パンジャーブ – Wikipedia

1909年のパンジャーブ地図

パンジャーブPunjabあるいはPanjab、パンジャブとも)は、インド北西部からパキスタン北東部にまたがる地域。インド・パキスタンの分割の際に、インド側とパキスタン側に分割されている。

パンジャーブの語源は、ペルシア語で「5つの水」を意味するパンジュ・アーブ (panj ab) で、この地を潤す5つの河川、北から順にインダス川とその4つの大きな支流、ジェルム川、シェナブ川、ラーヴィー川英語版、サトレジ川に由来する。パンジャブはこれらの大河に囲まれた地域で、灌漑によって小麦・米の生産力に優れた豊かな農地となっており、インド・パキスタン両国にとっては重要な穀倉地帯である。

現在の行政区分では、パンジャーブ州(インド、パキスタン)、ハリヤーナー州、ヒマーチャル・プラデーシュ州付近にあたる。

先史時代、インダス文明がパンジャーブにも及び、当時の都市遺跡・ハラッパーなどの痕跡を後世に残した。

古代にはガンダーラ(紀元前6世紀 – 11世紀)が栄え、中心都市はペシャーワル(現カイバル・パクトゥンクワ州)、チャールサダ英語版(現カイバル・パクトゥンクワ州)、タクシラ(現パンジャーブ州 (パキスタン))、フント英語版[要リンク修正](現カイバル・パクトゥンクワ州)などに移り変わった。

また、紀元前6世紀以来、ペルシャ帝国(アケメネス朝)の版図はインダス川流域付近まで及んでいたが、紀元前4世紀にアレクサンドロス3世(大王)率いるマケドニア王国(アルゲアス朝)軍はペルシャ王ダレイオス3世を破った後インドに侵入し、紀元前326年のヒュダスペス(ジェルム)河畔の戦いが行われた。当時、東部パンジャーブのジェルム川からシェナブ川に至る地域はパウラヴァ族(Paurava)の王であったポロスの領土となっていた。

紀元前4世紀末頃から、インダス流域を含む北西インド地方は、マウリヤ朝(マガダ国)のチャンドラグプタの版図に含まれた。紀元前2世紀頃から西暦後1世紀頃まで、インド・グリーク朝の治世となっていた。

1757年、マラーターのインド北西部征服英語版パンジャーブが占領される。

1761年、第三次パーニーパットの戦いでドゥッラーニー朝とアワド太守などのムスリム同盟軍が、ヒンドゥー教のマラーター同盟に勝利。パンジャーブの領土を拡張した。

現在のヒマーチャル・プラデーシュ州付近には、ChambaBilaspur、Bhagal、Dhamiといった諸国が並立していた。グルカ戦争(1814年 – 1816年)を経てBritish India領となった。

1823年、ノウシェーラの戦い英語版でドゥッラーニー朝がシク王国に敗北し、ペシャーワル一帯の領土を失い、カイバル峠を越えて撤退した。

シク戦争(1845年 – 1849年)では、第一次シク戦争でラホール条約を締結しカシミール地方をイギリスに譲渡(ジャンムー・カシミール藩王国の成立)、第二次シク戦争で敗れ併合され、British Indiaパンジャーブ地方英語版となり、マリー英語版Murree)が夏の首都となった。

1858年にイギリス領インド帝国が成立。1864年、シムラーがイギリス領インド帝国の夏の首都となる。

民族[編集]

パンジャーブ人、en:Arain、ジャート族、en:Chamaren:Scheduled Castes and Scheduled Tribes、ラージプート、en:Malik Jat clanen:Khatrien:Aheeren:Gurjar

言語[編集]

  • パンジャーブ語

宗教[編集]

住民の宗教は、イスラーム教、シク教、ヒンドゥー教の3宗教によって大別される。各宗教の信者はイギリス統治期には入り混じって暮らしていたが、現在ではおおむね前者がパキスタン領、後二者がインド領に別れている。

関連項目[編集]

  • パンジャーブ地方英語版
  • パンジャーブ州 (インド)
  • パンジャーブ州 (パキスタン)
  • ハリヤーナー州
  • ヒマーチャル・プラデーシュ州

・マハーバーラタ モヘンジョダロ

座標:

北緯31° 東経74° / 北緯31度 東経74度 / 31; 74