Month: September 2017

建久七年の政変 – Wikipedia

建久七年の政変(けんきゅうしちねんのせいへん)は、建久7年(1196年)11月、九条兼実が関白を罷免され失脚した事件。 兼実の執政と南都復興[編集] 建久3年(1192年)3月13日、後白河法皇の崩御により関白・九条兼実は、幼年の後鳥羽天皇を擁して名実ともに政治の実権を掌握した。7月12日、兼実は初度の朝政として源頼朝に征夷大将軍を宣下して関東との協調に努め、腹心で「九条殿のならびなき後見役」[1] と呼ばれた葉室宗頼を後院庁別当とした。11月には、弟の慈円を天台座主に任じ延暦寺を統制させて、政権基盤の強化を図った。兼実は治承・寿永の乱で荒廃した南都の復興に力を尽くし、建久5年(1194年)に藤原氏の氏寺・興福寺、建久6年(1195年)には鎮護国家の象徴・東大寺の再建を成し遂げて摂関家の威信を示した。後鳥羽天皇も兼実の施政を善政と評価して御遊を自粛するなど(『愚管抄』)信頼を寄せており、後白河院政下で「無権の執政」[2] と嘆いていた兼実にも、ようやく前途が開けたかに見えた。 院近臣の抑圧[編集] 後白河法皇は末娘の宣陽門院を溺愛して、院領の中でも最大規模の長講堂領を伝領させたが、宣陽門院の生母・丹後局と宣陽門院執事別当の土御門通親は所領拡大のために、播磨国・備前国において荘園の新規立券を行った。兼実は摂関家嫡流に生まれた自負から院近臣に反感を抱いていたが、法皇崩御を機にその抑圧に乗り出し、手始めにこの宣陽門院領の立荘を取り消した(『愚管抄』)。さらに建久4年(1193年)12月9日の除目において、参議の山科実教・藤原成経の中将兼任を停めて両名を辞職に追い込んだ。実教と成経は院近臣の代表的な家柄である善勝寺流の出身であり、実教は丹後局の子・教成を猶子としていた。翌年正月には、教成も左少将を辞任している。これらの措置は丹後局の憤激を招き、廟堂から排除された院近臣は宣陽門院を牙城として兼実を追い落とす機会を伺うことになる。 兼実の認識では摂関家・公卿・諸大夫の区別が厳然として存在し、院政期に台頭した善勝寺流や勧修寺流は元々は摂関家の家司であるとして一段低く見る傾向があった。兼実の執政下では、大納言は摂関家・花山院流・閑院流などの上流貴族に限定され(例外は兼実の義兄で道綱流の藤原定能のみ)、実務官僚として地道に実績を積み上げてきた勧修寺流の吉田経房、葉室光雅、葉室宗頼などは昇進を見送られた。また兼実の故実先例へのこだわりは、誰にも掣肘されることのない最高権力者の立場になってから更に厳格さを増していった。公事・作法の過失・懈怠に対しては、過状の提出を求めたり勘責を加えるようになり[3]、朝廷内では中・下級貴族を中心に兼実への反発が広がっていった。 頼朝再上洛[編集] 建久6年(1195年)3月4日、頼朝は東大寺落慶供養に参列するため5年ぶりに上洛した。頼朝は落慶供養を終えて京に戻るとまず宣陽門院に参入し、3月29日には丹後局を六波羅に招いて政子・大姫と引き合わせ、豪奢な贈り物を進呈した。これは大姫入内工作の一環と思われる。一方、兼実と頼朝が対面したのは3月30日の参内の際だったが『玉葉』には「雑事を談ず」とあるだけで、4月1日条には頼朝の贈り物が「馬二疋」であったことを「甚だ乏少」と記し、頼朝の態度の変化に困惑している様子が伺える。 4月10日、兼実と頼朝は再び対面するがこの時の会談はかなり長くなり、深更にまで及んだ。4月12日には、吉田経房が六波羅に参入して頼朝や大江広元と盃酒を交わし、「旧院御代の事」や「当時御世務」について談話が数刻に及んだ。これらの会談の主題は兼実がかつて取り消した長講堂領の再興問題と推測される。10日の兼実と頼朝の会談が長引いたのは兼実の執拗な抵抗があったためと見られるが、4月24日になって頼朝の申し入れにより長講堂領七ヶ所の再興が決定された。兼実は有職故実には通じていたが政治工作は不得手であり、丹後局と頼朝の接近を眼前にしても状況を傍観する以外に手立てはなかった。 失脚[編集] 頼みとしていた頼朝の支援を失った兼実にとって、唯一の希望は中宮・任子の皇子誕生だけだった。しかし祈祷の甲斐もなく、8月13日に生まれたのは皇女(昇子内親王)だった。兼実の落胆は大きく、当日の記事すら書き残していない。11月10日、兼実の嫡子・良経が内大臣となり次期摂関であることを内外に示した。兼実はなおも任子の再度の懐妊に望みをつないでいたが、12月に通親の養女・在子が皇子(為仁、のちの土御門天皇)を産んだことが明らかとなった。ここに至り、廷臣の大半は兼実に見切りをつけて、皇子を養育している通親の傘下に流れていった。建久7年(1196年)3月23日、兼実の長年の盟友だった左大臣・三条実房が病により辞任するが、兼実は後任を定めなかった。これは次席の右大臣・花山院兼雅が通親派だったこともあるが、兼実の求心力が地に落ちて人事権を行使できなくなっていたことが大きな要因だったと思われる。 11月23日、中宮・任子は内裏から退去させられ、25日には兼実が上表の形式すらなく関白を罷免された[4]。後任の関白には近衛基通が任じられた。『愚管抄』によると通親は兼実の流罪まで行おうとしたが、後鳥羽天皇がそこまでの罪はないと押し止めたという。弟の慈円・兼房もそれぞれ天台座主・太政大臣を辞任した。この政変において兼実を支援する勢力は皆無に等しかった。兼実の家司・三条長兼は「九条殿に参るの人、関東将軍咎を成す。用心すべし」という風聞を記している(『三長記』)[5]。兼実の執政は法皇崩御から僅か4年余りで終焉することになった。 その後[編集] 兼実失脚後に朝政を主導することになった通親は、兼実の門閥重視で硬直した公卿人事を見直し、兼実執政下で不遇だった貴族を次々に昇進させた。吉田経房・葉室宗頼は権大納言に、山科実教は中納言に、一条高能は参議となった。兼実のかつての側近であった宗頼は通親の義妹・卿局を妻に迎え、通親の嫡子・通光を婿とするなど完全に通親派に鞍替えした。内大臣・良経は九条家で一人だけ廟堂に留まったが、篭居を余儀なくされた。建久8年(1197年)に大姫が死去し、建久9年(1198年)に土御門天皇が即位して通親が権勢を極めると、頼朝は朝廷における代弁者であった一条能保・高能父子が相次いで病死したこともあり、遅ればせながら危機感を抱いて兼実に書状を送り再度の提携を申し入れたといわれる[6]。兼実は頼朝の上洛と支援に期待をかけたが、翌年の頼朝急死でその望みは潰えた。 だが、頼朝が兼実に再度の提携を申し入れたとの話は兼実の日記『玉葉』やその弟慈円の『愚管抄』にのみ見られるものであり、通親は実際には頼朝や頼家に最大限の配慮をしているため、反幕的公卿の指摘は当たらないとする見解もある。政権基盤の脆弱な通親が頼朝と敵対したらひとたまりもなく、また大姫死後も頼朝は次女三幡の入内工作を進めており、三幡は通親の主導する朝廷から女御の宣旨を受けている。御家人統制に王朝権威を利用し始めた頼朝にとって朝廷統制は不可欠であって、その最も直截的な方策こそ娘の入内と外孫の即位であり、入内の頓挫は頼朝自身と三幡の相次ぐ病死という想定外の事態によるものに過ぎない。3度目の上洛が実現していたら頼朝は三幡を後鳥羽の後宮に送り込むことに成功していただろうとする見解もある[7]。 良経は後鳥羽上皇の意向で正治元年(1199年)に篭居のままで左大臣となり、正治2年(1200年)には出仕を許され朝廷に復帰するが、通親の権勢の前には無力だった。その後、後鳥羽院政が確立すると摂関はほとんど名目的な地位と化し、摂関家は近衛家・九条家ともに上皇に従属することになる。 ^ 「九条殿ノ左右ナキ御後見」(『愚管抄』)

Continue reading

大瀧神社・岡太神社 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “大瀧神社・岡太神社” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年11月) 大瀧神社・岡太神社(おおたきじんじゃ・おかもと-)は、福井県越前市大滝町にある神社である。上宮(奥の院)には大瀧・岡太両神社の本殿が並んで建つが、下宮(里宮)の本殿・拝殿は両神社の共有となっていることから、2つの神社の名前が併記される。国の重要文化財指定名称は「大滝神社」である。 伝承によれば、養老3年(719年)、この地を訪れた泰澄が、国常立尊(くにとこたちのみこと)・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を主祭神とし、十一面観世音菩薩を本地とする神仏習合の社を創建し、大瀧兒(おおちご)権現を建立したという。後に明治時代の神仏分離令により、現在の大瀧神社となった[1]。 岡太神社については、約1500年前、大滝町の岡本川上流に美しい姫が現れ、村人に紙漉きの技術を伝えたのが始まりとされている。この伝説の姫『川上御前』を、和紙の神様・紙祖神(しそじん)として祀ったのが岡太神社である[1] 。延元2年(1337年)の足利軍の兵火で社殿が失われ、岡太神社の祭神を大瀧神社の相殿に祭った。さらに天正3年(1575年)、織田信長の一向一揆攻略の際、大瀧寺一山が兵火に遭い消失。再建時に大瀧神社の摂社として境内に祀られるようになった。 大正12年(1923年)、大蔵省印刷局抄紙部に川上御前の分霊が奉祀され、岡太神社は名実共に全国紙業界の総鎮守となった。 神社の格としては大瀧神社の方が上であるが、住民達が崇拝してきたのは川上御前であったため「大瀧神社・岡太神社」と並記していると考えられている[2] 。 重要文化財(国指定) 県指定天然記念物 大滝神社のゼンマイザクラ[4]  昭和39年6月5日指定。ゼンマイのとれる頃に花が満開となる、エドヒガンの大木。

Continue reading

鈴木あづさ – Wikipedia

鈴木 あづさ (すずき あづさ、1974年8月15日 – ) は、日本の作家(ペンネーム:水野 梓)で ニュースキャスター。日本テレビ放送網報道局経済部のデスクとして財務省と内閣府を担当する報道記者。過去には読売新聞社編集委員、『NNNドキュメント』ディレクター・プロデューサー、『news every』デスクを歴任した。早稲田大学第一文学部、オレゴン大学ジャーナリズム学部卒業。 『小説家』『テレビ局の現役社員』『報道キャスター』の3つの顔を持つ。 幼少期・学生時代[編集] 東京都生まれ。祖母の水野冨美子は東洋英和女学院の国語の教師で、柳原白蓮や『赤毛のアン』を訳した村岡花子(NHK連続テレビ小説『花子とアン』のモデル/吉高由里子(演))を教えた。そんな祖母から本を読む喜びを教えてもらう。祖母の家を訪れると、いつもお小遣いの代わりに新しい本を一冊買って待っていてくれて。『いやいやえん』『小さいモモちゃん』シリーズ、『ガラスのうさぎ』『モモ』など。いつもワクワクする物語の世界の入り口だった[1]。 幼少期からジャーナリスト志望だった。小学生の時は新聞委員を務めた。将来の夢は新聞記者。小学3~4年生くらいから小説家にも憧れた。当時は友達関係で悩んでいて、学校ではずっと図書館にこもっていた。司書の先生が勧めてくれたのが「孤高の人」(新田次郎著)という小説で、主人公が1人で山と向き合う姿勢に「孤独でもいいんだ」「何でもうまくやろうとしなくていいんだ」と気分が楽になった。小説の登場人物との会話が救ってくれた[2][3]。 早稲田大学第一文学部入学。大学在学中にアメリカ合衆国の大学に海外留学をし、オレゴン大学のジャーナリズム学部を卒業し、帰国後、早稲田大学を卒業。卒業論文は小説だった[4]。 『日本テレビ』入社[編集] 1999年(平成11年)日本テレビ放送網に入社、報道局に配属[5]。 報道局社会部では 警視庁や皇室等を取材。原子力・社会部デスクを経て、NNN北京支局(現在のNNN中国総局)に異動。中国特派員を経て日本に帰国。帰国後は『NNNドキュメント』のディレクター・プロデューサー、『news every』のデスクを担当[4]。

Continue reading

火野村豪 – Wikipedia

ひのむらごう火野村豪 生年月日 (1974-09-07) 1974年9月7日(47歳) 本名 福岡和章 出身地 兵庫県姫路市 出生地 兵庫県神崎郡香寺町 国籍 日本人(JPN) 学歴 兵庫県立姫路東高等学校 所属 バンコク予約ドットコムホーチミン予約ドットコムバンコク賃貸ドットコムMelmo Group Co., Ltd. ジャンル

Continue reading

ゴイ – Wikipedia

ゴイ(Goy、ヘブライ語: גוי‎)とは、ヘブライ語聖書で「民族」を指す語[1]。非ユダヤ人の諸民族を指す複数形のゴイム(goyim、גוים、גויים)は、『出エジプト記』34章24節の「我は汝の前に諸民族を追放するであろう」という表現にも見られ、古代ローマ時代にはすでに「異教徒」の意味をもつようになって久しかった[2]。後者はイディッシュ語に見られる表現である。 現在では専ら非ユダヤ人を指す差別語でもあり、クリスチャンやムスリムに対して広く用いられるが、ユダヤ人がユダヤ教以外のあらゆる宗教を奉じる人々を指して使うことが多い。 ヘブライ語聖書[編集] トーラーではゴイやその異形が、ヘブライ人や異教徒に言及する中で550回以上使用。初出は『創世記』10章5節で、当初は非ユダヤ民族を指す悪意の無い語であった。ヘブライ人に関する初の言及は、神がアブラハムに対して、子孫が偉大なる民族(goy gadol)を形成すると約束した、『創世記』12章2節に見られる。 『出エジプト記』19章6節ではユダヤ人が「聖なる民族」(goy kadosh)と述べられている[3]ように、初期のヘブライ語聖書ではゴイをヘブライ人に対して用いることが多い一方、後には他民族を指すようになってゆく。 翻訳された聖書の中には、ゴイムという語を訳出せず、国名として扱っているものもある。『創世記』14章1節では「ゴイムの王」はティドアル(テダル)であるとなっている。聖書の解説書の中にはゴイムはグティウムを示しているかもしれないとするものもある[1]。 ユダヤ教ラビ[編集] 旧約聖書で選民についてのより詩的かつ、ユダヤ人学者の間で一般的な表現の1つに、神が聖書の中でユダヤ人を「この世で唯一無二の民族」(goy ehad b’aretz)と宣言している箇所がある(『サムエル記上』7章23節および『歴代志上』17章21節)。 ラビ文学においては世界に70の民族(goyim)がおり、いずれも独自の言語を持つとしている。当該節では「彼(神)がイスラエルの数に従って国境を取り決めた」(『申命記』32章8節)としており、中世フランスのラビであるラシは、「セムから生まれることになるイスラエルや、エジプトに下ったイスラエルの70の魂により、彼は70の言語(によって特徴付けられる)『国境』を取り決めた」と主張。 一方、ハイム・イブン・アター[4]は「(エルサレム神殿にある)メノーラーという7脚の蝋燭は世界の70民族に対応し、それぞれ(の蝋燭)が10(の民族)を表している。これはそれらが皆西方(の蝋燭)、つまりユダヤ人の反対側で輝いていることをほのめかしている」とした。 現代の用法[編集] 前述の通り、ラビ文学では「ゴイ」という語の意味がヘブライ人、ないしはユダヤ人から「ユダヤ人以外の民族」へと変遷してきた。後にはそのような非ユダヤ人を指す語として定着するに至る。 現代ヘブライ語およびイディッシュ語では、「ゴイ」という語が異教徒(gentile)を表す一般的な表現である。なお、両者には関連があり、古代ギリシャ語で「タ・エスネ」(τα έθνη)が「ハ・ゴイム」(ha goyim)を訳す際に用いられ、いずれも「諸民族」を表す。ラテン語では「gentilis」が「民族」という意味があるギリシャ語の「タ・エスネ」を訳すために使われており、「gentile」という語につながってゆく[5]。

Continue reading

アントラーズ (映画) – Wikipedia

『アントラーズ』(原題: Antlers)は2021年に公開されたアメリカ合衆国・カナダ・メキシコ合作のホラー映画である。監督はスコット・クーパー、主演はケリー・ラッセルが務めた。本作はニック・アントスカが2019年に発表した短編小説『The Quiet Boy』を原作としている。 本作は日本では劇場公開されず、Disney+にて2022年1月5日より配信された。 オレゴン州のとある田舎町。教師のジュリア・メドウズは教え子の1人、ルーカスが虐待を受けているのではないかと心配していた。と言うのも、ルーカスが小動物を殺したり、街中で突然叫びだしたりするようになったからである。ジュリアは保安官である弟(ポール)と共に調査を始めたが、その先に待っていたのは世にもおぞましい怪物との戦いであった。 キャスト[編集] 2018年7月11日、ケリー・ラッセルが本作の出演交渉に臨んでおり、スコット・クーパーに本作の監督オファーが出ているとの報道があった[2]。8月14日、ジェシー・プレモンスの出演が決まったと報じられた[3]。10月1日、グラハム・グリーン、ジェレミー・T・トーマス、エイミー・マディガン、スコット・ヘイズがキャスト入りした[4]。 撮影・音楽[編集] 本作の主要撮影は2018年10月1日にカナダのバンクーバーで始まり、同年11月20日に終了した[5][6]。 2019年5月7日、ハビエル・ナバレテが本作で使用される楽曲を手掛けることになったと報じられた[7]。 公開・マーケティング[編集] 当初、本作は2020年4月17日に全米公開される予定だったが[8]、同年3月中旬にアメリカ国内で新型コロナウイルスが流行したため、多くの映画館が閉鎖されるという事態が発生した。そのため、配給元のサーチライト・ピクチャーズは本作の全米公開を延期する決断を下した[9]。7月、本作の全米公開日が2021年2月19日に再設定されたが[10]、後に公開日は同年10月29日へと延期されることになった[11]。 2019年8月20日、本作のティーザー・トレイラーが公開された[12]。10月23日、本作のオフィシャル・トレイラーが公開された[13]。12月10日、本作のファイナル・トレイラーが公開された[14]。2021年10月11日、本作はビヨンド・フェストのクロージング作品としてプレミア上映された[15]。29日、本作は全米2800館で封切られ、公開初週末に427万ドルを稼ぎ出し、週末興行収入ランキング初登場6位となった[16]。 本作は批評家から好意的に評価されている。映画批評集積サイトのRotten Tomatoesには171件のレビューがあり、批評家支持率は60%、平均点は10点満点で5.9点となっている。サイト側による批評家の見解の要約は「ホラー要素と寓話的要素のバランスをうまい具合にすることに苦労している。しかし、『アントラーズ』に出てくるクリーチャーの造形は実に素晴らしいものであり、鑑賞を勧めるに足る鋭さのある作品には仕上がっている」となっている[17]。また、Metacriticには33件のレビューがあり、加重平均値は57/100となっている[18]。なお、本作のシネマスコアはC+となっている [19]。 外部リンク[編集]

Continue reading

西フラマン語 – Wikipedia

西フラマン語(にしフラマンご、West-Vlaams)は、ベルギーのウェスト=フランデレン州の広い地域とオランダのゼーラントフランデレン、1963年に西フランデレンから分離したベルギーのエノー州コミーヌ・ヴァルヌトンの一部で話されている地域語。 オースト=フランデレン州の西部、例えばメーチエスラントやズュルテ、マルデヘム付近でも似た方言が話されている。明らかに西フラマン語であっても、ゼーラントフランデレンの西部で話されている地域語はゼーラント語とみなされる。フランス領フランドルで話されているフランス・フラマン語は消滅のおそれがあるものの、今も数千の話者がいる。 「西フラマン語」とは、広義にはオランダ南西部で話されている方言群も指す。したがって、これはフランス・フラマン語も含めた西フラマン語とゼーラント語に対する一般的な名称である。 中世にはアルトワとの交易が盛んだったため、西フラマン語はフランス語ピカール方言の影響を強く受けている。アラスは中世初期にフランドルの一部になり、中世末期にはオランダに加えられた。西フラマン方言、特に重要な商業都市であるブルッヘの方言は、初期中世オランダ語の標準化に寄与している。西フラマン語の weggevaagd と waagschaal という語形から weggeveegd と weegschaal という形が現れ、これらは現在標準オランダ語に採り入れられている。西フラマン語は、中世オランダ語の特徴を最もよく残しているオランダ語の方言である。 西フラマン語は概ね低地フランク語的だが、北海ゲルマン語的な特徴も多分に持つ。このことにより、以前はフリジア語か低ザクセン語の基層言語があったのではないかという推測がなされた。そうするとなぜ西フラマン語と東フラマン語の対立があるのかという疑問に答えるのは容易ではなく、その地理的・政治的な理由は見当たらない。西フラマン語が低フランク語と別言語であると見なす十分な理由があるとして、その可能性を指摘する者もいる。しかしこれは東フラマン語との間に方言連続体があるために否定される。さらに、ブラバント方言とともに標準語の基礎になっているホラント方言は低フランク語ではない。西フラマン語が中世末期以降ホラント方言やブラバント方言とは異なる展開を遂げたため、音が一致していない点から別な言語だと見なす者もいる。 この考え方は、特に19世紀後半に西フラマン語純粋主義者の運動を通じて支持された。運動の支持者らは「半分ユダヤ的で半分異教徒的な高地ホラント語」の導入に反対した。ベルギーでのオランダ語の標準語化に抵抗し、「父なるフラマン語」つまり西フラマン語保持のために闘争を行った。方言学者のレオナート・ローデウェイク・ダ・ボーや詩人のヒュイド・ヘゼルを中心としたカトリック教会は標準オランダ語を通したプロテスタントの流入を恐れた。 標準オランダ語の教育が進められ、特に20世紀末になると一般に方言は厳しい状況を迎えている。しかし、農村としての性格が強く、遠隔地で話されていることから、西フラマン語は他の方言と違って恵まれた立場にある。フランドルでは最も重要な方言であり、若者を含めた幅広い層に話されている。実質的にあらゆる会話は西フラマン語で行われる。1993年にベルリン自由大学のドイツ・オランダ文献学研究所が行った学生の方言知識に関する調査によると、アントウェルペンで62%、リンブルクでは40%にとどまったのに対し、西フラマン人学生の88%が今も方言を話していることが分かった。 北海ゲルマン語的特徴[編集] 4世紀と5世紀と考えられるゲルマン人の民族移動の結果フランデレンにたどり着いたサクソン人(ザクセン人)の方言の痕跡が今も西フラマン語には多くある。この沿岸ゲルマン的、北海ゲルマン的な特徴は、ゼーラント語やホラント語など他のオランダ語方言だけでなく、低ザクセン語、フリジア語、英語にも反映されている。西フランデレンの西部に行くほどその特徴がよく見られる。 西フラマン語が受けた北海ゲルマン語的影響は、例えば pit「穴」、rik 「後ろ」、dinne「薄い」、より古い

Continue reading

カスバート・コリングウッド – Wikipedia

初代コリングウッド男爵カスバート・コリングウッド(英: Cuthbert Collingwood、1st Baron Collingwood, 1748年9月26日 – 1810年5月7日)はイギリス海軍の提督、初代コリングウッド男爵。ナポレオン戦争をホレーショ・ネルソン提督と共に戦った人物として、またネルソン没後の後継者として知られている。 コリングウッドはニューカッスル・アポン・タインで生まれ、同地の王立グラマースクールで初等教育を受けた。彼は11歳のときリチャード・ブレイスウェイト艦長の28門フリゲートシャノンに志願兵として初めての軍務につく。その後コリングウッドはブレイスウェイトやロバート・ロダムの下で数年間経験を積んだ。その後1774年、コリングウッドはサミュエル・グレイヴス提督の艦隊に加わってボストンに向かう。アメリカ独立戦争ではバンカーヒルの戦いに参加し、結果1775年6月17日海尉に昇進した。1779年6月20日には海尉艦長に昇任しネルソンの後任としてバジャーの指揮を執った。翌1780年3月22日になるとまたもやネルソンの後任としてヒンチンブルックという小型フリゲートの勅任艦長になる。このときネルソンにはサン・ファン川、ニカラグア湖、レオン湖をボートで遡上して太平洋を目指す探検が命ぜられていたのだが、この任務が失敗に終わるとネルソンは精神的に不安定になり、休養が必要になったためにコリングウッドがヒンチンブルックと残りの探検隊をジャマイカに帰還させることとなったのである。 高級指揮官[編集] コリングウッドはもう一隻小型フリゲートの艦長となった後、64門戦列艦サンプソンに配備される。1783年以降は西インドで44門フリゲート・メディエーターの指揮を執り、数年間ネルソンらと共にアメリカ船舶の阻止を行った。 1786年にコリングウッドはイギリスへと帰国し、1791年サラ・ブラケットと結婚した。サラはかつて上官だったロバート・ロダムの孫である。1793年には海峡艦隊長官ジョージ・ボウヤー少将の旗艦プリンス(98門)の艦長になる。 コリングウッドは98門艦バーフラーの艦長として栄光の6月1日海戦に、エクセレントの艦長としてサン・ビセンテ岬の海戦に参加し、指揮官としての評判をあげた。カディスの封鎖を行った後、彼は修理のため数週間ポーツマスに戻る。1799年2月14日にコリングウッドは白色艦隊少将に任ぜられ、74門艦トライアンフに将旗を掲げた。1801年1月1日には赤色艦隊少将となる。提督となったコリングウッドは当初海峡艦隊に着任したが、やがてフランスとスペインの主力が存在する地中海へと転属になった。コリングウッドは活発に港湾封鎖任務をこなし、アミアンの和約が結ばれてフランス革命戦争が終結するまで帰国することはなかった。 短期間の休戦期間を経て1803年4月にナポレオン戦争が始まると、コリングウッドは再び前線へと旅立ち、死ぬまで戻ることはなかった。まずコリングウッドはブレスト沖でフランス艦隊の封鎖にあたる。1804年4月23日には青色艦隊中将に昇進した。 ナポレオン・ボナパルトは戦争が再開するとすぐにイギリス上陸作戦を準備しはじめていた。この計画は全ヨーロッパの運命を決める重大なものであったが、1805年に実行に移された。コリングウッドの戦隊にはトゥーロン港を脱出したフランス艦隊を追尾する任務が与えられる。最初西インドへと向かったフランス・スペイン連合艦隊はカディスへと帰還する途中、コリングウッドのたった3隻の小戦隊と遭遇するが、彼は16隻の戦列艦による追跡を振り切った後、敵艦隊がまだ半分も入港していないうちにカディスの封鎖を再開した。コリングウッドは偽の信号を発することでイギリス艦隊の規模を誤認させたのである。その後彼の戦隊はネルソンの地中海艦隊と合同し、仏西艦隊に決戦を挑むことになる。 トラファルガーの海戦[編集] トラファルガーの海戦 フランス・スペイン艦隊は最終的に1805年10月にカディスを出航し、直後にトラファルガーの海戦が生起した。フランスのピエール=シャルル・ヴィルヌーヴ提督は艦隊を三日月型の縦陣にしていたが、ネルソンのヴィクトリーとコリングウッドのロイヤル・ソブリンに率いられたイギリスの2つの戦列で接近していった。ロイヤル・ソブリンは他の列艦に比べて高速を発揮したが、これは主に船体の銅被覆を交換したばかりで抵抗が少なかったためである。ロイヤル・ソブリンが後続を引き離して単独で敵艦隊に突入していくのを見たネルソンは指さしながら「コリングウッドのすばらしい戦い方を見たまえ!」と言ったが、このときコリングウッドもまるでネルソンに返答するかのように「ネルソンはこの場にいたかっただろうね」と艦長に語ったと言われている。 ロイヤル・ソブリンはまずスペインの旗艦サンタ・アナに接近し、激しい砲撃を浴びせて沈没寸前に追い込む。しかしサンタ・アナの救援に駆けつけた敵艦の集中砲火を受けてロイヤル・ソブリンもまた手ひどい損傷を負ってしまう。しかしサンタ・アナの降伏直後に僚艦が戦闘に加わり、窮地を脱する。この海戦でネルソンが死亡したため、コリングウッドはイギリス側の最高指揮官となったが、ネルソンが「錨を降ろせ」と遺言したのにも関わらず無視した。このため捕獲艦の多くが海戦に続いて発生した嵐で失われることになった。 コリングウッドは海戦後に「コールドバーンとヒースプールのコリングウッド男爵」に叙せられ、国会両院から2000ポンドの年金が贈られることになった。

Continue reading

榮太樓總本鋪 – Wikipedia

株式会社榮太樓總本鋪(えいたろうそうほんぽ、英語:Eitaro Sohonpo Co.)は、東京都中央区日本橋に本社・本店を構える、老舗の和菓子店である。創業は1818年(文政元年)。 本店は、江戸時代に細田栄太郎が店舗を構えた日本橋の「西河岸(にしがし)」の地に今もある。本社も同ビル内。 調布市仙川町2丁目に工場があったが2013年に廃止。現在、工場は八王子市七国1丁目にあり、そこで商品が製造されている。大阪府と福岡県に営業所を持つ。 商品の主な販売先は、百貨店・空港・駅構内・スーパー・コンビニ・ショッピングモールなど多岐に亘る。他には、榮太樓飴を主力商品として昔からの神社仏閣ルートも持っている。 近年はさらにWEB通販にも力を入れている。 社名の由来[編集] 1818年に江戸での菓子業を始めた細田徳兵衛のひ孫に当たる細田栄太郎の名前がその由来。 徳兵衛時代は九段に店を持っていたが、1857年、日本橋に店舗を構えたのが栄太郎である。開店当初は徳兵衛時代の「井筒屋」で商売を始めたが、わずか3、4年後には店名を「榮太樓」に変更した。 理由は客が「井筒屋」とは言わず、「えいたろうの店」「えいちゃんの店」としか呼ばなかったためらしい。 榮太樓總本鋪では1818年(文政元年)を創業年としている。 遡るとそれ以前にも数十年間の菓子業を営んでいる期間があるがそれは飯能時代のこと。細田徳兵衛が二人の孫とともに江戸九段の店で菓子業を始めたときを創業年としている。栄太郎から見ると細田徳兵衛は曾祖父に当たる。 1700年代の初め、現在の武州飯能に吉左衛門四世という者がいた。家は士族でありながら農業で生計を立てていた。1700年代なかば頃、吉左衛門四世は先祖代々の士族の位を捨てて菓子業を始めた。名前も善兵衛に変える。これが榮太樓の菓子業の始まり。そのときに作っていたのは煎餅焼。その商いは息子の善兵衛二世や孫に継がれる。この孫の名前が徳兵衛。徳兵衛は1817年に妻を亡くし、その翌年に孫二人(安太郎、安五郎)を連れて江戸御府内に出府。徳兵衛は江戸の九段坂で煎餅焼の商売を開始。店名は「井筒屋」。その井筒屋はのちに安太郎が継ぎ、安五郎は独立して別の菓子店に勤める。安五郎は腕が良く職長をしていた。やがて安五郎は「伊立屋」の看板を掲げて一本立ち。1830年に結婚。1832年に長男、栄太郎が生まれる。栄太郎は子供の頃からよく父の商いの手伝いをしていたので町内では孝子で通っていた。 1852年、栄太郎19歳のときに流行り病で伯父と父親を同時に亡くす。母と弟や妹など家族もいるので栄太郎は伯父の名である安兵衛を継いで一族の長となる。このとき九段坂の井筒屋はもう傾いていた。栄太郎は日本橋南詰の屋台商売にさらに精を出す(今の西川ビルとコレド日本橋の間)。栄太郎の金鍔は非常に有名で、とくに魚河岸で働く軽子たちには甘くて栄養価も高い金鍔は大人気だった。その後1857年(安政4)、西河岸町に店鋪を構える。当初は井筒屋の屋号で商売を始めたが、お客様が「栄太郎の店」と言うので、数年後に店名も「榮太楼」に変えてしまう。店鋪の場所は現在も本社として同じところにある。 明治期になると上野で開催された内国勧業博覧会や海外で催された万国発明品博覧会などに商品を出品しながら、知名度を東京一円に拡大してゆくとともに、1940年には有限会社を経て、1972年、株式会社へ改組。1981年には「缶入りあんみつ」を発売。国内の百貨店の各専門店で販売すると共ともに同社を代表する商品へと成長させる。 江戸時代から続く本来の丸い金鍔、甘納豆の元祖「甘名納糖(あまななっとう)」、玉だれ、楼、梅ぼ志飴など。 また、水羊羹・あんみつ・みつ豆など贈答用の菓子類に強く、国内の百貨店には同社の専門店が多数存在する。量販店向けの商品も飴を中心に充実しており、代表商品として「黒みつ飴」「しょうがはちみつのど飴」などがある。近年は世代ごとにブランドを分け新しい和菓子の姿を提案している。 江戸町人のお菓子として、大福餅などとともに現れたのは享保年間(1716~1735)頃と言われている。それ以前、貞享年間(1684~1687)に、粳の皮で小豆餡を包んで焼いたものが、京都に現れ「銀鍔」(形が刀の鍔のようで、粳の皮だから焼き色が白かった)と称して売られていた。これが江戸に渡り、小麦の皮に変わったことで黄金色の焼き色がついたことから金鍔として名付けられた。 江戸時代末期、栄太郎が日本橋南詰(食傷新道の「木原店」)にて屋台店を使って売っていたのが金鍔。えいたろうの金鍔の名前と味は江戸市中に評判となっていた。もともと金鍔自体は江戸を代表するポピュラーなお菓子であった。江戸時代の川柳にも金鍔の人気を物語る歌が数々残されている。

Continue reading