ドイツの首相 – Wikipedia

ドイツの首相(ドイツのしゅしょう)では、ドイツにおける行政府の長について解説する。

本項では1871年のドイツ統一から現在に至るまでのドイツの首相について解説する。この間にドイツがたどった国家形態の名称と首相の呼称は以下の通り。

Reichskanzler(日本では以下の政治体制ごとに以下の訳を当てていることが多い)
Ministerpräsident大臣主席(1949年~1968年、1990年)
Vorsitzende des Ministerrates閣僚評議会議長(1968年~1989年)
Bundeskanzler連邦首相

呼称と変遷[編集]

語源と由来[編集]

「ドイツ」の首相の呼称にはどれにも「-kanzler」という語が含まれている(共産主義政権の旧東ドイツを除く)。この Kanzler(カンツラー、英語: chancellor )というのは古フランス語の chancelier が語源で、本来は「宮廷や法廷の門衛、案内役、事務員、秘書官」などをさす語だった。神聖ローマ帝国初期のドイツでは、学識を有する聖職者が宮廷文書の管理などを通じて帝国行政に関与しており、司教はその長として「書記官長」(Kanzler)と呼ばれていた。

中世になると、マインツ大司教、ケルン大司教、トリーア大司教の三司教は選帝侯を兼ねて世俗諸侯と肩を並べるほど強力になった。のちにこれが帝国の最高官職である、帝国内の各3王国(ドイツ、イタリアおよびブルグント)の大書記官長(Erzkanzler)に任じられるようになると、この三司教は、それぞれ、「ドイツ大書記官長」(Erzkanzler durch Germanien)、「イタリア大書記官長」(Erzkanzler durch Italien)、「ガリア=ブルグント大書記官長」(Erzkanzler durch Gallien und Burgund)と称するようになった。

こうした大書記官長の中には、事実上の宰相として皇帝の政務を補佐したり、事実上の摂政として幼少の皇帝に代わって国政を担当した者もいたが、1356年の金印勅書でマインツ大司教が皇帝選挙の主催者とされ、選帝侯の筆頭に位置づけられると、これ以後「Erzkanzler durch Germanien」は「ドイツ(神聖ローマ帝国)の宰相」を意味する語としてドイツ語圏に定着した。

ドイツ帝国[編集]

近世になると、帝国内のプロイセン王国やオーストリア大公国の宰相にも Staatskanzler(領国宰相)という呼称が用いられるようになった。

1867年にプロイセン主導で北ドイツ連邦が成立すると、ビスマルクは自らその首相に就いて「Bundeskanzler(連邦宰相)」と称した。1871年に「ドイツ国(Deutsches Reich:帝政ドイツ)」が成立すると、今度は 「Reichskanzler(帝国宰相)」として以後19年間政界に君臨し、ドイツを列強の一つに押し上げた。

ヴァイマル共和国[編集]

1918年第一次世界大戦の敗北によって帝政が崩壊しドイツは共和政となった。しかし新国家の国号に提案された「Deutsche Republik(ドイツ共和国)」には各方面からの拒否が強く、結局、国号は引続き「Deutsches Reich(ドイツ国)」が用いられた[1]。このため「Reichskanzler」の呼称もそのまま共和政に引き継がれた。

日本では1918年から1933年までのドイツ国を「ヴァイマル共和政」と呼んでおり日本の歴史教科書の類では、共和政の「Reichskanzler」を「首相」と訳して、帝政時代のものと区別している場合が多い。なお帝政ドイツ時代には帝国内閣が存在せず帝国各省庁の長は、帝国宰相の下僚としてその指示に厳格に従う「国務長官(Staatssekretär)」であって、「大臣(Minister)」のように君主に対して宰相と同様に責任を負い、その業務について自立して任務に当たるものではなかった。つまり、帝政宰相は行政上の責任を単独で果たしていたのである。これに対し、ヴァイマル共和政以降の首相は議会に責任を負う合議制行政機関としての内閣の議長として位置づけられた。訳語の変化は、こうした役割の変化も表しているのである。

大ドイツ国[編集]

1934年8月1日、ヒンデンブルク大統領の死後発効する法律として「ドイツ国および国民の国家元首に関する法律」が制定された。この法律で大統領、

8月19日にはこの措置の是非を問う民族投票が行われ、圧倒的多数で承認された。ヒトラーは公文書には「指導者兼国家宰相」(Führer und Reichskanzler)と署名していたが、後には国家宰相の肩書きを用いる事がほとんど無くなった。

東西分裂と再統一[編集]

第二次世界大戦後、ドイツは米・英・仏・ソの4ヵ国による占領下におかれたが、冷戦の対立構造が固定化されていく中で共同占領は困難となり、1949年秋に米・英・仏占領区にドイツ連邦共和国(西ドイツ)が、ソ連占領区にドイツ民主共和国(東ドイツ)が建国された。

ドイツ民主共和国[編集]

東ドイツは、旧来の呼称を使用せず、1949年の憲法では「総理大臣」(Ministerpräsident)[2]としたが、社会主義国を宣言した1968年の憲法改正で閣僚評議会議長(Vorsitzende des Ministerrates)[3]に改められた。東ドイツはソ連型の一党独裁制国家であり、1989年の民主化まで国政の実権は支配政党であるドイツ社会主義統一党の書記長が握っていた。

ドイツ連邦共和国[編集]

西ドイツは国号に「連邦」の一語が追加されたのにともない、首相の呼称も北ドイツ連邦にさかのぼる「連邦宰相」(Bundeskanzler)に戻された。

1990年10月3日、西ドイツが東ドイツを吸収合併する形で再統一を達成した後は、そのまま「連邦宰相」(Bundeskanzler)の呼称が使われている。ただし日本では「宰相」という時代がかった表現は、アデナウアーやコールに関連して時折、あるいは州首相と並べて論じるとき混同しないよう使うくらいで、「Bundeskanzler」の公式訳も「連邦首相」とするものがほとんどである。

諸外国での表現[編集]

日本では外国の首相に相当する官職を一律に「首相」と呼称しており現在のドイツ連邦共和国の「Bundeskanzlerin[4]」も過去のドイツの「Reichskanzler」もすべて単に「首相」と表記する場合が多い[5]

英語では自国外国を問わず首相は一律に「Prime Minister」と呼ぶことになっている。ただしドイツの首相だけは伝統的な例外で、ドイツ語を直訳した「Federal Chancellor」、 または単に「Chancellor」と呼んでいる。

ドイツ語では同じドイツ語圏で連邦制のオーストリアの首相のことも Bundeskanzler(連邦首相)と呼んでいる。そのほかの外国の首相は、各国の政治機構や原語での表現をもとに、「Ministerpräsident」(総理大臣)または「Premierminister」(首相)と呼んでいる。

歴代ドイツ首相[編集]

ドイツ帝国[編集]

ヴァイマル共和政[編集]

ヴァイマル共和政時代の首相についての詳細は、ドイツ国首相を参照。

ナチス・ドイツ[編集]

ドイツ民主共和国(東ドイツ)「閣僚評議会議長」[編集]

ドイツ連邦共和国の首相についての詳細は、ドイツ民主共和国の首相を参照。

ドイツ連邦共和国(西ドイツ→再統一ドイツ)「連邦首相」[編集]

ドイツ連邦共和国の首相についての詳細は連邦首相 (ドイツ)を参照。

  1. ^ Reich という語には「帝国」という意味の他に「領土」「国」という意味もある。なお「帝国」ということを強調する場合は、Kaiserreichを使用することがある。
  2. ^ 東ドイツ憲法(1949) 第91条
  3. ^ 東ドイツ憲法(1968) 第80条
  4. ^ Bundeskanzlerin は Bundeskanzler の女性形の綴り。
  5. ^ なおドイツは州政府も議院内閣制で、州政府の長は Ministerpräsident と呼ばれるが日本ではこれを「州首相」と呼んでいる。
  6. ^ Reichsministerpräsident(ドイツ国総理大臣)として。
  7. ^ 1919年8月14日までReichsministerpräsident(ドイツ国総理大臣)として。(ワイマール憲法の実施)後Reichskanzler(ドイツ国首相)
  8. ^ a b c d e f 大統領の非常大権により、議会の指名なしで任命される。
  9. ^ 社会民主党の連立政権離脱により、内閣不信任決議案が可決され退陣。
  10. ^ ドイツ国家人民党の連立政権離脱により、少数与党政権となる。
  11. ^ Ministerpräsident(大臣主席または総理大臣)として。
  12. ^ Ministerpräsident(総理大臣)として。
  13. ^ 1956年2月にFDPが政権離脱。同年3月にGB-BHE所属の全2閣僚がCDUに移籍。
  14. ^ 1960年7月にDP所属の全2閣僚が離党し、9月にCDUに移籍。
  15. ^ ギヨーム事件で引責辞任。
  16. ^ 建設的不信任制度に基づく解任。

関連項目[編集]