Month: March 2018

シデ – Wikipedia

この項目では、植物について説明しています。紙の不要部分については「裁ち落とし」をご覧ください。 この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “シデ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2011年9月) シデ(四手、椣)は、カバノキ科クマシデ属(学名:Carpinus)の総称である。 広葉樹で何れも落葉性[1]。比較的小型の物が多く、10m未満の種もしばしば見られ樹高は最大でも20m程度。樹形は比較的低い位置から幹を分岐させ、しばしば株立ち状になる。樹皮は比較的滑らかで色は灰色系のものが多い。 樹皮は平滑で灰色のものが多いC. orientalis 老木では割れてくる種もある C. betulus 枝は左右ジグザグに伸びる(仮軸分枝)。葉は枝に左右交互に付き(互生)、葉脈は明らかな主脈が1本あり、そこから側脈を分岐させる形(羽状脈)である。縁には明らかな鋸歯があり、しばしば二重鋸歯となる[1]。 花は一つの木に雄花と雌花を両方付ける(雌雄同株)。雄花は枝の途中から垂れ下がり、雌花は新しい枝の先端に出来る(頂生)。雄花・雌花共には花穂などと呼ばれる稲穂を思わせる形で、特に雄花は稲穂に似ている[1]。雌花は苞が発達し、ホップを思わせる形になる。苞は葉に似ており縁には鋸歯を持つ。種によって両側に鋸歯を持つもの、片側にしか鋸歯を持たないものがある。果実は外側に堅い殻を持ち(堅果)、果肉などは持たない。果実は翼を持たないが苞に包まれる。 枝から垂れる雄花C.

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ナンバーテン・ブルース さらばサイゴン – Wikipedia

『ナンバーテン・ブルース さらばサイゴン』(英語: Number 10 Blues / Goodbye Saigon, ベトナム語: Giã-biệt Sài-gòn)は、1975年製作、2014年公開の、長田紀生監督による日本の長篇劇映画である[1][2][3][4][5]。ベトナム戦争の戦時下にあるサイゴン(現在のホーチミン市)でのロケーション撮影を敢行したが完成後に公開されることなく、37年を経た2012年10月にデジタル修復を経てデジタル編集を行って完成、翌2013年1月24日、ロッテルダム国際映画祭(IFFR)に正式招待されて上映された[1][3][5]。日本での商業初公開は2014年4月26日[1][3][4]。 製作と完成[編集] 同作の製作にさきがけて、1973年、映画製作会社の網野映画株式会社を設立した映画監督の網野鉦一が同年、ベトナム戦争の戦時下にある南ベトナム政府(当時のベトナム共和国)の国立映画センターおよび国立テレビセンターとの合作を行い、自ら監督してセミドキュメンタリー的な児童劇映画『メコンの詩』を製作している[6][7][8]。同作の実績をもつ網野率いる網野映画が、その翌年の1974年から製作に取り組んだのが、本作『ナンバーテン・ブルース さらばサイゴン』である[1][2][3][4][5][7]。本作は合作の構えではないが、ベトナム航空が引き続き「協力」としてクレジットされた[2][7]。 監督・脚本には、『修羅雪姫』(監督藤田敏八、1973年)等を手がけた脚本家の長田紀生を起用、同作は長田の初監督作となった[1][2][3][4][5][9]。監督同様、撮影技師にはドキュメンタリー畑の椎塚彰、照明技師には神谷徹の助手であった松尾誠一、編集技師には浦岡敬一の助手であった大橋富代といったほぼ新人を抜擢した[1][2][3][4]。助監督として新人監督を支えた渡辺範雄、製作補として網野を支えた望月正照は、網野の前作『メコンの詩』でも同じポジションを務めた人物であった[2][7]。本作のクレジットに「美術」(美術デザイナー)のクレジットはなかったが、望月正照は『メコンの詩』では「美術」にもクレジットされており、本作以降のキャリアも美術デザイナーとしてのものであり、『その男、凶暴につき』(監督北野武、1989年)や『SF サムライ・フィクション』(監督中野裕之、1998年)を手がけた人物である[2][7][10]。録音技師には『サマー・ソルジャー』(監督勅使河原宏、1972年)や『午前中の時間割り』(監督羽仁進、同年)の菊地進平[11]、スクリプターには『日本性犯罪史 白昼の暴行鬼』(監督酒匂真直、1968年)や『音楽』(監督増村保造、1972年)の東紀子[12][13] といったインディペンデント系の新鋭を起用した[2]。効果は福島音響の福島幸雄である[2]。チーフ助監督の渡辺の下のセカンド助監督に、のちに映画監督となった小泉堯史がクレジットされている[2]。 主人公の日本人商社員「杉本俊夫」役を演じたのは川津祐介、相手役のベトナム人女性「ラン」役には当時満26歳の歌手タイン・ラン(英語版)(クレジットではタン・ラン)、川津の逃避行に同行する日越ハーフの少年「タロー」役にはのちに実業家となる磯村健治がキャスティングされた[1][2][3][4]。サイゴンでのロケーション撮影は、同年から1975年初頭にかけての約4か月間行い、同年4月30日に同市が陥落する(サイゴン陥落)以前に撮影を終えている[3][5][7]。ロケーション撮影した地域は終戦とともに政治体制が変わり、ベトナム社会主義共和国になった。本作については、編集に関して網野サイドと長田サイドでもめることもあったが、0号プリントまで完成している[3][5]。同年10月に発行された『キネマ旬報』第668号(キネマ旬報社)にはグラビアページに「完成した」として紹介され[3][14]、翌1976年1月に発行された同誌第674号の「日本映画紹介」にも掲載された[3][15]。しかし興行が決まらない等の事情があり、公開を断念するに至った[3][5]。 デジタル再編集[編集]

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イリーナ・ロバチェワ – Wikipedia

イリーナ・ロバチェワIrina LOBACHEVA 選手情報 生年月日 (1973-02-18) 1973年2月18日(49歳) 代表国 ロシア 出生地 ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、モスクワ 身長 165 cm 趣味 読書、バレエ、映画 パートナー イリヤ・アベルブフ 元パートナー アレクセイ・ポスペロフ

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増岡敏和 – Wikipedia

増岡 敏和(ますおか としかず、1928年12月 – 2010年7月28日)は、日本の詩人[1]。 広島市出身。海軍飛行予科練習生として松山海軍航空隊に入隊。1946年8月中旬、軍隊疎開先の愛媛県深浦町で除隊し広島市に帰郷。広島市への原子爆弾投下により長妹を失い、祖母や母も被爆した[1]。のちに上京し、医療運動に参加、反核の詩を書き続けた。 単著[編集] 『サークル運動入門』東邦出版社 1969 東邦ライブラリ 2 『八月の詩人 : 原爆詩人・峠三吉の詩と生涯』東邦出版社 1970 東邦選書 『広島の詩人たち』新日本出版社 1971 (新日本新書) 『民主医療運動の先駆者たち』全日本民医連出版部 1974

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ハジムラド・マゴメドフ – Wikipedia

獲得メダル ロシア 男子 レスリング オリンピック 金 1996 アトランタ フリースタイル82kg級 ハジムラド・マゴメドフ(露: Хаджимурат Магомедов、ラテン文字: Khadzhimurad Magomedov、1974年2月24日 – )は、ロシアのレスリング選手。ダゲスタン共和国の首都マハチカラ出身。 1996年アトランタオリンピックレスリングフリースタイル82kg級の金メダリストである。 オリンピック 1996年アトランタオリンピック 金メダル

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ジェフェルソン・ファルファン – Wikipedia

この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の姓)はファルファン、第二姓(母方の姓)はグアダルーペです。(Template:スペイン語圏の姓名) ジェフェルソン・ファルファン ペルー代表でのファルファン (2018年) 名前 本名 ジェフェルソン・アグスティン・ファルファン・グアダルーペJefferson Agustin Farfán Guadalupe 愛称 ジェフリー ラテン文字 Jefferson FARFAN 基本情報 国籍 ペルー 生年月日 (1984-10-26)

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海遊館 – Wikipedia

海遊館(かいゆうかん、Osaka Aquarium KAIYUKAN)は、大阪府大阪市港区海岸通1丁目にある水族館。 大阪港のウォーターフロント再開発プロジェクト「天保山ハーバービレッジ」の中心的施設として1990年7月20日に開館した。 「リング・オブ・ファイア(環太平洋火山帯)」と「リング・オブ・ライフ(環太平洋生命帯)」をコンセプトにしている。巨大水槽で環太平洋の海を再現し、従来の水族館の印象を劇的に変えた施設である。 施設の保有・運営は「株式会社 海遊館」が、隣接する商業施設「天保山マーケットプレース」や「天保山大観覧車」とともに行っている。 2013年現在、年間来場者数、延床面積、屋内水槽の規模が日本で3位以内に入る(日本の水族館#規模を参照)とともに、屋内水槽の規模に関しては世界でも上位五指に入るほどの世界最大級の水族館である。 水生生物以外の飼育・栽培にも力を入れており、1993年には日本で初めてツメバゲリの繁殖に成功した実績が認められ日本動物園水族館協会「繁殖賞」を受賞した[1]。また、館内日本の森水槽には約200種類の植物[2]が展示されている。 大型のアクリルガラスを使用することで、それまでにない巨大水槽を実現した。ジンベエザメが遊泳する「太平洋水槽」を含む14の大水槽を造るため、年間世界生産量の1.5倍(当時)にあたるアクリルガラスが使用された。海遊館以降に造られた水族館の大型水槽はほぼ全てがアクリルガラス製になっている。 建物外観の特徴になっている三色の色分けは、地と水と火の結合を模したもの。外壁に描かれた魚の壁画はアメリカ在住イギリス人デザイナーのサージ・アイヴァン・シャーメイエフの手によるもの、またケンブリッジ・セブン・アソシエイツ環境開発研究所を率いて建物全体の設計を担当したのは、その息子のピーター・シャーメイエフ(英語版)である。 2008年2月26日に、開業以来の入館者数が5000万人に達した。6317日(約18年)での達成は国内の水族館では最速。カップルや家族連れも多く、入館者の約6割がリピーターである。 2020年、開業30周年にあわせてエントランスビルの2階トイレやミュージアムショップやその周辺ゾーンのリニューアル工事を行い、ミュージアムショップは2月22日に再オープンした。水上散歩をしているような感覚で買い物を楽しんでもらうことをねらったミュージアムショップでは、海外で活躍するグラフィック・デザイナーの野津萌や、COCHAEのデザインによるオリジナルグッズが多数起用された[3]。 主な施設[編集] 水槽[編集] 入館者はまず8階までエスカレーターで上がり、回廊型の通路を4階まで下りながら、以下のような順序で鑑賞することになる。そのため、水上と水中など、複数回鑑賞することができる水槽もある。 水槽への水の出し入れは、一般的な方法(水面から入れ、底から出す)とは異なり、水槽下部から入れ上部から出す方法を採っている[4]。これは下から上への水流を作ることで水槽内に浮遊した餌の食べ残しや糞を回収しやすくし、水の透明度を増すためである[5]。酸素供給は、人工の滝を作ることで行っている。滝の多くは水槽の裏にあるが、一部は来場者に見える形で設置されている(日本の森水槽など)[6]。 飼育されている目玉動物の一つはジンベエザメである。開館した1990年当時、ジンベエザメを飼育する水族館は世界中で海遊館しかなかった[7]。また同館では2008年にイトマキエイの世界初となる飼育、展示に成功した。国内でイトマキエイを保有している水族館は海遊館と沖縄美ら海水族館のみで、複数生体展示しているのは海遊館のみである。 ジンベエザメとイトマキエイを観ることができる「太平洋」水槽は、最大長34m、深さ9m、水量5,400m³。水槽の製作にはおよそ100枚のアクリルパネルが使われ[8][† 1]、アクリルパネルは三菱レイヨン、日プラ、住友化学工業、アメリカのレイノルズの4社によって生産された[10][†

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北米タッグ王座 – Wikipedia

NWA北米タッグ王座(エヌダブリューエーほくべいタッグおうざ、NWA North American Tag Team Championship)は、かつて全米各地に存在していたプロレスのタッグ選手権であるが、本項では新日本プロレスが管理していたものについて扱う。NWAによる認定とされていた。新日本プロレス初期の1974年から1981年まで、同団体のタッグにおけるフラッグシップ・タイトルであった。新日本プロレスの管理下に入るまでの来歴には不明点が多い。 目次 1 由来 2 歴史 3 歴代王者 4 脚注 5 外部リンク 同王座が日本に初めて紹介されたのは1973年8月、ロサンゼルスのオリンピック・オーディトリアムにおいて新日本プロレスのアントニオ猪木と坂口征二が王者のジョニー・パワーズ&パット・パターソンに挑戦した際である。挑戦者組が勝利するが、3本目が反則勝ちのためにルールにより王者組の防衛となった。これ以前にパワーズとパターソンがアメリカでこの王座を獲得・防衛した記録は見当たらず、このタイトルはこの試合のために創作されたものと見られている。 同年12月に王者組が来日、大阪において猪木&坂口が再び挑戦するが、獲得は逃した。翌1974年6月に新王者のクルト・フォン・ヘス&カール・フォン・ショッツが新王者として来日、猪木&坂口が挑戦するがまたも獲得を逃す。同年8月16日、再びオリンピック・オーディトリアムで4度目の挑戦を果たして王座を獲得した。 ヘスとショッツは、もともとNWF世界タッグ王者として来日する予定であったといわれる。このチームがアメリカおよびカナダでパワーズ&パターソンから王座を獲得した記録がないことから、パワーズ組とヘス組の王座は別物であるとする見方もある。しかし、昭和の時代においてはパワーズ組→ヘス組→猪木組への王座変遷が通説として語られてきた。

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甲斐庄正親 – Wikipedia

甲斐庄 正親(かいのしょう まさちか、? – 元禄3年12月15日(1691年1月3日))は、江戸幕府の旗本寄合。 甲斐庄氏4代。通称は伝八郎、喜右衛門(7代正壽まで同名を名乗る)。官位は従五位下・飛騨守。長崎奉行を務めた甲斐庄正述(領地は河内国錦部郡)の子。兄弟に土屋正敬(土屋勝正養子)、正奥、正之、宮崎重政室、大森好輝室。室は高木守久の娘。子に正永、加藤茂雅(加藤重長養子)、浅野長武継室、土屋逵直室。 慶安元年(1648年)6月、3代将軍徳川家光にはじめて拝謁し、承応3年(1654年)2月に小姓組となり、寛文6年(1666年)に使番となり、翌年より但馬、丹波及び北陸地方に巡見使として赴く。寛文12年(1672年)、使番より御勘定頭(勘定奉行)となる。延宝8年(1680年)まで務めた後、江戸南町奉行となる。加増を重ね天和2年(1682年)に4000石の大身となる。 元禄3年(1690年)、南町奉行在任中に没する。子の正永が家督を継ぎ、普請奉行などを務めた。 創作での甲斐庄正親[編集] 天和3年(1683年)に、放火犯である八百屋お七の裁きにおけるやりとりが知られている。 お七が16歳になったばかりであったことから、正親は哀れに思い、お七の命だけは救ってやろうと(放火犯に対する罰則の下でも、16歳未満なら死刑(火刑)を回避して遠島に減刑できる)「お七、お前の歳は十五であろう」と聞いたものの、彼女が正直に16歳であると言ったため、正親は自らの意図が理解できていないと思って重ねてお七に年齢を問いただすも、彼女は正親の意を汲むことができず、再び正直に16歳だと答え、さらにお宮参りの記録を証拠として提出したため、やむなく正親はお七を定法どおりの裁きによって火刑とせざるを得なくなってしまった。 ただし、これはあくまで後年の創作であると考察されており、この話を裏付ける事件当時の史料は存在しない。八百屋お七の物語はたくさんの作家が書いていてストーリーは作家ごとに様々な設定がされている。奉行・甲斐庄正親の人情話も一部の作家の作品に見られる創作である。史実では、放火犯について15歳以下ならば罪を減じて遠島(島流し)にする規定が明確に設けられたのはお七の死後40年ほど経った享保8年(1723年)、8代将軍徳川吉宗の時代になってである。規定成立以前にも年少の殺人犯については死罪は避けようとする諸規定は存在した。ただし、放火犯については明確な規定は無く、また『天和笑委集』(後述)第10章では13歳の放火犯喜三郎が火刑になった、とする記述がある[1][2]。 お七の伝記の最初期の例である井原西鶴の『好色五人女』(貞享3年(1686年))の八百屋お七物語の作中では裁判の場面は存在しない[3]。同じく貞享年間(1684‐88)成立の『天和笑委集』では裁判の場面はあるが、お七の年齢を詮議する記述はない[4]。1715-16年の紀海音の『八百屋お七』や1744年為永太郎兵衛『潤色江戸紫』でもお七を裁く場面はない。お七の事件から74年後の馬場文耕の『近世江都著聞集』では裁判の場面が大きく取り扱われ、”お七の年齢を15歳以下だと偽って助けようとする奉行”が登場するようになる。馬場文耕の『近世江都著聞集』は後続の作家に大きな影響を与え、これ以降の作品ではお七の年齢の扱いで生死を分けることにするエピソードが含まれる作品が続出してくる。馬場文耕の『近世江都著聞集』には史実としてのリアリティはまったく無いが、講釈師であった文耕ならではの創作に満ち溢れ、すなわちお七の年齢詮議の話は文耕の創作以降であろうとする説がある[1]。 甲斐庄正親が登場する作品[編集] 小説 注釈[編集] 出典[編集] ^ a b

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あの夏のルカ – Wikipedia

『あの夏のルカ』(あのなつのルカ、原題:Luca)は、ピクサー・アニメーション・スタジオ製作によるアメリカ合衆国のコンピュータアニメーション・サマー・ファンタジー・アドベンチャー映画[2][3][4]。2021年6月18日にDisney+にて日米同時公開された[注 1][5][6][7][8][9]。監督はエンリコ・カサローザ[注 2][10]。 ピクサーの長編映画としては、2020年公開の『ソウルフル・ワールド』に次ぎ、1995年公開の『トイ・ストーリー』から数えて24作目となる[11]。 北イタリアを舞台に[注 3]、海の世界に暮らすシー・モンスターの少年たちが、人間の世界へと冒険する様子を描いている[12]。また、本作はピクサー史上初の「夏」を題材とした作品である。 キャッチコピー[編集] 「シー・モンスター出没注意![13]」 「秘密を抱えたあの夏、僕たちは少し大人になった…[14]」 あらすじ[編集] 本作の舞台は、1950年代の北イタリアの港町ポルトロッソ。そこの住民たちは海に住むシー・モンスターを恐れており、一方のシー・モンスターたちも人間を恐れていた。そして、2つの世界は海面で隔てられ、決して交わることはなかった。 そんなシー・モンスターの少年ルカ・パグーロは、海底に沈んでいる人間のものに興味を持ち、人間の世界への好奇心を止められずにいた。そしてある夏の日、人間の世界を知る同じくシー・モンスターのアルベルト・スコルファノと出会った彼は、シー・モンスターの掟を破り彼と共に陸に足を踏み入れる。身体が乾くと人間の姿になるという性質を持つ彼らは、少しでも水に濡れると元の姿になってしまうため、この秘密を人間に知られる恐怖心を抱く[15][16][17][18]。 ルカは人間の世界にある「ベスパ」という乗り物に心惹かれ、様々な材料を用いてそれを手作りするが、そのことを母親ダニエラと父親ロレンツォに知られてしまい、夏の間叔父と共に深海で過ごすように言われる。そこでルカとアルベルトは、本物のベスパを手に入れるべくポルトロッソへ行く。そこでは年に1度、トライアスロン形式[注 4]の催し物があり、優勝者には多額の賞金が贈られるという。2人はその賞金でベスパを購入することを決意するが、毎年そのレースを連覇しているエルコレ・ヴィスコンティという不良が登場。ルカとアルベルトが彼に目をつけられていたところを、ジュリア・マルコヴァルドという少女に助けられる。ルカ、アルベルト、ジュリアの3人は協力してレースで優勝することを目指す。ジュリアは、寝泊まりをする場所がないルカとアルベルトを、彼女の父親で漁師であるマッシモを手伝うことを条件に家に泊めてくれることにする。 一方、姿を消したルカを心配したダニエラとロレンツォは、恐る恐るポルトロッソへ足を踏み入れ彼を探し始める。そして、ジュリアは毎年夏の間だけポルトロッソで過ごし、普段はジェノヴァの学校に通っていることをルカに打ち明ける。その話を聞いたルカは、「学校」に興味を持ち始めるのだった。レースの練習に打ち込む3人だったが、ある時ルカとアルベルトは些事で喧嘩をしてしまい、それが原因でジュリアに彼らの本来のシー・モンスターの姿を見られてしまうという事態が起こる。そんな中迎えたレース当日、レースに熱中するルカたちだったが運悪く雨が降り始め、案の定シー・モンスターの姿に戻ってしまったルカとアルベルト。しかし、偶然にもルカたちはレースで優勝を果たす。それを見た住民たちはシー・モンスターへの誤解を解き、打ち解け始める。 夏も終わり、ジュリアがジェノヴァに戻る日がやって来るが、アルベルトはルカのためにレースの賞金で購入したベスパを売り払いそのお金でジェノヴァ行きの切符を手に入れていた。マッシモと暮らすことになったアルベルトや両親と別れたルカは、ジュリアと共に汽車で学校へと旅立つのであった。 エンドロールでは、ルカやアルベルトのその後が描かれている。また、エンドロール終了後には深海に住むルカの叔父ウーゴが視聴者に向けて愚痴をこぼす所で映画は幕を閉じる。 登場キャラクター[編集] シー・モンスター[編集] シー・モンスターの掟として、「海の世界を離れてはいけない」・「人間に見られてはいけない」・「水に濡れてはいけない」がある。彼らは水に濡れるとシー・モンスターの姿になり、乾くと人間の姿になるという性質を持つ。

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