パリは燃えているか – Wikipedia

パリは燃えているか』(パリはもえているか、仏: Paris brûle-t-il?、英: Is Paris Burning?)は、1966年のアメリカ・フランス合作のオールスターキャストによる戦争映画。

ラリー・コリンズ、ドミニク・ラピエールによるレジスタンス(共産主義者とドゴール派)と自由フランス軍によるパリの解放を描いたノンフィクション作品の原作[2]をルネ・クレマンが監督した。脚本はゴア・ヴィダルとフランシス・フォード・コッポラが担当している。

1944年8月7日から、8月19日のレジスタンスの蜂起開始、アメリカ軍の援護を受けて、8月25日のフランスの首都パリの解放に至るまでを描く。

物語はドイツ軍の降伏に貢献したレジスタンス運動を中心にしている。主な登場人物は、レジスタンスのアンリ・ロル=タンギーフランス語版大佐やジャック・シャバン・デルマス大佐、ドイツ軍のディートリヒ・フォン・コルティッツ将軍、アメリカ軍のジョージ・パットン将軍、自由フランス軍のフィリップ・ルクレール将軍などである。

映画の終盤、降伏前にパリを破壊しろというアドルフ・ヒトラー総統の命令が下ったが、最終的にコルティッツ将軍は命令に従わずに連合国に無条件降伏し、パリを破壊から守った。パリ側のドイツ軍本部内でうち捨てられた電話機からヒトラーの「パリは燃えているか?(命令通りに破壊したか?)」との声が聞こえていた。

ストーリー[編集]

キャスト[編集]

スタッフ[編集]

日本語版[編集]

本作は主に白黒で撮影された。これは、撮影のためナチスの卍旗を公共の建物に掲げることにフランス当局からの許可が出ず、本来の赤い部分を緑に変色させたものを使用したことをごまかすためである。なお、クロージングクレジットでのパリの空中ショットはカラーで撮影された。

映画の制作は当時、存命であったイヴォン・モランダフランス語版、公的機関(パリ警視庁と内務省)の両方から多数の承認が必要となった[5]。また、シャルル・ド・ゴールによって厳しい監修が行われ、ド・ゴールは手紙に書いた規則に従うことを条件にパリでのロケ撮影を許可したという。特にド・ゴールはフランス共産党による解放で果たした活躍の描写を最小限に抑えることを切望しており、脚本のフランシス・フォード・コッポラは後に「露骨な政治的検閲だった」と発言している。その他、制作はフランス共産党とフランス労働総同盟の二重の支配があり、ド・ゴールまたは共産主義者のいずれかを怒らせるリスクなしに原作本のすべての要素を使用することができなかったとゴア・ヴィダルは感じたという[6]

撮影は、オテル・デ・ザンヴァリッドやコンコルド広場、ノートルダム大聖堂、カルナヴァレ博物館など、パリ全土の180か所で行われた[7]

クロード・リッシュフランス語版はフィリップ・ルクレール役以外にピエール・ド・ラ・フシャルディエール中尉も演じているが、最終的にクレジットされたのはルクレール役のみであった[8]

カーク・ダグラスは、ジャン=ポール・ベルモンドがキャスティングされていることを知り本作への参加を決めたが、最終的に一緒に写る場面は無かった[9]

主な受賞歴[編集]

  1. ^ 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』(キネマ旬報社、2012年)241頁
  2. ^ 訳書は『パリは燃えているか?』(志摩隆訳、早川書房(上下)、新版2005年)
  3. ^ a b クレジットなし
  4. ^ RELEASE INFORMATION パリは燃えているか-HDリマスター版-”. ハピネット. 2021年1月31日閲覧。
  5. ^ Sylvie Lindeperg, “La Résistance rejouée. Usages gaullistes du cinéma”, Politix, volume 6, no 24, 1993, p. 144 à 152.
  6. ^ Cité par René Chateau dans Lui, mai 1966.
  7. ^ Paris brûle-t-il ?
  8. ^ “Pierre de la Fouchardière, libérateur de Paris, vit désormais aux Marquises”, La Voix du Nord, 21 juin 2010.
  9. ^ Philippe Durant, Destins croisés : Delon – Belmondo, éditions Carnot, 2004, 351 pages, p.59.

外部リンク[編集]