Month: September 2018

桜井古墳 – Wikipedia

この項目では、福島県の桜井古墳について説明しています。奈良県桜井市の前方後円墳については「桜井茶臼山古墳」をご覧ください。 桜井古墳(さくらいこふん)は、福島県南相馬市原町区上渋佐に所在する古墳時代前期築造の前方後方墳。周辺の古墳群との関係から「桜井古墳群1号墳」とも称される。国の史跡に指定されている。 桜井古墳[編集] 立地[編集] 桜井古墳は、福島県の通称浜通り地方の北部、南相馬市原町の中心市街の北東に位置し、西の阿武隈高地から東の太平洋に流下する新田川南岸の標高10メートルの低台地(河岸段丘縁辺部)に立地する。緯度は北緯37度38分29秒、経度は東経140度59分29秒である。なお、桜井古墳を中心に河岸段丘上を東西約900メートルの範囲にわたって古墳群が広がり、大小37基の古墳が確認されている。これは、一般に「桜井古墳群」として一括して呼称されている(詳細は後述)。 周囲の土地利用は、北側氾濫原が水田、古墳群の所在する段丘縁辺部は林、畑地および宅地で、南側一帯は住宅地と農地が混在している。 なお、本古墳北東の金沢地区には7世紀から9世紀にかけての製鉄遺跡として著名な長瀞遺跡、真野川水系の鹿島区寺内地区には国の史跡に指定された真野古墳群(古墳時代中期・後期)、同じく横手地区には横手古墳群がある。 概要[編集] 本古墳の名称は、原町区上渋佐の通称「桜井」と称せられる地域に所在することに由来する。 1955年(昭和30年)の大塚初重を中心とする明治大学考古学研究室による測量調査が契機となり、当時としては日本列島で最も北に所在し、東北地方最大の規模をもつ前方後方墳として注目を浴びた[注釈 1]。 測量調査の結果、前方部を西に面する前方後方型の墳丘を呈し、主軸の長さは74.5メートル、高さは6.8メートルの規模を有することが判明した。現在では、東北地方第4位の規模をもつ前方後方墳である。撥(バチ)形をなす前方部は幅27メートル、高さ4.5メートル規模の無段築成、一辺45メートルの矩形をなす後方部は三段築成で造られており、周溝をともなっている。陸橋[注釈 2]や墓道も確認された。 1983年(昭和58年)原町教育委員会による範囲調査が行われた。その結果、周濠が周囲をめぐっていることが分かり、幅7~20メートル、深さ60~70センチメートルと確認され、1988年(昭和63年)6月周濠を含む地域が史跡に指定された。墳丘長72メートル、後方部幅45メートル、長さ42メートルのほぼ方形で、高さ6.35メートル、前方部は長さ32メートル、前方部前幅23メートル、高さ3メートルある。[2] 後方部の南側の一部は後世削られてしまっていたことも判明したが、古式の前方後方墳としてはきわめて整正な形態を残している。葺石や埴輪はともなっていないが、後方部の頂上には埋葬施設として2基の割竹形木棺が並べられて安置されている痕跡を確認した。ただし、遺跡保護の観点から当該部の発掘調査は実施されておらず、詳細は不明である。 底部穿孔(底部に穴をあけた)の壺や二重口縁の壺が出土しており、これらの出土遺物や撥形をなす前方部の形状などから古墳時代前期の築造と推定される。年代的には4世紀後半から5世紀初頭が想定される。埋葬された人物は、古墳の立地や築造年代からも新田川流域を治めていた浮田国造の初祖・鹿我別命だったと考えられる[3]。しかし、2箇所の棺の痕跡は何を意味するのかなど今後究明すべき点も多い。 本古墳は、東北地方における古墳文化の様相を示す考古資料として学術的な価値が高いとして、測量調査のわずか1年後、1956年(昭和31年)11月7日に国の史跡に指定された。 なお、1988年(昭和63年)には原町市教育委員会(当時)の範囲確認調査をもとに、未指定だった前方部の一部と周溝部が追加指定されている。 遺跡性格[編集] 今のところ、浜通り地方最大の古墳はいわき市の玉山1号墳であり、桜井古墳はそれに次ぐ規模を有している。中通り地方最大の大安場古墳の事例と併せ検討すると、同じ福島県内でも会津地方では前方後円墳が卓越するのに対して、中通り地方および浜通り地方ではそれとは異なる様相を呈している。これは、前方後方墳をさかんに築造した北関東地方とくに下野(現在の栃木県)および常陸(現在の茨城県)との濃密な文化交流も考慮される。

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北原産業 – Wikipedia

このページは他の記事から全くリンクされておらず、孤立しています。関係あるページをこのページにリンクしてください。(2017年12月) この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “北原産業” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年8月) 株式会社北原産業(きたはらさんぎょう)は、岡山県倉敷市にある総合食品容器メーカーである。東京都中央区に東京支店を設置し、日本全国を販売エリアとして展開している。 1967年(昭和42年)1月 – 創業 1969年(昭和44年)4月 – 有限会社北原産業設立 1973年(昭和48年)4月 – 第1工場建設

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今、そこにいる僕 – Wikipedia

『今、そこにいる僕』(いま そこにいるぼく、Now and Then, Here and There)は、AIC制作による日本のオリジナルテレビアニメ作品。1999年10月14日から2000年1月20日まで、WOWOWの毎週木曜日19時00分枠にてノンスクランブル(無料)放送された。全13話。 ギャグ作品を得意とする大地丙太郎が(本人曰く「ギャグは渇望しないと生まれないため」)ギャグを一切封じ、アニメで軽く扱われすぎている戦争をきちんと描いてみたいと思い、アフリカの内戦によって生み出された少年兵士を参考に、現代の日本で暮らしていた主人公の少年が別世界の闘いが日常になっている状況に飛び込む作品[1]。 クリエーター[編集] 暴力描写の数々は、それまでの大地丙太郎作品とは全く異なる作風である。また大地の作品の多くがそうであるように本作にも高橋良輔が参加していて、狂王ハムドを演じた石井康嗣の予告編の脚本を書いている。 摩砂雪、平松禎史、大塚雅彦など、ガイナックスの有名クリエイターが多数参加している。特に、平松、大塚とはこの作品を境に大地と仕事をともにする機会が顕著に増えた。 また、長濱博史、音地正行、渡辺はじめ、和田高明、林明美といった、大地監督と交流を持つアニメーター達も本編の作画作業にたびたび参加している。 世界観に関する設定や解説などを大幅に簡略化しており、遠い未来の地球のどこかであるという、漠然とした舞台設定(物語の冒頭で「こんなにももろく~百億年の年月だから~」というセリフがあるものの、定かではない)である。荒廃し切った大地、異常発達した動植物、軍事などの一部目的に特化したハイテクノロジーなど、物語の各所で垣間見える要素が、現代とは異なる環境たる所以である。 ヘリウッド 国家規模の空中移動要塞。戦闘面のハイテク技術などには精通しているが、王も軍隊も腐敗しきっており、逆らうものは容赦なく殺害し、兵士不足を補うために各村を襲っては村人をさらいを男子供は無理やり兵士に仕立て上げ、女性は兵士を産むための子作り要員兼慰安婦にされる。故に多くの人々から恨まれている。 ザリ・バース 水資源が残る数少ない集落。住民は比較的平和に過ごしており、ヘリウッドから運良く逃れた人たちも保護している。シスの話からヘリウッドに酷い目に遭わされた人たちも多い。その為ヘリウッドを憎みハムド暗殺を計画する強硬派もいる。 ペンダント ララ・ルゥが所持している地球上の水が凝縮されたもの。ララ・ルゥは自らの命を削りこのペンダントから水を出して操ったりすることができる。 登場人物[編集]

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クリストヴァン・アコスタ – Wikipedia

著書に載せられた肖像 クリストヴァン・アコスタ(Cristóbal Acosta または Christóbal Acosta または Cristóvão da Costa 、1515年 – 1594年)はポルトガルの医師である。インドで医師として働き、アジアの植物を研究した、最初期の人物である。アジアの植民地で働いた、薬学者のトメ・ピレス(Tomé Pires)や医師のガルシア・デ・オルト(Garcia de Orta)と並んで、ポルトガル領インドの医学の歴史において重要な人物である。 著書で、Christoval Accosta Africanoと名乗っていることから、出身地はアフリカの西沖合いのポルトガル領のカーボベルデなどと考えられているが正確な生地、生年は知られていない。1550年に兵士として、アジアに派遣され、何度か現地人との戦いに参加した。一度は捕虜になるが、ベンガルで釈放された。ポルトガルに戻った後、インド副王に任命された、ルイス・デ・アタイデに従い、1568年にインドのゴアに渡り、その年、ガルシア・デ・オルトが没した後、副王の個人医となり、コーチンの王立病院の医師に任じられた。コーチンの病院でコーチンの王の治療を行い、アタイデが副王を後任にゆずり、アコスタがポルトガルに戻る1572年まで、インド各地の植物の収集を行った。1586年から1587年まで軍医として働き、その後スペインのブルゴスで医師をした。 ブルゴスで1587年にスペイン語の『東インドの薬品について』(”Tractado

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山本健介 (政治学者) – Wikipedia

山本 健介(やまもと けんすけ、1990年 – )は、日本の政治学者。専門は中東地域研究・国際政治学。静岡県立大学国際関係学部講師。2018年3月に京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程修了。学位は博士(地域研究)。博士論文のタイトルは「現代パレスチナの諸聖地をめぐる紛争とエルサレム(クドゥス)問題 : パレスチナ人の権利認識と宗教・社会生活の動態を中心に」[1]。 大学院在籍時はユダヤ教・キリスト教・イスラームの祖であるアブラハム(イブラーヒーム)の墓がある聖地ヘブロン/ハリールで主に調査を行ってきた[2]。京都大学に提出した博士論文をもとに『聖地の紛争とエルサレム問題の諸相——イスラエルの占領・併合政策とパレスチナ人』を2020年に出版。本書は「エルサレムにおける聖地の紛争を豊富な現地調査と資料を駆使して、新たな視点からエルサレム問題を読み解こうという意欲に満ちて」いると評価され、2021年2月に国際宗教研究所奨励賞を受賞[3]。 1990年 – 誕生。 2013年 – 立命館大学国際関係学部卒業。 2015年 – 京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科リサーチアシスタント。(2016年3月まで) 2016年 – 日本学術振興会特別研究員DC。(2018年3月まで) 2018年

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ボビー・ボニーヤ – Wikipedia

ロベルト・マーティン・アントニオ・ボニーヤ(Roberto Martin Antonio “Bobby” Bonilla , 1963年2月23日 – )は、アメリカ合衆国・ニューヨーク州ニューヨーク・ブロンクス区出身の元プロ野球選手。(外野手または三塁手、一塁手)。右投両打。 主に1980年代後半から1990年代にかけて活躍した。先祖はプエルトリコ人。 ピッツバーグ・パイレーツまで[編集] 1986年4月9日にシカゴ・ホワイトソックスでメジャーデビューを果たすが、そのシーズン途中にピッツバーグ・パイレーツに移籍。両球団合計で138試合に出場するが、打率.256、3本塁打と目立った活躍はなかった。当時パイレーツは下位を低迷。財政難もあって高給取りのベテランを放出していた。名将ジム・リーランド[1]を迎え、チームの若返りを図り、当時23歳のボニーヤもそれにマッチすることとなる。 1987年、主に三塁手として起用されたボニーヤは打率.300、15本塁打、77打点と活躍。1988年には159試合で打率.274、24本塁打、100打点の活躍でチームの2位浮上に貢献。また、この年初のオールスター出場を果たした。1990年には外野(ライト)に転向し、レフト・バリー・ボンズ、センター・アンディ・バンスライクとともにナショナルリーグ屈指の外野トリオを形成し、チームは1990年、1991年に2年連続地区優勝を果たす。特に1990年には32本塁打、120打点を記録し、MVPに選ばれたボンズに引けを取らない大活躍をした。1991年も18本塁打だが100打点を記録。 しかし、もともと財政難のチームでは年俸が高騰した選手を抱えきれず、ボニーヤもフリーエージェントとなった。ボニーヤの放出後、パイレーツは1992年にもナ・リーグ東地区(当時)優勝(3連覇)を果たすが、全て西地区優勝チームにプレイオフで敗れ、ワールドシリーズ進出はならなかった。また、1993年以降はプレイオフはおろか、勝率5割からも遠ざかり、2012年までアメリカプロスポーツ史上初となる20年連続シーズン負け越しを記録した。 ニューヨーク・メッツ以後[編集] 1992年に当時メジャー最高額となる契約でニューヨーク・メッツに移籍。メッツは同時期にエディ・マレー、ビンス・コールマン、ブレット・セイバーヘイゲン(交換トレードでの獲得)とも高額契約を結ぶ。中でもマレー、ボニーヤ、ハワード・ジョンソンの三人のスイッチヒッターでクリーンナップを固めるという構想であったが、これらはメッツにとっても、またボニーヤにとっても転落の始まりであった。 1991年の5位(6チーム中)からの巻き返しを図ったメッツであったが、1992年は変わらず5位。7チームとなった1993年には新球団フロリダ・マーリンズよりも下の最下位に終わった。東中西三地区に再編され、232日間に及ぶ長期ストライキのためシーズンが途中で終わった1994年こそ5チーム中3位であったが、ペイロール(年俸総額)の高い割には良い成績とは言えなかった。 ボニーヤも地元記者とのトラブルもあり、成績は奮わず、1995年終盤にボルチモア・オリオールズに放出された。 この1995年は28本塁打、99打点。翌1996年にも28本塁打、116打点の活躍を見せ、1997年にはかつての恩師・リーランド率いるマーリンズに移籍した。 球団創設5年目のマーリンズはこの年、初のワールドシリーズ進出を果たし、クリーブランド・インディアンスを破って初の栄冠に輝いた。ボニーヤもこの年17本塁打、96打点と活躍を見せ、ワールドチャンピオンの栄誉に輝いた。

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風疹 – Wikipedia

風疹(ふうしん、英: Rubella)とは、ウイルス感染症の一種で、風疹ウイルスによる急性熱性発疹性感染症[1]。一般に日本では「三日はしか」「三日ばしか」としても知られ、英語では「German measles(ドイツはしか)」とも呼ばれている。日本では「風しん」(「疹」が常用漢字に含まれていないため)として、感染症法に基づく五類感染症に指定して届出の対象としている[1]。 伝染力は、水痘(水疱瘡)、麻疹(はしか)、ノロウイルス感染症よりは弱いが、インフルエンザより強い。日本ではワクチン接種を受けていない成人男性の患者が多い。効果的な治療法は無く、症状に応じた対症療法が行われる。発症防止策はワクチンによる予防接種のみで、妊娠初期に妊婦が感染した場合の先天性風疹症候群が問題となる。 本疾病は罹患歴があると再罹患しないとはされるが、経年により抗体価が低下している場合や、がん治療などで免疫力が低下した場合など、まれに再発することがある。日本では、かつて5 – 9年ごと(1976、1982、1987、1992年)に大流行があったが、男女幼児が定期接種の対象となって以降は、大きな流行は発生していなかった[2]が、2012年 – 2013年、2018年 – にかけて、成人男性のワクチン未接種者を中心に、風疹の大流行が発生した[3][4]。2013年流行後に大阪府で行われた調査によれば、妊娠適齢期の20 – 30代女性の20 – 30 %が感染を防御出来る十分な抗体を保有しておらず、潜在的に先天性風疹症候群が発生しやすい状況にあると報告されている[5]。 ウイルスは、感染者の咽頭から排出される体液に含まれ、飛沫感染または直接接触感染する。インフルエンザウイルスよりも小さく、手洗い・うがい・マスクの着用では、感染防止が出来ない。伝染期間は発疹の発症前1週間から発疹出現後4日間[6]。トガウイルス科ルビウイルス属、直径50〜70nmの一本鎖RNAウイルス。正十二面体のカプシド構造を有する。 臨床症状[編集] 特徴的な症状は、「発熱」「発疹」「リンパ節腫脹」[7]で有るが、臨床症状だけで風疹と診断することは困難[8]。 成人の臨床症状は、麻疹に似る[7]。無症候例は、30

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東京都中央区の超高層建築物・構築物の一覧 – Wikipedia

東京都中央区の超高層建築物・構築物の一覧(とうきょうとちゅうおうくのちょうこうそうけんちくぶつ・こうちくぶつのいちらん)は、東京都中央区の超高層建築物・構築物の一覧である。 中央区では勝どきや晴海周辺の埋め立て地の再開発が進み、1990年代からリバーシティ21を筆頭に超高層ビルが林立するようになった。特に超高層マンションが増加し、中央区の人口は2017年に55年ぶりに15万人を突破した。2020年代に入ると日本橋や東京駅東側の八重洲周辺の再開発が進行しており、超高層ビル計画が控えている。 1994年から中央区で最も高いビルは高さ220mの聖路加タワーであるが、2022年に高さ240mの八重洲二丁目北地区第一種市街地再開発事業が完成すると最高層が更新される予定である。 超高層建築物・構築物一覧[編集] 建設中・計画中[編集] 建設中、計画中のビルを挙げる。 名称 高さ 階数 竣工年 状態 備考 日本橋一丁目中地区再開発 284m 52階 2025年 建設中 東京駅前八重洲一丁目東地区第一種市街地再開発事業 B地区 250m

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