Month: July 2019

モルダヴィア・ソビエト社会主義共和国の国旗 – Wikipedia

モルダヴィア・ソビエト社会主義共和国の国旗 用途及び属性 ? 縦横比 1:2 制定日 1952年1月31日 使用色 赤色、緑色、金色 根拠法令 モルダヴィア・ソビエト社会主義共和国の国旗に関する規則 モルダヴィア・ソビエト社会主義共和国の国旗は1941年に最初に制定され、その後のデザイン変更による1952年制定のものがソビエト連邦の崩壊間際まで使用された。 1925年4月23日からのモルダヴィア自治社会主義ソビエト共和国憲法の第48条においては、 自治モルダヴィア社会主義ソビエト共和国は、モルダヴィア中央執行委員会によって制定され、全ウクライナ中央執行委員会によって承認された独自の国章と国旗を持つ。 と定められていた[1]。この時点では具体的な国旗は策定されていなかったが、同年9月4日に中央執行委幹部会は特別委に国旗の策定を命じた[1]。同月21日に中央執行委小幹部会は、赤旗の上に次の意匠を配したものをモルダヴィア自治共和国の国旗と決議した[1]。 a) 鎌と槌は、連邦の国章に採用されているものと同様の外観とする。 b) «Р.А.С.С.М.» の文字は、左隅上部に、端を下にした円弧状に表示する。

Continue reading

潯州 – Wikipedia

潯州(じんしゅう)は、中国にかつて存在した州。唐代から元初にかけて、現在の広西チワン族自治区桂平市一帯に設置された。 692年(長寿元年)、武周により龔州桂平県に潯州が置かれた。742年(天宝元年)、唐により潯州は潯江郡と改称された。758年(乾元元年)、潯江郡は潯州の称にもどされた。潯州は嶺南道の桂管十五州に属し、桂平・皇化の2県を管轄した[1]。 宋のとき、潯州は広南西路に属し、桂平県を管轄した[2]。 1276年(至元13年)、元により潯州に安撫司が置かれた。1279年(至元16年)、潯州安撫司は潯州路総管府と改められた。潯州路は湖広等処行中書省に属し、桂平・平南の2県を管轄した[3]。 1368年(洪武元年)、明により潯州路は潯州府と改められた。潯州府は広西省に属し、桂平・平南・貴の3県を管轄した[4]。 清のとき、潯州府は広西省に属し、桂平・平南・貴・武宣の4県を管轄した[5]。 1913年、中華民国により潯州府は廃止された。 ^ 『旧唐書』地理志四 ^ 『宋史』地理志六 ^ 『元史』地理志六 ^ 『明史』地理志六 ^ 『清史稿』地理志二十 表 話 編

Continue reading

デジタル信号処理 – Wikipedia

デジタル信号処理(デジタルしんごうしょり、Digital Signal Processing、DSP)とは、デジタル信号を対象とした信号処理である。 デジタル信号処理の大まかな流れは アナログ信号をデジタル信号に変換し デジタル領域で処理・加工を行い その後アナログ信号に変換する というものである[1]。光・音声・画像などを信号とみなし、アナログな信号を(コンピュータで扱える)デジタル信号へと変換し、デジタル信号を対象とする様々な処理(ノイズ除去・周波数変調など)をおこない、最終的に処理されたアナログ信号へと再変換する。もちろん当初からデジタルな信号を扱うこともある。 信号全般を扱う学問・技術であるため、研究・応用領域は音響信号処理、デジタル画像処理、音声処理など多岐にわたる。 デジタイズ[編集] コンピュータが広く利用されるようになると共に、デジタル信号処理の必要性も増してきた。アナログ信号をコンピュータ上で利用するには、A/D変換によりデジタイズする必要がある。変調方式として見た場合はパルス符号変調と言う。理論的には、デジタイズは、標本化(離散化(en:Discretization))と量子化という二つの工程に分けられる。標本化工程では連続信号を離散信号に変換する。量子化工程ではその信号の値を有限集合から選択された近似値に置き換える。 アナログ信号を正しくデジタイズするには標本化定理に従わなければならない。つまり標本化周波数は信号のバンド幅の2倍以上でなければならない。また、十分な量子化ビット数も必要である。 なお、「標本化」は英語「サンプリング」の訳だが、英語のサンプリングは、広義には量子化までを含むことがある。一方標本化と言った場合、まず量子化のほうを含むことはなく、離散化とほぼ同じ意味である。 D/A変換はデジタル信号をアナログ信号に戻すのに使用される。デジタルコンピュータはデジタル制御にとって必須の構成要素である。 デジタル信号処理の過程で、信号はしばしば領域間の変換をうける。例えば時間領域にある音声(時間変換する音量)はフーリエ変換によって周波数領域のスペクトラム(高い音[高い周波数]が多く含まれ、低い音[低い周波数]は少ない)へと変化される。 デジタル信号処理のみをより効率よく実行するために、デジタル信号処理へ特化したプロセッサ(デジタルシグナルプロセッサ、DSP)が用いられることがある。DSPは処理可能な信号のサンプリングレートを稼ぐことが可能などの利点がある。DSPは典型的な汎用プロセッサに見られる多種多様な機能の内の幾つかを除外し、新たに高速乗算器、積和演算器を搭載している。従って、同程度のトランジスタ個数の汎用プロセッサと比較した場合、条件分岐等の処理では効率が悪化するが、信号を構成するサンプルデータは高効率で処理する事が可能になる。 信号全般を扱う学問・技術であるため、研究・応用領域は音響信号処理、デジタル画像処理、音声処理など多岐にわたる。 関連分野[編集] 外部リンク[編集]

Continue reading

企業法務 – Wikipedia

企業法務(きぎょうほうむ)とは、企業に関する法律事務をいう。 企業の法務部門や弁護士が担当する、事業(ビジネス)活動に伴い発生する法律問題の予防・対応・指導等の諸活動の総称である。 法律分野のうち主に企業法務において取り扱われるものをビジネスローという。 法務部門の概要[編集] 企業の法務部門は、文字通り、企業において企業法務を分掌する組織である[1]。その名称は、「法務部」のほか、古くは「文書部」[2]などという場合もある。 法務部門の目的[編集] 法務部門の機能は、主に以下の3つに分類される[1]。 ビジネスが成功するよう法的観点から貢献すること。 企業を法的リスクや信用毀損(レピュテーション)・リスクから守ること。 2.のリスクが顕在化した場合の影響を最小化するため備えること。 すなわち、法務部門の使命は、経営層のパートナーとして、ビジネスが適法・適切に遂行できるように支援し、結果として安定的かつ持続的な事業活動を可能にすることにある[3]。 企業法務の分類[編集] 活動場面による分類[編集] 企業法務は、活動場面により概ね以下のように分類される[4]。 個々の法的トラブルへの個別具体的な対応をいう。具体的には、取引先の倒産対応、クレーム対応、不祥事対応等が含まれる。 紛争や法的トラブルを事前に防止するための法的施策を講じることをいう。事後的対応である臨床法務だけでは損害を十分にリカバリーできないとの反省から普及した考え方である。契約書のチェック・修正(契約審査)、リスク・マネジメント体制の整備、コンプライアンスの徹底などが含まれる。 法律事務の側面から企業経営の重要な意思決定に参加することをいう。具体的には、M&Aや新製品の開発などにあたり、法的リスクの分析や効果的な知的財産権の活用法を提案することなどを通して、積極的に企業価値の向上に貢献する作用である。戦略法務の実施により、法務部門はコストセンターから一種の営業部門に変化すると指摘される。しかし、戦略法務に対応可能な法務部門はまだ少ないとされている。 機能による分類[編集] 事業価値の創造により重点を置いた考え方によれば、以下のような分類方法もある[5]。 「経営や他部門に法的支援を提供することによって、会社の事業や業務執行を適正、円滑、戦略的かつ効率的に実施できるようにする機能」をいう。クリエーション機能とナビゲーション機能に細分化される。

Continue reading

ヘンリー・ハーバート (初代カーナーヴォン伯爵) – Wikipedia

初代カーナーヴォン伯爵ヘンリー・ハーバート(英語: Henry Herbert, 1st Earl of Carnarvon 1741年8月20日 – 1811年6月3日)は、イギリスの政治家、貴族。庶民院議員(在任:1768年 – 1772年、1772年 – 1780年)、主馬頭(英語版)(在任:1806年 – 1807年)を歴任した[1]。 出自[編集] ウィリアム・ハーバート閣下(英語版)(第8代ペンブルック伯爵トマス・ハーバートの五男)と妻キャサリン・エリザベス(Catherine Elizabeth、旧姓テューズ(Tewes))の長男として[2]、1741年8月20日に生まれ、24日にイズリントンで洗礼を受けた[3]。1753年から1759年までイートン・カレッジで教育を受けた後[1]、1760年5月9日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学した[4]。1762年、グラスゴー大学に入学した。1769年、ケンブリッジ大学モードリン・カレッジよりLL.D.の学位を授与された[4]。1769年4月25日に叔父にあたるロバート・ソーヤー・ハーバート閣下(英語版)が死去すると、ハイクレア・カースルを継承した[5]。 庶民院議員[編集]

Continue reading

LGVペルピニャン-フィゲラス線 – Wikipedia

LGVペルピニャン-フィゲラス線 ペルピニャン – ヴィルフランシュ在来線(フランス語版) ペルピニャン方面 0,000 ル・ソレ(フランス語版)からのTGV接続開始点 貨物基地 1,994 ソレ変電所(25kV-50Hzを供給) LGVモンペリエ – ペルピニャン線(フランス語版) モンペリエ方面 ペルピニャン – ヴィルフランシュ在来線 ヴィルフランシュ方面 直流1.5 kV

Continue reading

久具都比賣神社 – Wikipedia

久具都比賣神社(くぐつひめじんじゃ)は、伊勢神宮皇大神宮(内宮)の摂社。倭姫命が定めた神社である[1][2]。 宮川沿いに鎮座し[2]、社地の一部が浸水することがある[3]。 三重県度会郡度会町上久具字久具都裏に鎮座する[3]。度会町にある唯一の神宮摂社である[4]。度会町内にある伊勢神宮に関係する施設としては、久具都比賣神社のほかに、神宮御萱場が川口にある[4]。内宮の摂社27社のうち、第21位である[5]。 社殿は神明造の板葺で、一重の玉垣に囲まれている[6]。社殿の規模は幅6尺(≒1.82m)、奥行き4尺(≒1.21m)、高さ7尺8寸(≒2.36m)である[6]。社地の面積は3,004m2[6]。 社地の北側は宮川に接する[2]。川が増水すると社殿近くまで浸水することがある[3]。 社名の「久具」は地名であると考えられているが、地名「久具」の由来は不明である[3]。『延喜式神名帳』は「久々都比賣神社」、『皇大神宮儀式帳』では「久具神社」、『倭姫命世記』は「久求社」と表記する[3]。 地域住民からは「クグツヒメさん」と呼ばれている[3]。 祭神は、久具都比女命(くぐつひめのみこと)、久具都比古命(くぐつひこのみこと)、御前神(みまえのかみ)[1][2]。大水上命(おおみなかみのみこと)の子で、鎮座地の久具を灌漑する水の神かつ五穀の神とされる[1][2]。大水上命は、倭姫命が伊勢を巡幸する以前から、地域で水の神・稲作の神として信仰されてきた[7]。 『摂末社古今次第』など各種古書では久具都比女命と久具都比古命の名前は確認できるが、もう1柱の神の名は明らかでない[8]。この2柱の神は、倭姫命が久具の地を訪れたときに出迎えたという[7]。『大神宮儀式解』では3柱目の神は、久具都比女命と久具都比古命の前社の神(=御前神)と考証し、『神三郡神社参詣記』は「山神」としている[8]。 伝承によると一之瀬川を下ってきた倭姫命は久具都比古命に出迎えられ、久具都比女命がその地を「久求小野」であると述べたことから、倭姫命は「久求社」を定めたという[7]。確実なところでは、伊勢神宮の摂社の定義より『延喜式神名帳』成立、すなわち延長5年(927年)以前に創建された[9]。『皇大神宮儀式帳』にも記載がある[3]ことから延暦23年(804年)以前から存在した[9]ことになる。『皇大神宮儀式帳』では、神社が破壊されたときに正税で建て替えると規定し、『大神宮式』は宮司が修理すると規定していた[3]。また『皇大神宮儀式帳』によれば「正殿三宇」、すなわち3つの社殿が建ち並んでいたという[8]。 中世には社殿が荒廃し、社地すら不明となってしまった[3]。寛文3年9月8日(グレゴリオ暦:1663年10月8日)、摂末社再興に尽力した大宮司・河邊精長(大中臣精長)が社地を整備し、同年12月12日(グレゴリオ暦:1664年1月10日)に遷御が執り行われた[3]。この時、古代には3つあった社殿が1つになった[7]。更に元禄5年10月7日(グレゴリオ暦:1692年11月14日)に社殿の造り替えが行われ、元禄7年2月18日(グレゴリオ暦:1694年3月13日)に遷御が行われた[3]。『式内社調査報告』では再興された社地について、旧社地であることに疑いない、としている[3]。 社殿は1917年(大正6年)9月[10]と1955年(昭和30年)11月に建て替えられ、1979年(昭和54年)5月に大修繕が施された[6]。 2月に祈年祭、6月と12月に月次祭、10月に神嘗祭、11月に新嘗祭が社殿の前で執行され、歳旦祭(1月)などは皇大神宮五丈殿で遥祀にて催行する[11]。 地域の風習として「御祭まいり」(ごさいまいり)がある[12]。これは、旧暦6月17日と9月17日(新暦移行前の神嘗祭執行日)に多くの住民が参拝するものである[12]。 1980年(昭和55年)に行われた調査によると、大木はスギ・ヒノキ・クスノキで、小木は常緑広葉樹・落葉広葉樹で構成される[11]。参道にはコケが生育する[11]。 上久具の渡しと久具都比売橋[編集] 久具都比賣神社の東には、「上久具の渡し」と呼ばれた渡し船が約90年間運航されてきた跡地がある[13]。上久具の渡しは、1994年(平成6年)3月まで宮川両岸の上久具と棚橋を結び、人々や物資の往来に利用されていた[14]。度会町立内城田小学校(現・度会町立度会小学校)へ児童が通学できるよう、1901年(明治34年)に航路が開かれ、後に児童以外の一般客や荷物の輸送が行われるようになった[15]。 1994年(平成6年)、久具都比売橋が架橋されたことにより、三重県で最後まで運航されていた上久具の渡しは、その役割を終えた[15]。宮川は水位変動が多く、上久具の渡しは利用者をたびたび困らせていた[3]。2013年(平成25年)現在も上久具側には渡し場の跡がはっきりと残っており、対岸の棚橋側にも階段の通学路跡が見られる[15]。 公共交通 自家用車

Continue reading

昆虫病原糸状菌 – Wikipedia

昆虫病原糸状菌(こんちゅうびょうげんしじょうきん, Entomopathogenic fungus)とは、糸状菌の内、昆虫に感染して病気を起こすものの総称。昆虫の体表にカビ状の菌糸を作る。この菌による感染症はカビ病とも呼ばれる[1]。養蚕業等に被害を与えてきた一方、近年では生物農薬としての研究も進められている。 昆虫病原糸状菌のうち、昆虫の体から水分を奪って殺し、体を硬化させるものを僵病菌(きょうびょうきん)と呼び、それによる病気を僵病と呼ぶ。硬化病とも呼ぶ。感染した昆虫の死骸は乾燥してミイラ状になる[2]。 殭病とも書くが、「僵」「殭」共に常用漢字外のため、この字を使わずにきょう病と書かれる事が多い。「僵」の字は硬直した死骸、「殭」の字は硬直して乾燥した死骸を意味する[3]。 白僵病、緑僵病などの種類があり、それぞれ菌糸から産生される分生子の色が異なる。原因菌は「白僵病菌」「緑僵病菌」等と呼ばれるが、形態上の分類であるため、Beauveria bassianaのように複数(白、黄)の名称を持つ菌もあり、緑きょう病菌のように複数の菌が一つの名称で呼ばれることもある。 白きょう病菌 黄きょう病菌 黒きょう病菌 緑きょう病菌 Nomuraea rileyi[4](Spicaria prasina[5])、Metarhizium anisopliae [6] 赤きょう病菌 Paecilomyces fumosoroseus[4] 紫赤きょう病菌

Continue reading

一野辺製パン – Wikipedia

一野辺製パン株式会社(いちのべせいパン)は、岩手県二戸郡一戸町に本社を置いていた、パン製造業者である。岩手県北及び青森県南の南部地方では馴染みがあり、「イチノベパン」の呼称で親しまれていた。 イチノベパン[編集] イチノベパンの販売地域での知名度は絶大で「全国発売されている」と当地の人間には思われていた[1]。タマゴパンは1961年発売の半世紀以上続くロングセラー商品[2]。菓子パン生地に縦に切れ目を入れ塩味の効いたマーガリンをサンドし羊羹をコーティングしたツイストようかん[3]も1967年発売のロングセラー商品[1][2]。見た目がチョコレートパンに似ているので幼い子供の中には食べてから「チョコレートじゃない」と泣く子もいた[3]。 2017年9月27日、盛岡地方裁判所から破産手続き開始決定を受け倒産した。従業員146人は解雇された[4]。東京商工リサーチが算出している「リスクスコア」(向こう12か月における倒産確率を統計的手法を用いて100から1まで数値化した客観的な指標で、数字が低いほど倒産の確率が高い)は、2016年10月以降、最高リスクである「1」(倒産確率は19.84%)のままであった[5]。旧本社工場は、静岡県掛川市に本社があるパントーネシステムが取得し、同年10月18日から同社の東北工場として操業している。但し、イチノベパンが製造していた製品や自治体から受託していた学校給食の加工は行わない[6]。 元従業員16人を再雇用したパントーネシステムは地元の要望もあり、小麦粉の質とクリームを改良したタマゴパンを2018年4月に復活させた[7]。 一野辺製パンは、2019年3月6日に法人格が消滅した。 一野辺製パンが学校給食のパンを供給していた自治体 盛岡市、久慈市、八幡平市、一戸町、岩手町、葛巻町、洋野町、軽米町、九戸村[8]。 倒産後、主食(ご飯やパンなど)持参や献立変更などの影響が出た。12月あるいは3学期から主食供給再開が決まった自治体がある一方、供給再開の目途が立っていない自治体がある[8]。 本社工場:岩手県二戸郡一戸町越田橋44 八戸工場:青森県八戸市城下3-1-5 主な商品[編集] 食パン・食卓パン 菓子パン タマゴパン ツイストようかん イギリスサンド[2] ドーナツ 和洋菓子 ほか

Continue reading