Month: June 2018

ジー・イ・ジー – Wikipedia

『ジー・イ・ジー』(Zii e Zie)は、ブラジル人ミュージシャン、カエターノ・ヴェローゾが2009年に発表したスタジオ・アルバム。 前スタジオ・アルバム『セー』に引き続き、若手ミュージシャンによるトリオ「バンダ・セー」と共に録音された[2][5]。プロデュースも前作と同様、ヴェローゾの息子モレーノ・ヴェローゾ(ポルトガル語版)とペドロ・サーによる[2]。ヴェローゾ自身は本作のコンセプトに関して「トランサンバ」という言葉を使い、サンバと現代的なロックの融合を試みた[6]。 「インコンパチビリダーヂ・ヂ・ジェーニオス(天才たちの不調和)」は、ジョアン・ボスコとアルヂール・ブランキが共作した曲のカヴァーで、ボスコのヴァージョンは1976年のアルバム『Galos de Briga』に収録されている[7]。「ヂフェレンチメンチ(彼らとは違って)」は、アルバム『異国の香り〜アメリカン・ソングス』(2004年)リリース後のツアーでも歌われていた曲である[2]。 反響・評価[編集] ポルトガルでは2009年第18週のアルバム・チャートで22位を記録[4]。アメリカのラテン・グラミー賞では、2009年度の最優秀シンガーソングライター・アルバム賞を受賞した[8]。 収録曲「インコンパチビリダーヂ・ヂ・ジェーニオス(天才たちの不調和)」は、『ローリング・ストーン・ブラジル』誌が選出した「2009年の最も優れた25曲(国内部門)」で13位にランク・インした[9]。 マリアーノ・プルーンズはオールミュージックにおいて5点満点中3点を付け「ヴェローゾの新しい音楽に関する論争は、もっぱらエレクトロニック・サウンドの再発見に関する話が中心となってきたが、根本的な問題をぼやけさせるべきではない。今回はサウンドではなく曲が弱いのだ」「ここには、ヴェローゾの標準(もっとも、恐ろしいほど高いのだが)に見合った曲は僅かしかない」と評している[10]。一方、Robin Denselowは『ガーディアン』紙のレビューにおいて5点満点中4点を付け「彼の実験はなおも続いている」「突然エレクトリック・ギターが爆発して穏やかな雰囲気を一変させる”Falso Leblon”、手拍子とファンク・ギターがまったりしたボーカルに対抗する”A Cor Amarela”など、曲は親しみやすい一方で意外性もある」と評している[3]。 特記なき楽曲はカエターノ・ヴェローゾ作。 ペルデウ(無くした) – “Perdeu” –

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大庭岳輝 – Wikipedia

大庭 岳輝(おおば たける、1997年7月29日 – )は、日本のバスケットボール選手。身長184㎝、体重85kgで、ポジションはシューティングガード。 大阪府で生まれる。バスケットボール選手だった父の影響を受け、小学校1年生からバスケットボールを始める。当初は野球とバスケットボールの両方で活動していたが、小学六年生の前にどちらかを選ぶ必要に迫られ、バスケットボールを選んだ[2]。 中学は長尾西中学校、高校はバスケットボール強豪校の洛南高校に進学、同級生は寺嶋良や柳川幹也がいた。 怪我の影響もあり1、2年は試合の出場機会に恵まれなかったが、3年生でレギュラーを掴んだ。この年までインターハイ京都予選で44年連続優勝をしていた洛南高校だったが、この年は決勝でカロンジ ・カボンゴ・パトリック、岡田侑大を擁する東山高校に95-63の大差で敗れている[3]。なおこの年はインターハイが京都開催だったため開催県枠でインターハイに出場は果たしていたが、初戦で敗退した。 高校卒業後は、洛南高校OBの京都産業大学バスケットボール部 丸岡祥人総監督の誘いで京都産業大学に進学し、同大バスケ部に入団した。2年次には関西学生秋季リーグ戦で優秀選手賞と得点王を受賞し、4年次ではチームキャプテンを務めた[2]。また4年在学中の2019年12月26日に、京都ハンナリーズに特別指定選手として入団した[4]。京都ハンナリーズでは8試合に出場 1試合平均4.6分の出場で、2.1得点 0.1リバウンド 0.1ブロックを記録した。 2020年6月には、京都ハンナリーズと正式な選手契約を結び[5]、2020-21シーズンをプレーした。18試合に出場 1試合平均5.0分の出場で、1.4得点 0.2リバウンド 0.0ブロックを記録した。 2021年6月に横浜ビー・コルセアーズに移籍した[6]。 バスケットボールプレイヤーとしての特徴[編集] 自己評価では自分の武器として「シュート力」と答えている[1]。 2019-20シーズンの契約をした京都ハンナリーズからの評価は以下である。「京都ハンナリーズの次世代シューターです。恵まれた身体能力と、非凡なシュート力で得点を量産してくれます」[5] 2021-22シーズンの契約をした横浜ビー・コルセアーズからの評価は以下である、「恵まれた身体能力から関西大学リーグで得点王に輝いた、3ポイントシュートにこだわりを持つスコアラーです。第46回「関西学生バスケットボール選手権大会」でキャプテンとして優勝に貢献し、最優秀選手(MVP)に選ばれました。チームへの献身的な姿勢と得意としているシュートで、横浜ビー・コルセアーズに新しい風を呼び込んでくれると信じています」[6] その他[編集] 2021-22 「 」

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1970年の台風 – Wikipedia

この記事での日付は特記のない限り協定世界時によるものです。 1970年の台風 軌跡の地図 最初の台風発生 2月20日 最後の台風消滅 11月28日 最も強かった台風 台風17号 – 900 hPa, 150 kt (1分間平均) 熱帯低気圧の総数 30 台風の総数 26 総死亡者数 3,909

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漆部伊波 – Wikipedia

  凡例 漆部伊波 時代 奈良時代 生誕 不明 死没 不明 官位 従五位下・尾張守 主君 聖武天皇→孝謙天皇→淳仁天皇→称徳天皇→光仁天皇 氏族 漆部直(相武国造裔)→相模宿禰 父母 父:漆部足人 子 良弁、仁麻呂 テンプレートを表示

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防災気象情報 – Wikipedia

この項目では色を扱っています。閲覧環境によっては、色が適切に表示されていない場合があります。 防災情報のアイコン 防災気象情報(ぼうさいきしょうじょうほう)とは、気象庁が発表している気象・地震・火山等に関する予報や情報の総称。災害から身を守るための情報と、生活に役立てる情報の2種類に大別される[1]。一方、過去の観測に基づいた情報は、解析雨量など一部を除いて「気象統計情報」に分類される。 警戒レベル[編集] 噴火警戒レベル[編集] 大雨・洪水・高潮警戒レベル[編集] 2019年5月29日より大雨警報、土砂災害警戒情報、指定河川洪水予報および高潮警報を対象とした5段階の警戒レベル(大雨・洪水・高潮警戒レベル)の運用が開始された。警戒レベル5は災害発生情報のため、警戒レベル4の段階で危険な場所からの避難を済ませる必要がある[2][3][4]。また、運用開始から1年となる2020年5月29日には警戒レベル別に5色の配色も定められた[5]。 警戒レベルの配色 警戒レベル5(黒/RGB=12.0.12,  ) 警戒レベル4(紫/RGB=170.0.170,  ) 警戒レベル3(赤/RGB=255.40.0,  ) 警戒レベル2(黄/RGB=242.231.0,  ) 警戒レベル1(白/RGB=255.255.255,  ) 警報類・防災情報との対応[編集] 避難情報に関するガイドライン(内閣府)に基づいた、警報等が発表された際にとるべき行動等を示した図[6]。

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モンゴルのホラズム・シャー朝征服 – Wikipedia

ホラズム・シャー朝の支配領域 この項目では、1219年から1222年にかけて行われたモンゴル帝国によるホラズム・シャー朝の征服について記述する。 この遠征によって中央アジアには多大な被害がもたらされたとされる[1]が、その規模については諸説ある[2]。 戦争の背景[編集] 両国の交流[編集] 13世紀初頭、中央ユーラシアの東方(モンゴル高原)ではテムジン(チンギス・カン)率いるモンゴル国、西方(中央アジア)ではアラーウッディーン率いるホラズム国という2大勢力が急速に勢力を拡大しつつあった[3]。更に、1211年から1215年にかけてモンゴル帝国は第一次対金戦争によって華北の大部分を制圧し[4]、ホラズムは1212年/13年までにマー・ワラー・アンナフル地方を制圧してアフガニスタンのゴール朝を併合し[5]、1217年/18年にはバグダード遠征を実施してアッバース朝のカリフに圧力を加えイラン方面にも勢力を拡大した[6]。 一連の戦役によって多民族を統べる大帝国を築きつつあった両国は既に互いの存在を意識しており、イルハン朝の歴史家ジュヴァイニーは、1200年に没したホラズム・シャー朝の君主アラーウッディーン・テキシュは西遼の後方に存在する「恐るべき民族」の存在をアラーウッディーンに警告し、聖職者のサイイド・モルタザは「恐るべき民族」の防壁となる西遼の衰退を嘆いたことを伝えている[7]。1215年、アラーウッディーンはサイイド・バハーウッディーン・ラーズィーが率いる使節団をチンギスの元に派遣した[8]。チンギスは使節団を厚遇し、ホラズム地方出身のマフムードらが率いる返礼の使節団を派遣するなど、表面上の友好関係を築いた[8]。 一方、同時期に両国の中間にあたるアルタイ山脈から天山山脈にかけては、かつてモンゴル帝国によって滅ぼされたメルキト部とナイマン部の残党が逃れ込み、ナイマン部のクチュルクはカラ・キタイ朝を乗っ取るに至っていた[9]。1216年に中国方面の攻略を将軍ムカリに委任しモンゴル高原に帰還したチンギス・カンは、翌1217年にはスブタイ(「四狗」の一人)率いる軍団をケム・ケムジュートのメルキト部残党の下に、ボロクル(「四駿」の一人)率いる軍団を叛乱を起こした「森林の民(ホイン・イルゲン)」の下に、そして1218年にジェベ(「四狗」の一人)率いる軍団を天山山脈のナイマン部=カラキタイの下へ、それぞれ派遣した[10]。このうち、ジェベとスブタイは順調に敵軍を討伐したが、ボロクルのみは敵軍の奇襲を受けて急死してしまったため、1218年にチンギス・カンの長男ジョチが後詰めとして出陣し、恐らくはスブタイらの軍団も指揮下に入れ、キルギス部を初めとする「森林の民(ホイン・イルゲン)」を平定した[11]。 また、ジェベが率いる遠征隊が西遼を滅ぼして東トルキスタンを支配下に収めると[12]、西遼を吸収したモンゴル帝国はホラズム・シャー朝と領土を接するようになった[13]。一方、スブタイらに敗れたメルキト部残党の中でクルトゥカン・メルゲンのみは更に西北方面に逃れてキプチャク草原東端に進出し、これを追ったジョチ率いるモンゴル軍は期せずしてホラズム朝の支配圏に侵入することになった[14]。一方、ホラズムのアラーウッディーンもまた早い段階から自国領に侵入したメルキト部の動きを察知しており、これを撃退すべくサマルカンドからブハラを経由してジャンドに至った。ジャンドに到着したアラーウッディーンはメルキト部を追撃するモンゴル軍もまた西進してきたことを知ると、モンゴル軍に打撃を与える絶好の機会と見てサマルカンドに戻って精鋭軍を招集し、自ら軍勢を率いて北上した。 オトラル事件[編集] このようにモンゴル・ホラズム両国の対立が深まっていた1218年に、アラーウッディーンはブハラにおいてモンゴル帝国から派遣された使節団と謁見し、「両国の友好を望み、自分の子のように見なしたい」というチンギスからの申し出を受け取った[15]。アラーウッディーンは使節の一人であるマフムードにモンゴル帝国の兵力について尋ねたとき、アラーウッディーンに怒気を帯びていることに気付いたマフムードはモンゴルの兵力はホラズム・シャー朝に比べて弱いものだと答え、平静を取り戻したアラーウッディーンは友好的な回答を与えて使節を送り返したと伝えられている[16]。同年、モンゴルが派遣した使節団と隊商がオトラルの町で総督イナルチュクに殺害され、財貨が略奪される事件が起きた。モンゴル帝国のホラズム・シャー朝遠征の原因を使節団の虐殺に対する報復とすることが従来定説とされているが、先述したようにメルキト部・ナイマン部残党の動向を巡って両国は1217年から既に軍を動かしており、「オトラル事件」はモンゴル側にとってホラズム侵攻の正当化の方弁に過ぎないと指摘されている[17]。 そもそも中央アジア遠征の補給基地たるチンカイ・バルガスンが1212年に建設されているように、ホラズム・シャー朝の攻撃は前もって計画されたものであり、使節団は遠征の前に派遣された偵察隊の役割を担っていたと推定する見解が現れている[18][19][20]。モンゴルの中央アジア遠征の動機として、王侯貴族への新たな牧地の授与、従属民への戦利品の分配による社会的矛盾の緩和が挙げられている[21]。また、オトラルの虐殺はモンゴル帝国とホラズム・シャー朝の友好による交易路の保護と拡張を期待していたムスリム商人に打撃を与え、彼らの交易ネットワークは破綻した[22]。 カラ・クムの戦い[編集] それぞれメルキト部残党を追ってシル河北方の草原地帯に至ったジョチ率いるモンゴル軍とアラーウッディーン率いるホラズム軍は、1219年初頭に「カンクリ族の住まう地」カラ・クムにて激突した[23]。両軍はともに遊牧国家伝統の右翼・中央・左翼からなる3軍体制を取って戦闘に臨んだが、両軍ともに決めてを欠いたまま日没を迎え、遂に明確な勝敗が決まらないまま両軍は撤兵した[24]。ジュヴァイニーの『世界征服者の歴史』は、戦後に戦闘の経過を聞いたチンギスが「ホラズム軍の勇敢さを品定めし、スルターン軍の程度と規模がはたしてどれほどのものなのか、かくてわれらにはどのような取り除けない壁も、抗しえない敵ももはやないとわかって、諸軍をととのえ、スルターンに向かって進軍した」と記しており、この一戦でホラズム軍の力量を見切った事でチンギス・カンはホラズム侵攻を最終的に決断することになった[25]。 一方、ホラズムの側では国王自ら精鋭軍を率いて臨んだにもかかわらず、一分遣隊に過ぎないモンゴル軍に押され、息子の救援がなければ自らの身すら危うかったスルターン=アラーウッディーンは自信喪失してしまった。モンゴルのホラズム侵攻において、アラーウッディーンは一度も自ら軍を率いて出征することなくオアシス都市に籠城しての防戦を徹底させたが、この戦略方針には「カラ・クムの戦い」における手痛い失敗が多大な影響を与えたと指摘されている[26]。なお、古くはロシア人史家V.V.バルトリドの学説に基づいて「カラ・クムの戦い」の戦いが起こったのは1216年のことで、モンゴルのホラズム侵攻とは直接関係ない戦いであったとする説が有力であったが、バルトリドの議論は史料の誤読に基づくものであって現在では成り立たないと指摘されている[27]。 モンゴル帝国で開催されたクリルタイでホラズム・シャー朝との開戦が正式に決定されると、軍隊の編成が協議された[28]。チンギスは末弟のテムゲ・オッチギンをモンゴル高原に残し、1218年末にホラズム・シャー朝への行軍を開始した[28]。1219年夏にチンギスはイルティシュ河畔で馬に休息を取らせ、同年秋に天山ウイグル王国、アルマリクのスクナーク・テギン、カルルク族のアルスラーン・カンの軍隊を加えて進軍した[28]。開戦前にモンゴル帝国は西夏にも援軍の派遣を求めていたが、西夏から援軍は送られなかった[29]。経済的な危機に直面するムスリム商人はモンゴル帝国の征西に積極的に協力し、ホラズム・シャー朝の国情や地理に関する詳細な情報を提供するだけでなく、遠征の計画の立案にも関与していたと考えられている[22]。 マー・ワラー・アンナフル地方での戦闘[編集] ホラズム・シャー朝征服に参加したモンゴル軍の兵士の数は150,000人、あるいは200,000人程度だと考えられている[30][31]。対するホラズム・シャー朝の兵数は400,000人を超えていたが、規律、君主に対する忠誠心、戦闘の経験などの素質は欠けていた[32]。ホラズム・シャー朝の軍事力の中核であるテュルク系のカンクリ族はアラーウッディーン・ムハンマドの実母であるテルケン・ハトゥンに忠誠を誓い、ホラズム国内はアラーウッディーンとテルケン・ハトゥンによって二分された状態にあった[33][34]。東洋学者ワシーリィ・バルトリド、ルネ・グルッセらはホラズム・シャー朝の軍隊には卓越した活躍を見せた人物が現れたが、組織と指揮の統一、軍隊の練度の高さがモンゴル軍を勝利に導いたと指摘している[35]。 モンゴル軍の侵攻にあたってアラーウッディーンは各都市に戦力を分散し、防衛に徹した[32][34][35][36]。アラーウッディーンが戦力を分散する戦略を採用した理由について、多数の将軍たちの主張を取り入れたとする説、占星術師の意見を採用したという説などがあり、ホラズム・シャー朝の遺臣ナサウィーはチンギスがアラーウッディーンとテルケン・ハトゥンの仲を裂くためにテルケン・ハトゥンの内通を疑わせる書簡をアラーウッディーンに受け取らせた逸話を記録している[37]。東洋史学者の杉山正明は、アラーウッディーンは一か所に集めたカンクリ族の反乱を危惧し、長期戦の末に撤退したモンゴルの騎兵隊を追撃する計画を立てていたと推測しているが、モンゴル軍の攻撃の前にアラーウッディーンの戦略は破綻する[34]。モンゴル軍は投石機などの攻城兵器を使用して包囲戦を進める一方、ムスリム商人を使者として降伏を促し、大都市の攻撃には捕虜とした兵士や市民を前線に立たせて敵軍の戦意を失わせた[38]。モンゴル軍がホラズム・シャー朝征服の際に使用した兵器は投石機のほか、弩、雲梯、破城槌、陶器の瓶にガソリンか火薬を入れた投擲武器(ナフタ)が挙げられている[39]。 1219年末にオトラルに到着したチンギスは次男のチャガタイと三男のオゴデイが率いる第一部隊にオトラルの包囲、長男のジョチが率いる第二部隊にシル川下流域のジャンドの攻略、アラク・ノヤン、スイケトゥ・チェルビ、タガイ・バアトルが率いる第三部隊にアングレン川とシル川の合流地であるバナーカトの攻略を命じ、自身は直属軍を率いて末子のトゥルイとともにブハラ・サマルカンド方面に向けて進軍した[40]。本来、東方からサマルカンド方面に向かう際にはバナーカトを経てシル河を渡るのが通常の行程であり、アラク・ノヤンら第3軍が陽動としてバナーカトに向かう隙にチンギス・カン自ら率いる本隊がホラズム・シャー朝の本拠地サマルカンドを急襲するというのがモンゴル軍の戦略であった[41]。逆にホラズム側としてはオトラル、バナーカトといった要衝の守りを固めモンゴル軍の消耗を待つことを目的としていたと見られるが、これらの要衝を別働隊に任せたチンギス・カン本隊のブハラ急襲を許した時点でホラズム側は戦略的に敗北していたと評されている[42]。5か月にわたる包囲の末にオトラルは陥落するが、イナルチュクは残存兵を率いて城塞に立て籠もり抵抗を続けたが、衆寡敵せずモンゴル軍によって捕らえられる[43]。

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笹本一雄 – Wikipedia

笹本 一雄(ささもと かずお、1898年(明治31年)6月20日[1] – 1964年(昭和39年)6月11日[1][2][3])は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 目次 1 経歴 2 脚注 2.1 注釈 2.2 出典 3 参考文献 群馬県[2][注 1]新田郡太田町[1](現太田市)で、警視庁職員・笹本一郎、うらの四男として生まれる[1]。群馬県立館林中学校[2][3](現群馬県立館林高等学校)を経て明治大学法科で学んだ[1]。 内閣調査事務嘱託、軍需省嘱託、商工省事務嘱託などを歴任[1][2][3]。その後、朝鮮総督府顧問に就任[1][2][3]。帰国して、商工省総務局嘱託、帝国信報社経済部記者となり、東洋電線取締役、東亜窯業取締役などを務めた[1][2][3]。また、中小企業経営者を対象として大政翼賛会により組織された新産業連盟の会長に就任した[1][3]。 戦後、大陸引揚者の雇用のため東洋海運倉庫を組織して社長に就任[1][3]。1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に立候補を計画したが、公職追放[4]により断念した[1]。

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埼玉パナソニックワイルドナイツ – Wikipedia

埼玉パナソニックワイルドナイツ(英: Saitama Panasonic Wild Knights)は、埼玉県をホストエリアとしてJAPAN RUGBY LEAGUE ONEに所属しているラグビーチームである。 旧称は、パナソニック ワイルドナイツ←三洋電機ワイルドナイツ(さんようでんき-)。 1967年に当時の社会人ラグビーのトップカテゴリーであった関東社会人リーグ1部に初昇格して以来、東日本社会人リーグ、トップリーグを通じて、現在に至るまで1度も下位リーグに降格したことがない。東日本を代表する社会人ラグビーチームの1つである。 2021年シーズンまでは、群馬県太田市に本拠地・練習場を置いていた。2021年8月30日に埼玉県熊谷市の熊谷スポーツ文化公園に本拠地を移転し、新クラブハウス・練習場は同さくらオーバルフォートに置かれ[1]、ホームスタジアムは同熊谷ラグビー場とする[2]。また、移転及びラグビー新リーグ発足に合わせ、2022年シーズンより、埼玉県をホストエリア、公式チーム名称を「埼玉パナソニックワイルドナイツ」・呼称を「埼玉ワイルドナイツ」とする[3]。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “埼玉パナソニックワイルドナイツ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ ·

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