Author: lordneo

ユビアシクラゲ – Wikipedia

ユビアシクラゲ Tiburonia granrojo はミズクラゲ科に属するクラゲの一種。2003年、モントレー湾水族館研究所のチームにより発見された[2]。属名 Tiburonia は撮影に用いられたROVの名前に由来し、スペイン語で”鮫”を意味する。種小名 granrojo はスペイン語で”大きな赤い物”を意味する。 クラゲの中でもかなり巨大な種であり、カリフォルニア湾・モントレー湾・ハワイ・日本などの太平洋において、深度600-1500mから発見されている。直径75cmに達し、口腕は4-7本で、太く肉質である。傘の縁に触手はない。全体的に暗赤色をしている[1]。 2003年の時点で23個体しか発見されていない。また、15cm以下の小型個体が1個体だけ発見されている。ROVを用いて、複数の動画が撮影されている[1]。 ^ a b c Matsumoto, George I.; Raskoff, K. A.;

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蛍池駅 – Wikipedia

蛍池駅(ほたるがいけえき)は、大阪府豊中市にある、阪急電鉄(阪急)および大阪モノレールの駅。駅番号は阪急がHK-47、大阪モノレールが12。 阪急に3つある大阪モノレールとの乗換駅の1つで、阪急宝塚本線と大阪モノレール本線が接続する[注 1]。 1997年に大阪モノレール線が延伸して大阪空港(伊丹空港)に直接乗り入れるようになり、延伸区間内に蛍池駅が開業すると、阪急側の駅も、2003年から急行が停車するなど、他社線との接続駅として線内での重要性を次第に増してきた。 また、延伸開業以前は空港連絡バス、路線バス、タクシーなどに頼っていた空港利用者が、当駅で乗り換えてモノレールで空港に向かうことが増えたため、空港へのアクセスルートを構成する駅としても重要性を増している[注 2]。 大阪梅田駅 – 大阪空港駅間の移動において、阪急線と大阪モノレール線を利用するルートは、定時性や頻度、運賃において空港連絡バスより優位に立っており、空港に向かう交通手段として当駅経由のモノレール・阪急線の利用を呼びかける広告も両社に見られる。 なお、モノレールによる空港アクセスが一般的になったあとも、徒歩などでアクセスするにあたって蛍池駅が「空港最寄り駅」としての価値を保持し続けているとの見解もある[1]。 阪急蛍池駅の開業は、宝塚本線開業の約1か月後のことである。 駅名は駅の外れにある池の名称に因んでいるが、池としての「蛍池」は駅から北東に約400メートル離れている。当駅付近は古くは麻田藩(→麻田県)青木氏の領地であり、本来なら駅名として「麻田」とするのが適当であるが、「駅名が『麻田』では面白くない」という、阪急の創業者小林一三の意向でより適切な駅名を検討した結果、当時の蛍狩りの名勝、蛍池を駅名に冠することとなったのだという[2]。その後1947年(昭和22年)には駅周辺の地名も駅に倣って「蛍池」となった[3]。 大阪国際空港へは当駅から阪急バス[注 3]が乗り入れていたものの、長らく急行の通過駅であったため、空港連絡は形ばかり[注 4]のもので、大阪モノレール開業6年後の2003年8月30日より急行・快速急行(快速急行は2006年に休止、急行に置き換え)が停車を開始したことで、空港連絡駅としての体裁をようやく整えた。 大阪モノレールは大部分で中央環状線に沿うように走っているが、中央環状線から外れる柴原阪大前駅 – 大阪空港間で用地買収が難航したため、大阪モノレールの蛍池乗り入れは大幅に遅れ、1994年9月から約2年半の間は、柴原駅が終着駅であった。大阪モノレール蛍池駅を含む区間が開業したのは当初開業予定の1991年から遅れること6年の1997年4月である。 2015年3月21日のダイヤ改正では、平日の朝に運転されていた当駅を通過する10両編成の通勤急行が廃止され、朝ラッシュ時に梅田方面からの優等列車で当駅を通過する列車の設定がなくなった(夕ラッシュに運転される特急日生エクスプレスは当駅を通過する)。これにより豊中で後続の各駅停車への乗り換えを余儀なくされていた大阪空港利用者の手間が解消された。宝塚方面から運転される新設された通勤特急は10両編成で運転されるため、当駅は通過となる。 年表[編集]

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グリムセイ島 – Wikipedia

グリムセイ島(グリムセイとう、Grímsey)はアイスランドにある島である。面積は5.3km²、最高点は105m。 アイスランド本土から北へ約40kmの北極海上にある。島の中ほどに北極線、すなわち北緯66度33分の線が通っており、島の北側約3分の1は北極圏内にある。この島の村はアイスランド最北の居住地である。島の人口は77人。一番近くにある島は本島に近いフラティー島(Flatey)で、グリムセイ島から南に39.4km海上にある。グリムセイ島はアイスランドの自治体で、グリムスエイヤールフレップール(Grímseyjarhreppur/グリムセイジー島地方自治体)とも呼ばれている。住民のほとんどは漁業に従事している。病院は無く、三週間に一度、医師が飛行機で診察にやってくる。 交通アクセス[編集] アークレイリ空港から飛行機の定期便が就航している。飛行時間は30分。ノーランドエアによる運行であるが、同社ウェブサイトでは航空券が買えないので、エア・アイスランドのウェブサイトで買うこととなる。便名もエア・アイスランドの便名が付与されている。またダールヴィークからフェリーでもアクセスできる。フェリーの所要時間は3時間。月、水、金のみの運航。 島とは言うものの、それ全体は巨大な岩の固まりといったような様相をしている。海岸線のほぼ全ては、垂直に切り立った崖であり、高さ何十メートルの垂直の崖も珍しくはない。柵は一切無いので、転落せぬよう細心の注意を払う必要がある。南部の土地が低くなっている箇所や、南西側のごく一部の緩やかな崖を下ったところが、唯一水辺にたどり着ける場所である。また舗装路はなく、道路は地面を押し固めただけである。中心集落周辺はある程度きれいにならされてはいるが、それ以外は砂利道の箇所も多い。起伏も多いため、歩きやすい靴は必須である。 樹木は無いが、地表は豊かな草と苔で覆われている。 商業施設[編集] 二軒の宿を含め、島内には商業施設と言える物は六軒しかない。宿のうち一軒はギャラリーと同一の建物。 ゲストハウス・バゥサル (Básar) – 空港の目の前。宿からは北極線のモニュメントが見える。 ゲストハウス・グトルソゥル (Gullsól)ならびにギャラリー・ソゥル (Gallerí Sól) – 一階がギャラリー。上の階がゲストハウスである。ギャラリーでは土産物を始め、コーヒーや軽食なども買える。北極圏到達証明書が売っていて、店主が日付、名前を記載の上、証人として署名、捺印してくれる。ギャラリーの営業時間は、夏期のみ。月、水、金にフェリーが入港したら開店し、その日の16時に閉店。 レストラン・クリーアン (Krían)

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ボルボ・ÖV 4 – Wikipedia

ボルボ・ÖV4(英語: Volvo ÖV 4)は、ボルボによって製造された最初の車。 ÖV4という名称は、スウェーデン語で「ÖppenVagn4 cylindrar」の略で、オープンキャリッジ、4気筒を意味する。モデルÖV4はしばしば「ヤコブ」と呼ばれたが、それはヤコブの名前の日である7月25日に準備ができた10台のプレシリーズÖV4の1つの名前にすぎない。10台のプロトタイプはすべて、ストックホルムのAB Galco、Hälsingegatan41で組み立てられ、当時はグスタフ・ラーソンはそこで働いていた。 1926年に製造された10台のプレシリーズ車のうち1台だけが後世のために保存され、スウェーデンのヨーテボリのボルボ博物館に収容されている。 ボディフレームのレプリカ 製造された約70台の1台小型トラックのボルボ・ÖV4TV エンジンはGustavLarsonによって設計され、その主要なシャーシコンポーネントは、アメリカの自動車産業で長年働いて1924年にスウェーデンに戻ったデザイナーのJan G.Smithによって設計された。Jan G. Smith達がアメリカで収集したÖV4やその他の技術論文の元の図面の多くは、スウェーデンのストックホルムにある国立科学技術博物館のアーカイブに保存されている[1]。 ÖV4が製造された最初のシリーズが工場から出荷されようとした時、エンジニアのエリック・カールバーグがギアを1速に入れたときに車は後退した。リアアクスルのディファレンシャルギアが正しく取り付けられていなかったと説明している。 この間違いにより導入が1日遅れ、ÖV4の正式な発売は1927年4月14日になった。これは、ABボルボが自動車会社ボルボが「誕生した」と公式に述べた日である。自動車会社としての会社は、1926年8月10日にSKFの子会社として誕生した。 ボルボPV4、ÖV4のカバーバージョン。間もなく改良されたオリジナルデザイン スウェーデンの気候ではカブリオレは成功しなかった。屋根付きバージョンであるPV4は、1927年の夏に導入された。これはウェイマン式のボディを持っていて、元のデザインはかなり不格好であった。 オリジナルのÖV4を設計したときに彼の個人的なVoisinC5に触発されたHelmerMasOlleは、PV4に激怒し、それに関連していなかったと伝えられている [2]

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詰所 – Wikipedia

詰所(つめしょ)とは一時的に宿泊したり、仮眠したり、待機する施設のこと。屯所(とんしょ)ともいう。江戸時代、江戸城における公式行事等の際に、大名等が家格に応じて定められた待機場所については、伺候席を参照。 大きな寺社の門前町には、各地方の詰所があり、その地方から参拝に来る人に低料金の宿泊施設を提供していた。 また奈良県天理市の天理教教会本部周辺には、全国の天理教大教会の信者詰所が多数存在する。こちらは主に、教会本部での祭事の際の信者宿泊と天理教修養科に通う修養科生の寄宿に充てられている。 鉄道・バス・トラック・タクシーなど交通機関の乗務員、建設現場の作業員休憩所、あるいは消防団の団員のような非連続勤務の業態のための待機所の通称名として使われる。工場の出入口等を警備したり、カメラによる監視作業をしたりする警備員の執務場所、仮眠場所や交代要員の待機場所を兼ねていることもある。 東本願寺周辺の詰所[編集] 京都東本願寺周辺には、富山県詰所・詰所飛騨・となみ詰所・東浅井詰所・伊香詰所など[1]がある。これは、東本願寺の創建以来、度重なる火災によって被災したことと関係している。その度に各地の門信徒が本山に集まり、伽藍の再建に尽力した。その際の拠点が各地の門信徒によって作られた詰所であった。詰所関係の文書では、文政年間のものが伝わっている。それによると、当時は63軒の詰所が東本願寺の門前に存在したということがわかる。詰所の軒数は、昭和の初めに40軒、1969年段階では22軒に減少した。すでに経営の形態も雑多となっており、当初の輪番制の門信徒直接経営だけではなくなっていたが、各詰所では伝統的な十日講、二十五日講の行事が執行されていた[2]。現在はその地方在住者に限らず、外国人も含め誰もが気軽に泊まれる宿泊施設となっている。 「おこや」[編集] 詰所は、別名で「おこや」とも呼ばれていた。これは、詰所に滞在していた門信徒が、東本願寺に参拝したり、法話を聴いたり、経本を読んだりする日を、月ごとに定めていて、それを十五日講、二十日講と呼んでいた。その講に集まる人たちが、宿泊するのに便利なよう、出資しあって建てたのが、詰所であった。そのため、「お講屋」、なまって「おこや」と呼ぶようになったのである。1969年当時、滋賀県、岐阜県、愛知県、石川県、富山県、新潟県の詰所が残っていたが、すでに減少傾向にあった。[3] ^ 元詰所として、ゲストイン ちた が見られる。元・愛知・知多地区詰所。2019年2月現在は、だいや旅館別館として宿泊営業を行っている。 ^ 若松育友会編『わかまつ:稚松小学校百周年記念誌』(1969年)p.102 ^ 京都市立稚松小学校編『稚松:創立百周年記念誌』(1969年)p.102 参考文献[編集]

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単調写像 – Wikipedia

「増加」、「減少」はこの項目に転送されています。「増加」、「減少」の語義については、ウィクショナリーの「増加」、「減少」の項目をご覧ください。 この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “単調写像” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2012年9月) 単調写像(たんちょうしゃぞう、英: monotonic map, monotone map)または単調関数(たんちょうかんすう、英: monotonic function, monotone function)は、単調性、すなわち順序集合の間の写像が順序を保つような性質を持つ写像のことである。具体的な例としては以下の単調増加関数および単調減少関数がある。 単調増加(たんちょうぞうか、英:

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トゥルネー – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “トゥルネー” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年6月) トゥルネー トゥルネー(フランス語: Tournai [tuʁnɛ]、ピカルディ語: Tornai、ワロン語: Tornè [tɔʀnɛ] ( 音声ファイル)、オランダ語: Doornik)は、ベルギーのワロン地域、エノー州、トゥルネー=ムクロン行政区の市。面積213.75平方キロ、人口67,341人(2004年1月)。ベルギー最古の町であり、フランク王国初代のクローヴィス1世が生まれた地であるため、フランス揺籃の地とも言われる。世界遺産も2件登録されている。フランス国境に近い。 目次 1

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アメリカの徴兵制の歴史 – Wikipedia

アメリカの徴兵制の歴史(アメリカのちょうへいせいのれきし)では、アメリカ合衆国の徴兵制度の歴史的推移と、将来の徴兵制の復活の可能性と、徴兵制・志願兵制の問題点について論述する。 アメリカの徴兵制は1973年1月にベトナム戦争の和平協定成立時に廃止され、1975年3月には選抜徴兵登録も廃止されたが、1980年7月に選抜徴兵法が制定され、選抜徴兵登録が復活し、18歳-25歳のアメリカ国民の男性と永住外国人の男性に連邦選抜徴兵登録庁への徴兵登録を義務化し、連邦選抜徴兵登録庁への未登録者は5年以下の禁固または250000ドル以下の罰金を科される可能性があり、連邦政府機関への就職が認められず、連邦政府からの奨学金を受けることができない。 ベトナム戦争終結以後、徴兵制を復活すべきという主張は連邦議会の非常に少数の議員が提唱しているが、連邦議会の議員と議員への立候補者の大部分も、大統領と大統領への立候補者も、国防総省も、徴兵制の復活は必要ないと繰り返し表明している。徴兵制を復活すべきという主張の理由は、志願兵制では就職先または除隊後の大学奨学金を求めて、経済的に貧しい階層の志願率が高くなるので、経済的階層に関わらず軍務を国民全員に機会平等に配分するという考えに基づく。徴兵制復活を主張する連邦議会議員は2004年に一般的徴兵法案を連邦議会に提出し、下院本会議で採決した結果、賛成2票 – 反対402票で否決され、上院では委員会審議を通過できず本会議での審議・票決には至らなかった。 アメリカ軍の軍人・兵士数は、第二次世界大戦中の1945年度は1,205万人、就業人口に対する比率は18.6%、総人口に対する比率は8.6%、朝鮮戦争中の1952年は363万人、就業人口に対する比率は6.0%、総人口に対する比率は2.3%、ベトナム戦争中の1968年は354万人、就業人口に対する比率は4.6%、総人口に対する比率は1.8%、冷戦末期の1988年は220万人、就業人口に対する比率は1.9%、総人口に対する比率は0.9%、冷戦終結後の1998年は147万人、就業人口に対する比率は1.1%、総人口に対する比率は0.5%、アフガニスタンとイラクで戦争中の2006年は144万人、就業人口に対する比率は1.0%、総人口に対する比率は0.5%である。長期的な時系列で見ると、軍の機械装備率の向上により、軍人・兵士・文民のいずれも絶対数が著しく減少し、就業人口と総人口に対する比率は、絶対数の減少率よりさらに大きく減少しているので、政府も国防総省も徴兵する動機も必要も無く、2000年代最初の10年間の範囲内ではアメリカが徴兵制を採用する可能性は無いとされ、実際に徴兵は実施されなかった。 2014年10月28日、ラルフ・リグビー(Ralph E. Rigby)准尉の退役をもって、アメリカ陸軍では徴集兵がいなくなった[1]。 アメリカの徴兵法の歴史[編集] 独立戦争 – 先住民との戦争終結までの徴兵政策[編集] 1861年 – 1865年、南北戦争時の徴兵実施。アメリカ合衆国と合衆国からの脱退を宣言したアメリカ連合国は、南北戦争遂行のために徴兵制を実施したが、合衆国軍も連合国軍も兵士の大部分は志願兵だった。 先住民との戦争終結後 – 第二次世界大戦終結までのアメリカの徴兵制策[編集] 1916年2月、徴兵制に合憲判決。アメリカ最高裁判所は、徴兵制度はアメリカ合衆国憲法憲法修正13条の、何人に対しても、犯罪に対する刑罰として法律に基づいて有罪判決を執行される場合を例外として、奴隷および本人の意思に反する労働を強制してはならない条項に違反する、と主張する訴訟に対して、徴兵制は憲法修正13条に違反せず合憲であると判決した。

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熊江琉唯 – Wikipedia

くまえ るい熊江 琉衣 ツーリズムEXPOジャパン2017にて(2017年9月23日)[1] プロフィール 愛称 くまこ、くま子 生年月日 1995年4月17日 現年齢 26歳 出身地 中華人民共和国・四川省 血液型 AB型 公称サイズ(2019[2]時点) 身長 / 体重 172

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