Month: September 2017

秋津洲 (水上機母艦) – Wikipedia

秋津洲(あきつしま)は、大日本帝国海軍の水上機母艦[2][19]。 秋津洲型の1番艦(同型艦は建造されず)[20]。 日本海軍の類別上は水上機母艦だが[3]、実際には大型飛行艇への補給、整備を任務とする艦艇であり、飛行艇母艦と呼ばれる事もある[21][22]。 艦名は明治期の防護巡洋艦秋津洲に続き2代目[23][24]。秋津洲とは、日本の別称[25][26]。 軍艦秋津洲(あきつしま、2代目)は、日本海軍が太平洋戦争で運用した水上機母艦[27]。類別上は水上機母艦だが[19][3]、飛行艇の整備補給や救難をおこなう飛行艇母艦である[22]。二式飛行艇を艦尾のクレーンでつりあげ、後甲板に搭載して整備することが可能だった[28]。ただし、飛行艇を搭載したままでの航行は想定していない[28]。 秋津洲は神戸川崎重工業で1940年(昭和15年)10月末から建造がはじまり、1942年(昭和17年)4月29日に竣工した[27]。第十一航空艦隊の第二十五航空戦隊に編入され、5月中旬にサイパン島へ進出[27]。続いてニューブリテン島ラバウルに進出し、飛行艇部隊(横浜海軍航空隊)の支援をおこなった。8月8日には、ガダルカナル島の米艦隊攻撃にむかう第八艦隊とすれちがった(第一次ソロモン海戦)[29]。その後、ショートランド泊地を拠点にガダルカナル島の戦いにともなうソロモン諸島の作戦に従事した[27]。 1943年(昭和18年)2月以降、内南洋諸島で行動する機会が増えた。6月末、幌筵島に進出してキスカ島撤退作戦の支援をおこなった[27]。その後は中部太平洋諸島で行動。1944年(昭和19年)2月17日、トラック島空襲に遭遇して損傷[27]。メレヨン島とパラオ諸島を経由して、横須賀に帰投した[27]。日本海軍はパラオ大空襲で工作艦明石を喪失[30]。そこで秋津洲を工作艦に改造した[18]。捷号作戦にそなえ、秋津洲は第一遊撃部隊(指揮官栗田健男中将、第二艦隊司令長官)に編入された[31][32]。 9月上旬、秋津洲はヒ75船団に同行して九州を出撃、リンガ泊地所在の第一遊撃部隊(通称、栗田艦隊)との合流をめざす[32]。 9月21日、マニラの日本軍は米軍機動部隊艦載機の攻撃をうけ、駆逐艦皐月等が沈没、大損害を受けた[33][34]。秋津洲は特務艦神威等と共にカラミアン諸島コロン島に退避する[33][35]。9月24日、ふたたび空襲をうけ給糧艦伊良湖[35]等と共に撃沈された[33][36]。 帝国海軍では、真珠湾攻撃の5年前から航空機によるハワイ攻撃作戦の研究が組織的に進められていた。 1936年(昭和11年)に海軍大学校がまとめた文書、「対米作戦用兵ニ関スル研究」には、「開戦前敵主要艦艇特ニ航空母艦AL(=真珠湾)ニ在泊スル場合ハ敵ノ不意ニ乗ジ航空機(空母(艦載機)並ニ中艇、大艇)ニ依ル急襲ヲ以テ開戦スルノ着意アルヲ要ス」とある。もし対米戦が始まっても、アメリカ艦隊が出撃して来なければ、帝国海軍の想定した速戦即決の艦隊決戦は起きない。そこで敵の根拠地である真珠湾を航空機で(宣戦布告前に)奇襲攻撃することで開戦し、アメリカ艦隊に早期の出撃を強要することを考えたのである。その奇襲攻撃には空母艦載機の他に、航続力の大きい飛行艇(大艇、中艇)を使用するつもりだったのである。 この文書には、続いて「而シテ現状ニ於テハ大艇、中艇ハGK(=マーシャル諸島)東端付近ヨリ出発シ予メ洋上静穏ナル地域ニ配備セル水上機母艦ニ於テ中継補給ヲ行フ等ノ手段ヲ講ズルヲ要ス」とある。この手段を、水上艦艇で具体化したものが、飛行艇母艦「秋津洲」であり、潜水艦で具体化したものが、「潜補型」であった。 水上機戦力に力を入れた帝国海軍は、大型飛行艇(九七式飛行艇や二式飛行艇)を洋上補給・整備するための新造飛行艇母艦(移動基地)を要望した[22]。そのため水上機母艦神威を改装したが十分でなく、昭和14年度計画(④計画)において新艦(仮称第131号艦)を建造することとなった[37][38]。当初、飛行艇母艦大型(9,950トン)と小型飛行艇母艦(2,550トン)の二種を検討したが、最終的に中型艦案にまとまった[38]。 また昭和17年度の改⑤計画では秋津洲型3隻が建造予定だったが[20]、戦局の変遷により建造中止になった[37][39]。開戦の準備として発動された戦時急備計画(マル急計画)でも同型艦(第303号艦、予定艦名「千早」)の建造が決まり[40][12]、昭和17年7月25日に起工されたが、昭和17年秋には建造中止となった[28]。このほかに、1万1000トン級の艦隊随伴型大型飛行艇母艦、3300トン級の小型飛行艇母艦も計画された[22]。さらに福田啓二造船中将により排水量3万トン、全長200m、幅24mの巨大艦も検討されたが、いずれも太平洋戦争の勃発により実現しなかった[22]。 秋津洲は排水量5000トン程度であり、大型飛行艇1機を艦上で整備するという構想には無理があった[28]。当初の計画では、艦尾のスロープから大型飛行艇をウインチで船体後部の飛行艇収容区画へ引き揚げる計画だった[22][38]。ところが川西航空機が開発した二式飛行艇(重量31トン)をウインチで引き揚げるのは無理という判断により、設計を変更して艦尾に35トン電動クレーンを装備した[28]。このクレーンが秋津洲型の最大の特徴となった[28]。艦内には航空隊員用の居住施設、飛行艇に搭載する魚雷(36本)・爆弾・機銃弾等の弾薬庫、軽質油用タンク、工作施設を備え、通信設備も充実していた[13]。なお秋津洲型は大型飛行艇を艦上に収容した場合、搭載機が航行中に損傷したり、あるいは操艦そのものが困難となるため、揚収中は航行しない事を前提に運用されている[28]。 秋津洲が施していた特異な迷彩塗装は、本艦の初代艦長黛治夫大佐の影響であった[18]。第一次ソロモン海戦後のラバウルで、第八艦隊参謀長大西新蔵少将が本艦の迷彩の事を「厚化粧みたいにゴテゴテ塗ってきたな」と指摘した時には「攻撃力がないから、昆虫のように保護色にしたんですよ」と黛艦長は説明している[29][41]。 またラバウル停泊時、空襲を回避するため、連日の爆撃から航海士が米重爆の水平爆撃のクセを見抜き、黛艦長に進言、独自の回避行動を実践した[42]。これは停泊中に空襲を受けた場合に、両舷の錨を右舷側に偏らせ150mの所まで錨鎖を伸ばしておき、敵機が仰角38度になった時に前進一杯を号令すると艦が急速に右舷側に動いて回避できるという方法であった[43][42]。ソロモン諸島で行動する時には、座礁すれすれの場所を通ることで米潜水艦の襲撃を防いでいる[44]。黛は単艦指揮官としての工夫を「秋津洲流兵法」[45]、航海方法については「秋津洲流戦場航海術」と称していた[46][44]。 機関は22号10型ディーゼル4基を搭載、2組ずつフルカンギアで接続し2軸とした[9]。その他補助缶にホ号艦本式缶(空気過熱器付)2基を搭載した[9][8]。電源は200KVAディーゼル発電機2基、2770KVA同1基を搭載、交流電源だった[10] 大戦中は飛行艇用の広い後甲板とクレーンを利用して魚雷艇数隻を搭載し前線への輸送を行った[18]。1944年(昭和19年)3月に横須賀海軍工廠で損傷修理を行った際に21号電探を前部マスト上に1基装備、機銃を増備し25mm3連装機銃6基、同単装3挺となった[12]。また後甲板に軌条3組を設けて、魚雷艇または大発などの運搬設備を設けた[12]。日本海軍は1944年前半に工作艦船のほとんどを喪失したため[18]、同年8月に呉海軍工廠で臨時の工作艦任務のための改造を行った[12]。 建造経緯[編集]

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トム・デンプシー – Wikipedia

トム・デンプシー (Thomas John Dempsey,1947年1月12日 – 2020年4月4日)は、ウィスコンシン州・ミルウォーキー出身のアメリカンフットボールの元選手である。プレースキッカーとして、ニューオーリンズ・セインツ、フィラデルフィア・イーグルス、ロサンゼルス・ラムズ、テネシー・タイタンズ、バッファロー・ビルズでプレーし、11年間NFLに在籍した。生まれつき、右手と右足の先が欠損する障害を負っていたが[1][2]、つま先を平にした特殊な靴を用いて活躍した(1977年から通常靴が義務化)。1970年11月8日のデトロイト・ライオンズ戦で成功した63ヤードフィールドゴールは、2013年12月8日にデンバー・ブロンコスのマット・プレイター(英語版)が64ヤードフィールドゴールを成功するまで43年間最長記録として保持された[3]。 現在では広く採用されているサッカースタイルのキックではなく、当時は主流であったトーキックで蹴るストレートタイプのキッカーである[4] 。 晩年はアルツハイマー型認知症により闘病中であることを公表し、アメリカの著名な脳障害専門家であるダニエル・エイメンによる初期診断において、脳内に3つの空洞が発見された。2020年4月4日、新型コロナウイルス感染症により死去した[5]。 関連項目[編集] ^ Daye, Raymond L. (2014年12月2日). “Remembering “The Kick””. Avoyelles Journal

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安心ラジオ – Wikipedia

安心ラジオ(あんしんラジオ)は、NHKラジオ第1放送、NHKワールド・ラジオ日本(国外向け)[注釈 1] が2014年3月31日に放送を開始した防災・防犯についてのミニ番組である。 災害への備えを中心に、健康や防犯、消費者問題など、暮らしの安心に役立つ情報を放送している[1][注釈 2]。 NHKラジオでは「安心ラジオ」をテーマに、常に生活の身近な視点での防災・防犯に役立つ情報を提供し、放送を公共財とすることを目指すが、2014年度からはこのテーマに即した1分間のキャンペーン番組を放送し、「いつもあなたと“安心ラジオ”」をテーマに、どこでも聞ける、あすからできる、生活に密着した番組をめざしている。 また、2018年4月8日の野村正育の担当開始から、放送時間が1分間から5分間へと変更になった[2]。 2021年度 [3] 2018年度 – 2020年度[2] 2017年度[8] 2015年度 – 2016年度[9] 2014年度[10] 放送日時[編集] 2021年度 ※いずれもJST。

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