桜井古墳 – Wikipedia
この項目では、福島県の桜井古墳について説明しています。奈良県桜井市の前方後円墳については「桜井茶臼山古墳」をご覧ください。 桜井古墳(さくらいこふん)は、福島県南相馬市原町区上渋佐に所在する古墳時代前期築造の前方後方墳。周辺の古墳群との関係から「桜井古墳群1号墳」とも称される。国の史跡に指定されている。 桜井古墳[編集] 立地[編集] 桜井古墳は、福島県の通称浜通り地方の北部、南相馬市原町の中心市街の北東に位置し、西の阿武隈高地から東の太平洋に流下する新田川南岸の標高10メートルの低台地(河岸段丘縁辺部)に立地する。緯度は北緯37度38分29秒、経度は東経140度59分29秒である。なお、桜井古墳を中心に河岸段丘上を東西約900メートルの範囲にわたって古墳群が広がり、大小37基の古墳が確認されている。これは、一般に「桜井古墳群」として一括して呼称されている(詳細は後述)。 周囲の土地利用は、北側氾濫原が水田、古墳群の所在する段丘縁辺部は林、畑地および宅地で、南側一帯は住宅地と農地が混在している。 なお、本古墳北東の金沢地区には7世紀から9世紀にかけての製鉄遺跡として著名な長瀞遺跡、真野川水系の鹿島区寺内地区には国の史跡に指定された真野古墳群(古墳時代中期・後期)、同じく横手地区には横手古墳群がある。 概要[編集] 本古墳の名称は、原町区上渋佐の通称「桜井」と称せられる地域に所在することに由来する。 1955年(昭和30年)の大塚初重を中心とする明治大学考古学研究室による測量調査が契機となり、当時としては日本列島で最も北に所在し、東北地方最大の規模をもつ前方後方墳として注目を浴びた[注釈 1]。 測量調査の結果、前方部を西に面する前方後方型の墳丘を呈し、主軸の長さは74.5メートル、高さは6.8メートルの規模を有することが判明した。現在では、東北地方第4位の規模をもつ前方後方墳である。撥(バチ)形をなす前方部は幅27メートル、高さ4.5メートル規模の無段築成、一辺45メートルの矩形をなす後方部は三段築成で造られており、周溝をともなっている。陸橋[注釈 2]や墓道も確認された。 1983年(昭和58年)原町教育委員会による範囲調査が行われた。その結果、周濠が周囲をめぐっていることが分かり、幅7~20メートル、深さ60~70センチメートルと確認され、1988年(昭和63年)6月周濠を含む地域が史跡に指定された。墳丘長72メートル、後方部幅45メートル、長さ42メートルのほぼ方形で、高さ6.35メートル、前方部は長さ32メートル、前方部前幅23メートル、高さ3メートルある。[2] 後方部の南側の一部は後世削られてしまっていたことも判明したが、古式の前方後方墳としてはきわめて整正な形態を残している。葺石や埴輪はともなっていないが、後方部の頂上には埋葬施設として2基の割竹形木棺が並べられて安置されている痕跡を確認した。ただし、遺跡保護の観点から当該部の発掘調査は実施されておらず、詳細は不明である。 底部穿孔(底部に穴をあけた)の壺や二重口縁の壺が出土しており、これらの出土遺物や撥形をなす前方部の形状などから古墳時代前期の築造と推定される。年代的には4世紀後半から5世紀初頭が想定される。埋葬された人物は、古墳の立地や築造年代からも新田川流域を治めていた浮田国造の初祖・鹿我別命だったと考えられる[3]。しかし、2箇所の棺の痕跡は何を意味するのかなど今後究明すべき点も多い。 本古墳は、東北地方における古墳文化の様相を示す考古資料として学術的な価値が高いとして、測量調査のわずか1年後、1956年(昭和31年)11月7日に国の史跡に指定された。 なお、1988年(昭和63年)には原町市教育委員会(当時)の範囲確認調査をもとに、未指定だった前方部の一部と周溝部が追加指定されている。 遺跡性格[編集] 今のところ、浜通り地方最大の古墳はいわき市の玉山1号墳であり、桜井古墳はそれに次ぐ規模を有している。中通り地方最大の大安場古墳の事例と併せ検討すると、同じ福島県内でも会津地方では前方後円墳が卓越するのに対して、中通り地方および浜通り地方ではそれとは異なる様相を呈している。これは、前方後方墳をさかんに築造した北関東地方とくに下野(現在の栃木県)および常陸(現在の茨城県)との濃密な文化交流も考慮される。
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