Month: November 2019

ハタタテダイ – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ハタタテダイ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年7月) ハタタテダイの群れ ハタタテダイ(旗立鯛、学名:Heniochus acuminatus)は、スズキ目チョウチョウウオ科に属する魚類の一種。ムレハタタテダイ、ツノダシに酷似する。 全長約25cm。 長く伸びた背鰭の棘条が特徴である。ごく稀に、この長く伸びた背びれが2又(2対?)分かれた個体もいる。(これが白い旗を立てているように見えることからその名がついた。) 白地の体に2本の太い黒色帯が走る。背鰭の後半部・胸鰭・尾鰭は黄色である。 よく似た種 ツノダシ(左上下)、ムレハタタテダイ(右上)、ハタタテダイ(右下) よく似た種で「ムレハタタテダイ」がいる。見分ける方法は、本種はあまり大きな群れをつくらず(ペア又は数匹規模)、ムレハタタテダイは大きな群れとなる。ただし、本種が大きな群れをつくる場合や、ムレハタタテダイが大きな群れをつくらない場合がある。このほか、背鰭の棘の数が12本の場合ムレハタタテダイで、1本少ない11本の場合が本種である。 ツノダシはハタタテダイと姿がよく似ているが、チョウチョウウオよりニザダイに近い仲間である。また、模様の入り方も異なる。 雑食で、プランクトン、藻類などを食べる。幼魚は他の魚に付いている寄生虫も食べる。

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卓袱料理 – Wikipedia

卓袱料理店内(長崎市) 卓袱料理(しっぽくりょうり)とは、中国料理や西欧料理が日本化した宴会料理の一種。長崎市を発祥の地とし、大皿に盛られたコース料理を、円卓を囲んで味わう形式をもつ。和食、中華、洋食(主に出島に商館を構えたオランダ、すなわち阿蘭陀)の要素が互いに交じり合っていることから、和華蘭料理(わからんりょうり)とも評される。日本料理で用いられている膳ではなく、テーブル(卓)に料理を乗せて食事を行う点に特徴がある[1]。 献立には中国料理特有の薬膳思想が組み込まれていると考えられている[2]。 卓袱料理 老舗料亭 松亭 中国料理同様に、円卓を囲み、大皿に盛られた料理を各々が自由に取り分け食べるのが卓袱料理の基本形である。現在では料亭や割烹料理店で味わうのが主流で、結婚披露宴で卓袱料理形式の献立が組まれたり、冠婚葬祭などで卓袱料理の仕出し料理をとる家庭もある。しかし、大皿に盛りつけるなど手間が省け、人数に増減があっても対応しやすいという合理性もあり、「急ぎの客人向け料理」「家庭的なもてなし料理」という側面もあったとみられている[要出典]。中国料理の宴会と異なり取り箸は用いず、各自の直箸と呑水(とんすい)と呼ばれる陶器の匙を用いて、各自の取り皿に取り分けてたべる。 現在の卓袱料理は、「お鰭」「鰭椀」と呼ばれる吸い物でスタートする。スープで宴会が始まるのは広東料理と共通する形式である。各人に椀が配られ、料亭では女将(長崎弁でオカッツァマ)が[3][4]、披露宴では司会者が「お鰭をどうぞ」と挨拶を行って宴会がスタートする。参加者全員が吸い物を空にした後、主催者(結婚披露宴では来賓が多い)の挨拶が行われ、乾杯をする。その後、大皿に盛られた料理が次々と振舞われる。料理の内容や品数は店や予算などで異なる。 卓袱料理と同時期に考案された精進懐石料理だけで組み立てる料理を普茶料理または普茶卓袱といい、福建省出身の黄檗宗の隠元隆琦に始まる形式とされる[5]。普茶料理の献立は精進料理で構成され、寺院でよく好まれた[1]。寺院発祥の普茶料理は卓袱料理と起源を異にするが、円卓で食事をする形式は卓袱料理にも影響をもたらした[6]。 また、卓袱料理は「銘銘膳」などに象徴される日本食事形式に対比するものとも言われ、大正期から一般的になる小型の食卓「卓袱台(ちゃぶ台)」の語源となった[7]。現在でも関西地方では共同の食卓を「シッポク台」と呼ぶこともある[7]。 卓袱の語源は不詳だが、中国語で「卓」はテーブル、「袱」はクロスの意味(袱紗など)を持つ[8]。また、長崎奉行所の記録には「しっぽく」は広南・東京(トンキン)方面(現在のベトナム中部、北部)の方言と記されている[注 1]。 卓袱料理とは料理の種類でなく、卓やテーブルを使う食べ方を意味するとの考えもあり明快ではない。また「卓袱ウドン」のような名称は「たくさんの具」を意味すると考えられている[要出典]。 長崎における卓袱料理の起源は定かではないが、元和・寛永期(1615年-1643年)に崇福寺、興福寺などの唐寺が建立、徳川幕府により朱印船が廃止、対中国貿易が長崎港に限定されたため、かなりの中国人が滞在していたものとみられる。 1689年(元禄2年)に唐人屋敷が整備されるまでは、中国人と日本人が市中に雑居しており、互いに招きあい、食事をする機会も多かったと考えられている[9]。また、海外から運ばれた砂糖や香辛料、オランダ語が語源とされるポン酢など、出島を拠点に行われたポルトガルやオランダなどとの貿易によってもたらされた食材の影響も少なくない。ポルトガル由来の南蛮料理、南蛮菓子は卓袱料理の発展の下地となり、出島に居住するオランダ人と交流する機会のあった江戸幕府の役人を通してオランダの食文化が少しずつ長崎に広まっていった[10]。このような異文化の交流の中から、卓袱料理の形態が生まれたと言われている[9]。 元禄年間(1688年 – 1704年)、長崎に伝わった南蛮料理や中国料理にアレンジが加えられて日本料理化され、長崎独自の料理に変化した[11]。やがて接待・宴会の際に日本化した舶来の料理を自宅に取り寄せるようになり、それらの仕出し料理を専門とする料理屋はやがて料亭に成長していった[11]。 1761年、長崎に入国していた清国人・呉成充が山西金右エ門を船に招いて中国式の料理でもてなしたという『八遷卓宴式記』の記述が、卓袱料理についての最古の記録である[1]。卓袱料理を食べた者の中には商人や司馬江漢をはじめとする蘭学者以外に大名もおり、薩摩藩藩主島津重豪、鍋島直正などの佐賀藩藩主の名前が挙げられる[12]。 文化・文政期(1804年 – 1829年)前後には江戸で一大ブームになる。ひとりひとりに膳が出されるのが普通であった当時の人々にとっては、一つのテーブルを囲んで大皿で食べるという中国式のスタイルは物珍しかったという。江戸古典落語に登場する「百川」は卓袱料理屋として創業したと伝えられる[13]。従来の日本料理のマナーを引き合いに出して「面倒さや煩わしさが無く、各々が料理を好きなように楽しめる」と卓袱料理を評価した記録も残る[7]。また、江戸だけではなく京都、宇治、大坂といった上方の都市でも卓袱料理と普茶料理が食されていた[14]。この頃になると、料理名こそ中国風であったが、その内容は日本料理・中国料理・南蛮料理が入り交じった独特のものに変化していった。もっとも江戸や上方での卓袱料理の食材には獣肉は使用されておらず、当時の日本人の食習慣に合わせたものとなっていた[15]。

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デュッセルドルフ美術アカデミー – Wikipedia

19世紀の美術アカデミー(画)アンドレアス・アッヒェンバッハ(1831) ギャラリーホールの画家たち(画)Friedrich Boser クンストアカデミー・デュッセルドルフ(Kunstakademie Düsseldorf)は、ノルトライン=ヴェストファーレン州のデュッセルドルフにある美術大学である。 目次 1 歴史 2 関連する人物 2.1 歴代校長 3 外部リンク 貴族のパトロンを得ていた画家、ラムベルト・クラーエ(Lambert Krahe:1712-1790)が1762年ころに設立した絵画学校が1773年に「プファルツ選帝侯領絵画、彫刻、建築アカデミー」(Kurfürstlich-Pfälzische Academie der Maler, Bildhauer-

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田原武雄 – Wikipedia

田原 武雄(たはら たけお、1910年(明治43年)12月15日[1][2] – 1988年(昭和63年)10月25日[1][2][3])は、昭和期の農業協同組合指導者、政治家。参議院議員。 鹿児島県[3]揖宿郡頴娃村(頴娃町を経て現南九州市)で生まれる[1][2]。1938年(昭和13年)陸軍士官学校(少尉候補者19期[4])を卒業した[1][2][3]。 戦後、頴娃町議会議員、頴娃町農業振興会長、青戸農業協同組合長、鹿児島県信用農業協同組合連合会監事、同農業信用基金協会監事、同農民政治連盟副委員長、同経済農業協同組合連合会会長、全国農業協同組合連合会理事、全国茶生産団体連合会会長、えい農業協同組合長、鹿児島県農業協同組合連合会理事、同県茶振興会会長、熊本果実連合会理事、南栄糖業監査役などを務めた[1][3][2]。 1977年(昭和52年)7月の第11回参議院議員通常選挙に鹿児島地方区から出馬して当選し[1][2][5]、参議院議員を1期務めた[1][2][3]。この間、鈴木善幸内閣・沖縄開発政務次官、国土審議会特別委員などを務めた[1][2][3]。所属会派は自由民主党・自由国民会議であった[3]。 ^ a b c d e f g h 『新訂 政治家人名事典』386頁。 ^

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OSS 117 リオデジャネイロ応答なし – Wikipedia

OSS 117リオデジャネイロ応答なし OSS 117: Rio ne répond plus 監督 ミシェル・アザナヴィシウス 脚本 ジャン=フランソワ・アラン(フランス語版)ミシェル・アザナヴィシウス 原作 ジャン・ブリュース(フランス語版) 製作 エリック・アルトメイヤーニコラス・オルトメイヤー(フランス語版) 出演者 ジャン・デュジャルダンルイーズ・モノ(フランス語版) 音楽 ルドヴィック・ブールス

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チャーリー・ホワイト – Wikipedia

シーズン SD FD EX 2013-2014[5] 映画『マイ・フェア・レディ』よりクイックステップ:踊り明かそうフォックストロット:運が良けりゃフォックストロット:だが まずは教会へ作曲:フレデリック・ロウ シェヘラザード作曲:ニコライ・リムスキー=コルサコフ Fade Into Youボーカル:クレア・ボウエン & サム・パラディオ ピアノ協奏曲第2番第2楽章作曲:セルゲイ・ラフマニノフ 2012-2013 マーチ、ワルツ、ポルカ:ジゼル作曲:アドルフ・アダン オールモスト・ライク・ビーイング・イン・ラブ夜のストレンジャーニューヨーク・ニューヨークボーカル:フランク・シナトラ ミュージカル『ノートルダム・ド・パリ』より作詞:リュック・プラモンドン作曲:リシャール・コッシアンテ サムワン・ライク・ユーボーカル:アデル Fade

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ゼブロイド – Wikipedia

ゼブロイド(zebroid)は、シマウマと他のウマ科動物との交雑種。zebra muleやzebruleなどとも呼ぶ。一般的にシマウマが父方の系統となる。ロバの雄とシマウマの雌の間に生まれた個体のことをzebra hinnyと呼ぶことがあるが、生まれるのは稀である。 ゼブロイドは19世紀に繁殖され、チャールズ・ダーウィンの著作中にもシマウマ雑種についての記述がある。 ゼブロイドの種類[編集] ゼブロイドはシマウマと他のウマ科動物との交雑種の総称であり、交配相手の違いにより別個の名称で呼ばれる。これらの呼称は確定されたものではない。なおシマウマの種の違いについては考慮されない。 雄シマウマ+雌ウマ:ゾース、zebra mule、zebrule、黄金シマウマ 雄シマウマ+雌ポニー:zony 雄シマウマ+雌シェトランドポニー:zetland 雄シマウマ+雌ロバ:zedonk、zeedonk、zonkey、zenkey、zebronkey、zebadonk、ジンキー 雄シマウマ+その他のウマ科の雌:zebrass 雌シマウマ+雄ロバ:zebra hinny、zebrinny ゼブロイドの体型はシマウマではない側の親の体型に似るものの、シマウマのような縞模様を有する。ただしその縞模様は体躯全体を覆うのではなく、脚に限定して現出するか[1]、脚から体や首にかけて現出するなど一定でない。シマウマと交配するウマに芦毛・アパルーサ・ペイントなどの模様があれば、生まれるゼブロイドに遺伝するものの、白くない部分にのみシマウマ特有の縞模様が現出する。また鹿毛や栗毛のウマとシマウマを掛け合わせると、鹿毛+黒縞模様や栗毛+黒縞模様となり、表面上はクアッガに似た模様となる。 雄シマウマと雌ロバのゼブロイドは一般的に、脚のほか、たてがみと腹部に縞模様がみられる。 ゼブロイドはシマウマよりも乗馬などの実用に適しているものの、通常の純血種のウマよりも神経質であり、扱いづらい性格だとされる。 ゼブロイドのいる主な動物園[編集] ギャラリー[編集] シマウマとロバの交雑個体

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ラグビーボール (競走馬) – Wikipedia

この記事は「旧馬齢表記」が採用されており、国際的な表記法や2001年以降の日本国内の表記とは異なっています。詳しくは馬齢#日本における馬齢表記を参照してください。 ラグビーボール[1]は日本の競走馬・種牡馬。主な勝ち鞍に1986年のNHK杯、高松宮杯。 特記事項なき場合、本節の出典はJBISサーチ[2] 馬主は珍名を付けることで知られる小田切有一。馬名の由来は「初めてこの馬を見たとき、ラグビーボールのようにあっちに飛んだり、こっちに飛んだりしていたから」というもので[3]、当初予定されていた「ブラックマジック」から変更された[3]。 1986年2月22日、阪神競馬場の新馬戦でデビューし、1着。続く3月の400万下特別のさわらび賞も勝利。このころから「関西の秘密兵器」と競馬マスコミからも注目を浴びることになった。さわらび賞のあと、東京優駿を目標に定めた陣営は皐月賞を回避し、日程に余裕のあるNHK杯に出走することにした。4番人気に推されたラグビーボールは、2着シンチェストに2馬身差をつけて優勝し3連勝を飾り、一躍ダービーの最有力候補として挙げられるようになった。本番となった東京優駿では単勝1番人気に推されたが、1着のダイナガリバーに0秒5差の4着に敗れた。夏の休養前に古馬混合戦の高松宮杯に出走。古馬を抑えて単勝1番人気に支持され、レースでもワカオライデン他を下して優勝。このころから腱鞘炎による脚部不安が持病となり、調教も思うようにできなくなってしまい、のちの不振に繋がっている。秋シーズンに入り、初戦の京都新聞杯で5着、菊花賞では単勝1番人気に推されたが3着。菊花賞から中2週でジャパンカップにも出走し、レースレコードで優勝したジュピターアイランドに2馬身半差の4着に食い込んだが、このあと脚部不安が再発し、有馬記念へは出走することができなかった。 その後もふたたび出走することを目標に調整を重ねたが、そのたびに脚部不安が再発して出走できない状態が続いた。6歳までこの状態が続き、7歳に遂に引退を決定、種牡馬として供用されることになった。 競走成績[編集] 以下の内容は、JBISサーチ[2]およびnetkeiba.com[4]に基づく。 競走日 競馬場 競走名 格 距離(馬場) 頭数 枠番 馬番 オッズ(人気) 着順 タイム(上り3F) 着差

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サライェヴォ・ハッガーダー – Wikipedia

サライェヴォ・ハッガーダー、(Sarajevo Haggadah)は、14世紀中葉のスペインで作られたハッガーダー。出エジプト記を記念する過越の日のための物語と祈りの言葉が記されている。中世の細密画が描かれたヘブライ語の本としては最古に属する。ボスニア・ヘルツェゴビナ博物館( National Museum of Bosnia and Herzegovina )に所蔵されている。 アンダルス時代以降のキリスト教が統治する土地で作られたとされ、レコンキスタの後はセファルディム系のユダヤ人に持ち出され、16世紀にはイタリアに存在した[1]。1894年にユダヤ人コーエン家からサラエヴォ博物館に売却された。オーストリア=ハンガリー帝国治下のウィーンに送られて再装丁・研究されたことで広く存在が知られた。 サラエヴォ博物館の蔵書となったのち、第二次世界大戦中はナチス・ドイツによる没収の危機にさらされ、カラメーメ ドビッツ、ペトロビッツ博士などによって秘匿保護された。 なかでも、ムスリムの学者であるデルヴィシュ・コルクトが命がけで守り、ブジャラスニカ山Mt. Bjelašnicaのモスクの中に戦後まで隠された[1][2]。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で博物館が攻撃された際に所在が不明となり、のちに発見された。ユダヤ教文書をムスリムが守ったという逸話は、「ニューヨーク・タイムズ」の記事にもなった[3][4]。 目次 1 註 2 出典・参考文献 3 関連項目 4

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紙本墨書南番文字 – Wikipedia

紙本墨書南番文字1217 AD 紙本墨書南番文字(原本) 紙本墨書南番文字(しほんぼくしょなんばんもじ)とは、1217年に南宋の泉州で書かれ、日本人僧の慶政によって日本に持ち帰られた、ペルシア文字の詩句が書かれた文書である。国の重要文化財(美術品)に指定されている。日本に現存するペルシア語の文書としては最古[注釈 1]のものである。 ここに書かれた3つの詩はともに、イランの著名な詩人の作である。第一文前半は、ファフルッディーン・アサド・グルガーニーの叙事詩『ヴィースとラーミーン』、第一文後半は、フェルドウスィーの叙事詩『シャー・ナーメ』、第二文は、ラシードゥッディーンの『集史 』からの引用である。 第二文の詩の出典は、2020年まで不明であった。文字の解読が困難であり、研究者たちが試行錯誤し、様々な解釈を行なっていた。しかし現在は、3つの詩全ての出典が明らかとなった [4]。 第二文の詩は、『シャー・ナーメ』に登場するイランの神話上の人物イーラジが、父 フェリドゥーンに永遠の悲しい別れを告げる場面を語っている。これらは、水夫たちが船旅の際に詠み合っていたとされる有名な詩である。 7センチメートル、長辺50.0センチメートルの長方形の料紙に、ペルシア語の文章が、長辺を横にした横書きと、短辺を横にした横書きで、それぞれ4行ずつ、毛筆・墨汁で書かれており、さらに、慶政の自筆による漢文の詞書(識語)が、短辺を横にした縦書きで付け加えられている。書体は、当時最も一般的だったナスフ体である。 長辺を横にした横書きの4行(第1文)は、前半2行がファフルッディーン・アサド・グルガーニー(英語版)の叙事詩『ヴィースとラーミーン』からの引用、後半2行がフェルドウスィーの叙事詩『シャー・ナーメ』からの引用であることが判明しているが、短辺を横にした横書きの4行(第2文)の出典は、明確ではなかった。 料紙の寸法は鎌倉期の文書としては平均的なものであるが、和紙か宋紙かは不明である。 此是南番〔ママ〕文字也」南無釋迦如來」南無阿彌陀佛」也、兩三人到來」船上望書之、尓時大宋嘉定」十年丁丑於泉洲〔ママ〕」記之、南番〔ママ〕三寶名」ハフツタラ ホタラム ヒク 爲送遣本朝弁和尚禪菴、令書之、彼和尚」殊芳印度之風故也、砂門〔ママ〕慶政謹記之 慶政の識語 識語によれば、この文書は、慶政が、渡宋中の南宋嘉定10年(1217年)、泉州の船上において3人の異国人と出会い、彼らに「南番文字」で「南無釈迦如来

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