Month: February 2019

襟川恵子 – Wikipedia

「襟川恵子」を名乗っていたことのある映画パーソナリティの「襟川クロ」とは別人です。 襟川 恵子(えりかわ けいこ、1949年1月3日 – )は、日本の実業家、ゲームデザイナー[1]。株式会社コーエーテクモホールディングス 代表取締役会長。投資家。神奈川県横浜市出身[2]。 夫の襟川陽一(シブサワ・コウ)は同社社長[2]。夫との間に2子あり、長女の襟川芽衣は同社取締役[3]、次女の襟川亜衣は株式会社光優ホールディングス(襟川家の資産管理会社)監査役[4]。 コーエーでは、ゲームデザイナーであり職人気質の夫に対し、総務・経理・人事に目を配り、また他社との交渉の多くを担ってきた[5]。 コーエーテクモゲームスの開発チーム“ルビーパーティー”を立ち上げ、女性向けゲームのシリーズ、ネオロマンスゲームの生みの親でもある[6]。 横浜市港北区のコーエーテクモホールディングス本社内にアート作品が展示されているのは、襟川が美大出身であるためだという[7]。 祖母の手ほどきにより株式投資を高校生の頃より始め、2020年時点で約1200億円の運用資金を回す投資家としても知られる[8]。 コーエーテクモホールディングスが過去最高益を叩き出した「令和3年3月期決算短信」によれば、同社の利益の38%が株式の運用益とされる[9][10]。もっとも、襟川自身は「これまで会社に株取引専門の部署は設けていませんし、指南役をつけたことも一度もありません。」と述べている[11]。また夫とともにコーエーを創業した際、夫は家業の染物問屋を廃業したばかりで資金がなく、資金は自身が保有する土地を担保にして捻出し、仕事中もラジオをつけっぱなしにして仕手戦を繰り広げていた。このときの経験が大きな影響を与えたとしている[12]。 この節の加筆が望まれています。 幼少期~大学卒業まで[編集] 1949年、横浜市にて生まれる[13]。もともと母親に甘えるのが好きだったが、小学2年生の時に歯科医だった父親の急逝に伴い、「自分のことは自分で考えて決める」と考えるようになった[13]。 その後、母親に連れられて横浜から群馬県にある祖父の別荘へ引っ越し、小学6年生の時までそこで過ごした後、再び横浜へ戻る[13]。 美大に通う知人から聞いたキャンパスライフへのあこがれがきっかけで多摩美術大学に入学するが、大学2年生の時に学生運動が起こり、授業が成り立たなくなる[13]。そこで、恵子は百貨店向けのPOPや子供向けテレビ番組向けのイラスト制作、そしてディスプレーの図面引きといったアルバイトで生計を立てる[13]。のちにこの経験がコーエーでの業務に役立つ。 そして恵子は1971年に多摩美術大学を卒業する[13]。 光栄設立・ゲーム業界への参戦[編集]

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トゥース・アンド・ネイル – Wikipedia

『トゥース・アンド・ネイル』(Tooth and Nail)は、アメリカ合衆国のヘヴィメタル・バンド、ドッケンが1984年に発表した2作目のスタジオ・アルバム。 本作よりジェフ・ピルソンが加入してラインナップが固定する。プロデュースはテッド・ニュージェントやチープ・トリック等の作品を手掛けたトム・ワーマンにより[2]、更に、クイーンのバンドを多数手掛けてきたロイ・トーマス・ベイカーも共同プロデューサーとして参加した[3]。そして、ドッケンのデビュー・アルバム『ブレーキング・ザ・チェインズ』のプロデュース、ミキシング、エンジニアリングに貢献したマイケル・ワグナーが、本作ではミキシングのみ担当した[4]。 反響・評価[編集] アメリカのBillboard 200では自身初のトップ100入りを果たして最高49位に達し[1]、1985年8月にはRIAAによってゴールドディスクに認定され、その後も売り上げを伸ばして1989年3月にはプラチナディスクに認定された[5]。『ビルボード』のメインストリーム・ロック・チャートでは収録曲「イントゥ・ザ・ファイア」が21位[1]、「ジャスト・ゴット・ラッキー」が27位[1]、「アローン・アゲイン」が20位に達し[1]、更に「アローン・アゲイン」はBillboard Hot 100入りも果たして64位を記録した[1]。 Stephen Thomas Erlewineはオールミュージックにおいて5点満点中4点を付け、ジョージ・リンチのギター・プレイを高く評価して「野性的で創意に富み、稲妻の如き速さを誇る奏者で、アルバムを通じて聴くに値しないソロは一切ない」と評している[6]。また、ファイヴ・フィンガー・デス・パンチのジェイソン・フックは、2013年にmusicradar.comの企画で選出した「重要なギター・アルバム11」の一つに本作を挙げ、ジョージ・リンチの演奏を「とても流暢で優雅」と評した[7]。 ウィズアウト・ウォーニング – “Without Warning” – 1:35 トゥース・アンド・ネイル –

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横浪黒潮ライン – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “横浪黒潮ライン” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2018年8月) 横浪黒潮ラインからの風景 横浪黒潮ライン(よこなみくろしおライン)は、高知県土佐市から須崎市を結ぶ横浪半島を縦断する道路である。別名、横浪スカイラインとも呼ばれている。県道の路線名は高知県道47号横浪公園線であり、起点は同一だが終点は土佐市鷹ノ巣(国道56号交点)である。 高知県の土佐湾に東西に細長く伸びる横浪半島の南側断崖の尾根に沿って縦断する延長約19 kmの道路で、東端は浦ノ内湾口に架かる宇佐大橋から西へ向かい、西端の浦ノ内湾の最深部沿岸まで続く。かつては横浪有料道路という道路で、有料道路当時の通行料金は、普通車で260円だった。 沿道は複雑な形をしたリアス式海岸がみられ、南に太平洋を、北には波が穏やかで横方向に波紋を描くところから“横浪三里”とも呼ばれる浦ノ内湾を眼下に望むことができる。漫画『シャコタン☆ブギ』の作中には、度々横波スカイラインが舞台に描かれている。 路線データ[編集] 延長:18.8 km 起点:高知県土佐市宇佐町宇佐 終点:須崎市浦ノ内東分中ノ浦 路線状況[編集] 桂浜から黒潮ラインを西へ向かい、高知県道23号須崎仁ノ線から南方面へ分岐する。宇佐大橋を渡って横浪半島の東端部へ渡った先に休憩所がある。さらに近くに竜の浜駐車場がある。森の中に入り途中に、同パーキングには武市半平太先生像が設置されている「須ノ浦パーキング」がある。浦ノ内湾沿いを走っていくと再び高知県道23号須崎仁ノ線に合流する。

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パッチ – Wikipedia

この項目では、あるデータに差分を適用して内容を変更することについて説明しています。その他の用法については「パッチ (曖昧さ回避)」をご覧ください。 この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “パッチ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2011年11月) パッチ(英: patch)とは、コンピュータにおいてプログラムの一部分を更新してバグ修正や機能変更を行うためのデータのこと。「修正プログラム」や「アップデート(プログラム)」などとも呼ばれる。実際に変更を施す際は「パッチを当てる」、「パッチを適用する」と言う。同名のUNIXコマンドpatchのことも指す。ゲームのグラフィックや様々なデータを改造するプログラムやファイルを後から追加するパッチはModと呼ばれる。 コンピュータネットワークがまだ低速だった時代、プログラムの一部を変更するために全体を再度ダウンロードすることは非常に効率が悪かった。そこで、部分的な変更を施すために必要な部分のみを差分データとして抽出し配布するパッチ形式が慣習となった。プログラム全体をダウンロードすれば何時間も要するが、必要部分だけであれば数分程度でダウンロードを完了することができる。これは前述のとおりネットワークがまだまだ低速であったことのほか、常時接続環境がまだ普及しておらず、ダウンロード時間が長時間に及ぶことで回線使用料がかさむのを避けるという面においても有用であった。なお、差分の抽出やそれを使用してのプログラム更新には専用のソフトウェアを必要とする。また、手動で更新を行う際には元のプログラムのバージョンを確認し、専用のパッチを適用しなければ不具合を生じる場合がある。 今日においては、ネットワークのブロードバンド化や常時接続環境の普及に伴い、数十メガバイト単位のコンパイル済みアプリケーションであっても更新時にはその都度全体を再度ダウンロードする形態が多く見られる。しかし、商用ソフトやOSのバグ修正、オープンソースのソフトウェアで変更点をポストする際には依然としてパッチが利用される。また、主に UNIX コミュニティで、個々の環境に合わせてソースコードを調整するような場合もパッチ形式が一般的である。これは、常時接続環境が普及した現在においても、サーバの転送量を軽減し、全体としてのダウンロード時間を軽減する目的には変わりない。 バイナリ[編集] バイナリファイルのパッチは、オンラインゲームのバージョンアップ、オンラインソフトウェアの日本語化などで広く使われている。 バイナリファイルのパッチには、テキストファイルとは別のアルゴリズムで作ることにより、より効率化する。bsdiff[1]の作者によると、bsdiff

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食事バランスガイド – Wikipedia

食事バランスガイド 食事バランスガイド(しょくじバランスガイド)とは、健康的な食生活を実現するため、摂取する食品の組み合わせや摂取量の目安をイラストで示した資料である。2005年(平成17年)6月、厚生労働省と農林水産省が共同で、生活習慣病の予防を目的とした日本の「食生活指針」を分かりやすく具体的に実践するツールとして策定した。食糧自給率の向上も目的としている。食育の重要な一環とされる[1]。2006年(平成18年)には、「妊産婦のための食事バランスガイド」も策定された。 従来のピラミッド型ではなく、層状に区切られたコマのイラスト中に「主食」、「副菜」、「主菜」、「牛乳・乳製品」、「果物」の5項目があり、グループごとの摂取量の目安が記されている。コマの芯は水・お茶、ひもは菓子・嗜好飲料となっており、栄養バランスだけでなく「運動」によってコマを回さなければ倒れてしまうということが示されている[2]。 この基本形の図に書いてある量には、ほとんどの女性と身体活動レベルの低い男性が該当する。 2002年(平成14年)の集計では、高血圧が約3100万人、高脂血症(脂質異常症)が約3000万人、糖尿病の可能性を否定できない人は合計約1620万人とされ、人口のほぼ半分に相当する47%がこの3つのいずれかに該当する[3]。この3つの生活習慣病である人の多くは果物の摂取が制限される必要がある[4]。糖尿病では果物は1単位に制限される[5]。このように「果物を2つ」というのは健康な場合に限定されるが、そうでない場合も多々ある。また、高脂血症や動脈硬化性では獣鳥より魚・大豆・野菜からの栄養に比重を置く必要があるというように特定の疾患の場合における食事についても注意する必要がある[4]。 「食事バランスガイド」のイラストは、ウェブサイトからダウンロード可能で、リーフレット、カード、CD-ROMでも提供されている。 農林水産省によるCMにはタレントの優香を起用した。 1974年にスウェーデンで、食品を大まかに分類しそれぞれの摂取量の目安をピラミッド状に図示したものが起こりとなっている。この様な図表は世界各国で作成され、ピラミッドや楼閣と様々な形状がある。主食である炭水化物に比重が置かれているのが特徴的である。日本では『発掘!あるある大事典』などで紹介され、広く認知されるようになった。 フードガイドピラミッド(アメリカ) 1992年 マイピラミッド(アメリカ) 2005年 参考文献[編集] ^ 第5回 フードガイド(仮称)検討会 議事次第(農林水産省) ^ “食事バランスガイドの特徴”. 農林水産省ホームページ.

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付加体 – Wikipedia

この項目では、地質学用語の「付加体」について説明しています。化学反応用語の「付加体」については「付加反応」をご覧ください。 付加体形成の模式図。海洋プレート(濃緑色)と大陸プレート(ピンク色)に挟まれた 楔形の部分が付加体。海洋プレートは左側の海嶺で作られ、移動しながら表面に様々な岩石を堆積させて、海溝 (trench) で大陸プレートの下に沈み込んでゆく。海洋プレート上部の堆積物の一部はプレートから剥ぎ取られ大陸側に付加する。また海洋プレートと一緒に大陸下に潜り込んだ堆積物は、大陸プレートとの摩擦で海洋プレートから分離し、大陸プレートの下に底付けされる。 付加体(ふかたい、英: accretionary prismまたはaccretionary wedge)とは、右図に示すように海洋プレートが海溝で大陸プレートの下に沈み込む際に、海洋プレートの上の堆積物がはぎ取られ、陸側に付加したもの。現在のところ「日本列島の多くの部分はこの付加体からなる」という見方がされている[1]。 付加体という概念は、日本では1976年に九州大学の勘米良亀齢が南九州の四万十層を調査して、その構造を付加体と名付けた。欧米でもほとんど同時期にオックスフォード大学の W. Stuart McKerrow らがスコットランド地方の複雑な地質を調査して1977年に付加体構造に関する論文を発表した[2]。この概念によって日本列島を形成する海洋起源の堆積岩や変成岩について、系統的な説明ができるようになった。 プレートテクトニクスでは、海洋プレートは上部マントルの上昇部である海嶺で作られ、海洋底として徐々に海嶺からはなれて行き、最後には海溝で沈み込んでゆくと説明されている。この間、玄武岩質の海洋プレートの上に様々な岩石が堆積してゆく。まず海嶺近辺の所々で地下からの熱水の湧き出しによる『金属鉱床』が形成される。大洋では放散虫の死骸を含んだ珪酸塩質のチャートや、他の生物の死骸を含んだ炭酸カルシウム質の石灰岩が徐々に堆積してゆく。海底火山の玄武岩や、その周辺に発達したサンゴ礁からできた石灰岩も、海洋プレートの上に乗ったまま運ばれる。海溝に近づくと大陸から運ばれた土砂や岩石によって、砂岩や礫岩も堆積する。海洋プレートが大陸プレートの下に沈み込む際に、これらの堆積物が海洋プレートから剥ぎ取られて大陸プレートに付加したものを付加体と呼ぶ[3]。海洋底表層のチャート類や大きなサンゴ礁などは、海溝で海洋プレートから別れて陸側に付加する。海溝では次々に新しい付加体が到着するため、新しい付加体は古い付加体の下のもぐりこみながら大陸側へ押上げる。この結果、付加体内部は並行する多くの逆断層を有し、逆断層を挟んで新しい堆積物が古い堆積物の下に潜り込んでいるため、地層累重の法則に反する構造を取る(ただし並行する2本の断層間にある岩体内においては、下部が古く上部が新しい)。また海洋プレートと共に地下に沈んだ堆積物の一部は、大陸プレートとの摩擦で海洋プレートから離れ、大陸プレートの下に「底付け」される。この場合、堆積岩は比較的低い温度と高い圧力を受け、特徴的な変成岩となる。日本列島に幅広く分布する三波川変成帯に代表される「広域変成帯」はこのようにして形成された。これらの変性帯も広い意味での付加体と考えることができる(外部リンク参照)。日本近海では現在も南海トラフにおいて付加体が形成されているが、現在の海溝沈み込み帯における付加体形成範囲は海溝全体の約30%の範囲でしかなく、大半の海溝では付加体を形成せずにプレートが沈み込んでいる[4]。 海洋プレートがさらに深部まで沈み込んで周辺温度が1000℃付近まで上昇すると、海洋プレートから搾り出された水分が周辺のマントルの融点を下げてマグマを形成する(上記図の右の黄色い部分に相当)。形成されたマグマは上昇して地殻に達し、さらに地殻中の古い付加体を溶かしながら上昇してゆく。これらのマグマは火山フロントとして地表で噴火すると同時に、噴火に至らないまま地下にも多数の花崗岩の岩体をつくる。中部地方、近畿地方(六甲山など)、中国山地に広く分布する中生代の花崗岩がその代表例である。 日本列島以外でも、地球上で最も古い岩石であるグリーンランドのイスア地方の38億年前の地層(英語版)が付加体の特徴を有していることが確認された[5]。また安定大陸であるカナダ楯状地においても25億年前に形成された海洋起源の地層中に付加体の特徴である新旧地層の上下逆転現象が確認されている[6]。その他の大陸でも下記西オーストラリアや南アフリカ[7]、さらにニュージーランド、スコットランド南部、カリフォルニア、イタリア北部など各地で付加体構造が見つかっている[8]。 日本列島における付加体の状況[編集] 日本列島の周辺では、約3億年前から断続的に海洋プレートが沈み込んでおり、各年代において特徴的な地質構造を有し、日本列島の骨格を形成している。海洋プレートの沈み込みは現在でも継続しており、東海地震や南海地震の震源とされる南海トラフにおいて、フィリピン海プレートが日本列島の下に沈み込んでおり、四国沖では新たな付加体が形成され続けている。海溝から遠い大陸側(日本海側)のほうが古い地層である。なお下記に示す年代は「付加体として大陸に固定された年代」であって、実際に海底で噴火したり堆積して岩石が形成された年代は さらに古い。

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君とどこかへ行きたい – Wikipedia

「君とどこかへ行きたい」(きみとどこかへいきたい)は、日本の女性アイドルグループ・HKT48の楽曲。2021年5月12日に、HKT48の14作目のシングルとしてユニバーサル ミュージック(EMI Records)から発売された。作詞は秋元康、作曲は川浦正大が担当した。今回の楽曲は、選抜が2チームありJR新幹線の名前で「つばめ」のセンターポジションは田中美久、「みずほ」のセンターポジションは運上弘菜が務めた[3]。 背景とリリース[編集] 前作「3-2」から1年ぶりの発売である。また、HKT48のシングルにおいて、前作からの発売間隔が最も長い作品となっている。 選抜メンバーは2チーム12人ずつの24人。1期生からドラフト2期生までの「つばめ選抜」が歌唱するバージョンと、4期生以降の「みずほ選抜」が歌唱するバージョンの2パターンが収録される。歌唱メンバーが異なる2パターンの同一表題曲が収録されるAKB48グループのシングルは、STU48 5thシングル「思い出せる恋をしよう」以来2作目となる。 田中はHKT48のシングル表題曲で初の単独センターを務める。運上は2作連続でセンターを務める。 初選抜メンバーは石橋颯、竹本くるみと堺萌香となる。小田彩加、渕上舞は12thシングル「意志」以来2作ぶり、坂本愛玲菜は10thシングル「キスは待つしかないのでしょうか?」以来4作ぶり、武田智加は9thシングル「バグっていいじゃん」以来5作ぶり、坂口理子は7thシングル「74億分の1の君へ」以来7作ぶり、栗原紗英は4thシングル「控えめI love you!」以来10作ぶりの選抜復帰となった。 前作の選抜メンバーのうち、山下エミリーが外れた。2021年5月29日に活動終了した森保まどかはこのシングルが最後の選抜入りとなった。 そして、選抜から外れたメンバーが参加する「シンデレラなんていない」、「UFO募集中」と、森保まどかのソロ楽曲「この道」がカップリング曲として収録される。なお、2021年4月29日(JST)(28日)をもってIZ*ONEとしての活動を終了した宮脇咲良、矢吹奈子[4]が、今作のいずれの収録楽曲にも参加していない。 オリコン週間シングルランキングでは初登場2位となり、この結果、デビューシングル「スキ!スキ!スキップ!」より継続していた女性アーティスト連続首位獲得記録[注 1]が13作で途絶えた[6]。 アートワーク[編集] ジャケット写真のメンバー TYPE-A 通常盤 神志那結衣・田中美久・森保まどか・渕上舞・村重杏奈・坂本愛玲菜

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九州電灯鉄道 – Wikipedia

九州電灯鉄道株式会社(九州電燈鐵道株式會社、きゅうしゅうでんとうてつどうかぶしきがいしゃ)は、明治末期から大正にかけて存在した日本の電力会社・鉄道事業者である。福岡市に本社を置き、北部九州を中心に事業を展開した。略称は「九鉄」。 福岡市で1896年(明治29年)に設立された博多電灯株式会社(はかたでんとう)が起源。1911年(明治44年)に福岡市内で路面電車を運転する福博電気軌道と合併して博多電灯軌道株式会社(はかたでんとうきどう)と改称し、翌年、さらに佐賀県の九州電気と合併して九州電灯鉄道となった。その後も合併を繰り返し、福岡・佐賀両県のほか長崎県・熊本県・山口県にも供給区域を広げた。 1922年(大正11年)、愛知県に本社を置く関西電気(旧・名古屋電灯)と合併して解散した。この直後に関西電気は「東邦電力」へと改称している。 九州電灯鉄道は、大正から昭和戦前期にかけての電力業界大手「五大電力」のひとつ、東邦電力(1922 – 1942年)の前身である。この東邦電力は、福岡県福岡市など北部九州を主な供給区域としていた九州電灯鉄道と、愛知県名古屋市など東海地方を主な供給区域としていた名古屋電灯が合併し成立した。ただしその成立過程はやや複雑で、奈良県の関西水力電気がまず1921年(大正10年)10月に名古屋電灯を吸収合併して名古屋へ移転の上関西電気と改称し、この関西電気が翌1922年(大正11年)6月に九州電灯鉄道を合併して東邦電力に改称する、という過程をたどっている。また合併に先立つ1921年12月、九州電灯鉄道の経営陣の一部が関西電気に入っており、合併時点では関西電気・九州電灯鉄道の社長は同一人物であった。 九州電灯鉄道は元は「博多電灯」と称し、1896年(明治29年)に福岡市で設立された。開業は翌1897年(明治30年)で、このときに電灯供給を開始。1908年(明治41年)には動力用電力の供給も始めた。1911年(明治44年)、福岡市の福博電気軌道との合併に伴い「博多電灯軌道」に改称し、事業に電気供給事業のほか軌道事業(福博電車)・土地建物事業を加える。翌1912年(明治45年)には佐賀県や福岡県筑後地方に供給する九州電気(旧・広滝水力電気)を合併して「九州電灯鉄道」に改名した。以降も九州電灯鉄道は周辺事業者の統合を積極的に進めて事業を拡大、1920年(大正9年)にかけて11の電気事業者と1つの軌道事業者を合併ないし買収している。この結果、供給区域は福岡・佐賀両県のほか長崎県・熊本県・山口県に拡大し、福岡市・久留米市・大牟田市・佐賀市・唐津町(現・唐津市)・佐世保市・長崎市・下関市といった都市に供給した。また唐津の軌道事業(唐津軌道)も引き継いだ。 統合した事業者のうち、1916年(大正5年)に合併した長崎電気瓦斯から長崎市における都市ガス事業を引き継ぎ、1919年(大正8年)には「製作所」を建設して変圧器・電動機など電力機器の製作を始めた。こうして九州電灯鉄道は5種の事業を抱えるに至る。収入は電気供給事業が最多(1921年下期の決算では総収入の9割近くを占める)で、以下軌道事業・ガス事業・製作所事業・土地建物事業と続いた[3]。 電気事業者としての九州電灯鉄道は、1951年(昭和26年)に発足した九州電力・中国電力の管内にあった事業者のひとつである。軌道事業者としては西日本鉄道(西鉄)の前身のひとつであるが、運営していた路線はすべて廃止され現存しない。またガス事業は西部ガス、製作所事業は西部電機に引き継がれている。 博多電灯の設立[編集] 博多電灯設立に参加した太田清蔵(のちに社長) 1887年(明治20年)に東京電灯によって始まった日本の電気事業は、1890年代に入ると九州にも上陸し、まず熊本市において1891年(明治24年)に熊本電灯(のちの熊本電気)が開業、次いで長崎市でも1893年(明治26年)に長崎電灯(のちの長崎電気瓦斯)が供給を開始した[4]。 福岡市における電気事業起業の契機は、先に開業した東京の事業者からの勧誘であった。九州に電気事業が起こる前の1889年(明治22年)のことで、品川電灯社長の岩下清周らが福岡を訪れ、地元の有力者に電気事業の起業を勧誘したのである[5]。勧誘に応じて鋳物商磯野七平・油商太田清蔵らが起業に向けた調査を始めた[5]。翌年に始まる恐慌や帝国議会仮議事堂漏電火災の影響で実際の会社設立は遅滞するが、県会議員らによる「福博電灯」設立の動き(1893年8月会社設立出願)があると磯野らは慌てて資本金3万円での電灯会社起業を決定し、福博電灯発起人に少額の報酬を支払い出願を取り消させた[5]。 1894年(明治27年)6月、発起人から発起委員を選び、博多商業会議所に創立事務所を開設して本格的な設立準備が始まった[5][6]。日清戦争の影響で会社設立はさらに遅れるが戦後になると環境が整ったため、発起人は1895年(明治28年)10月4日付で「博多電灯株式会社」発起願を農商務省に提出した[6][7]。出願が翌1896年(明治29年)1月20日付で認可されると、それをうけて同年3月26日に創業総会開催に至る[6][7]。当時の電気事業起業手続きには、農商務省による発起認可と創業総会後に申請・免許される会社設立免許があり、また別途道府県による電気事業の許可があったが[8]、博多電灯に関しては農商務省の設立免許と福岡県の電気事業許可を得た日付を記す直接の史料は残されていない。ただし後述の大牟田支店開設時の商業登記には1896年5月6日付で会社設立[1]、逓信省の『電気事業要覧』には1894年10月29日付で電気事業経営許可とある[9]。 発足時の博多電灯の資本金は5万円[5]。総株数は2000株で、700株を発起人にて引き受け、残りの1300株は需要家を確実に得る意図から供給予約とセットで公募した[7]。しかし電気事業についての理解がいまだ浅い時代であったことから、株式の公募は不振であった[7]。社長には磯野七平が就任し、その他役員には太田清蔵らが名を連ねた[5]。役員はすべて博多の商人または福岡の銀行家であり、当初の博多電灯は地元企業としての色彩が強かったといえる[5]。 開業と拡大[編集] 会社設立とともに、博多電灯ではあらかじめ土地を確保していた市内の東中洲において発電所(東中洲発電所)の建設に着手した[7]。機械類は電灯2000灯の供給計画に基づき60キロワット発電機2台を東京の芝浦製作所(現・東芝)に、ボイラーを地元の工場にそれぞれ発注[7]。発電機を芝浦製作所に発注したのは、事業を勧誘した岩下清周が三井財閥の益田孝と関係があり、その益田から芝浦製作所(三井傘下)の機械を使うよう依頼されたためであった[10]。機械の据付は品川電灯から技師が出張して担当した[10]。工場の失火でボイラーの納入が遅延したため機械の据付完了は1897年(明治30年)7月であったが、今度は発電機の故障というトラブルがあり、修理のため営業開始は同年11月1日となった[7]。熊本電灯・長崎電灯に続く九州で3番目の電気供給事業である[11]。 会社設立前の段階では電灯1000灯を供給する計画であったため、発電機1台分の計算で資本金は5万円に設定されたが[7]、需要開拓のため電灯料金を低く抑えたことで想定以上の申し込みがあり、急遽社債発行と資金の借り入れによって発電機1台を追加で用意した[12]。このため負債比率が高くなって追加融資が受けにくくなり、開業直後に早くも資金不足に陥ってしまう[12]。しかし開業時から電灯数が発電能力の限度に近い1800灯に達するなど需要は多く発電所増設が必須な情勢であった[12]。その一方で、開業直前の1897年10月に初代社長の磯野七平が死去した後、11月に取締役の太田清蔵が2代目社長となるが翌1898年4月には新任の取締役石橋勇三郎が専務となる(社長空席)[13]、というように磯野の後継が決まらず企業統治でも不安定な状況にあった[12]。 1898年(明治31年)になって倍額増資による負債一掃と発電所の増設という打開策が考案されたが、この計画は経営陣と株主の対立を招く[12]。同年8月、役員総辞職により取締役・監査役すべて前任者と異なるという新経営陣が就任する(社長・専務空白)が、2か月後の10月にはこの役員も総辞職に至る[13]。同月の株主総会では選出された役員が全員就任を拒否するという事態へと発展、一時は会社の解散さえ噂されるまでになった[12]。結局10月末に専務野村祐雄、取締役太田清蔵・石橋勇三郎らという新経営陣が立ち上げられ[13]、12月には増資問題の妥協が成立、10万円への倍額増資が決定した[12]。 倍額増資で可能となった発電所の増設は翌1899年(明治32年)12月に完成[12]。この間の1899年6月に燃料石炭費の高騰を理由に電灯料金を大幅に引き上げたが、熊本電灯や長崎電灯など周辺事業者と同水準の料金であり需要家の反対はなく、したがって需要増加のペースが衰えることはなかった[12]。料金の値上げと供給増加で業績は高配当が可能となるまでに好転し、好業績を背景に社内の対立は終息していった[12]。

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殴るぞ – Wikipedia

『殴るぞ』(なぐるぞ / 雑誌掲載時の表記では『殴るぞ!』)は、吉田戦車による4コマ漫画。 『週刊ビッグコミックスピリッツ』誌上で2001年10月から2006年7月にかけて連載され、これまでのところ、吉田戦車としては最長連載期間を記録した作品となっている。 作品傾向としては連作ものが多く、漫画内で微妙にストーリーが進展していく。吉田戦車の他作品のキャラクターがしばしば登場するのも特徴で、特に『伝染るんです。』や『ぷりぷり県』、『山田シリーズ』などとの関連性は高い。 単行本は小学館より全11巻が刊行されているが、表紙カバーは「ウール25%配合に、“すべりどめ加工”(ボツボツとした突起)が施されたもの」となっている。また単行本には、本編の数話ごとに「(PR)のコーナー」ともいうべきページがあり、奇妙な“広告”(一種の一コマ漫画といえる)が基本的に3点ずつ描かれている。 登場人物[編集] 作者 作品内に作者本人がしばしば登場する。素っ頓狂な思いつきや行動を見せるが、多くの場合、“冷静な猫”(名無し)が共に描かれ、ツッコミ役を務めている。 犬 「主人の奴」に飼われている名無しの犬。文字を書いたり、人間の施設を平然と利用するなど犬離れしたところがある。「主人の奴」の行動を先読みし、あらゆる手を尽くして彼をフォローする一方で、甘やかしすぎなのではないかとも思っている。名前が一向に決まらないのが悩み。 主人の奴(犬山カズオ) 「犬」の飼い主。ズレた行動をする人物で、「犬」のことは溺愛しているようだが、作品初期では八つ当たりに殴ったりしてもいたらしい。「犬」の名前をなかなか決められないでいる。作中では後姿ばかりで顔は描かれない。 主人の奴の父 「主人の奴」の父。犬嫌い。気ままなホームレス暮らし。息子と同様、顔は描かれない。 カエル 「犬」がヒマにあかせて購入したペット。“包丁を使った去勢”に憧れるなど不可解なキャラクター。「主人の奴」との仲はそこそこのようである。『伝染るんです。』の「カエルくん」とはカエル違い。 ボブ 「犬」の隣家で飼われているトカゲ。「犬」とは友人関係にあり、普段から世間話などをしている。ボブの飼い主も「主人の奴」に劣らない変人。 メリー

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メトロポリタン線 – Wikipedia

メトロポリタン線(メトロポリタンせん、英: Metropolitan Line)はロンドンの金融街、シティに位置するアルドゲイトからアクスブリッジを結び、3つの支線が本線の途中駅からワトフォード、チェシャム、アマーシャムへと伸びるロンドン地下鉄の路線。地下鉄路線図およびシンボルマークなどではマゼンタ(赤紫)で示される[1]。 この路線は1863年1月10日に開業した世界初の地下鉄を起源とするが、このときの開業区間(パディントン(ビショップス・ロード)駅 – ファリンドン・ストリート駅)は現在ハマースミス&シティー線、ディストリクト線、サークル線の一部として運行されている。開業時の区間は大部分が地下で、ベーカー・ストリートの先、フィンチリー・ロードからは地上を走る。34駅中9駅が地下にあり、2008年現在、当路線はロンドン地下鉄で9番目に利用客が多い路線である[2]。 ウェンブリー・パーク駅とムーア・パーク駅の間は複々線となっており、外側線を優等列車が走る。一部の列車はベーカー・ストリート駅以西の運転である。 メトロポリタン線はロンドン地下鉄では最高速度が最も速い路線である。1990年代後半から2000年代初頭にかけて、ハーロウ=オン=ザ=ヒルの北では113km/h(70mph)運転が行われていたが、2008年現在では80km/h(50mph)が最高となっている。フィンチリー・ロードから北の最高速度は徐々に80km/h(50mph)に落されたものの、同区間で同じ線路を走るナショナル・レールの車両は97km/h(60mph)で運転されている。 メトロポリタン線はグレーター・ロンドンの外に路線を伸ばしており、他にグレーター・ロンドンの外側に路線があるのはセントラル線だけである。 キングスクロス駅付近のメトロポリタン鉄道の工事の様子(1861年) メトロポリタン線は1853年にメトロポリタン鉄道の前身であるノース・メトロポリタン鉄道とメトロポリタン – ディストリクト鉄道がインナー・サークルと呼ばれる環状線を完成させるために共同したことに源を発する。1860年に開削工法で工事が始まり、パディントン – ファーリンドン・ストリート(現在のファーリンドン)が1863年に開通した。 1930年代にかけて路線長は90マイルに達するまで延伸され、大半の区間が1905年以降電化された。1933年にメトロポリタン鉄道はロンドン旅客輸送委員会に買収され、ロンドン地下鉄メトロポリタン線となった。メトロポリタン線は徐々に合理化され、アイルズベリー方面が1936年に廃止(一部区間は1943年から1948年まで運行が再開されていた)、同年ホワイトチャペルからバーキンまでの区間がディストリクト線と統合された。1939年、スタンモア支線がベーカールー線に編入(1979年にジュビリー線として独立)、1948年には他の地下鉄各線ともども国有化された。 メトロポリタン線の紋章 蒸気機関車牽引列車はリクマンズワースより北で1961年まで残り、事業用蒸気機関車が廃止されたのは1972年である。大規模な近代化が1960年に行われ、アマーシャム、チェシャムまで電化された一方、チェシャムから先は蒸気機関車列車とともに1961年に廃止されている。ハーロウ=オン=ザ=ヒルからノースウッドまでの区間は1961年、ムーア・パークの北、コーレイウッド・ジャンクションまでは1962年に複々線化された。複々線化に先立ち、アイルズベリーからの各駅停車と準快速(semi-fast)は元グレート・セントラル本線の急行列車と線路を共用した。 1988年にはハマースミス&シティー線とイーストロンドン線がメトロポリタン線から分離され、メトロポリタン線は通称「メトロ・ランド」と呼ばれるロンドン北西部とベーカー・ストリート経由で1868年にメトロポリタン鉄道が建設したトンネルを通ってアルドゲイトを結ぶ路線となり、ディストリクト線と交わらない唯一の路線となった。イーストロンドン線はロンドン・オーバーグラウンドへの転換工事のため2007年に休止されるまで直通旅客列車は無いもののメトロポリタン線と共通の車両を使用した。イーストロンドン線とメトロポリタン線の連絡線はオールドゲイト・イーストに残っているが、イーストロンドン線は独自の車両を持つことになるため、撤去されるものと思われる。 1998年、メトロポリタン線は第三セクター運営に変わり、2008年現在ではサークル、ハマースミス&シティ、ディストリクトの各線が同じメトロネット協会により運営されている。

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