震の監視と報告に関し担当している。また、大地震はアメリカ地質調査所でも評価される。台湾における地震学の研究は日本統治時代に始まり、最初の地震計は大森房吉の会社によって台北に設置された[6]。 地震一覧[編集] マグニチュード 5.5–5.9 6.0–6.4 6.5–6.9 7.0–7.4 7.5–7.9 8.0+ 死者数 1–10 11–50 51–100 101–500 501–1,000 1,001+

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