Month: August 2018

桑原淳一 – Wikipedia

桑原 淳一(くわばら じゅんいち、1956年2月11日 – )は、東京都江戸川区平井出身の元ボートレーサー。 息子の将光は現役のボートレーサー。 江戸川競艇場の目の先である平井で育ったが、1975年5月8日に多摩川で初出走を迎える。ちなみに東京支部の選手は基本的に平和島か多摩川でデビューすることになっているが、ホームプールは地元中の地元の江戸川になった。当時の江戸川は千葉出身の選手が大活躍していたが、3年目の1977年9月6日に江戸川で初優勝を飾り、桑原は千葉の選手に交じって江戸川で頭角を表す。特に波乗りが上手いわけではなく、ターンスピードがあるわけでもなく、スタートもいたって普通であったが、江戸川の水面を熟知していたためにそつのないハンドルで勝利を量産。最初は全国的にも名が知られてはいなかったが、B級からA級に昇格し始めた頃から、徐々に関東地区の記念にも呼ばれるようになる。1985年の江戸川開設30周年記念「全日本モーターボートグランプリ」でイン逃げを決めてGI初制覇を果たすが、優勝インタビューでは「とにかく緊張しました。何も覚えていません」と語った。当時は「地元のアンちゃんが地元の記念でたまたま勝ったんだろう」と高を括っていた記者もいたが、その後も桑原は成長を続け記念には欠かせない存在となる。当然、SGにも顔を出すようになって、豪快なまくりを武器に、1990年代のSG戦線を沸かせて長く東京支部を牽引[1]。優勝こそないものの、準優勝3回という全国レベルのスター選手へと変貌を遂げた。当時の東京支部は長らくスター選手不在という時代であったが、桑原に触発されて、西田靖、長岡茂一、熊谷直樹、濱野谷憲吾、三角哲男、石渡鉄兵などが活躍し始めた。1991年には住之江で行われた第1回GC決定戦競走に優出し、西田とワンツーの2着に入った。同年に尼崎で行われた第38回全日本選手権競走、1993年に福岡で行われた第39回モーターボート記念競走では原田順一とデッドヒートを繰り広げて共に2着。2004年の第5回競艇名人戦競走(住之江)で3度目の原田との対決になったが、優勝は大森健二で、原田は2着、桑原は6着に終わった。GIは6勝し、江戸川10勝を含む通算優勝回数52回の実績を残しており、最後の優勝は2005年6月20日の宮島一般戦「第5回JLC杯競走」で、2号艇3コース進入からまくりを決めてのものであった[2]。最後の優出は準優での親子対決を制して勝ち上がった2013年5月4日の多摩川一般戦「第20回多摩川さつき杯」で、結果は3号艇3コース進入で6着に終わった[3]。同年は最初こそ4月に引退する予定であったが、将光に「江戸川で仕事が残ってるんじゃない?」って言われて続行[1]。6月7日の江戸川一般戦「第12回JLC杯」最終日が引退日となり、前日の6日・5日目1Rで2号艇2コース進入からまくりを決め、江戸川通算200勝を達成[4]。当日は「おめでとう桑原選手江戸川200勝」の名が付いた3Rで、1号艇1コースからイン戦を押し切って最後の勝利となる通算1654勝目を挙げる[5]。最後の出走となった8Rは「ありがとう桑原選手引退記念」と名が付いたが、4号艇4コース進入でカド26トップタイスタートも同じく26トップタイスタートの3号艇鹿島敏弘が捲りに出たので捲り差しに構えたところ、1号艇黒柳浩孝が壁になって行き場を無くしてしまい5着に終わった[6]。9R展示後に水神祭、11R発売中に引退セレモニー[7]が行われ[1]、セレモニーには石渡と作間章が花束プレゼンターとして出席したが、将光は戸田一般競走前検日の為参加できなかった。思い出のレースはと聞かれると、「江戸川の30周年を勝てた時と去年の大江戸賞(最終日9R)で将光とワンツーできた時[8]」と答えている[1]。 プロペラグループ「TMR」を結成し、矢後剛、阿波勝哉、息子の将光が所属していた。 現在はボートレースアドバイザーとして活動し、JLCに解説者として出演。YouTubeで「jkikakuチャンネル」も立ち上げ、過去の勇姿などをアップしている。 獲得タイトル[編集] ^ a b c d 桑原淳一きょう江戸川3、8Rラストラン – ボート競輪オート 日刊スポーツ ^

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後藤昌文 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “後藤昌文” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2008年9月) 後藤 昌文(ごとう しょうぶん、1826年 – 1895年6月27日)は、日本の漢方医。「難病自療」を著しハンセン病は治癒可能であることを啓蒙した。後藤昌直(二代目後藤昌文)の父。 1826年(文政9年) – 漢方医後藤宗謙(宗健)の子として美濃国(岐阜県)北方にて出生。後藤宗謙は大垣藩医の杉田玄白系蘭医学塾、江馬塾門人帳に名を連ねていた。北方市漢方医里村家に養子に入り漢方を学ぶ。 1870年(明治3年)5月[要検証 – ノート]

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アレイシ・エスパルガロ – Wikipedia

アレイシ・エスパルガロ・ビジャ ( Aleix Espargaró Villa, 1989年7月30日 – ) は、スペイン・カタルーニャ州グラノリェース出身のオートバイレーサー。 アレックス・エスパルガロとも表記される。2012年よりロードレース世界選手権MotoGPクラスに参戦する。弟も同じオートバイレーサーのポル・エスパルガロ。 2004-2008[編集] 2004年のスペインロードレース選手権(CEV)125ccクラスで史上最年少のチャンピオンに輝いたエスパルガロは、翌2005年よりロードレース世界選手権125ccクラスにフル参戦デビューを果たした。セードルフ・レーシングでアルバロ・バウティスタのチームメイトを務め、シリーズランキング16位でデビューシーズンを終えた。 2006年はBQRチームに移籍し引き続き125ccに参戦していたが、第8戦ダッチTTよりマルティン・カルデナスの後釜[1]として、250ccクラスにステップアップを果たした。250ccデビューシーズンはシリーズランキング19位を記録した。またこの年には弟のポルが125ccクラスに参戦を開始した。 2007年はブルセンス・アプリリアチームに移籍しシリーズ15位、翌2008年はロータス・アプリリアチームでアレックス・デボンをチームメイトにシリーズ12位と成績を伸ばしていった。 2009[編集] 2009年シーズン開幕前のエントリーリストではカンペテーラ・レーシングからの参戦が予定されていたが後にキャンセルされ[2]、世界選手権でのレギュラーシートを失ってしまった。そのためエスパルガロは次年度より始まるMoto2規格のマシンの開発ライダーを務め、スペイン国内選手権にテスト参戦することになった。MotoGP第7戦ダッチTT・第9戦ドイツGPには、ガボール・タルマクシが去った後の250ccクラスのバラトンリンク・チームから代役参戦[3]し、それぞれ4位・7位という好成績を残した。 第12戦インディアナポリスGPと第13戦サンマリノGPには、ミカ・カリオの代役[4]としてプラマック・レーシングから最高峰MotoGPクラスにデビューを果たした[5]。スペイン選手権時代より宇井陽一に憧れて、宇井と同じゼッケン41を使用し続けてきたアレイシだったが、MotoGPではすでにガボール・タルマクシがNo.41を使っていたため、この年に限っては弟のポルと同じゼッケン44を付けることになった[6]。この2戦でエスパルガロはそれぞれ13位、11位という安定した成績を残した。これが評価され、翌2010年からはニッコロ・カネパに代わりプラマック・レーシングのレギュラーシートに収まることになった[7]。終盤2戦にはそのカネパが負傷欠場となったことによって再び代役参戦を果たし、合計4戦出場・全レースでポイントを獲得し、シリーズランキング18位を記録した。 2010[編集] MotoGPフル参戦初年度となった2010年シーズン、エスパルガロはほぼ全てのレースでチームメイトのカリオを上回る結果を残し、第4戦イタリアGPと第16戦オーストラリアGPでベストリザルトとなる8位でフィニッシュ、シリーズランキング14位を記録した。 2011[編集]

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愛知県競馬組合 – Wikipedia

愛知県競馬組合(あいちけんけいばくみあい、英: Aichi Horse Racing Association)とは、名古屋競馬場及び中京競馬場で地方競馬を主催(ただし、中京競馬場での開催は2002年1月以降休止)する一部事務組合である。愛知県、名古屋市、豊明市で構成される。調教施設として、弥富市に弥富トレーニングセンターを所有している。 所属騎手[編集] 現役所属騎手[編集] 騎手は愛知県騎手会(1963年設立[1])を組織している。2000年代には公式ウェブサイトを開設、運営していた[2]。 浅野皓大(あさの こうだい) – 2019年10月1日付で騎手免許を取得[3]。同年10月15日にデビュー。名古屋競馬では2016年4月の加藤聡一以来3年半ぶりの新人騎手デビューとなった[4]。11月1日の名古屋競馬第1競走で地方競馬初勝利[5]。 今井貴大(いまい たかひろ) 大畑雅章(おおはた まさあき) 岡部誠(おかべ まこと) 尾崎章生(おざき あきお)

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コートマー – Wikipedia

コートマー(英: coatomer)は、輸送小胞を覆うタンパク質複合体である。「コートマー」という語は、COPIタンパク質が形成する複合体のみを指して用いられる場合と、COPIタンパク質複合体とCOPIIタンパク質複合体の双方を指して用いられる場合とがある。 COPI – トランスゴルジ網からシスゴルジ網と小胞体への逆行性輸送を担う COPII – 小胞体からシスゴルジへの順行性輸送を担う コートマーはクラスリン(アダプチン[1])に機能的に類似しており、進化的に相同である。クラスリンは、細胞膜からのエンドサイトーシスとトランスゴルジ網からリソソームへの輸送を調節する。 詳細は「COPI」を参照 COPIは7つの異なるタンパク質サブユニットから構成され、これらのサブユニットは2つのサブ複合体を構成する[2]。1つ目のサブ複合体はα-COP(酵母ではRet1)、β’-COP(Sec27)、ε-COP(Sec28)からなり、2つ目のサブ複合体はβ-COP(Sec26)、γ-COP(Sec21)、δ-COP(Ret2)、ζ-COP(Ret3)からなる[2]。 COPIは、ゴルジ体から小胞体へタンパク質を輸送する小胞を覆うコートマーである[3]。この経路は逆行性輸送(retrograde transport)と呼ばれている。COPIタンパク質がゴルジ体膜の小胞を覆うことができるようになるためには、ARF1(英語版)と呼ばれる低分子量GTPアーゼとの相互作用が必要である[4]。GDPを結合したARF1はゴルジ体膜と相互作用する[4]。次に、ゴルジ体膜のグアニンヌクレオチド交換因子(GEF)がARF1に結合したGDPをGTPに交換する[4][5]。これによってARF1は活性化され、両親媒性のαヘリックスをゴルジ体の脂質二重層に挿入できるようになる[5]。続いて、ARF1はβ-COP、γ-COPとの相互作用によってCOPIをゴルジ体膜へリクルートする[5]。小胞がCOPIで覆われると、小胞体への移行が開始される。小胞が小胞体膜へ融合できるようになるためには、小胞を囲う被覆が解離しなければならない。ARFGAP1(英語版)は、ARF1のGTPアーゼ活性を活性化することでARF1の不活性化を担う[5]。ARF1がGDP結合型コンフォメーションへと切り替わると、COPI被覆は不安定化される[5]。 COPIタンパク質は、タンパク質の選別シグナルと相互作用することで適切な積み荷を認識する[6]。最も一般的は選別シグナルとしては、KKXXやKDEL(英語版)などのアミノ酸配列がある[6]。KKXXシグナルは小胞体膜貫通タンパク質と関係しており、KDELシグナルは小胞体内腔のタンパク質と関係している[6]。COPI被覆小胞にはp24(英語版)タンパク質も含まれており、積み荷の選別を助けている[7]。 詳細は「COPII」を参照 COPIIは小胞体からゴルジ体へタンパク質を輸送する小胞を覆う[3]。この経路は順行性輸送(anterograde transport)と呼ばれている[3]。COPII経路の最初の段階は、Sar1(英語版)と呼ばれる低分子量GTPアーゼの小胞体膜へのリクルートである[8]。Sar1が小胞体膜と相互作用すると、Sec12と呼ばれる膜タンパク質がGEFとして作用し、Sar1のGDPをGTPに置き換える[8]。これによってSar1タンパク質は活性化され、両親媒性αヘリックスが小胞体膜に結合する[8]。膜に結合したSar1はSec23(英語版)–Sec24(英語版)タンパク質ヘテロ二量体を小胞体膜へ誘引する。Sec23はSar1と直接結合し、Sec24は小胞体膜に位置する積み荷受容体に直接結合する[9]。 GTP結合型Sar1とSec23-Sec24複合体は、Sec13(英語版)/Sec31(英語版)タンパク質複合体をリクルートする。この複合体は多量体化し、被覆の外層を形成する[9]。COPII小胞がシスゴルジ膜に融合するには、被覆の除去が必要である。被覆の除去は、Sar1に結合したGTPがGTPアーゼ活性化タンパク質によって加水分解されたときに行われる[9]。GTPアーゼの活性化によって、Sar1とSec23-Sec24二量体との相互作用も解消される[9]。COPII小胞は、膜貫通型小胞体タンパク質に存在する小胞体搬出シグナルと直接相互作用することで適切な積み荷を選択する[6]。小胞体搬出シグナルには、さまざまな生物で同定された、いくつかのクラスが存在する。多くの異なる小胞体搬出シグナルが関与していることは、認識タンパク質に複数の結合部位が存在することを示唆している[6]。 COPの欠陥と関係した疾患[編集] 新たに形成された分泌小胞は、細胞を離れる前に小胞体とゴルジ体を通過しなければならない。COPIIによる初期分泌経路の問題は、先天性赤血球形成異常性貧血II型(英語版)と呼ばれる疾患を引き起こす[10]。この疾患は常染色体劣性遺伝し、SEC23B(英語版)と呼ばれる遺伝子の変異が原因である[10]。この遺伝子は細胞内のタンパク質輸送の調節に重要な役割を果たす[10]。この疾患の症状には、貧血、黄疸、網赤血球数の低下、脾腫、ヘモクロマトーシス(英語版)などがある[11]。通常、思春期または成人早期に診断が行われる[11]。この疾患は非常に稀少な疾患で、世界中で数百症例しか報告されていない[11]。この疾患の治療法は、輸血、鉄補充療法、脾臓の摘出である[11]。

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ストラボン – Wikipedia

ストラボン。16世紀の彫刻画 ストラボン(ギリシア語: Στράβων / Strábôn、ストラボーン,ラテン語: Strabo, 紀元前64年/63年 – 24年頃)は、古代ローマ時代のギリシア系の地理学者・歴史家・哲学者。 全17巻から成るギリシャ語で書かれた『地理誌』(または地理書、Γεωγραφικά, Geōgraphiká、ゲオグラフィカ)で知られる。この大著は、当時の古代ローマの人々の地理観・歴史観を知る上で重要な書物となっている。 生涯・人物[編集] ストラボンの出自や生涯は『地理誌』の記述の中で若干触れられている(記載の地域縁の人物に自らの故郷や恩師が登場すると、その人物と自身との関係が記載される)。小アジア北部にあったポントゥスのアマセイア(現トルコ領:アマスィヤ)の裕福な家庭に生まれる。当時はポントゥス王国が滅亡しローマの属州となったばかりであった。家系はポントス王国の有力者に連なり、母方の先祖はミトリダテス6世の乳兄弟であった。最初は小アジアのニュサに学び、後にローマにて哲学と地理学を学んだ。 哲学の立場としては、アリストテレス派、後にストア派になり、政治的には、ローマ帝国を支持していた。 ストラボンの生涯は旅に特徴付けられる。その範囲は西はイタリア半島西岸のトスカナ、南はエチオピアに及ぶ。地中海沿岸諸都市のみならずエジプト、クシュなど内陸にも旅し、その見聞を元に17巻からなる『地理誌』(Geographica)を示した。(多くは現存している)この著の完成時期は不明であるが、記載内容からティベリウスの治世の時に多くは書かれたものと推測されている。この著作は、地中海沿岸の都市の詳細な叙述で知られ、地域の記載のみならず歴史やその都市の伝説にまで触れて、当時の歴史・地理を知る上で重要な書物である。23年頃にアマセイアにて没している[1]。没年は紀元21年という説もある。 『地理誌』を上回る全47巻からなるとされる『歴史』(Historica hypomnemata)はほとんど散逸してしまい、現存しているのはイタリア・ミラノ大学所有のごく一部の断片にしか過ぎない。 ストラボン本人が『地理誌』内でこの本について触れている部位があるのである程度は推測できる部位があり、まず序文(第I巻1章23節)ですでに書いた歴史記録の書について言及しているため、『地理誌』より『歴史』が先に書かれたこと。第XI巻9章3節で「パルティア人の法制について」が(『歴史』の)第6巻にあるとしているが、この巻が「ポリュビオス(古代ギリシャの歴史家)以後の第2巻目」という言われ方をしているので初期4巻が主にポリュビオスの本から引用した記述でそれ以後の第5巻からは内容が大きく違い、第5巻がポリュビオスが筆をおいた紀元前140年代付近からの話でそれ以前は要約に近い内容であること。また第II巻1章9節で以前アレクサンドロス大王の歴史を書き記した時(その元になった資料で)インドの情報が大雑把であることを痛感した下りから、この初期4巻にアレクサンドロスの話があったことなどが分かっている。これ以外に他者からの引用としてスイダスの「ストラボンはポリュビオス以後のことを43巻の書に収めた」というくだりから『歴史』は全47巻、フラウィウス・ヨセフスが『ユダヤ古代誌』の第XV巻1章2節でヘロデ大王がアンティゴノスを処刑させた下り(紀元前37年ごろと分かっている)について引用していることから、少なくとも紀元前37年までは記述があったこと、また同じくヨセフスがストラボンの歴史書とダマスコのニコラウスの歴史書(これも現存しないがヨセフスたちの引用がある)の記述の一致をアピールしているが、両者の執筆年代が同時期であることからどちらかがもう一方の引用なのではなく、さらにさかのぼって双方で共に参考にした歴史書の存在が推測される[2][3]。 ストラボンの用いた史料は大プリニウス『博物誌』程膨大な書籍を参照したわけではなく、主要史料は本文中でもしばしば引用・批判されている以下の書籍と考えられている。 エラトステネス『地理学』

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東京大学大学院人文社会系研究科・文学部 – Wikipedia

東京大学大学院人文社会系研究科(とうきょうだいがくだいがくいんじんぶんしゃかいけいけんきゅうか、英称:Graduate School of Humanities and Sociology, The University of Tokyo)は、東京大学に設置される大学院研究科の一つである。また、東京大学文学部(とうきょうだいがくぶんがくぶ、英称:Faculty of Letters)は、東京大学に設置される学部の一つである。 文学部は、1877年(明治10年)の東京大学(旧東京大学)設立時に、開成学校からの改組により設置された学部の一つであり、当初は史学哲学及政治学科と和漢文学科の2学科で構成されていた。1881年に第一 哲学科、第二 政治学及理財学科、第三 和漢文学科の3学科となり、1886年には政治学及理財学科が法政学部へ移動して、第一 哲学科、第二 和文学科、第三 漢文学科の3学科となった。その後、学科の増設が行われていったが、1963年に第一類(文化学)、第二類(史学)、第三類(語学文学)、第四類(行動学)の4類にまとめられた(それまでの学科は専修課程となり各類に属する形になった)。この後も専修課程の増設は行われ、1995年に類が学科へ改称された。2016年には学科が改組され、すべての専修課程が「人文学科」に統合された(2018年4月進学者から適用)。 各専修課程は「○○研究室」と呼ばれることが多い。なお、現代文芸論専修課程は、2007年4月に西洋近代語近代文学専修課程を改組して設置された専修課程であり、一国一言語の枠を超えて近現代文学全般を研究対象とする点が特徴である。

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かまど – Wikipedia

この項目では、調理設備について説明しています。香川県坂出市の和菓子メーカー・和菓子については「名物かまど」をご覧ください。 「竈」はこの項目へ転送されています。竈(くど)については「竈 (くど)」をご覧ください。 かまど(竈)は、穀物や食料品などを加熱調理する際に火を囲うための調理設備。 ロシアの伝統的なペチカ 調理などで煮炊きをする場合、古くは囲いの無い直火に鍋などを加熱する方式によって食品の加熱調理が行われていたが、周辺に熱が放射などの形で逃げる他、煤煙が漂う・火が風で揺らぐなど効率が悪いため、土、石、セメントで作られるかまどが発明された。 これらでは木(薪)や家畜の乾燥させた糞といった直接的なバイオマス燃料や、炭などのバイオマス加工燃料が固形の燃料として用いられる。また地域によっては石炭が利用される場合もある。 このかまどの発達により、調理者は裸火による直接的な放射熱に晒されなくてすみ、より高温の炎で調理することが出来るため調理時間の短縮にも繋がり、また調理方法も様々なバリエーションを生むようになり、今日ある調理方法のほとんどは、このかまどによってその原型が確立された。 更に言えば、かまどの発達は文明の発達に大きく寄与したとも考えられる。調理の一極化や専門化を生み、かまどを中心に人が集中するようになり、従来の炉が調理に手間が掛かっていたために食が賄える人の数はそれほど多くなかったのに対し、かまどでは高温での連続集中調理で多くの人の食事が賄え、これにより人口の集中が発生、そこに文明が育まれた。 かまどは調理専門に火を焚く設備であるため、暖房や照明としての火が必要ない、温暖な地域で使用される場合が多い。しかし、かまどから吐き出される煙の熱気を利用した合理的な暖房システムが、寒冷なアジア北部とヨーロッパ北部に存在する。朝鮮のオンドル、中国北部の炕(カン)は、かまどの排気を床下に通して部屋を暖める床暖房である。原理はどちらもそれぞれ同じだが、日本と同じく「履物を脱いで部屋に上がる」朝鮮では部屋全体を暖め、室内でも靴を脱がない中国では寝床のみ暖めるところに違いがある。部屋の中では焚口、つまり台所に近い場所が暖かいため、「上座」とされる。暖房が必要ない夏季は、オンドルに繋がらない夏専用のかまどを使用する。日本でも、神社やお堂などの公共の場に祭事の炊き出しや暖を取ることを目的としたかまどが併設されていることがある。ロシアのペチカは、かまどや暖炉の排気を石やレンガで築いた煙道に通す蓄熱式暖房である。ペチカの上に寝床を設ける事もある。幕末、カムチャッカ半島に抑留された高田屋嘉兵衛は、ペチカで暖房された部屋の快適さを「襦袢のみで過ごせる」と証言している。現在、北海道でも、石油ストーブと組み合わせたペチカが一部で使用されている。 西洋、東洋で長い間利用され、かまどの火はよく神聖化された。 日本では釜で沸かした湯で邪気を払う「湯立神事」のため、かまどを設ける場合もある。愛知県の奥三河地方や長野県の伊那地方には鎌倉時代より伝統的な祭り「花祭」が伝承されている。祭りの際はかまどを築いて湯を沸かし、クライマックスで鬼に扮した踊り手が舞う中、湯が振り撒かれ、邪気を払う。 次第に文明が発達していく中で、調理用の熱源としてガスコンロのような他の燃料による簡便な調理用の炉が利用されるようになると、次第にその役目を終えて姿を消していった。 東洋のかまど[編集] かまどの構造は調理側と焚口側が一致する類型(日本や朝鮮半島のほか、中国のブイ族・ウイグル族・リー族の住居など)、調理側と焚口側が直交に分離している類型(中国のサニ族の住居など)、調理側と焚口側が平行二面に分離している類型(中国の華南地域の住居など)などがある[1]。 中国[編集] 新石器時代には調理用火器として住宅内に設けられた炉である竈が出現した[2]。地面に作り付けのかまどを地竈といい竈台と竈坑がある[2]。竈台は床面から5cmほど高い位置に水平面を設けた炉で、鼎などの脚付きの調理着に適した設備である[2]。一方、竈坑は床面から15cmから20cmほど掘り下げて縁の部分を少し高くした炉で、釜など脚の付かない調理器具に適しており、かまどの起源となった設備である[2]。 また壁面に設けた壁竈もあり、龍山文化でみられるこれらの設備の併設は採暖用の炉竈と炊事用の厨竈の機能分化とみられている[3]。 さらに新石器時代には地竈や壁竈のほか、持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[4]。 日本[編集]

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創価女子短期大学 – Wikipedia

創価女子短期大学(そうかじょしたんきだいがく、英語: Soka Women’s College)は、東京都八王子市丹木町1-236に本部を置く日本の私立大学である。1985年に設置された。大学の略称は創女短・創短 ・SWC。 大学全体[編集] 建学の精神(校訓・理念・学是)[編集] 創価女子短期大学における建学の精神 「知性と福徳ゆたかな女性」 「自己の信条をもち人間共和をめざす女性」 「社会性と国際性に富む女性」 学風および特色[編集] 創価女子短期大学は2007年度、財団法人短期大学基準協会における第三者評価の結果、「適格」認定を受けている。 創価大学と同じキャンパスに設置されている関係上、両者との交流は深い。卒業後、創価大学へ編入学する学生も多い。 各種簿記大会での優勝実績、ビジネス文書技能検定で「文部科学大臣賞」を受賞などの実績がある。 女子寮が併設されている。 2012年度より全学生にタブレット端末「iPad」を配付している。 基礎データ[編集] 所在地[編集] 東京都八王子市丹木町1-236

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西遊記 (サウンドトラック) – Wikipedia

『西遊記』(さいゆうき)は、ゴダイゴが1978年10月に発売した3枚目のオリジナル・アルバムである。 英語タイトルは『MAGIC MONKEY』(マジック・モンキー)。 日本テレビ開局25周年TVドラマ『西遊記』のサウンドトラックとしてリリースされ、本アルバムはサウンドトラックであると同時にオリジナル・アルバムでもある。 テレビ番組にて、ディスクジャケットで着用したコスプレで演奏をしたこともあるが、別の配役で演奏をやったこともあり、そのときはミッキー吉野が猪八戒、タケカワユキヒデが三蔵法師、スティーブ・フォックスが沙悟浄、浅野孝已とトミー・スナイダーが化け物に扮していた。これは1度しかやったことがなく、出演した音楽番組がドラマ『西遊記』で孫悟空を演じた堺正章が司会であったため、孫悟空が使えなかった。 ミッキー吉野は、前作のオリジナル・アルバム『DEAD END』を制作している頃から、『西遊記』をテーマにしたアルバムを作ろうと考えていた。その時のイメージはカラフルな総天然色で、宇宙にフォークソングがあるとしたら、どんなものなのか、宇宙の民族音楽はどうなのかなどを考えていた[2]。 作詞の奈良橋陽子は、映画『キタキツネ物語』ではラッシュを見て作詞していたが、『西遊記』がどんな物語なのかは知らなかったので、本屋をいくつか回り、中学生用の英語教材で初めて『西遊記』を読み感動したという。特に、三蔵法師が最後に経文を手にした時、その経文には何も書かれていなかったことや「法師よ、お前の苦しかった旅にくらべると、経文はもう何の意味もありません」という観音の声に三蔵法師が悟りをひらく場面など、その東洋の知恵の深さにショックを受けたことなどをメンバーに伝えた[3]。その中で、「こういう物語か。じゃ、こういう場面が、たぶんあって、こういう感情も出てくる」といくつかリストアップして、それで明るい感じとか、緊張感とか、こわいものとか作詞していった。『西遊記』にはすごく感激して、ほんとうに興奮して、楽しんで書けた[4]。 その奈良橋が、日本テレビドラマ『西遊記』のキャストに三蔵法師役で女性の夏目雅子が選ばれたことから、三蔵法師は女性だと思い込み、孫悟空が三蔵法師に恋をするだろうと考えて作詞した「Don’t Wanna Say I Love You/愛のフィーリング」という曲もあったが、本アルバムでは採用されず、タケカワのソロアルバム『Lyena/レナ』に収録された。 サウンドはシンセサイザーを多用し、さらにシーケンサーの『ローランド MC-8』を使用して、音の厚みときらびやかな雰囲気を作っている。「ガンダーラ」のイントロではアコースティック・ギターを6本以上多重トラックするなど、凝った録音を行っている。 このアルバムに含まれる曲はすべて英語詞であり、実際に放映された『西遊記』のエンディングで使用された「ガンダーラ」の日本語歌詞バージョンは収録されていない。 これはゴダイゴ結成時からの英語詞で勝負とする方針によるもので、スタジオ録音のアルバムにおいてはデビュー・アルバム『ゴダイゴ(組曲:新創世紀)』から『OUR DECADE』まで、『CMソング・グラフィティ ゴダイゴ・スーパー・ヒッツ!』の「レッド・シャポー」の最後の部分で日本語が使用されたのを除き一貫していた。また、オリジナルアルバム「カトマンドゥー」では最後に日本語歌詞の「(カミング・トゥゲザー・イン・)カトマンズ」が収録されたが、それに続くオリジナルアルバム「M.O.R.」「Flower」「One

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