Month: August 2019

アポロ (菓子) – Wikipedia

アポロのモチーフとなったアポロ11号の司令船 アポロは、株式会社明治[注 1]が1969年8月7日から製造販売している粒チョコレートである[1]。 きのこの山、たけのこの里と並び明治を代表する定番菓子として発売以来長きに渡り多くの世代から親しまれている。 全体は円錐形で、側面にギザギザが入っている。この形は1969年7月21日に人類初の月面着陸に成功した後、同年7月24日に帰還したアポロ11号の司令船(地球への帰還モジュール)がモチーフとなっている[1]。ただし、明治製菓が「アポロ」を商標登録したのは1966年で、ギリシャ神話の太陽神のアポロンに由来している[1][注 2]。 下部の広いほうはミルクチョコレート、上部のとがったほうはイチゴ味のチョコレートで2層になっている。なお、上下のチョコレートを逆にした「逆さアポロ」が入れられていることも稀にある。[注 3] バリエーションとして、上部のイチゴ味チョコレートをブルーベリー味に変えたアポロブルーベリーも一時発売されていた。 内容量はかつては48gであったが、カカオ豆の価格高騰等のため2015年4月21日発売分から46gに変更されている[2]。 なお同じ明治から発売されているマーブルチョコ同様、アポロにもジャンボサイズ(内容量は82g)が存在する。 ジャンボサイズには、上部がストロベリーチョコ、下部がミルクチョコレートというアポロチョコのスタイルに、ホワイトチョコレートをかけて仕上げたアポロチョコの “赤富士”バージョンもある。[3] また、2019年には、発売50周年を記念して「宙アポロ」[4]や発売当初の復刻パッケージ版などを期間限定で発売した。また発売50周年を迎えた翌年の2020年2月7日には、アポロの誕生秘話を学びアポロの製造工程を見ることができる「アポロ見学ライン」(つまり楽しく演出された工場見学ツアー)が開始された[5]。埼玉県坂戸市にある明治・坂戸工場で月曜日~金曜日に開催しており、完全予約制[5]で、1~9名のグループなら同社webサイトからも予約でき、それ以上の人数は電話予約[6]。参加は無料で、さらに見学後にはおみやげとしてアポロがひとつ(ひと箱)もらえる[5]。 注釈 ^ 発売当時の社名は明治製菓。 ^ アポロ計画で最初の無人ロケットが発射されたのは同じ1966年である。 ^

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キモレステス目 – Wikipedia

ウィキメディア・コモンズには、キモレステス目に関連するカテゴリがあります。 キモレステス目(キモレステスもく、Cimolesta)は、哺乳類の絶滅した目の1つである。永らく系統不明であったいくつかの目を束ねるクレードとして1975年マッケナおよびベルによって設定された[2]。 キモレステス目は極めて体型、歯式、生態の多様性に富んだグループであった。ただ概して言うならば、齧歯目、イタチ、オポッサムと表面的な類似が見られる(ただしこれらのうち系統的にいくぶん近いのはイタチのみである)。 歯式は基本的に、原始的な 3.1.4.3/3.1.4.3 を保っているが、パレオリクテス科では 3.1.3.3/3.1.3.3 に減っている[3]。 含まれる亜目(あるいは目)は以下のとおり[1]。各グループに目の階級を与え、それらを束ねるクレードのキモレステス類には目から上目にかけての適当な階級を与える場合もある[4][3]。 †ディデルフォドゥス類 Didelphodonta 虫食性の小動物。これには、キモレステス目の模式属であり、食肉目の祖先かもしれないキモレステス Cimolestes が含まれる。 †幻獣類 Apatotheria 齧歯目ないし食虫目に似た、虫食性の動物[2]。古い分類では食虫目または原真獣目。 †紐歯類 Taeniodonta 大きな鉤爪、長い杭状の歯を持っていた。雑食性、草(根)食性[5][6][2]。

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ヤーロウ式ボイラー – Wikipedia

煙道と外側ケーシングを取り外したヤーロウ式ボイラー ヤーロウ式ボイラー (Yarrow boiler) はイギリスのヤーロウ・シップビルダーズ社が開発した高圧水管ボイラーで、船舶、とりわけ軍艦に広く採用された。ヤーロー式と表記することもある。 ヤーロウ式ボイラーは三胴式で、三角形の頂点に発生した蒸気を集める円筒状の蒸気ドラム、下部の2つの頂点に蒸気ドラムより細身の水ドラムを配し、蒸気ドラムと水ドラムの間に直線状に多数の水管を渡した構成になっており、三角形の底辺に火炉を設けて水管を加熱するようになっていた。ヤーロウ式ボイラーは、直管を用いることと、外部にダウンカマーを設けることなく上昇・下降双方向の循環を完全に混在させることに特徴がある[1][2][3]。 初期の水管ボイラー[編集] イギリス海軍では、水管ボイラーが使用されるようになった初期にさまざまな物議を醸し、1900年頃には「ボイラーの戦い」と呼ばれる論争まで起きていた[4]。ベルヴィール式やニクロース式といった初期の水管ボイラーは、水平面に対して浅い角度で傾けた直径約4インチの直管を多数並べたものであった[5]。水管は鋳鉄製の管寄せに接合されていたが、この接合部で蒸気が漏れることが大きな課題となっていた。これは、当時は直管の熱膨張により接合部に負担がかかっているためだと考えられていた。ベルヴィール式・ニクロース式ともに非常に大柄な設備であり、前弩級戦艦には搭載できたが小型の魚雷艇や駆逐艦はとても搭載できるものではなく、小型化を目指した研究開発が盛んに行われていた。 その後、直径約2インチほどの細い水管を使用することで、体積および重量に対する伝熱面積の比を格段に高めた設計が採られるようになり、小型艦に搭載可能なほど軽量のボイラーが実現できるようになった。こういったボイラーのほとんどは、ジュタンプル式やノルマン式に代表される三胴式のものであった[5]。 三胴式の出現により水管の配置は垂直に近くなり、細管でも熱がうまく循環するようになった。しかし管の熱膨張による接合部への負荷は相変わらず課題であり、伝熱面積を稼ぐ都合もあって水管は曲線状になっていたが、甚だしいものではヘアピンあるいはS字のように複雑な形状に曲げられていた。これには実用上2つの大きな問題があり、1つは複雑に曲がった水管の洗浄が困難であること、もう1つは管寄せに集まる水管の角度がまちまちで、高い信頼性をもつ接合部を作るのが困難であることであった ヤーロウの水管ボイラー[編集] これに対して、ヤーロウ社のアルフレッド・ヤーロウは、既に発表されていたさまざまなボイラーをよく検討した上で水管ボイラーの開発に取りかかった。ヤーロウは理論的な実験に基づいて長い検討を重ね、1877年に開発に着手したものの、その10年後の1887年に初めて魚雷艇向けに製作するまで、商用ボイラーの製作には手を付けなかった[6]。 開発期間は極めて長かったが、その設計の基本となる着想は極めて直接的なものであったようである。ボイラー部門の責任者であるウィリアム・クラッシュとヤーロウとの最初の会話の記録には、ヤーロウの姿勢や着想が如実に現れている。この中でヤーロウは「我々は、水管ボイラーについて考えを改めなければならない」と言い、祈るときのように指を揃えながら「なぜこういうボイラーではないのか?」 、「直管?」と語っている。この言葉の中に、ヤーロウ式ボイラーの3つの基本設計原則のうち2つが既に表現されている[6]。 初期には、設計者は加熱時の水管の熱膨張をどう処理するかに意を用いており、炉に近い部分は遠い部分よりも大きく熱膨張するため、炉に近い部分で変形を許容することで熱膨張による変位を吸収しようとする努力がなされていた。このためにソーニクロフト式ボイラーのように水管を大きく湾曲させる設計が採られていたが、製造が困難になるうえに管支えを配する必要があった。 これに対し、ヤーロウは、水管が水で満たされているうちはその温度は常に比較的低く保たれていること、高温になったり変位が生じるのは水管が蒸気で満たされたときだけで、そのときは循環も止まっていることに気付いていた。 このことから、ヤーロウは水管を直管とすることは十分可能で、直管にすれば製造も洗浄も容易であるという明らかな利点が得られると結論づけた[6] 既に出力向上のためボイラーの使用圧力は高まりつつあったが、これに耐えられる管を手に入れるのは困難になりつつあり、既にほとんどのメーカーは管の溶接に問題を抱えるようになっていた。直管には、当時新たに開発された高強度の継目無引抜鋼管が利用できるという利点もあった[6]。 ヤーロウの実験[編集] ヤーロウのU字管循環実験

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久保隼 – Wikipedia

久保 隼(くぼ しゅん、1990年4月8日)は、日本のプロボクサー。第42代OPBF東洋太平洋スーパーバンタム級王者。元WBA世界スーパーバンタム級王者。京都府出身。京都府初の世界王者[2]。真正ボクシングジム所属。 南京都高校3年時に全国高校総体フェザー級で準優勝、東洋大学卒業後プロ転向[3]。 2013年5月17日、神戸市立中央体育館でヨドソン・カムノイとフェザー級6回戦を行い、2回55秒TKO勝ちを収めデビュー戦を白星で飾った[4]。 2013年11月29日、神戸市立中央体育館でモニコ・ローレンテとスーパーバンタム級8回戦を行い、8回3-0の判定勝ちを収めた[5]。 2014年8月22日、神戸市立中央体育館で行われた「REAL SPRITS vol38」でレンレン・パセグナヒンとスーパーバンタム級8回戦を行い、4回2分37秒TKO勝ちを収めた[6]。 2014年12月19日、神戸市立中央体育館で行われた「リアルスピリッツVOL40」でWBC世界バンタム級11位のルイス・メイとスーパーバンタム級8回戦を行い、8回3-0(77-72、76-72×2)の判定勝ちを収めた[7]。 2015年5月9日、神戸市立中央体育館で本田正二郎とフェザー級8回戦を行い、7回1分1秒TKO勝ちを収めた[8]。 2015年8月28日、神戸市立中央体育館で行われた「リアルスピリッツ×ザ・ヒート」でジャカラートレック・ソーワンゲーとスーパーバンタム級8回戦を行い、初回54秒KO勝ちを収めた[9]。 2015年12月26日、神戸市立中央体育館で和氣慎吾の王座返上に伴いロイド・ハルデリザとOPBF東洋太平洋スーパーバンタム級王座決定戦を行い、5回1分19秒KO勝ちを収め王座獲得に成功した[10][11]。 2016年5月16日、神戸市立中央体育館でベンジー・スガノブと対戦し、12回3-0(115-113、115-112、117-113)の判定勝ちを収めOPBF王座の初防衛に成功した[12]。 2016年11月11日、神戸市立中央体育館で林ジヌクと対戦し、4回2分56秒TKO勝ちを収めOPBF王座の2度目の防衛に成功した[13]。 2017年2月10日、WBA世界スーパーバンタム級王座に挑戦する為にOPBF東洋太平洋スーパーバンタム級王座を返上した[14]。 2017年3月17日、WBAは久保をWBA世界スーパーバンタム級8位にランクインした[15][16]。 2017年4月9日、大阪府立体育会館でWBA世界スーパーバンタム級王者のネオマール・セルメニョと対戦し、11回5秒TKO勝ちを収め王座獲得に成功した[17][18][19]。 2017年5月1日、神戸市より「神戸市スポーツ特別賞」を受賞し、久元喜造神戸市長より表彰された[20]。 2017年9月3日、島津アリーナ京都でWBA世界スーパーバンタム級2位のダニエル・ローマンと対戦し、プロ初黒星となる9回1分21秒TKO負けを喫し初防衛に失敗、王座から陥落した[21][22][23]。

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大阪 – 高松線 – Wikipedia

この記事の主題はウィキペディアにおける独立記事作成の目安を満たしていないおそれがあります。目安に適合することを証明するために、記事の主題についての信頼できる二次資料を求めています。なお、適合することが証明できない場合には、記事は統合されるか、リダイレクトに置き換えられるか、さもなくば削除される可能性があります。出典検索?: “大阪 – 高松線” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年5月) この項目では、四国高速バス・ジェイアール四国バス・阪急バス・西日本ジェイアールバスが運行する高速バス路線について説明しています。高松エクスプレス株式会社が大阪 – 高松を運行する高速バス路線「たかなんフットバス」については「高松エクスプレス」をご覧ください。 さぬきエクスプレス大阪(四国高速バス) 高松エクスプレス大阪号(JR四国バス) さぬきエクスプレス(阪急バス) 高松エクスプレス大阪号(西日本JRバス) 大阪 –

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グナエウス・コルネリウス・スキピオ・ヒスパッルス – Wikipedia

グナエウス・コルネリウス・スキピオ・ヒスパッルス(Gnaeus Cornelius Scipio Hispallus 、- 紀元前176年)は、紀元前2世紀初頭の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前176年に執政官(コンスル)を務めたが、任期中に没した。 ローマ筆頭の名門のひとつコルネリウス氏族のスキピオ家に生まれる。父は紀元前222年の執政官グナエウス・コルネリウス・スキピオ・カルウスで、第二次ポエニ戦争ではヒスパニアで戦い、戦死している。祖父は紀元前259年の執政官ルキウス・コルネリウス・スキピオ。紀元前191年の執政官プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカとは兄弟に当たる[1]。 ティトゥス・リウィウスは、紀元前199年に死去したガイウス・スルピキウス・ガルバに代わって、コルネリウス・スキピオが神祇官(ポンティフェクス)に就任したとしているが、これがスキピオ・ヒスパッルスのことと思われる[2][3]。紀元前179年にスキピオ・ヒスパッルスはプラエトル(法務官)に就任するが[4]、紀元前198年以来定員6人とされていたのが、この年は4人に減らされた[5]。くじ引きの結果、スキピオ・ヒスパッルスは外国人担当法務官となった[6]。紀元前180年のウィリス・アナリス法により、執政官は42歳以上と定められていがが、スキピオ・ヒスパッルスはこれを満たしていたため、紀元前177年末の執政官選挙にパトリキ(貴族)候補として立候補し、当選した。同僚のプレブス(平民)執政官はクィントゥス・ペティッリウス・スプリヌスであった[7][7]。 元老院は両執政官の担当地域はリグリアとピサとし、それぞれ新たに編成された2個ローマ軍団と騎兵300、アウクシリア(同盟軍)の歩兵1万と騎兵600を与えた。また、ピサ担当の執政官は、年末に選挙実施のためにローマに戻るように命じられた[8]。くじ引きの結果、スキピオ・ヒスパッルスがピサの担当となったが、出発することはなかった。アルバン山からの帰り道、馬から落ちて足が不自由になってしまったのだ。スキピオ・ヒスパッルスは治療のためクマエの温泉に行ったが、徐々に悪化しそこで死亡した[1]。遺体はローマに運ばれ、盛大な葬儀が執り行われた[9]。補充執政官の選挙が実施され、ガイウス・ウァレリウス・ラエウィヌスが選ばれた[7]。 スキピオ・ヒスパッルスの墓から妻の名前が発見されており、パウラ・コルネリアであったことが分かっている[10]。紀元前139年の法務官グナエウス・コルネリウス・スキピオ・ヒスパッルスは二人の間の子供である[1]。 ^ a b c Cornelius 346, 1900. ^ リウィウス『ローマ建国史』、XXXII, 7,

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ハルヴァ – Wikipedia

「ハルバ」はこの項目へ転送されています。レバノンの都市については「ハルバ (レバノン)」をご覧ください。 この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2019年9月) ハルヴァ バルカン半島風のタヒーナ・ベースのピスタチオ入りハルヴァ アラビア語 حَلاوة (ḥalāwa) ヘブライ語 חלבה トルコ語 helva ペルシア語 حلوا (ḥalvā) ウイグル語 ھالۋا (halwa) クルド語 helaw

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アラスカ国境問題 – Wikipedia

1903年調停前のアラスカ・パンハンドルにおける国境線の主張。青線はアメリカ合衆国の主張、赤線はカナダとイギリスの主張。黄線が現在の国境。 アラスカ国境問題(アラスカこっきょうもんだい、英:Alaska boundary dispute)は、19世紀から20世紀初頭にかけてのアメリカ合衆国とカナダ(当時はその外交問題をロンドンが担当するイギリス自治領だった)の間の境界論争である。地方レベルでは合衆国はアラスカ(当時はアラスカ地区)であり、カナダ側はブリティッシュコロンビア州とユーコン準州との間の論争だった。この問題は1903年に調停で解決された。論争は合衆国による1867年のアラスカ購入のときから引き継いでおり、さらに遡れば、1821年以来ロシアとイギリスの間で続いていたものだった[1]。 1825年、ロシアとイギリスはそれぞれ領有する植民地の境界を定義する条約に調印した。この条約の一部を下記に挙げる。 …前述の境界はポートランド海峡と呼ばれる海峡に沿って北に伸ばし、北緯56度線と交わるところまでとする。その地点からの境界は海岸に平行する山脈の頂点を辿り西経141度線と交わる点までとする。 この「海岸に平行する山脈」というかなり曖昧な文章についてはさらに次の定義があった。 山脈の頂点が大洋から10海洋リーグ (56 km)以上の距離となる場合は海岸線の屈曲に平行な線でその境界を修正し、海岸から10海洋リーグを越えないようにする。 条約のこの部分は実際には、正確な境界線を引くというよりも、将来この地域に境界を確立させるための基本原則について同意したものだった。 アメリカ合衆国が1867年にアラスカを購入し、ブリティッシュコロンビア州が1871年にカナダに加入した後で、カナダが測量を要求したが、合衆国は費用が掛かると言って拒否した。境界線の地域は大変遠く、人口も疎らだったので、当時は経済的あるいは戦略的な興味が無かった。1898年、連邦政府は妥協案に同意したが、ブリティッシュコロンビア州政府が拒否した。アメリカ合衆国大統領ウィリアム・マッキンリーはヘインズ近くの港を恒久的に借用する提案をしたが、カナダがその妥協案を拒否した。 この頃にクロンダイク・ゴールドラッシュのために地域全体の人口が猛烈に増えて、3万人に達したがほとんどはアメリカ人だった。 この地域の重要性が増し、正確な境界を設定することが望まれるようになった。カナダ市民は土地の領有権主張を行うことの抑止力として合衆国に苦しめられていたという主張がある[2]。最終的に1903年、ヘイ=ハーバート条約で6人のメンバー、3人がアメリカ人、2人がカナダ人で1人がイギリス人の混合裁決機関に決定を委ねた。 この問題の主要な法的事項は境界の元になるものとして海岸山脈のどの定義を選ぶか、すなわち、「10海洋リーグ」はフィヨルドの先端から測るのか、あるいはフィヨルドの入り口を横切る基本線から測るのかということだった。 投票は数回同数となり、クリスマス・シーズンが近付いてきて、イギリスの調停委員アルバーストーン子爵リチャード・ウェブスターがこの基本問題でアメリカの側に賛成した。ただし、最終的に合意された境界線はアメリカの主張する最大線からはかなり小さくなるものに落ち着いた(大まかにはアメリカの最大線とイギリスとカナダの最大線の中間に妥協された)。アラスカ・パンハンドル地域(タッシェンシニ・アルセク地域)はブリティッシュコロンビア州本土と完全に飛び地にはならなかった。 カナダでの議論[編集] カナダの代議員がアルバーストーン卿に翻弄されたことになったので、抗議の意味でカナダの判事は1903年10月20日に発行された裁定書に署名を拒否し、激しい反英感情がカナダで起こった。その結果は植民地支配から分離しようというカナダ民族主義の高まりとなった[3]。 この決定に苛立ったカナダ首相ウィルフリド・ローリエ卿は、カナダに条約を作る権限が無いことがその国際的な権利を維持することを難しくしていると主張したが、直ぐに行動は取らず、状況は変わらなかった。カナダがヴェルサイユ条約の独立した署名国となり、更に後にウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング首相が1921年に外交政策について独立した態度を取るようになって事態が変化した。論争の直ぐ後の時代、カナダ人の怒りは徐々に鎮まっていったが、調停書によって喚起された合衆国に対する不信は1911年の「相互選出」における自由貿易の拒否に繋がった。それでもアラスカ問題の決着は合衆国とイギリスの間の相互理解を進め、カナダにとっては第一次世界大戦での利点として働いた。 イギリスは、ベネズエラの境界問題で合衆国と取引していたので、合衆国を怒らせたくなかったために、アメリカの側に就いて終わらせ、クロンダイク・ゴールドラッシュはカナダ政府にとって利益の無いものになった。

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林兼造船 – Wikipedia

林兼造船株式会社(はやしかねぞうせん)は、山口県下関市に本社を置いていた造船会社。 1916年(大正5年)に中部鉄工所として創業、1919年(大正8年)に林兼造船鉄工所となった。大洋漁業系列の造船所として、下関工場では、捕鯨船を含む大型漁船を多数建造、捕鯨、遠洋漁業の衰退後は、フェリー、特殊船を建造した。戦後、買収した長崎工場では、貨物船を主に建造していた。 オイルショックとその後の造船不況、為替相場の円高などの影響を受け、1987年(昭和62年)12月に解散した。 下関工場[編集] 創業時の工場は、下関駅の北側に存在した。1936年に彦島本村町に第二工場を建設、1938年には彦島南端の田の首に第三工場を建設した。下関工場では、1947年建造の関丸以降、1961年までに32隻の捕鯨船を建造[1]、運搬船、トロール船なども多数建造した。その後、捕鯨の衰退により、1965年を最後に捕鯨船の建造を終了、その後はフェリー、特殊船などを建造した[2]。 第二工場は、新林兼を経てサンセイが継承し、船舶修理を中心に稼働しており、捕鯨船団の目視採取船の定期修理も受注している[2]。現在も戦前に作られた階段状の側壁が特徴のドックが使用されている[2]。第三工場の跡地は建屋が放置され廃墟となっていたが、2002年に解体された。サニックスが廃プラスチック発電所を中心とした複合施設「彦島リサイクルガーデン」の建設を計画[3]、2004年に稼働開始を予定したが[3]、反対運動により建設は撤回された。その後、船舶用装置・構造物メーカーの共立機械製作所が進出し同社の下関工場となった。 長崎工場[編集] 倒産した川南工業の長崎造船所を1965年に購入して発足した。当初は漁船や1万トン級の貨物船を建造していたが、1973年の船台拡張以降は大型ばら積み貨物船、パナマックスタンカーなどを建造した。造船不況による設備削減で、1980年1月に閉鎖が決定、工場の一部は林兼船渠として独立して存続し、残りは特定船舶製造安定事業協会が買い上げた後、三菱長崎機工および中田組(現ナカタ・マックコーポレーション)に継承された。1992年、林兼船渠が台湾のエバーグリーン・グループに買収され、長栄造船となる。2004年に福岡造船に売却され、同社の長崎工場となった。 主な建造船[編集] 捕鯨船[編集] 1946年から1964年にかけて32隻の捕鯨船、6隻の冷凍船を建造した[1]。 大洋漁業 第三十二播州丸 – 冷凍船 第三十五播州丸 – 冷凍船 第三十六播州丸 –

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