Month: March 2019

リトル・マーメイドII Return to The Sea

『リトル・マーメイドII Return to The Sea』(リトル・マーメイドツー リターン・トゥー・ザ・シー、原題:The Little Mermaid II: Return to the Sea)は、アニメ映画『リトル・マーメイド』の続編として作られたOVAである。全米では、2000年の制作作品。 日本では2006年10月4日にウォルト・ディズニー・スタジオより期間限定生産DVD(VWDS-5190)が発売されている。ミュージック・クリップやオリジナル・テーマソングなど映像特典を収録されている。日本では、ディズニートゥーンスタジオ作品としては最後のレーザーディスク版発売作品となった。 ストーリー 前作『リトル・マーメイド』で結ばれたトリトンの末姫である元人魚―アリエルと海辺の王国の王子―エリックの間に、陸と海を繋ぐ子供―メロディが誕生した。メロディの誕生に沸き立つ中、アースラの妹―モルガナが現れ、自身が姉の代わりに海の支配者になると宣言して消えてしまう。それから12年、その身を案じられて海の世界に関する全てを秘されて育ったメロディは、母のアリエルが陸の世界に憧れた様に、海の世界に憧れていた。 登場キャラクター メロディ(Melody) 本作の主人公。アリエルとエリックの間に生まれた娘。黒髪でポニーテールにまとめており、瞳の色は青(アクアブルー)。上は緑のリボンがついた白タンクトップにフリルのついた白ズボンがペアのパジャマを着ている。 顔と髪の色は父親似で目と性格は母親似。純粋で明るい性格だが、『自分はみんなと違う』という考えを持っていて、それがある種のコンプレックスになっている。

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亀屋万年堂 – Wikipedia

株式会社亀屋万年堂(かめやまんねんどう)は、神奈川県横浜市都筑区に本社を持つ菓子の専門店である。シャトレーゼホールディングスの100%子会社。ナボナなどの特徴的なお菓子を広く展開する。 看板商品である「ナボナ」 1938年に引地末治が創業[1]。第二次世界大戦のため1941年から1945年は閉店したが、終戦後の1946年から営業を再開し、1948年、合資会社亀屋万年堂として会社を設立する。亀屋万年堂の代名詞・ナボナは1963年より発売を開始した。創業者が「どら焼きを洋風に仕立てる」という発想で生まれた洋菓子である[1]。1967年に王貞治(当時巨人軍選手)をコマーシャルに起用し「ナボナはお菓子のホームラン王です!」のフレーズで人気を高め、工場の増設、1974年には本社を移築するなど躍進を果たした。目玉商品となっている「ナボナ」は、イタリア・ローマにある「ナヴォーナ広場」にちなんで名付けられた。 その後、新商品「森の詩」(餡をカステラで巻いた和風ミニロールケーキ)が登場、前述の王のCMの台詞に「森の詩もよろしく」というフレーズが加わり、これまた人気を得た。森の詩は、現在は製造を終了している。 1979年に株式会社に改組。これをきっかけに亀屋万年堂製菓、カルチェラタンを設立し販売体制を強化(その後1984年に亀屋万年堂製菓を亀屋万年堂に吸収合併したが1995年に再独立。その際かしこ、東京ガトウ倶楽部、ケイエム商事と合せてグループ6社体制になる)。2007年より一部店舗でクレジットカードが使えるようになった。 2004年に末治の長男、引地良一の後を受けて社長に就任した国松彰(2011年に会長に就任)は[2]、王の巨人時代の先輩にあたり、巨人軍の主力選手として活躍し、後に二軍監督、コーチなどを歴任した経歴を持つ。末治の娘(良一の兄弟)と結婚したことが縁で王のコマーシャルモデル起用、並びに役員就任にもつながった。 自由が丘総本店は旧店舗が老朽化のため改築工事を経て、2015年4月16日に新装オープンした[3]。 2021年1月15日にシャトレーゼホールディングスが全株式を取得し、亀屋万年堂はシャトレーゼホールディングスの完全子会社となった[2][4]。 販売店[編集] 直営店 (2020年6月現在) 東京都 神奈川県 工場[編集] 「ナボナ」などの製品は神奈川県横浜市都筑区にある横浜工場にて製造されている。現在は本社も横浜工場に所在している。 関連会社[編集] 業界団体[編集] 鶴屋千年堂[編集] 菓子店[編集] 横浜市港北区の東急東横線大倉山駅前に姉妹店の「鶴屋千年堂」という菓子店があったが、1998年に放火による火事[5]で焼失し、閉店。かつて亀屋万年堂の一番弟子として修行した主人が独立の際に暖簾分けとして鶴屋千年堂の名前をもらったという[5]。跡地は2021年現在、時間貸駐車場になっている[5]。 鶴屋千年堂の主人の息子が大倉山から程近い大曽根の商店街で鶴屋千年堂の支店を開いていたが、こちらも2006年時点では閉店していた。支店の看板は少なくとも2004年2月の時点までは存在していた[6]。

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朝倉利夫 – Wikipedia

朝倉 利夫(あさくら としお、1956年7月19日 – )は、フリースタイル及びグレコローマンスタイルのレスリング選手である。階級は52kg級[1]。現在は国士舘大学の教授[2]。さらに拓真館レスリングクラスで師範を務めている[3]。 最初はグレコローマンスタイルのレスリング選手だった。鹿児島商工高から国士舘大学に進むと、1978年の全日本選手権52kg級で2位となった[1]。1979年には国士舘大学助手となり全日本選手権52kg級で優勝すると、世界選手権でも3位になった。1980年の全日本選手権でも優勝して、モスクワオリンピック代表となるが、ボイコットのために幻の代表に終わった[1]。1981年にはモントリオールオリンピック金メダリストの高田裕司が引退したためにフリースタイルの52kg級に転向すると、全日本選手権と世界選手権で優勝を飾った[1]。また、アジア選手権でも優勝した。1982年には全日本選手権で優勝するも、世界選手権では3回戦で敗れたが、アジア大会では優勝を飾った。1983年には国士舘大学教員となり、全日本選手権では5連覇を達成するが、世界選手権では2位に終わり2連覇はならなかった。アジア選手権ではグレコローマンの57kg級で優勝、フリースタイルの57kg級では2位となった。1984年の全日本選手権ではカムバックしてきた館林高校教員の高田裕司に敗れて2位にとどまり、ロサンゼルスオリンピックには出場できなかった[1]。1985年の全日本選手権では57kg級で優勝すると、1987年まで3連覇を達成した。しかし、1988年のソウルオリンピックには出場できなかった[1]1990年の全日本選手権ではグレコローマン時代を含めて9度目の優勝を飾った。 主な戦績[編集] グレコローマンスタイルでの戦績(52kg級) 1978年 - 全日本選手権 2位 1979年 - 全日本選手権 優勝 1979年 - 世界選手権 3位 1980年 - 全日本選手権 優勝 フリースタイルでの戦績 52kg級 1981年 - 全日本選手権 優勝

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濱田高志 – Wikipedia

濱田 髙志(はまだ たかゆきは、日本の音楽ライター、アンソロジスト。大阪府出身[1]。 来歴・人物[編集] 漫画家アシスタント、広告代理店勤務を経て[2]、1990年代には友人と3人で発掘チーム「土龍団」(もぐらだん)を結成[3]。2000年代前半に土龍団を離脱、土龍団名義を含め、国内外で企画・監修・プロデュースしたCD(コンピレーション・アルバム含む)は540タイトルを超える(2021年現在)。ミシェル・ルグラン、ロジャー・ニコルスら作曲家からの信頼が厚く、彼らの旧作や新作プロデュースなども手掛けている。 コンピレーション・アルバム[編集] TV AGEシリーズ[1](「のこいのこ大全」など)や、「ソフトロック・ドライヴィン *美しい星」「ブロードキャスト・トラックス」「Love Sounds Style」ほか多数。 [4] 著書[編集] 2002.4 – ARTISAN de la MUSIQUE ミシェル・ルグラン

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インデペンデンシア (空母) – Wikipedia

インデペンデンシア (ARA Independencia) は、アルゼンチン海軍の航空母艦。1959年から1969年にかけて運用された、アルゼンチン初の航空母艦である。元はイギリス海軍のコロッサス級航空母艦ウォリアーであった。 艦上機部隊は、攻撃機のヴォートF4U コルセア、訓練機のノースアメリカンT-6 テキサン、対潜哨戒機のグラマンS-2 トラッカーから構成されていた。回転翼機のシコルスキーS-55とS-58は、連絡・救助用である。 インデペンデンシアの紋章 この艦は、カタパルトやアングルド・デッキといった近代航空母艦に必須の要素を備えている。しかし、カタパルトの出力は弱く、アングルド・デッキの角度も小さい、などの点から、同じコロッサス級航空母艦でありながら大幅な近代化改修を受けた同時代のミナス・ジェライスやカレル・ドールマンなどに比べて艦上機の運用能力は低い。それを端的に表しているのがジェット艦上機の運用である。 当時、アルゼンチン海軍航空隊にはジェット機であるF9F パンサーとF9F クーガーも所属していたが、カタパルトの出力不足によりインデペンデンシア上では運用が出来なかった。一応着艦した例ならば存在し、1963年7月27日、フスティニアノ・マルチネス・アチャバル中佐 (Justiniano Martínez Achaval) の操縦するF9F パンサーがインデペンデンシアに緊急事態のため着艦したことがある。中佐の機体は第1アレスティング・ワイヤーにフックをかけて着艦した。ただし、前述のように発艦は出来ないため、その機体を下ろすためには艦は一旦プエルト・ベルグラノ海軍基地に戻らなければならなかった。 F9F パンサーとF9F

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ローディアン – Wikipedia

ローディアン(英: Roadian)は、国際層序委員会(英語版)によって定められた地質学用語である、地質時代名の一つ。2億7295万年前(誤差11万年)から2億6880万年前(誤差50万年)にあたる、中期ペルム紀(グアダルピアン世)を三分した前期である。前の期は前期ペルム紀(シスウラリアン世)の最後の期クングーリアン、続く期は中期ペルム紀中期のウォーディアン[1]。模式地はアメリカ合衆国テキサス州に位置する[2]。 1961年にアメリカ合衆国南東部で使用された時代区分にはグアダルピアン世の下位分類としてウォーディアンとキャピタニアンがあり[3]、アメリカ合衆国南東部のペルム紀の層序とロシアの層序を対応させる研究の末、ウォーディアン階とロシアのアーティンスキアン階の間にもう1つの階を導入する必要があると結論付けられた[4]。1968年にはローディアン階が確立され、テキサス州ブリュースター郡に分布する下部ウォード累層ロード・キャニオン部層にちなんで命名された[5]。2001年にはローディアン階は国際層序委員会の時代区分に加えられ、国際的に使用されるようになった[6]。 生物多様性[編集] 陸上脊椎動物が世界規模で姿を消したオルソン絶滅事変(英語版)が前期グアダルピアン世(ローディアンとウォーディアン)で起こった[7]。 日本において[編集] 三重県志摩半島に分布する宮成層群からは放散虫 Parafusulina kaerimizensis が産出しており、この種の生息期間が Cancellina 属のようなローディアン – 前期ウォーディアンにかけ生息した他の放散虫と一致することなどから、同層群は前期ペルム紀(シスウラリアン)末から前期ウォーディアンを示すとされている[8]。宮城県気仙沼市岩井崎石灰岩下部からは大型フズリナ Monodiexodina matsubaishi が産出しており、石灰岩下部のユニット3およびユニット4はローディアンからおそらく前期ウォーディアンとされている[9]。 また、兵庫県篠山地域の藤岡奥セクションは示準化石となるコノドント化石が産出しなかったものの、Pseudoalbaillella simplex や

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橋本道場 負けて勝つ! – Wikipedia

『橋本道場 負けて勝つ!』(はしもとどうじょう まけてかつ)は、2016年8月10日よりポニーキャニオン配信サービス「ぽにちゃん」で配信されていた将棋対局バラエティー番組[1]。 将棋棋士・橋本崇載の冠番組。“カメラを意識しすぎる棋士”、“金髪パンチパーマでNHK杯に出場する棋士”、“大会準決勝でまさかの二歩負け”など敗北と失敗から学んできた棋士として、ジャンルやフィールドを問わない相手と変則ルールの異種将棋対局を行う[2]。敗者は勝者が希望するプレゼントを贈呈しなければならず、希望報酬は対局前に発表する。 なおアマチュアとプロという対局から変則ルールでは「10手ごとに〇〇」、「橋本が〇〇すると駒を失う」など橋本には肉体、精神的に揺さぶりをかけられるハンデが与えられるほか、将棋未経験者にはイヤホンで将棋経験スタッフから指し手が指導されている。このほか流れによっては解説役の神吉宏充から直接指し手のヒントが与えられる場合もある。 レギュラー出演[編集] 配信日程[編集] 配信回 配信日 サブタイトル 対局者 配信時間 備考 1 2016年 8月10日 第1話 刺客・今野杏南 Part 1

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フィッティパルディ – Wikipedia

フィッティパルディ (Fittipaldi) は、1975年から1982年までF1に参戦していたブラジルのレーシングチームである。F1史上唯一のブラジル国籍のコンストラクターであり、1974年に兄弟F1ドライバーのウィルソン・フィッティパルディとエマーソン・フィッティパルディによって設立された。 コンストラクターとしてのエントリー名は、1979年まではタイトルスポンサーであるコパスカー(Copersucar、ポルトガル語の発音は「コペルスカル」)を用い、1980年から1982年にかけてはフィッティパルディを用いた。「コパスカー」時代もエントリー名以外では「フィッティパルディ」の名称を主に併記の形で用いたため、この時期のチームについては「コパスカー・フィッティパルディ」とも呼称する。 参戦準備[編集] ウィルソン・フィッティパルディは1972年にブラバムからF1への参戦を始めたが、翌1973年まで中団争いに甘んじ、同時にブラバムチームにおける待遇に不満を覚えてもいた。1973年末には弟でありやはり現役のF1ドライバーであったエマーソン(ただしウィルソンと異なり1972年にチャンピオンになり、1973年もチャンピオン争いをしていた)と相談し、ブラジル国籍のF1チームの創設を決意することとなる。 こうした決断にいたる以前には、フィッティパルディ兄弟が1960年代にブラジル国内において輸入品に手を加えた自製のフォーミュラ・Veeやカート販売の事業を手がけ、市販自動車のカスタムパーツ販売などの分野でも成功を収めていたという経緯があり、ヨーロッパではF2に参戦するかたわら所属チームであるバーダルチームの運営にも関与し、バーダル/フィッティパルディ連名で幾つかのレース用改造車両を手がけるなどしている(この当時の「チーム・フィッティパルディ」とF1コンストラクターの「フィッティパルディ」との間に直接的な繋がりはない)。 同時に、F1参戦を可能としたのは、戦闘力もあり入手も容易なコスワースDFVエンジンとヒューランド製ギアボックスが存在するという当時のF1の時代背景も大きかった。そのため、ほぼ同時期に、やはり現役F1ドライバーのジョン・サーティース、グラハム・ヒルによってサーティース(1970年設立)、ヒル(1975年)が設立されてもいる。 ウィルソンは1974年はF1のドライバーとして休養し、チームの設立準備に専念した。この間に、ブラジルの砂糖・アルコール製造と銅の産出及び製造のコングロマリットであるコパスカー社から資金援助を引き出すことに成功するとともに、不安材料であった風洞実験や車体製造にあたってはブラジルの国営の航空機メーカーであるエンブラエルの支援をも取り付けた。この間、マクラーレンに所属していた弟のエマーソンもチームのコンサルタントとして間接的に関わっている。 FD-01完成[編集] F1開発の本場であるイギリスから遠く離れたブラジルで開発されたためもあってか、チーム初のF1カー「FD-01」はラジエーター(冷却器)の設置方法の違いなどから、エンジンカバーで車体後部を覆うなど、当時のDFVエンジン搭載車両の中ではやや独特の形状をまとった。「ブラジル初のF1カー」となったこのFD-01の初公開は、1974年10月16日に当時の大統領エルネスト・ガイゼル臨席の下、ブラジリアのブラジル上院議場で行われた。 参戦の歴史[編集] コパスカー[編集] 1975年[編集] コパスカー・フィッティパルディFD-01 コンストラクター名はチームのメインスポンサーの名を取り「コパスカー」としてエントリーし、ウィルソン・フィッティパルディの1台のみによる参戦という形でF1デビューを飾った。 チームは困難なデビュー年を送ることとなるが、その兆候はデビュー戦アルゼンチンGPから現れた。アルゼンチンGPの決勝レースの12周目におけるクラッシュにより新車FD-01は修復不能となり、わずか1戦でその役目を終えた(皮肉にもこのレースはマクラーレンに所属するエマーソンが優勝している)。FD-01が使用不能となったため、以後のレースはFD-02、FD-03が使用されることになった。これらのシャシーはFD-01とは空力的に若干異なることを除けばほぼ同一であるため、記録上は「FD-01」として扱われることが多い。 FD-01(及びFD-02、FD-03)は戦闘力不足で、予選は20番手、決勝では最終戦アメリカGPで記録した10位が最高位という結果に終わった。予選最高位20位を得たオーストリアGPでは予選中にウィルソンが指の骨2本を折る怪我を負ったため、決勝を棄権するとともに、続くイタリアGPのみ地元イタリア人のアルトゥーロ・メルヅァリオにステアリングを譲るというハプニングがあった。 1976年[編集] コパスカー・フィッティパルディFD-04

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演奏者 – Wikipedia

この記事のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。他の出典の追加も行い、記事の正確性・中立性・信頼性の向上にご協力ください。出典検索?: “演奏者” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2012年10月) 演奏者(えんそうしゃ)は、楽器などの演奏を通じて音楽表現を行う者。単に奏者とも。芸術作品である楽曲を創造する作曲者およびそれを享受する聴衆(享受者)に対して、目に見えにくい芸術作品としての楽曲の再生(再生芸術)を行い、作曲者と聴衆の間を媒介する役目を担うのが演奏者である。 西洋音楽において[編集] 音楽の歴史において、作曲者と演奏者と聴衆(享受者)の区別は長い間必ずしも明確ではなかった。これが明確に分離していくのは、19世紀に入ってからである。市民文化の成立に伴って幅広い階層の人々が音楽を楽しむことが出来るようになり、作曲や演奏の技能は持たないものの、音楽の享受を望む聴衆が出現した。これに伴って、多くの人々に楽曲が持つ芸術性を伝えると同時にそれを生み出す演奏技巧を誇示することを専門とする人々も現れ、作曲者と演奏者の分離が図られた[1]。 演奏者は目に見えない楽曲を出来るだけ客観的な図式の形で表現した楽譜[2]を元にしてその作品の持つ芸術性を正当に再現することが求められる。そのためには、楽譜を音として実現する技能(楽器を扱う能力に留まらず、表現の統制能力や音楽性も必要とされる)とその作品の精神性・芸術性を理解して表現する能力が求められる。ただし、作曲者による創作の追体験が不可能である以上、演奏者自身が楽譜から作曲者の意図を読み解く必要性があり、それによって複数の作品に対する「解釈」が生み出される可能性が存在するし、演奏家自身が持つ個性によって実際に演奏される楽曲に微妙な変化が加えられる場合もある。 楽器の即興演奏が一般的でモーツァルトやベートーヴェンに代表されるように作曲者が演奏を兼ねることが珍しくなかった18世紀までと違い、19世紀になると演奏を専門とするものが現れ、中期から後にかけては先人の曲を優れた演奏技巧で再現する「大演奏家」が出現するようになった。ピアノにおけるフランツ・リスト(彼は作曲者としても名声があるが)はその代表的な人物であった。だが、演奏技術への過度の評価は、19世紀の末になると大演奏家による主観的な解釈による楽曲自体の改変すら許容されるようになった。20世紀に入るとこうした演奏者の振舞いに対する批判から、即物主義の客観的演奏様式が生み出されるようになり、作品への忠実さが重んじられるようになる。今日において作品に対して忠実的かつ客観的な演奏態度が主流派となる一方で、前衛音楽の世界では作曲者が演奏者による自由な演奏態度を許容して作品に新たな芸術的可能性を付与させようとする動きが見られ、更に録音技術の発達によって演奏会に直接赴かなくても、場合によっては聴衆の誕生前に死去して直接聴くことが不可能となった演奏家の演奏を間接的な手段で聴くことが可能となるなど、演奏を巡る多様化が進んでいる。 ^ ただし、今日においても即興演奏が全く行われなくなった訳ではない。 ^ ただし、それを100%表現することは困難で不完全な指示力しか有しない。 参考文献[編集] 関連項目[編集]

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