Month: February 2019

杏さゆり – Wikipedia

この記事の出典は、Wikipedia:信頼できる情報源に合致していないおそれがあります。そのガイドラインに合致しているか確認し、必要であれば改善して下さい。(2018年2月) 杏 さゆり(あんず さゆり、1983年9月20日[2] – )は、日本のグラビアアイドル、タレント、歌手、女優。神奈川県出身[1]。 2000年に、第5回ミスヤングマガジンにて準グランプリ受賞[3][4]。カメラマンを通じてヤングジャンプ編集部に紹介され、以降は「くびれの女王」と呼ばれた[5]。デビューから2005年まではインターアクトに所属。 2006年からは、所属事務所を田辺エージェンシーへ移し、グラビアでの活動再開[6]。 2011年に、コモンズ2、メディアリンクスを経て、2016年よりSTARKプロモーションへ移籍。以降は舞台を中心に活動するが、2021年には7年ぶりにグラビア撮影に挑戦している[7]。 人物・エピソード[編集] テレビ[編集] ドラマ[編集] バラエティー[編集] 教養[編集] その他[編集] アニメ[編集] アズサ、お手伝いします!(2004年、アニマックス) スーパーアズサ 役 インターネット放送[編集]

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大田俊寛 – Wikipedia

この項目「大田俊寛」は加筆依頼に出されており、内容をより充実させるために次の点に関する加筆が求められています。加筆の要点 – 経歴・思想など(貼付後はWikipedia:加筆依頼のページに依頼内容を記述してください。記述が無いとタグは除去されます)(2015年12月) 大田 俊寛(おおた としひろ、1974年 – )は、日本の宗教学者。現在は埼玉大学非常勤講師[1]。専門は宗教学。博士(文学)。日本の宗教学は、真っ当な「学」と呼ばれ得るに足る理論や体系が根本的に欠如していた、とオウム事件に関連して、中沢新一や島田裕巳を名指しで批判している[2]。 一橋大学社会学部を卒業後、東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究専攻宗教学宗教史学専門分野博士課程を修了。鶴岡賀雄に師事。 宗教分野の中でも、グノーシス主義やオウム真理教を主な批判対象としているが、ひかりの輪の代表・上祐代表などと対面し、オウムとは何だったのかという問いに真摯に向き合っている、という印象を持っている[3]。2007年に論文「グノーシス模倣の神話学」により、東京大学博士(文学)の学位を取得[4]。 著書において、大田は、ロマン主義的な精神論や人格変容論は、20世紀後半、アメリカを中心とするニューエイジの思潮によって継承され、大衆的な人気を博した、とする。そしてその際には、ブラヴァツキー夫人の神智学において提唱された修行論や輪廻転生論もまた、積極的に導入・混淆されていった[5]、と続ける。 さらには、すなわち人は、ヨーガや瞑想の修行を実践することにより、輪廻転生の法則を知ると同時に、永遠の真我を覚醒させることができるのである、とする。「ヒッピー」と呼ばれる多くの欧米人が、インドに渡て修行生活を送る一方、ヨーガの「導師(グル)」たちはアメリカに渡り、数々の新宗教を興した、と述べ、その代表例はマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーやOsho(バグワン・シュリ・ラジニーシ)である[6]、と決めつけている。 『グノーシス主義の思想 : 〈父〉というフィクション』(春秋社、2009年) 『オウム真理教の精神史 : ロマン主義・全体主義・原理主義』(春秋社、2011年) 『現代オカルトの根源 : 霊性進化論の光と闇』(筑摩書房(ちくま新書))、2013年) 『宗教学 : ブックガイドシリーズ 基本の30冊』(人文書院、2015年)

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タクシー (ピンボール) – Wikipedia

『タクシー』(TAXI)は、米ウィリアムス社が1988年に発売したピンボールマシン。 [1] 同社のピンボールとしてははじめて16字分のディスプレイを搭載した。ディスプレイは上下2列あり、過去4人のハイスコアを確認できる。 乗客を自分のタクシーに乗せて運んでいくゲーム。乗客はドラキュラ、サンタ、ゴルビー、ローラ(またはマリリン)、ピンボット[注釈 1]の5人。どの乗客が現在乗車しているかはプレイフィールド上のランプから確認できる。 乗客5人をすべて乗せられるとジャックポットに突入する。一定時間が過ぎるとジャックポットは終了し、その後は乗客を降ろしていく。5人全員を降ろし終えると再度ジャックポットとなる。 ボールがアウトホールに落ちるとそれまでに乗せていた乗客はリセットされる。しかしキャーリーパッセンジャーターゲットを事前に倒していれば乗客を引き継ぐことが可能。 マリリン[編集] 初期バージョンの乗客には金髪で赤いドレスの「マリリン」がいた。しかしマリリンモンローの肖像権でトラブルになることをウィリアムス社は恐れ、後のバージョンでは「ローラ」という別の乗客に置き換えられた。ローラは顔やドレスはマリリンと変わりないが、髪が茶色または赤色である[注釈 2]。 「マリリン」が「ローラ」に置き換えられるまでに少なくとも200台のタクシーが出荷されたといわれている。 同ゲームのデザイナーであるマーク・リッチーは『The Pinball Compendium(ピンボール大要)』内にて、「ローラ」はキンクスの曲から取ったと述べている。キンクスの「ローラ」は女装した男性である。バックグラスに描かれたローラは腕に筋肉がついており、それが命名元と一致するともマークは述べている。 [2] キャッチコピー[編集] “Get ready for the

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空飛ぶスパゲッティ・モンスター教 – Wikipedia

ワシントンの夏至祭で空飛ぶスパゲッティ・モンスター像と共にパレードする人々 空飛ぶスパゲッティ・モンスター教(そらとぶスパゲッティ・モンスターきょう、英語: Pastafarianism, Flying Spaghetti Monsterism, FSMism)は、ボビー・ヘンダーソンが、「インテリジェント・デザイン説(ID説)」を公教育に持ち込むことを皮肉し批判するために創始したパロディ宗教(英語版)(「インテリジェント・デザイン説(ID説)」についての詳細は当該項目を参照)。 信者はパスタファリアン(Pastafarian)と呼ばれる。 日本語の略称は「スパモン教(信者は「スパモン教徒」)」 2022年現在、日本を含む幾つかの国や地域に支部や信仰コミュニティ[3]を持つ[4]。 オーストリアにおいて宗教団体としての登録を申請したことがあるが、キリスト教ではないとして同国宗教当局より却下されている[5]。その後、オランダでも宗教団体としての登録を申請し、こちらは2016年1月26日に認可された[6][7]。 成立までの経緯[編集] 2005年にカンザス州教育委員会では、公教育において進化論と同様にインテリジェント・デザイン説(ID説)の立場も教えなければいけないという決議が評決されることになっていた。前年の教育委員の改選で委員6人中4人を保守派が占めており、可決は確実と見られていた。これに抗議するために、2005年6月、アメリカ合衆国のオレゴン州立大学物理学科卒業生のボビー・ヘンダーソンは公開質問状を提出した。ヘンダーソンは自分のサイト “venganza.org[8]” (スペイン語で復讐の意)において創造主である空飛ぶスパゲッティ・モンスターの概略を示して、明らかな証拠や、それに基づいて進化を説明できる十分な論理性・整合性があると論じ、創造論の一部として「空飛ぶスパゲッティ・モンスター」を進化論やID説と同様に公立高校で教えることを公開質問状において提案した。 「 私は国中の、そしていつかは世界中の科学の時間にこの3つの理論がどれも等しく教えられるのを楽しみにできると思います。3分の1はインテリジェントデザインのため、3分の1はスパゲッティモンスター教のため、3分の1は圧倒的な量の観察可能な証拠に基づく論理的推論のため。[9] 」 そしてもしこれが受け入れられないようなら法的手段をとると教育委員会に警告した。 その後、空飛ぶスパゲッティ・モンスターはインターネット上のミーム(流行)となり、ブログ(特に人気ブログ

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砥用町 – Wikipedia

砥用町(ともちまち)は、熊本県の中部に位置していた町。 2004年11月1日、下益城郡中央町と合併し美里町となったため自治体としては消滅した(砥用町のあった地区は「美里町砥用」となっている)。 承安三年(1173年 平氏全盛期)から、阿蘇氏の所領となり、以降、長らく支配下におかれていた。阿蘇氏は阿蘇が発祥だが、南阿蘇から砥用の隣、矢部・浜町に拠点(「浜の館」)を移し、勢力を拡大していった。全盛期は熊本中部を治め影響力を持っていたとされる。 沿革[編集] 1876年 – 以下の村が成立。 洞岳村 – 山出村・藤木村・下福良村・夏水村・天ヶ瀬村・戸屋村が合併 大井早村 – 大辻村・勢井村・越早村が合併 畝野村 – 金木村・内園村・迫村・水上村が合併 遠野村 – 岩上村・興正寺村・権正村・北野村が合併 川越村

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メフォ手形 – Wikipedia

シャハト(中央)とヒトラー。1936年 メフォ手形(メフォてがた、ドイツ語: Mefo-Wechsel)とは、大ドイツ国において、軍事費調達のために創出された割引手形。決済のみに用いられる純然たる商業手形ではなく、融通手形や疑似商業手形とも形容されている。1933年から1937年までの軍事費総計324億ライヒスマルクの内、メフォ手形によって捻出されたのは3分の2に近い204億ライヒスマルクであるなど、ナチス・ドイツにおける秘密軍備計画において重要な役割を果たした。 ライヒスバンクの建物(1903年) 世界恐慌後の失業者増加に対し、ライヒ(ヴァイマル共和国)政府には抜本的な対策を要求する声が殺到していた。しかし財源不足な上に、資本市場が停滞している状況では公債発行もままならなかった。1932年初頭より、政府内部では労働者雇用政策の財源を手形によって調達することが検討されはじめ、9月に発表されたパーペン計画、1933年1月に決定した緊急計画において採用された。具体的には政府・公共団体が発注した事業を受注した企業が、公共金融機関を引き受け手とする手形を振り出し、ライヒスバンクが再割引を保証し、銀行または銀行団が割引き、期間内にライヒスバンクがこれを決済するというものであった。パーペン計画では手形償還額を予算に計上すること、緊急計画ではライヒスバンクに租税証券が納入されることが保証となった。ヒトラー内閣成立後の雇用計画でも踏襲され、1933年3月の緊急計画の拡大、6月1日の第一次ラインハルト計画、9月21日の第二次ラインハルト計画でも手形による資金調達が行われた。 帝国宰相アドルフ・ヒトラーはかねてから再軍備を唱えていたが、1933年2月9日の政府委員会において緊急計画は再軍備を実行するために最適のものであり、軍備を政治的に偽装する手段であると言明した。このため雇用創出計画が再軍備に流用されたという説も唱えられている。1937年までの財政関係文書の多くは1945年の敗戦に伴う混乱の中で焼却されたか散逸してしまったため、このあたりの経緯は必ずしも明確ではなく、追跡も困難である。 軍備費手形の導入決定[編集] 1933年に首相に就任した際、ヒトラーはライヒスバンク総裁で元首相のハンス・ルターに対し、軍事費のためにどれだけ調達できるかを問いただした。ルターは1億ライヒスマルクが限度であると答えたが、これはヒトラーを大いに失望させた。3月中旬、ヒトラーは元ライヒスバンク総裁ヒャルマル・シャハトに同じ質問をしたところ、シャハトは具体的な金額をあげなかったものの、軍拡に協力すると述べた。これによりルターは解任され、シャハトがライヒスバンク総裁の座につくこととなった。 当時、ライヒスバンクは過去のハイパーインフレの経験から、信用供与の限度額が1億ライヒスマルク、国庫手形割引は4億ライヒスマルクに制限されていた。このため軍拡の資金調達には特別な方策が必要であった。4月4日、政府はルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク財務相に対し、「国防軍の再編成に必要な資金を、その源泉を顧慮することなく、意図される措置が国の内外の世論によっていかなる点も見破られることがない規模と形態において準備し、提供する」指示を発出した。この指示で意図されていたのは予算外による調達、つまり手形によるものであった。また、この閣議決定によって、国防省(ドイツ語版)の支出は財務省の監督から離れることになり、ほとんど意図通りの軍拡が行われることになった。 軍備費手形の導入が決定されたのは、1933年5月から6月の間であったと見られている。シャハトは軍備費として、8年間に350億ライヒスマルクの資金調達を、以下の条件の下で行うことを約束している[10]。 総額が350億ライヒスマルクを超えないこと 短期金融市場及び資本市場の統制 遅くとも5年以内に軍備手形の償還を開始すること 価格及び賃金の現行水準を堅持すること 総額350億ライヒスマルクについては、軍備費手形の総額であったという意見もあるが、クロージクは手形発行額の総額は決定されていなかったと証言しており、国防軍経済・軍備局のトレーヴスも、350億ライヒスマルクは軍の総支出であるという見解を示している。 シャハトはこれらの措置が景気回復の切り札となると考えており、さらにライヒスバンクが国防省や財務省に対して優位に立てるというもくろみもあった。また、ヒトラーの要求する過度な軍拡が通貨を危機に陥れ、戦争にもつながる危険があると述べている。シャハトはこれを踏まえ、通貨危機を招かない、そして戦争を起こさない程度の軍拡を前提としてメフォ手形を考案したとしている。シャハトによればメフォ手形は「危険」ではあったが、理性的な財政管理と結びついていれば制御は可能であり、5年以内に償還を行えば成功裏に終わったとしている。 メフォ手形の導入[編集] 6月上旬、シャハトを中心とする少数の指導者によって、メフォ手形の創出が決定された。1933年8月15日、クルップ、ティッセン(ドイツ語版)、シーメンス、グーテホフヌングスヒュッテ(ドイツ語版)、ドイツ工業企業(ドイツ語版)が20万ライヒスマルクずつ拠出を行い、有限会社冶金研究協会(ドイツ語版)(ドイツ語: Metallurgische Forschungsgesellschaft

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ピアノ協奏曲第24番 (モーツァルト) – Wikipedia

ピアノ協奏曲第24番 ハ短調 K. 491 は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが1786年に作曲したピアノ協奏曲。モーツァルトのピアノ協奏曲の中で、短調の作品は本作と『第20番 ニ短調』(K. 466)だけである。 ピアノ協奏曲第24番の初演が行われたウィーンのブルグ劇場 モーツァルト自身が記した作品目録によれば、本作は1786年3月24日にウィーンで作曲され、初演は同年4月7日、ウィーンのブルグ劇場で開かれたモーツァルト自身の予約音楽会で行われた。翌月の5月1日にはオペラ『フィガロの結婚』(K. 492)が初演されている。 暗く情熱的な作品であり、ニ短調のピアノ協奏曲とは違い、唯一短調で始まり短調で終わる構成となっている。アルフレート・アインシュタインによれば、ベートーヴェンはモーツァルトの曲に感嘆し、自分の曲の中で「2、3の貢物を捧げている」と述べている[1]。 モーツァルトの弟子であるヨハン・ネポムク・フンメルは本作のカデンツァを作曲しただけでなく、ピアノ・フルート・ヴァイオリン・チェロ用の編曲を残しており、白神典子らが録音している。 楽器編成[編集] 独奏ピアノ、フルート、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン2、トランペット2、ティンパニ、弦五部。 モーツァルトのピアノ協奏曲の中では最大の編成である。オーボエとクラリネットの両方を採用しており、木管楽器が活躍する場面の多い曲になっている。 曲の構成[編集] 全3楽章、演奏時間は約30分。第1楽章のカデンツァや第2、第3楽章のアインガングは、モーツァルト自身のものは残されていない。そのほかにもピアノのパートを完成させていない部分がいくつかある。これらは、モーツァルト自身が演奏会で即興演奏した部分と思われる。現在では、特に表記されていない場合はもっぱらフンメルが作曲したカデンツァで演奏されることが多い。 第1楽章 アレグロ ハ短調、4分の3拍子、ソナタ形式。

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都市州 – Wikipedia

都市州(とししゅう)は、州制度をとる国において、一つの都市ないし都市圏によって構成される州。 主な都市州[編集] シンガポールは独立以前にはマレーシア連邦に属する都市州であった。 スイスの都市州[編集] スイスにおける都市州とは、次の州(カントン)または準州を指す。 イングランドの都市州[編集] イングランドの6つの都市州 イングランドにおける都市州またはメトロポリタン・カウンティ (Metropolitan county) は、イングランドの州(カウンティ)のタイプの一つである。都市カウンティや大都市圏[1]とも訳される。 イングランドには6つの都市州があり、それぞれ120万人〜280万人の人口をもつ大都市圏をカバーしている。各都市州は1974年に創設され、それぞれ、いくつかの区(メトロポリタン・バラ、英: Metropolitan borough)に分けられた。人口密度は、およそサウス・ヨークシャーの800人/km2からウェスト・ミッドランズの2,800人/kmである。個々のディスクトリの人口密度では、ドンカスターの500人/km2からリヴァプールの4,000人/km2となった[2]。今日のイギリスと比較すると、都市州の居住者は、イギリスの約18%にあたり、イングランドの人口で見ると約22%を占めた。 1986年に都市州型の州議会(カウンティ・カウンシル、英: County council)は廃止され、その機能のほとんどはそれぞれの自治体に移管した。これらは事実上、単一自治体 (Unitary Authority)へ転換した。部分的な機能は、統合委員会に移管された。 振り分け[編集]

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顔真卿 – Wikipedia

『晩笑堂竹荘畫傳』より 顔 真卿(がん しんけい、景龍3年〈709年〉 – 貞元元年8月3日〈785年8月23日〉)は、唐代の政治家・書家。字は清臣。本貫は琅邪郡臨沂県。中国史でも屈指の忠臣とされ、また唐代随一の学者・芸術家としても知られる。 顔氏は、琅邪郡臨沂県を本貫とする名家であり、六朝時代以来、多くの学者を輩出した。顔真卿の五世の祖には『顔氏家訓』の著者である顔之推、その孫には『漢書』注の著者である顔師古がいる。 顔氏一族は、経書の一つである『周礼』と『春秋左氏伝』を家学とし、また『漢書』の学でも知られ、特に訓詁の方法を用いて古典の研究を行ってきた。そこで世に学家と称された。。また、之推の祖父の顔見遠、兄の顔之儀ら、節義をもって知られる人物が多いことでも知られる。 加えて、顔氏一族は書芸術に秀でた人物が多いことでも知られ、見遠の祖父の顔騰之、師古の弟の顔勤礼、その子の顔昭甫らがいた。顔之推は、書が顔氏一族の家業の一つであることは強調しながらも、書だけを得意とする人間になるのではなく、学芸と徳義を持ち合わせた人間になることを求めていた。 吉川忠夫は、顔真卿は以上に述べた顔氏一族の特徴をよく持ち合わせた人物であると指摘している。 顔真卿は、唐の中宗の景龍3年(709年)、顔昭甫の子である惟貞の第六男として生まれた。母親は殷践猷の妹で、幼名は「羨門子」、字は「清臣」である。幼いころに父親を亡くし、特に母と伯母の真定(昭甫の娘)の手で養育された。 開元22年(734年)、26歳にして進士に及第した。その二年後、科挙及第者を対象に吏部が主催する任用試験に合格し、秘書省の校書郎に任命された。ここでは典籍の校訂を職務とした。さらに、天宝元年(742年)、34歳のときに文詞秀逸科の試験に合格する。これにより、京兆府醴泉県(陝西省礼泉県)の県尉となった。その後、長安県の県尉に移り、当時の官界の出世コースを歩んでいた。 やがて真卿は監察御史に昇進し、再三にわたって地方の査察を命じられる。この際、岑参から詩を送られた。たびたび不正の弾劾を行い、殿中侍御史に昇進するが、これによって吉温と対立し、彼と繋がりのあった権臣の楊国忠に疎んじられ、東都畿採訪使の次官に転出させられる。しかし、再び殿中侍御史に任命されると、天宝9載(750年)には玄宗御製の書を下賜される栄誉を受けた。 結局、楊国忠との確執は解決しておらず、天宝12載(753年)、45歳の時に平原郡太守に転出させられた。この時にも、岑参は真卿に長編の詩を送っている。 安史の乱[編集] 顔真卿が平原太守に移ったのは、安禄山がまさに反乱の意志を固めつつある頃であった。真卿は、安禄山の不穏な動きを見て、城壁の修理や濠の整備、食糧の準備などをひそかに行っていた。 天宝14載(755年)、安史の乱が勃発し、安禄山は洛陽を目指して挙兵した。その頃、常山郡太守を務めていたのは族兄の顔杲卿(真卿の伯父の元孫の第二子)であり、真卿は彼とともに安禄山に反抗する決意を固め、義兵を挙げた。河北や山東の各地が安禄山の勢力下に帰属する中にあって、真卿・杲卿が味方として軍を挙げたことに玄宗は驚喜したという。 天宝15載(756年)、常山郡は落城し、顔杲卿は安禄山によって惨殺された。一方顔真卿は、清河郡(河北省清河県)の李㟧と結び、魏郡を占領していた安禄山の軍を撤退させることに成功した。しかし、河北の戦局はしだいに不利に傾き、史思明の攻撃によって平原・清河・博平(山東省聊城市)以外の郡は陥落した。顔真卿はこのまま座視しても敗北するだけであると考え、平原城を捨て、当時霊武に避難中であった粛宗のもとへと向かった。 至徳2載(757年)、顔真卿はようやく粛宗のもとにたどり着き(粛宗は更に鳳翔へと移動していた)、謁見が叶った。真卿は憲部尚書(刑部尚書)・御史大夫として職務に当たった。この頃、安禄山が息子の安慶緒に殺され、同年に粛宗は長安に帰り、顔真卿もこれに従って長安に戻った。 しかし、直言を憚らない顔真卿は再び煙たがられ、蒲州刺史・饒州刺史・昇州刺史など地方を転々と異動することとなった。「祭姪文稿」「争座位帖」などはこのころ作られた作品である。その後、一時期中央に復帰したが、永泰2年(766年)に硤州の別籠の職になるなど、再び地方を転々とした。

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