麻酔前投薬 – Wikipedia

麻酔前投薬(ますいぜんとうやく、premedication)とは全身麻酔の導入、維持を円滑にし、麻酔薬や手術による副作用を軽減する目的で全身麻酔前に投与する薬物。抗コリン作動薬、トランキライザー、鎮静薬、鎮痛剤が用いられる。

この種の薬を投与すること自体も麻酔前投薬と呼ぶ。

麻酔前投薬の目的[編集]

  1. 患者の快適性
    1. 不安の除去
    2. 鎮静鎮痛
    3. 健忘
  2. 麻酔管理の補助的手段
    1. 麻酔導入・麻酔薬の補助
    2. 誤嚥の予防
    3. 嘔気・嘔吐の予防
    4. 唾液・気道分泌の抑制
    5. 迷走神経反射の抑制

麻酔前投薬が一般的に用いられるようになったのは、エーテル麻酔が導入されるようになった1920年以降である。エーテル麻酔では麻酔の導入に時間を要し、唾液や気道内分泌物を有するために、これらを回避するための前投薬が必要であった。しかし、最近の麻酔は、麻酔導入が迅速で円滑な麻酔薬の開発により、麻酔前投薬そのものの必要性も問われている。麻酔前投薬に課せられる目的の1つは、手術を受ける患者の快適性であり、2つ目は麻酔管理のための補助的手段である。しかし、麻酔方法や麻酔薬、患者の状態によっては前投薬が無用なこともある。また、前投薬を投与するに当たっても、型どおりの投薬でなく、個々の症例に見合った投薬がなされるべきである。

不安の除去、鎮静、健忘[編集]

手術を受ける多くの患者が不安を抱いていることに間違いはない。術前に患者の不安や恐怖心を取り除くことは、患者の麻酔や手術に対する満足度だけではなく、麻酔を円滑かつ安全に行うためにも有用であり、術後にも影響を及ぼす。

術前の不安を除去するには、必ずしも薬物が必要というわけではない。麻酔科医による術前訪問時の診察や、事前の説明は、薬物投与よりも患者の不安を取り除くのに有用である。患者の信頼を得ることができれば、麻酔導入の協力が得られ、円滑な導入が可能となる。しかし、すべての患者が術前の説明で不安が取り除かれるとは限らない。また、記憶を消失させることは、必ずしも好ましいことではないかもしれないが、点滴確保、硬膜外麻酔やくも膜下麻酔時の穿刺に対する恐怖心や痛みなどの記憶を消し去ることもある意味では大切なことである。術前の不安の回避や鎮静、好ましい健忘は術後のストレスを軽減させ、術後管理の上でも有用である。 

これらの目的を達成させるためには、麻酔前投薬が必要となってくる。現に多施設で何らかの前投薬が投与されている。理想的な薬物は、投与時の苦痛がなく、作用時間が短く、呼吸系への抑制が少なく、術後の覚醒に影響を与えないものである。理想に近い薬物として、ベンゾジアゼピン系薬物が広く用いられるようになった。その他、抗ヒスタミン薬であるヒドロキシジン、高血圧や精神障害の治療薬として使用されているα2受容体作動薬のクロニジンやデクスメデトミジンが用いられている(日本ではクロニジン・デクスメデトミジンは保険適応外)。

有害反射、気道内分泌物の抑制[編集]

麻酔や手術操作に伴う副交感神経性の反射や挿管時の気道内分泌物は阻止する必要がある。これらの予防としては抗コリン作動薬のベラドンナ薬が使用される。副交感神経性反射の予防にはアトロピンが有効であるが、前投薬としての投与では十分な抑制は期待できず、発生時の静脈内投与が有用である。唾液・気道内分泌物の抑制も抗コリン作動薬であるアトロピンやスコポラミンが使用される。  

しかし、極度の脱水状態や心房細動を有する患者でのアトロピン投与は、頻脈発作を誘発することがあり、高齢者でのスコポラミン投与は錯乱状態を起こしやすい。気道内分泌物の抑制が必要な場合は、頻脈や鎮静作用の少ないグリコピロレートが有用であるが、最近では、気道刺激の少ない吸入麻酔薬や静脈麻酔薬による急速導入が普及して、気道分泌物が増加するケタミン麻酔の導入や喫煙者等の麻酔以外には必要の機会が少なくなってきた。とくに意識下の麻酔管理には不要である。

誤嚥性肺炎の予防[編集]

酸度の高い胃液の誤嚥は重篤な肺炎を引き起こす危険がある。胃液による誤嚥性肺炎の重症度は、胃液のpHや量、残渣の有無や性状に関与している。一般に胃液のpHが2.5以下で、胃液量が25ml(0.4ml/kg)以上の症例では、誤嚥性肺炎を起こす危険性が高いとされている。胃液の酸度や量は、年齢や患者の状態によって異なる。若年者では高齢者より胃液pHが低く胃液量は多いが、誤嚥の頻度は高齢者のほうが多い。 肥満者は非肥満者に比べて胃液量が多く、胃液pHも有意に低い。妊婦や糖尿病患者では胃内容の排泄時間が延長している。

誤嚥性肺炎の予防的処置は、第一に誤嚥させないことであるが、胃液量を減少させ、胃液pHを上昇させることで、誤嚥時の重症度を軽減させることができるかもしれない。ヒスタミンH2遮断薬や制酸薬は胃液量を減少させ、胃液pHを上昇させることにより、誤嚥した場合の肺炎を軽減する可能性がある。

嘔気・嘔吐の予防[編集]

手術前後に嘔気・嘔吐をおこす頻度は報告者によって異なるが10〜55%といわれており、特に術後の嘔気・嘔吐の頻度は高く、患者にとっても苦痛である。制吐薬の予防的投与がこのような合併症を回避させる目的で推奨されているが、術後の嘔気・嘔吐の頻度を減らすには、麻酔中のドロペリドール静脈内投与が有効であるとされている。

その他[編集]

前投薬に鎮痛薬を用いることは稀ではあるが、点滴部の穿刺時の鎮痛目的にリドカイン含有テープの貼付がなされることはある。アレルギーの予防としての抗アレルギー薬、感染予防のための抗生物質が術前に投与される。また、術前に投与されている薬物等との相乗作用、相互作用も念頭に置かねばならない。

医学領域における麻酔前投薬[編集]

クロニジン
クロニジンは、α2アゴニストである。降圧薬としても広く使用されてきたが鎮痛、鎮静作用があり、麻酔補助薬として用いることで、麻酔薬の投与量を減らすことができる。

トランキライザー(前投薬)[編集]

下記のトランキライザーが前投薬として利用頻度が高い

獣医学領域における麻酔前投薬[編集]

動物の麻酔においては、ヒト(成人)と異なり対話により不安や恐怖感を軽減したり、協力を得ることは難しい。このことから薬物による抗不安、鎮静、催眠は極めて重要となる。

参考文献[編集]

  • 幡谷正明 『家畜外科学』 金原出版 1995年 ISBN 430779009X
  • 獣医学大辞典編集委員会編集 『明解獣医学辞典』 チクサン出版 1991年 ISBN 4885006104
  • 花岡一雄 「臨床麻酔学全書」新興交易医書出版部 2002年 ISBN 9784880036885

関連項目[編集]