ガーデンシティーゴルフクラブ – Wikipedia
ガーデンシティーゴルフクラブGarden City Golf Club 所在地 アメリカ合衆国ニューヨーク州ナッソー郡ガーデンシティー 概要 開業 1899年 運営 会員制 設計 デベロー・エメットウォルター・トラビス トーナメント 全米オープン全米アマ(4回)ウォーカーカップ コース OUT IN HOLE PAR
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ガーデンシティーゴルフクラブGarden City Golf Club 所在地 アメリカ合衆国ニューヨーク州ナッソー郡ガーデンシティー 概要 開業 1899年 運営 会員制 設計 デベロー・エメットウォルター・トラビス トーナメント 全米オープン全米アマ(4回)ウォーカーカップ コース OUT IN HOLE PAR
Continue reading井沼清七 選手情報 ラテン文字 Seishichi Inuma 国籍 日本 競技 トラック競技 (短距離走) 種目 100m, 200m 大学 早稲田大学 生年月日 1907年7月27日 出身地 青森県 没年月日
Continue reading嘉喜門院(かきもんいん、生没年不詳)は、南北朝時代の女院・歌人。 南朝後村上天皇の女御にして、長慶天皇の生母と推定されるが、加えて後亀山天皇の生母でもあるか。正平23年(1368年)の後村上天皇崩御の後、女院号宣下を受け、間もなく落飾した[1]。近世の南朝系図によって、関白近衛経忠の女で、名は勝子(かつこ/しょうし)とされることが多いが、それを裏付ける史料はない。ただ、関白二条師基の猶子となったことはほぼ確実である。琴の名手と伝えられる[2]。三位局とも。 歌人として[編集] 嘉喜門院の作は『嘉喜門院集』・『新葉和歌集』に見ることができる。歌風はオーソドックスな二条派で、南朝の衰運を反映し、哀愁を帯びたものが多い。嘉喜門院は様々な人物と贈答歌を交わしており、『嘉喜門院集』からは、本人17首および長慶天皇4首と新宣陽門院1首の計22首が『新葉和歌集』に採録されている。 嘉喜門院集[編集] 『嘉喜門院集』は嘉喜門院の私家集であり、天授3年/永和3年(1377年)7月13日に宗良親王が『新葉和歌集』を撰集する際の資料として、嘉喜門院の詠歌を求めたところ、女院がこれに応えて編纂したものである。阿野実為によって清書され、宗良親王へ提出された。親王は『嘉喜門院集』を再三閲覧した上でこれに加点を施し、読後の感想を消息文に認めているが、それによれば、天授3年の七夕に亡き後村上天皇を偲んで詠んだ長慶天皇との贈答歌が特に秀逸であると賞賛している。 家集の内容は、大きく分けて三部で構成されている。最初の部分は袖書と呼ばれ、上記に述べた当家集の成立事情と、女院と実為の贈答歌各2首、そして「内の御方」(長慶天皇)の御製2首が記載されている。その次は家集の本文であり、所収歌は全102首を数えるが、うち14組の贈答歌が含まれるため、女院本人の歌は88首、他人の歌が14首収録されていることになる。以上が宗良親王に提出された部分と推定され、本文の後には親王による消息文1篇と「詠三十首和歌」と呼ばれる30首が添えられている。この30首はかつて、女院が手本とするために収集した他人の作品とみられていたが、歌風や技法の検討からは本人の作とする説が有力である[3]。 写本は、冷泉為尹の書写に係ると推定される尊経閣文庫本が唯一の古写本として貴重である。また、流布本には袖書を省略しているものが多い。 翻刻されたテキストは、『群書類従271』・『婦人文庫歌集』・『校註国歌大系14』・『私家集大成7』・『新編国歌大観7』などに収録されている。 出自[編集] 嘉喜門院の父をめぐっては近世以来議論があるが、これらを整理すれば、A.近衛経忠、B.二条師基、C.一条経通、D.阿野実為の4説に分かれる[4]。 このうちA・B・C説が生じた背景には、新葉和歌集作者の「福恩寺前関白内大臣」(以下「福恩寺関白」と略す)との深い関わりがある。なぜなら、同集に収められた「福恩寺関白」の詠歌からこの人物が嘉喜門院の近親と推定されるため[5]、「福恩寺関白とは誰か」をめぐる議論はそのまま嘉喜門院の出自の問題に直結すると考えられたからである。つまり、「福恩寺関白」の候補は、関白になれる五摂家のうち、南朝に仕えた近衛家・二条家・一条家の三家の人物に絞られるので、嘉喜門院の父についても同様にA(近衛経忠)・B(二条師基)・C(一条経通)の3説が唱えられるようになった。各説の比定と女院との続柄についてまとめたものが下記の表である。 明治時代までの通説は近衛家のA説であり、『桜雲記』『南方紀伝』以来の史書や南朝正統論を支持する国学者の間で広く行われていた。しかし、大正時代に八代国治はA説が根本史料を欠く点を指摘し、新たに二条家のB説を主張する。具体的には、醍醐寺本『帝系図』が長慶天皇の母を「内侍、二条関白猶子、号三位局」と注していること、『満済准后日記』永享3年10月28日条から後村上天皇の女御であった「女院」が二条師基の女と考えられることを根拠に挙げ、嘉喜門院を師基の猶子と推定した。一方、八代の学友であった芝葛盛は一条家のC説を掲げて反論。これは江戸時代の榊原忠次(『新葉集作者部類』)の説を継承したものだが、明らかな年代の錯誤があるために支持が広がることはなかった。結局、史料に裏付けられた八代の実証的な研究成果が高く評価され、今日までB説が通説として受け容れられている[6]。 もっとも実父が誰かをめぐる当初の問題は依然解決していない。八代は、「人王百代具名記」(『常福寺文書』日本書紀私鈔)の注を根拠に、師基の室である清水谷家の出身と考えたが、同記は錯誤があるため、注をそのまま信用するのは危険である。しかるに戦後、村田正志は、新出の吹上本『帝王系図』巻末付紙に後亀山天皇の母が「阿野実為卿女」と見えることを挙げ、この女が師基の猶子になった嘉喜門院と同一人である可能性を指摘し、新たにD説を展開した[7]。嘉喜門院と実為が親しい間柄であったことは『嘉喜門院集』の成立事情から窺えるので、D説は今なお大きな説得力をもって迎えられているものの、一方、実為と後亀山とを祖父・孫の関係と見なすことは世代的に無理があるとして、系図の信憑性を疑問視する向きも少なくなく(村井章介など)、D説が確立した通説とは一概に言い切れないのが現状である。 子女[編集] 後村上天皇の皇子女のうち、南朝系図で嘉喜門院の所生とされるのは、長慶(寛成親王)・後亀山(熙成親王)の他、泰成親王・良子内親王である。 嘉喜門院を天皇の生母とする説は、『嘉喜門院集』『新葉和歌集』に収録された和歌・詞書の解釈に拠るところが大きい。すなわち、嘉喜門院と当時の今上天皇(『嘉喜門院集』の「内の御方」、『新葉和歌集』の「御製」)とが睦まじくしばしば贈答歌を交わしていることから、両者は母子関係であろうと推定されたのである。近世から明治に至って、両歌集の今上天皇は後亀山であるとの見解が支配的だったため、この時期に書かれた系図や史書は全て、嘉喜門院を後亀山の生母としていた。 一方、長慶・後亀山両天皇が同腹であったか否かについては、これを裏付ける確証がないことから否定的な見方が多かった中で[8]、塙保己一のように早くから同母兄弟説を主張する者もいた[9]。明治時代に入って長慶の在位に関する実証的研究が進むと、両歌集の今上天皇は後亀山ではなく、長慶であるとの説が有力となり、それを受けて嘉喜門院を長慶の生母とする新説を載せた系図や史書が流布した。この際、旧来説との混同を避けられず、確証もないままなし崩し的に、両天皇とも嘉喜門院所生の同母兄弟とすることが通説化したらしい。『嘉喜門院集』には東宮時代の後亀山との贈答歌も見えるが、これのみで母子関係を断じることは困難である。 なお、先述の『満済准后日記』の記事からは、後亀山の東宮(皇太弟)である護聖院宮(惟成親王か)も嘉喜門院の所生であったと推定されている。 参考文献[編集]
Continue reading『ふるさとライブ』は、長野放送で毎週月曜日から金曜日(祝日を除く))の14時45分から13時15分に放送されている情報番組である。 NBSふるさとルームから生放送。平日午後のお茶の間にほっと一息できる旬な情報を楽しくお届けする。火曜日のコンセプトは「グルメ曜日♪」。 現在のコーナー[編集] ふるさと再発見(月曜) ふるさとキッチン(火曜/隔週放送) 長野Komachi×ふるさとライブ(火曜/隔週放送) 売り場で旬探し(水曜) おじマル!調査隊(木曜) 中継コーナー(金曜) 特集(不定期) 発見!まちネタ(不定期) 楽ササイズ(不定期) 生活情報~100円ショップ注目商品~(不定期) まちの話題(月~木曜) 週末いまコレ!グルメ(金曜) シリーズ 笑顔をつなぐ 架け橋に(不定期) シリーズ キャンサーパンサー(不定期) 3時のおやつ(不定期) ふるさと天気予報(月~金曜) 最新ニュース(月~金曜)
Continue readingこの記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “富士経済グループ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年5月) この記事は広告・宣伝活動のような記述内容になっています。ウィキペディアの方針に沿った中立的な観点の記述内容に、この記事を修正してください。露骨な広告宣伝活動には{{即時削除/全般4}}を使用して、即時削除の対象とすることができます。(2014年5月) 富士経済グループ(ふじけいざいグループ、英:Fuji Keizai group)は、東京都中央区に本社を置く、日本のマーケット調査会社グループ。 会社概要[編集] 概略[編集] 株式会社富士経済および株式会社富士キメラ総研を中心とするマーケット調査会社グループである。消費財、生産財、サービス、知的財産など広範囲にわたるマーケット調査を行う。 1962年に阿部英雄が株式会社富士経済を創業したことにより設立された。創業当時の日本は高度経済成長のただ中であり、技術革新や資本自由化などにより経済が著しく拡大し、従来になかった流通機構の変革や大量生産・大量消費の流れを受け、生産から消費までの総合的な経営戦略が強く望まれていた。富士経済グループの前身である富士経済は、このような社会要請に応えるべくフィールドリサーチを取り入れた調査会社である。 専門調査員による直接訪問面接調査を軸とし、フィールドリサーチとデータベースに基づく各種自主企画調査や依頼調査調査、コンサルティングを執り行う。企画、実地調査、分析、報告、ソリューションの提案まで一貫したサービスを提供する体制を特色とする。 なお富士通や富士重工業とは何ら関係がない。 企業理念[編集]
Continue readingセント・ポール教会の内部 セント・ポール教会(1937年) セント・ポール教会(英: St. Paul’s Chapel)は、ニューヨーク市ロウアー・マンハッタンのフルトン通りとヴィージー通り(英語版)の間のブロードウェイ209にある米国聖公会のチャペルである。マンハッタン最古の教会建築である[3]。 歴史と建築[編集] トリニティ教会教区の礼拝堂であるセント・ポール教会は、アン女王により与えられた土地に建てられ、建築家トーマス・マクビーンが設計し、名工アンドリュー・ゴーティアーが建てた。1766年に完成した当時は、マンハッタン島の南から拡大していく港湾都市部の少し北に離れた位置にあった。マザー教会(英語版)はアクセスが悪いと考える教区民のために「安楽の礼拝堂(英語版)」として建てられた。 ブラウンストーンのあるコイン(英語版)と共にマンハッタンに建てられ、セント・ポール教会はモデルとされることになるジェームズ・ギブス(英語版)の聖マーティン教堂(英語版)ロンドン教会のようなジョージア式建築(英語版)特有の古典的なポルチコやツゲ材の部分、内装がある。八角形の塔は、正方形の基礎から伸び、リスィクラトスのコラレス記念碑(英語版)(紀元前335年)の複製品が頭部におかれている。 内側は教会の質素で優雅な廊下は色が薄く、平らな天井や当時の内装を偲ばせるカットグラスのシャンデリアがある。トリニティ教会の荘厳な内装と比べて、この廊下や広大な桟敷は、参列者を励ますために居心地よく快適な特質を備えて造られていた。 ブロードウェイ側の教会の外装は、アメリカの原始様式に彫刻された教会の名前の由来であるパウロの樫の木の彫像になっている。東の窓の下は、アメリカ独立戦争の1775年のケベックの戦いで死んだリチャード・モントゴメリー准将の記念碑になっている。尖塔にある最初の鐘には「Mears London, Fecit [Made] 1797」と刻まれている。1866年に作られた第二の鐘は、教会の100周年を記念して加えられた。 この建物はニューヨーク市で継続して使われてきた最古の公共建築である[要出典]ことが理由の一つとして、1960年にアメリカ合衆国国定歴史建造物に認定された。[2][4][5]教会はトリニティ教会などのニューヨーク市の4分の1が(当時はマンハッタンに限られていた)アメリカ独立戦争のロングアイランドの戦いの後に市が英軍に占領された後に焼き尽くされた1776年のニューヨーク大火(英語版)を生き残った。 20世紀までの歴史[編集] 樫の心臓(英語版)(アメリカ独立戦争の早期に組織された市民軍(英語版)でキングズカレッジ(後のコロンビア大学)学生を一部含む)は、この教会の近くで行われるキングスカレッジの授業の前に、教会の庭で訓練を受けることになる。アレクサンダー・ハミルトンはこの部隊の将校であった。 ジョージ・ワシントンはアメリカ合衆国議会の議員と共に1789年4月30日にアメリカ合衆国大統領就任式をフェデラル・ホールで行った後に、セント・ポール教会で礼拝を行った。[6]ワシントンはニューヨークが首都だった2年間にもまた、セント・ポール教会の式典に参加していた。ワシントンの信徒席の上は、18世紀のアメリカ合衆国の国章の油絵であり、1782年に採用された。 教会には初期のニューヨークにおいて高められた彫像技術の証明となる記念碑が数点ある。ジャン・ジャック・カフィエリ(英語版)(1777年)が彫刻したリチャード・モントゴメリー(ケベックの戦いの英雄)の記念碑やジョージ・ワシントンの元々の信徒席、ワシントンD.C.の意匠家ピエール・シャルル・ランファンが設計した「聖なるもの」と呼ばれるネオ・バロック(英語版)彫刻がそうである。講壇は宝冠や6つの羽根飾りで飾られ、14個の建築以来のカットグラスシャンデリアは、身廊や桟敷に吊るされている。
Continue readingこの記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “スーパーシナリオサポート” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2011年3月) スーパーシナリオサポートとは、ファーイースト・アミューズメント・リサーチ(F.E.A.R.)が販売していたテーブルトークRPG(TRPG)のシナリオシリーズのこと。様々なテーブルトークRPGのシナリオを雑誌形式で定期的に発行している。略称は『SSS』。 スーパーシナリオサポートが展開していた時期のテーブルトークRPG市場は俗にいう冬の時代であり、ゲーム関連製品の販売が極端に落ち込んだ時期である。雑誌も多くが休刊しサプリメントの発売も減退したために、既存ゲームのシナリオを発表するための専用の媒体が必要となっていた。そのために開始されたのが「シナリオを雑誌形式で発売するサービス」であるスーパーシナリオサポートであった。 また、F.E.A.R.の社長である中島純一郎によると、テーブルトークRPG関係の大手出版社には「シナリオ集は売れない」という常識があったため、それに異を唱える形にあえてこの冬の時代にシナリオ集の定期出版という(当時の大手出版社から見て)非常識なことをチャレンジしたということである。ただ、やはり広範な販売経路を確保するにはリスクがある製品だったのか、スーパーシナリオサポートは通常の書店での一般販売はされず、F.E.A.R.社の販売部門であるゲーム・フィールドからの通信販売専用の製品であった。しかし、イエローサブマリンなどの一部ゲームショップでは店頭販売もされていた。 一番初めのスーパーシナリオサポートは1998年に『トレイダーズ!』により開始された。『トレイダーズ!』のシナリオはシナリオごとに専用のカードやボードを自作する必要があり、ユーザーレベルでシナリオを作るのが他のTRPGに比べて高い負担があるゲームだったために、公式サイドからの既製品シナリオの提供がどうしても必要だったのである。『トレイダーズ!』のスーパーシナリオサポートシリーズ(以下、SSSシリーズと表記)に続く形で様々なゲームの SSSシリーズが提供されていった。 1998年から2005年までの間、定期的に刊行されていたが『トーキョーN◎VA SSSシリーズ Vol.S-4 人間以上 -MANPLUS-』(通称「ヒルコSSS」)をもって一度、全シリーズが終了した。しかし、2015年の『トーキョーN◎VA THE
Continue reading株式会社Wiz(ワイズ、英文社名:Wiz Co.,Ltd.)は、東京都豊島区に本社を置くITの総合商社。 企業概要[編集] 2012年4月18日に設立。従業員数は1400人を超える。 常に従業員が成長できる環境作りを用意するため、本社を含む計24の事業所を設立し、拠点の拡大や事業を増やし続けている。 アウトバンド営業とメディアを通じたインバウンド営業という両販路で功績を出し、8期連続でベストベンチャー100[1] に認定される。 また、女性活躍にも力を入れており、様々な認定を受賞している。 企業理念[編集] 「100年成長する企業作り」 「ヒトと企業の課題をITで解決する」 「新機軸への挑戦」 複数回認定している項目に関しては、初年度のみ記載とする。 2014年 2015年 2016年 2017年 2018年 2020年 2021年
Continue readingこの記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ニンジャII/修羅ノ章” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年8月) ニンジャII/修羅ノ章 Revenge of the Ninja 監督 サム・ファーステンバーグ 脚本 ジェームズ・R・シルケ 製作 ヨーラム・グローバスメナヘム・ゴーラン
Continue reading武漢王家墩飛行場(ぶかんおうかとんひこうじょう、簡体字中国語: 武汉王家墩机场)は、かつて中華人民共和国湖北省武漢市に存在した軍民共用飛行場である。空軍漢口飛行場の名でも知られていた。 1931年(民国20年)に揚子江北岸の華商競馬場南部に建設される。南北1000m、東西400mで、空軍の拠点として使用されたほか、欧亜航空公司にも使用され、南部には同公司の無電台と水上機用発着所があった。金家駟などが航空站站長を務めた。1935年6月より漢口航空総站に指定され、第3大隊(戦闘機隊)が駐留。総站長は郝中和[1]、邢剷非、侯抜侖が務めた。日中戦争勃発後、第4大隊、第5大隊なども駐屯。1937年10月よりソ連空軍志願隊、11月より国際第14大隊も駐屯する。 日本軍の爆撃[編集] 南京の大校場飛行場、南昌の三家店飛行場とともに華中方面の主要飛行場であったため、第2次上海事変勃発から間もない8月20日と22日に一連空による空爆が実施されたが、揚子江の増水で飛行場が水没していたため、いずれも飛行場を確認できず帰投した[2]。 その後、9月22日の広東攻撃を以て同方面の中国空軍の活動を封止したと判断、また中国政府が漢口に移動する疑いがあったため、戸塚指揮官は漢口攻撃を決行。しかし、予定の23日は天候不良のため24日決行となった。鹿屋海軍航空隊の陸攻14機は日没頃、製鉄所、漢陽兵工廠などを空爆、また3機と交戦し2機撃墜を報告するが飛行場を発見できず、帰還中に発見するが爆撃は出来なかった[2]。 1938年1月4日14時22分、一連空陸攻23機(鹿空11機、木更津海軍航空隊派遣隊12機、馬野光少佐指揮)が飛来し、60㎏陸用爆弾65発および250㎏陸用爆弾14発を投下、大型機6、小型機5の地上破壊を報告、「相当熾烈」な対空砲火以外の応戦はなく損害なしとされる[4]。同じく護衛で飛来した二連空艦戦13機(田熊繁雄大尉指揮、12空3、13空11)は、張偉華中尉率いる第5大隊24中隊・25中隊の混成8機(カーチス・ホークⅢ(英語版)(新ホーク)およびカーチス・ホークⅡ(英語版)(老ホーク)7機およびフィアット1機)、ソ連空軍志願隊のI-16、計10数機と遭遇、新ホーク・老ホーク各2機の撃墜を報告[7]。中国側は3機の撃墜、中国人飛行士2名(中国人飛行士1名とソ連人飛行士2名とも)が戦死したとする。 5日、陸攻22、艦戦17(12空5、13空12)を以て漢口・武昌飛行場を一斉爆撃を企図する「電令作第一号」が発せられた。翌日、鹿空の森永良彦大尉率いる陸攻6機は、武昌飛行場爆撃に向かった加藤唯雄中佐の5機より分離し14時5分漢口に飛来、60㎏爆弾および250㎏爆弾を投下し大型機2機を破壊した[9]。同時刻、三原元一大尉率いる木更津空12機も飛来し60㎏爆弾を投下。三原大尉指揮の第1中隊は2機に直撃弾、3機に至近弾、広木武大尉指揮の第2中隊は中型機2機、小型機5機の爆破、格納庫に8弾、附属建築物に4弾、飛行場に約30弾の着弾を報告した[10]。 11日、南京飛行場を発した木更津空の小谷雄二少佐指揮の九六陸攻第1大隊9機および三原元一大尉指揮の第2大隊6機、鹿屋空の馬野光少佐率いる8機が第二連合航空隊の九六艦戦15機とともに11時55分ごろ飛来し、60㎏爆弾および250㎏爆弾を投下、それぞれ飛行場内の飛行機、格納庫、滑走路を破壊した[11][12]。 1月27日午前10時、菅久恒雄少佐(兵52期)率いる木更津空96式陸攻6機、鹿屋空5機が、2連空96式艦戦12機の掩護の元、北方より飛来し60㎏爆弾を投下。搭載の照準器が氷結のため視界不良だったが、格納庫2棟をそれぞれ炎上させ、また小型機5機を爆破、大型機1機への至近弾を報告した[13]。中国側記録では航空機を上空に避退させていたため損害無し。 2月8日15時40分ごろ、蚌埠飛行場を発した一連空19機のうち、得猪治郎少佐指揮する鹿屋空13機(柴田弥五郎大尉の木更津空6機は漢陽兵工廠を爆撃)が飛来し、60㎏爆弾114発、250㎏爆弾10発を投下、大型機1機への至近弾、兵舎1棟炎上を報告[15]。また護衛の艦戦が空戦を行った。AP通信は、中国側は飛行場に甚大な被害、また兵舎数棟が爆破され15名が死傷、迎撃に上がった1機が撃墜され搭乗員2名が死亡したと発表した[16]。 218武漢空戦[編集] 1938年2月18日、蚌埠飛行場(中国語版)を発した一連空の九六陸攻15機(木更津空9機、鹿屋空6機)と金子隆司大尉率いる援護隊の九六艦戦11機(第十二航空隊の金子大尉ほか2個小隊5機、第十三航空隊の森貢一空曹ほか2個小隊6機)が13時、漢口上空に飛来。陸攻隊は猛烈な地上放火を受けながらも飛行場を爆撃し、地上のSB1機を破壊。分離した艦戦隊は飛行場から約2キロ西の上空にて、前日に襄陽より移駐していた中国空軍第4大隊のI-152 19機(大隊本部・第22・23中隊) I-16 10機(第21中隊)と交戦。また帰途中、武湖上空にて南昌より飛来したソ連空軍志願隊のニコライ・スミルノフ中尉率いるI-152 6機、アレクセイ・ブラゴヴェシチェンスキー(ロシア語版)率いるI-16 12機と交戦。日本海軍はI-15 15機(うち不確実1、志願隊1)、I-16 2機(うち志願隊1)、SB
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