Month: September 2017

ドン・チェリー (アイスホッケー) – Wikipedia

ドン・チェリー ドン・チェリー(英語:Don Cherry、本名:Donald Stewart Cherry、1934年2月5日 – )は、カナダ連邦オンタリオ州キングストン出身のアイスホッケー解説者。元プロアイスホッケー選手、元NHLチームのコーチ。 かつてCBCの長寿スポーツ番組「ホッケー・ナイト・イン・カナダ」で「コーチズ・コーナー(Coach’s Corner)」を担当していた[1]。 「コーチズ・コーナー」でペアを組んでいるロン・マクレーン(Ron MacLean)と好対照で、歯に衣着せぬ物言いと派手な衣装で有名である。 ソルトレークオリンピックでのドン・チェリー ジュニア・ホッケー(ユース)で選手として活躍後、1954年にアメリカン・ホッケー・リーグ(AHL)のハーシー・ベアーズ(英語版)と契約[2]。NHLの選手としてはボストン・ブルーインズ在籍時の1955年にプレーオフで1試合に出場したのみにとどまり、20年のキャリアの殆どをマイナーリーグで過ごし1970年に現役引退。 1971年にAHLチームのコーチに就任、その後1974年にブルーインズのヘッドコーチに就任、1975-76シーズンに最優秀コーチに与えられるジャック・アダムス賞を受賞し、翌シーズンから2年連続でスタンレー・カップ決勝に進出するなど輝かしい成績を残す。 1979-80シーズンにコロラド・ロッキーズのヘッドコーチを務めた後、1981年よりCBCの「ホッケー・ナイト・イン・カナダ」で解説者として登場。 1987年よりロン・マクレーンと組みホッケー解説を行なっていた。 1998年には長野オリンピックアイスホッケーのCBCでの解説のためマクレーンと共に訪日し、同年にはアイスホッケーを題材としたカナダのテレビドラマ「Power Play」にフィラデルフィアのチームのコーチ役で出演した。 2019年11月、「ホッケー・ナイト・イン・カナダ」の放送中にカナダ国内の移民を批判する発言をしたことから、スポーツネット(英語版)社から解雇通告を受け、同番組を降板する事態となった[3]。 ^

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佐々木力 – Wikipedia

この項目では、科学史家について説明しています。労働法学者については「佐々木力 (法学者)」をご覧ください。 佐々木 力(ささき ちから、1947年3月7日[1]-2020年12月4日[2] )は、日本の科学史学者。 東京大学教養学部教授[3]、大学院総合文化研究科教授[4]。中国科学院教授[5]、中部大学中部高等学術研究所特任教授[6]、神奈川県和算研究会会長[6]を歴任した。 専門は科学史・科学哲学、とくに数学史であり[5]、日本オイラー研究所名誉所長なども務めた[4]。また「反時代的な社会主義者」を自称するトロツキストでもあり、日本陳独秀研究会会長も務めた[7]。また、「九条科学者の会」呼びかけ人を務めていた[8]。 目次 1 経歴 2 批判 3 事件 4 著書 4.1 単著 4.2

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半澤嘉博 – Wikipedia

この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “半澤嘉博” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年3月) 半澤 嘉博(はんざわ よしひろ、1953年12月5日 – )は日本の教育者。東京家政大学家政学部児童教育学科教授[1]。東京家政大学大学院人間生活学総合研究科教授。明治大学文学部兼任講師。社会福祉法人東京都手をつなぐ育成会監事[2]。専攻は特別支援教育であり、特に「インクルーシブ教育」の推進を研究する[3]。博士(学術)。  他に、一般財団法人きょういく創造育成財団理事、社会福祉法人東京都手をつなぐ育成会編集委員、特別支援教育実践研究学会理事・編集委員、東京家政大学女性未来研究所兼任研究員、東京家政大学グローバル教育センター参事、特定非営利活動法人世田谷区ユニバーサルスポーツ振興会理事、都立王子特別支援学校放課後子供教室代表を務める。 東京都出身。東京都立新宿高等学校を経て、東京学芸大学教育学部特殊教育学科聾教育専攻を卒業した。1977年より八王子市立第四小学校の難聴学級に勤務する。以降、調布市立深大寺小学校、渋谷区立大向小学校(現:神南小学校)で教壇に立った。1979~1981年度及び1990年度、東京都教育委員会心身障害教育開発委員会委員。1991年度、東京都立教育研究所の教員研究生。 1992年から東京都教育庁指導部心身障害教育指導課に指導主事として勤務する。その後、世田谷区教育委員会指導室指導主事、東京都教職員研修センター現職研修課統括指導主事などを歴任した。肢体不自由特別支援学校である東京都立村山養護学校(当時)の教頭も務めた。 2003年度から2008年度までは東京都教育庁指導部に戻り、主任指導主事(特別支援教育担当、2003年度 – 2005年度)、副参事(特別支援学校教育担当、2006年度

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サブリナ (フェリー) – Wikipedia

サブリナ(SABRINA)は、近海郵船が運航していたフェリー。釧路と東京を結ぶ航路に就航していた[4]。 同航路に従来就航していたさろまに代わり、姉妹船のブルーゼファーと共に1990年に就航。1990年6月17日東京発便から就航、本船の導入に合わせ釧路港フェリーターミナルの改築も行われた[7]。 L型エンジン9気筒のエンジンを採用し、東京-釧路間の所要時間を3時間削減し約31時間で結んだ[3]。船名は映画「麗しのサブリナ」から命名された。 1993年には、釧路市でのラムサール条約締約国会議を記念し綿引明浩デザインによる青色を基調に鳥・魚・草木・水辺を組み合わせた高さ8m・横41mのアートペインティングが胴体に施された[8]。 その後、帯広商工会議所の要望により上り便のみ十勝港への寄港を開始したが、旅客、貨物の減少が続いたため、釧路港に就航したRO-RO船による運航に切り替えられることになり、1999年11月で運航を終了した[9]。 その後、韓国の威東航運へ売却されNEW GOLDEN BRIDGE IIとなり、大韓民国の仁川港と中華人民共和国の威海港間を結ぶ国際航路で2018年まで運航された。 2018年11月には「GOLDEN BRIDGE」に改名のうえギリシャへ移送され[10]、A-Ships Managementに売却し2019年にスペイン・FRSイベリアのモトリル – メリリャ航路へのチャーター、2020年7月からイグメニツァ – ケルキラ島(ギリシャ) – ブリンディジ(イタリア)航路に就航[11]。 レジャー志向で最も進んでいる若い女性をターゲットにし[3]、北郷悟による外観デザインなど船体内外のデザインにデザイナーを起用して旅客重視の豪華な船内設備でクルーズフェリーと称し、自然の中にいる安らぎの再現や散歩の気分を味わえるラウンド式の船内設計とした[3]。「光と海」をコンセプトとした船内で、1990年のグッドデザイン賞を受賞している[1][3]。ファンネルマークは三徳健次によるデザインで[12]、従来の近海郵船のものと異なる2羽の丹頂鶴をイメージしたものとなっていた。また、ブリッジは中央部が前方にやや突き出す形で操船者があまり動き回らず広い視界が得られる形とし[13]、赤外線ビデオとレーダーを組み合わせた「サイエンズ・アイズ」を用いて濃霧時の安全性も確保した[3]。 Aデッキ[6]

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ボルボ・ペンタ – Wikipedia

1970-1983年製のボルボペンタTAMD120ディーゼルエンジン ボルボ・ペンタ6気筒ディーゼルエンジンのサウンド ボルボ・ペンタ(英語: Volvo Penta)は、ボルボ・グループの一員であり、ボートエンジンと産業エンジンを製造する企業。ボルボ・ペンタには約1,600人の従業員がおり、そのうち約800人がスウェーデン本国所在である。 最初の船舶用エンジンであるB1の製造により、1907年にペンタとして設立された。ペンタ社はすぐに確立された内燃エンジンメーカーになり、1927年にボルボの最初の自動車用エンジンを納入した。 ボルボは1935年にペンタを買収し、それ以来ボルボ・ペンタはボルボ・グループの子会社である。現在、内燃機関(ICE)と電力システムを海洋産業、発電設備、および同様の産業用に提供。この企業は、ボルボ・ペンタIPSなどのスターンドライブおよびインボードドライブシステムも製造している[2]。エンジンは、出力が7.5〜1,500キロワット(10〜2,039 PS、10〜2,012 bhp)の石油燃料(ディーゼルおよびガソリン)エンジンで構成されている。 1868年に、John G. Grönvallとして知られている技術者Johan George Grönvallは、スウェーデンのシェブデ(英語: Skövde)に機械工房と鋳造所を設立した。会社は1875年に限定され、SköfdeGjuterioch MekaniskaVerkstadまたは単にGjuterietとして知られている。製品は、鍋や通気口からストーブや醸造設備にまで及んでいる。間もなく、Gjuterietは農業用機器と製材用機器の製造も開始した。同社は1900年代初頭に大幅に事業を拡大し、水力発電所向けの蒸気エンジンと水車の製造を開始した。 1907年、ストックホルムを拠点とするエンジニアリング会社であるフリッツエグネルとの協力により1気筒3馬力の圧縮点火エンジンが製作された。エンジンは単にB1と名付けられた。キャッチネームを決めるため5人の委員会が設置された。委員会はキャッチネームに同意できなかったが、5人の委員会はペンタで落ち着いた。 1916年、Egnell は会社を買収し、名前はAB Pentaverkenに変更された。生産は主に海事用途向けのエンジンに集中していた。第一次世界大戦直後の数年間は経済的に厳しいものであったが、新製品が発表された。それは、Carl-AxelSkärlundによって設計された小型の2気筒U2船外機で、U2は1926年にわずかに改良され、U21に名前が変更され、1962年まで生産が続いた。U2/U21は大成功を収め、世界中に輸出された。多くの国で、U21はまだ船外機の代名詞である。 1925年、ペンタは、最初のボルボの自動車用エンジンを必要としていたボルボの創設者であるアッサール・ガブリエルソンから連絡を受けた。その後、ペンタはボルボ・ÖV

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アントニオ・カルルッチョ – Wikipedia

アントニオ・カルルッチョ、OBE OMRI (イタリア語: Antonio Carluccio、イタリア語発音: [anˈtɔːnjo karˈluttʃo]、1937年4月19日‐2017年11月8日)は、イタリアに生まれ、ロンドンを中心に活動した料理人、レストラン経営者、料理研究家である。料理人として50年以上の活動経歴を持ち、イギリスで「イタリア美食の父[1]」と呼ばれた。イタリア料理チェーンであるカルルッチョズの創業者で、イギリスでイタリア料理を普及させるのに大きな功績があったと言われている[2]。テレビ出演でも非常に知られており、イタリア料理専門の料理人で友人のジェンナーロ・コンタルドと共に、イギリスのテレビ番組である BBC TwoのTwo Greedy Italiansシリーズに出演したことなどがある[3]。多数の料理本を執筆しており、ジェイミー・オリヴァーの料理の師のひとりである[2]。 生い立ち[編集] アントニオの父ジョヴァンニはイタリアのベネヴェントで製本業をしていた家庭に生まれ、後に鉄道の駅長を務めた。ジョヴァンニとその妻マリア(旧姓はトリベロン)との間にできた6人の子のうち、アントニオは5番目の子として、イタリアのカンパニア州サレルノ県ヴィエトリ・スル・マーレに生まれた[4]。 幼い頃、父ジョヴァンニの仕事の都合で引っ越し、カステルヌオーヴォ・ベルボ次いでボルゴフランコ・ディヴレーアで暮らした。豊かな自然に囲まれたイタリアの北西部で暮らし、幼いアントニオは父ジョヴァンニと共に、多様な種類のキノコなどを採取していた。学校を卒業した後は兵役義務のためイタリア海軍の下で1年間を過ごした。兵役任務を完了した後、トリノで『ラ・スタンパ』誌の新聞記者として短期間働き、そして技術者兼セールスマンとしてタイプライターの製造・販売会社オリベッティで働いた[5]。その後、一時期ドイツやウィーンに住んだ後、ロンドンに引っ越してワイン取引の仕事に携わった[6]。 1981年にテレンス・コンラン(アントニオの義理の兄弟)が経営するニール・ストリート・レストランの責任者を務め、1989年には店の経営者となった[7]。この店は高い評価を受け、エルトン・ジョンやウェールズ公チャールズも訪れた[6]。このレストランでカルルッチョの指導の下、イギリスの著名な料理人ジェイミー・オリヴァーはプロの料理人としての仕事を始めた[8]。ニール・ストリート・レストランでは野生のキノコを用いた料理が売りであった[6]。 カルルッチョズ[編集] 1991年にニール・ストリートのレストランのそばに食品店を開店した[6]。1999年には自らの名を関したカルルッチョズ・カフェをロンドンのオックスフォード・ストリートそばに開店した[2][6]。その後、カルルッチョズはイギリス国内に100件以上の店をかまえるイタリアンレストランチェーンに成長した[2]。 2007年、アントニオの会社が支払う人件費がイギリスの最低賃金よりも少なく、従業員は客のチップによって報酬を補うものだと会社は認識していたことが報道された[9]。 2010年、アントニオの会社は、ドバイを本拠地とする企業Landmark Groupから9億ポンドに相当する金額でカルルッチオズ買収の提示を受けた。取引は株主によって認可され、2010年10月に取引が完了した[10]。 2018年3月、コストの増加や同業者間の競争が激しさを増したことなどから、カルルッチオズはどのような選択肢があるかに関する財政的なアドバイスを求めて、会計事務所KPMGを迎え入れた[11]。

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三宮駅バスのりば – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “三宮駅バスのりば” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年4月) 三宮駅バスのりば(さんのみやえきバスのりば)では、兵庫県神戸市中央区の三宮地区周辺にあるバス停留所について詳述する。 神戸市の中心部で、JR神戸線を初めとする複数の鉄道路線の要衝でもある三宮地区には、長距離・短距離を問わず数多くの路線バスが発着している。 広範囲にわたり路線が通じ利便性に長ける反面、運行会社や路線ごとに異なる乗り場に発着するケースも珍しくなく、しかも長年にわたり代表的なバスターミナルが存在しなかったため、観光客はもちろん地元の人々にとっても乗り場が分かりにくい状態が続いていた。特に1998年に明石海峡大橋が開通して以降は、淡路島・四国方面へと向かう高速バス路線が激増し、しかもダブルトラックの路線がほとんどである点も重なり、問題の深刻さは増すばかりであった。 こういった問題を解決するため、神戸市は阪神・淡路大震災からの復興と併せてJR三ノ宮駅の南側に建設された神戸新聞会館(ミント神戸)1階にバスターミナルを整備することとし、既設の神戸市バス三宮ターミナルを抱合する形で『三宮バスターミナル』が開設され(2006年11月26日供用開始)、一般路線・高速路線・送迎便計37路線が乗り入れる拠点が誕生した。 しかし、それでも一部の路線や運行会社は『三宮バスターミナル』以外の従来の地点に引き続き発着している。この現状を受け、周辺のバス停にアルファベット(S・N・M・Yのうち一文字)と数字を組み合わせた乗り場番号を割り当てた地図「三ノ宮駅バスのりば案内」を作成した。 また、「三ノ宮駅周辺における公共交通乗継円滑化推進会議」(会議委員)が主体となって『乗り場インフォ三宮』を開設したが、現在は閉鎖されている。 なお、現在は阪神神戸三宮駅やその周辺(中央幹線)で改良工事が行われているため、同駅周辺の一部の乗り場は移転・休止している。 また、乗り場が分散し分かりづらいこともあり三宮駅前の再開発計画で現在の中央区役所の場所に新バスターミナルの整備が計画されている。 乗り場別の概要[編集] 三宮バスターミナル[編集] 三宮バスターミナル(M1

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ヴァシュティ・バニヤン – Wikipedia

ヴァシュティ・バニヤン (Jennifer Vashti Bunyan[2]、バニャンないしバニアンとも表記される、1945年まれ[3] )は、英国のシンガー・ソングライター。 バニヤンは1970年にデビューアルバム Just Another Diamond Day をリリースした。このアルバムはほとんど売れず、落胆したバニヤンは音楽的なキャリアを放棄した。2000年までに彼女のアルバムはカルト的なファンを獲得し、再リリースされ、さらに多くの曲を録音し、30年の空白期間を経て、彼女の音楽キャリアの第二段階を開始した。[4] その後2005年に Lookaftering を、2014年には Heartleap をリリースしている。 生い立ちと教育[編集] ヴァシュティ・バニヤンは1945年にニューカッスル・アポン・タインでジョン・バニヤンとヘレン・ウェバーの間に生まれ、生後6ヶ月でロンドンに移住した。彼女は『天路歴程』の作者ジョン・バニヤンの子孫と言われているが、[5] これは彼女自身が否定した主張である。[6] 1960年代初頭には、オックスフォード大学ラスキン・スクール・オブ・ドローイング・アンド・ファイン・アートで学んだが、美術ではなく音楽に焦点を当てていたために退学となった。[7]

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亜東医院駅 – Wikipedia

亜東医院駅(あとういいんえき)は台湾新北市板橋区にある、台北捷運板南線の駅。駅番号は「BL05」[1]。駅名は当駅出口前の病院・亜東医院(あとういいん)に由来し、亜東病院駅[2]とも言う。 週末と祝祭日の朝以外、土城線列車の半数は当駅で折り返す。 計画段階の駅名は湳子。その後、地元の要請より現駅名に改称した。 地下2階に島式ホーム1面2線を有する地下駅で、出入口は3箇所ある[5](p頁90-91)。 のりば[編集] 駅出口[編集] 出口1・3は駅の北側、出口2は駅の南側にある。 出口1:南雅南路 出口2:中央路一段 出口3:亜東医院 利用状況[編集] 年 年間利用客数 1日平均 乗車 下車 乗降計 出典 乗車 乗降

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札幌市電 – Wikipedia

2013年5月から運行を開始した新型低床車両「A1200形」(中央図書館前電停付近で撮影)。 札幌市電(さっぽろしでん)は北海道札幌市の軌道(路面電車)である。上下分離方式で運用されており、設備・車両は札幌市交通局(札幌市)が保有し、電車運行は札幌市交通事業振興公社が担当する。通称は札幌の路面電車、または単に路面電車[1]。 1909年(明治42年)に建築用石材として需要が急増した「札幌軟石」の輸送線として山鼻 – 石切山間に敷設され、1912年(明治45年)からは路線網を市街地まで拡張した札幌石材馬車鉄道(のち札幌市街馬車軌道)を基とし、1918年(大正7年)に札幌電気軌道として開業、1927年(昭和2年)に市営化された[2]。以後、現在に至るまで長期に亘り札幌市民の足として利用されている。最盛期には札幌市内の東西南北を結ぶ総延長25 km余りの路線を有していたが、利用客の減少や地下鉄の建設により4次にわたる路線縮小の末、一条線・山鼻西線・山鼻線の3路線を残すのみとなった[3]。その後、2015年(平成27年)に都心線(かつての西4丁目線の一部と同ルートだが、軌道位置は中央分離帯から歩道脇〈サイドリザベーション方式〉に変更)が開通し、環状運転を開始した。 2020年(令和2年)4月1日に上下分離方式が取られ、札幌市の路面電車事業の運送事業を札幌市交通局から一般財団法人である札幌市交通事業振興公社へ移管された。 冬季の除雪のために運転されるササラ電車は、冬の訪れを告げる風物詩として各メディアでも取り上げられている[新聞 1]。 「市電」という呼び方のほかに、地元では単に「電車」と呼ばれることがあり、札幌市交通局の一部刊行物や各停留場の標識柱においても「電車」という表記が見受けられる。 事業所[編集] 札幌市中央区南21条西16丁目(電車事業所) 過去の営業所・車庫は「営業所・車庫」の節を参照。 現行路線データ[編集] 路線距離:8.905 km 軌間:1,067 mm 停留場:24 運行時間:05:58

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