Month: March 2020

大正自由教育運動 – Wikipedia

大正自由教育運動(たいしょうじゆうきょういくうんどう)とは、19世紀末期から20世紀初期にかけて欧米で活発化していた新教育運動が、日本にも輸入され、1920年代から1930年代前半にかけて起こった運動。別名を教育改造運動・新教育運動という。 それまでの画一的で型にはめたような教育のスタイルから、子どもの関心や感動を中心に、より自由で生き生きとした教育体験の創造を目指そうとする運動が、この大正時代に、折からの大正デモクラシーの風潮を追い風にして広まった。 19世紀までの教師教授者中心の注入主義の教育を旧教育と呼び、運動支持者の始めた子女・子ども中心主義の教育を新教育と呼んだ。大正初期から昭和初期にかけて、新しい教育の理想を掲げて新教育の学校の新設が相次いだ。戦間期の国内の状況を反映し、現在でもその斬新さは驚異的である。 この大正デモクラシーの時代に始まったものに、ほかに、鈴木三重吉らの『赤い鳥』、ドルトンプラン、生活綴方教育などがあり、その運動の絶頂期には、八大教育主張と銘打って出版社主宰の教育学術講演会も開かれ、当時の教育界のリーダーたちが自らの教育主張を展開した。 成城小学校の例[編集] 1917年に創立した成城小学校 は、文部官僚だった澤柳政太郎が、新教育を施行する実験学校として設置された学校である。個性尊重を前面に打ち出し、1920年代のアメリカの小学校で実施されたドルトン・プランと呼ばれる指導法が日本で初めて導入された。 成城小学校の教育課程は、修身を低学年では実施しなかったこと、英語や数学を低学年から実施したこと、小学4年生以上で特別研究の授業が組み込まれたことに特徴があった。また国語科においては、綴方、読方、書方のほかに、「聴方」という独自の授業があった。 その後、成城小学校を抱える成城学園は幼稚園から旧制高等学校までの一貫教育後に男子学生は基本的に全員が東京帝国大学に進学することになったが、加藤一郎、前田陽一、森雅之、安原喜弘、山口晋平、斎藤真、堀川直義、児玉三夫、柳谷謙介、中路雅弘、中埜肇、矢崎光圀、中野和仁、長瀬英男など当時の東大や京大では「一風変わった学生の集団」として東大など帝国大学に「新しい風」を吹き込んだ。 東京府立第五中学校の例[編集] 府立五中の天体観測の様子 1918年に創立した東京府立第五中学校(現・小石川中等教育学校) は、信州で新教育を実践してきた新進気鋭の自由主義教育者、伊藤長七を校長に迎え、官立学校でありながら、軍人や官僚の養成を主とせず、生徒の独創的な自己活動を最大限に尊重することを打ち出した。 画一主義の教育を排し、課外活動を教育の中心に据えたことに特徴があった。「立志・開拓・創作」の精神を掲げ、校内には、当時としては最高設備の化学実験室や、本格的な天体観測や気象観測を行う観測所が設けられた。授業は机上の一斉講義ではなく、生徒が自ら行う実験実習が主体とされた。伊藤長七の提案で創設された「転地修養隊」は、都会に暮らす生徒が、農村で人間生活を味わい、農作物の尊さを学ぶという、当時としては画期的な行事で、現在の農村体験の原型である。 自由と感動、独創性を披露する場として、中等教育機関としては初めて、対外に成果を発表する創作展示会(現・創作展)を開催した。今日、全国の中学校や高等学校で行われる文化祭の先駆けとなった。 また、男子しかいなかった旧制中学校に疑問を抱いていた伊藤は「男女共教」を説き、漢文教師として女性の栗山津彌を迎え入れた。これが、日本の中学校における初の女性教師であった。標準服には、自由と紳士の象徴として、中学で初めて背広とネクタイが採用された。 文化学院の例[編集] 1921年4月25日創立 西村伊作、与謝野晶子、与謝野鉄幹、石井柏亭らによって創設され、当時の中学校令や高等女学校令に縛られず、各種学校として認可を取り、一流人たちによる芸術・学問の教育を行う快活で自由な学校を目指して開校。日本で初めての男女平等教育を実施、共学を実現した。日本文化のみならず、キリスト教精神や西洋文化的教育が盛んに行われ、教員に多くの西洋人を招いた。創立当時から制服はなく、和服より洋服を推奨し、当時では珍しく、生徒のほとんどが洋服を着ていた。しかし、この教育が後に戦時体制となった国により、弾圧を受けることになった。 新設された学校[編集]

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底倉温泉 – Wikipedia

歌川広重画 浮世絵「箱根七湯図絵」より「底倉」。1852年 三代目歌川豊国・初代歌川広重画 浮世絵「双筆七湯巡り」より「底倉」。1854年 底倉温泉(そこくらおんせん)は、神奈川県足柄下郡箱根町(旧相模国)にある温泉。宮ノ下温泉の西隣に位置し、八千代橋から蛇骨川に沿った深い谷にある蛇骨湧泉群を源泉とする。中世の昔から隠れ湯として知られ、江戸時代より痔疾などに効能がある[1] 名湯として箱根七湯のひとつに数えられた。昭和の頃までは3軒ほどの温泉宿があったが、2014年現在は1軒だけである。 江戸時代後期に書かれた『底倉記』によると、脇屋義助の孫・新田義則(義隆とも)が南朝再興のため挙兵し敗れた際に、底倉の木賀彦六左衛門を頼って潜伏中、応永10年(1403年)に打ち取られたとあり、当時より温泉があったことが伝えられている[2][3]。『相州文書』によると、天文14年(1545年)には、湯治中に村人を使役に使うことを禁じるお触れ(湯治禁制)が後北条氏より出されている[4]。また、天正18年(1590年)の秀吉の小田原攻めの際には夜営地となり、伊達政宗が幽閉されたと言われている[5][6]。 文化年間1812年の『箱根七湯の枝折』には、蛇骨沢湧泉群では沸騰点に近い弱食塩泉が大量に湧出し、口に含むと塩気がするとある[7]。天保13年(1842年)の「箱根七湯図」には、湯宿として、 萬屋(孫左衛門)、梅屋(又左衛門)、蔦屋(平左衛門)、仙石屋(丈助)の4軒が挙げられている[8]。宿は蛇骨川に沿って八千代橋方向から萬屋、梅屋、蔦屋、仙石屋と並び、1881年(明治14年)の大火以前はいずれも茅葺だった。 1893年(明治26年)に再び大火に見舞われたが、梅屋、蔦屋、仙石屋の3軒が復興し、いずれも湯滝、高楼付きの建物に建てなおした[9]。しかし、関東大震災により、3軒とも倒壊した[10]。その後再建され、第二次大戦中は疎開先として使われた。戦後、蔦屋、梅屋、仙石屋が営業を再開したが、その後いずれも閉館した(蔦屋は2006年に別の経営者によって「つたや」として屋号が引き継がれた)。 蔦屋と梅屋[編集] 「蔦屋」は、平左衛門を主人とした江戸時代から続く旅館であったが、1890年(明治23年)に横浜真金町の酒商・沢田武治(武司、武とも)に売却された[11]。元飯野藩藩士の沢田は、戊辰戦争の戦後処理のため切腹を命じられた家老の介錯人を藩主の保科正益の命により務めた人物で(息子の嫁は正益の娘)、妻のきくを女将に旅館業を営む傍ら、医療のなかった底倉に医師を呼び、富士屋ホテルの山口仙之助とともに函嶺(かんれい)医院を開設した[11](2014年現在、この医院の大正時代の建物を利用した日帰り湯がある[12])。 武司の息子・鋓義は高等師範を出て博物学の教師となり、宿の裏山に数千坪に渡り高山植物を植え、「高山園」として公開したほか[13]、旧蹟を後世に伝えるため、箱根の諸所に石碑を建てた[14]。また、当時としては珍しく、小学校教師を招いて女中たちに教育を授けたり、30ページもある温泉案内の冊子を客用に用意したりした[15]。その息子・沢田武太郎(1896-1938年)は植物学研究者となり、シーボルトが命名したオタクサがお滝さんから来ていると指摘した人物として知られる[16]。武太郎の植物分類学を主体とした蔵書は「沢田文庫」として神奈川県立博物館に所蔵されている[17]。沢田家による蔦屋は昭和末期まで続いたが、その後は経営者が変わっている。 「梅屋」は底倉を代表する老舗の人気旅館として栄えたが、1962年に閉館した。主人の鈴木牧太郎は、明治中期には強羅一帯の土地も所有していた[18]。明治末期に書かれた本によると、主人の方針で、視察のため仲居を他の旅館に投宿させて女中学の勉強をさせていたという[15]。1888年(明治21年)には森有礼が家族と[19]、1901年(明治34年)には、谷崎潤一郎が修学旅行で宿泊している[20]。ほかにも伊藤博文、近松秋江など多くの著名人に愛された。 蛇骨川 – 温泉から析出した白色の無定形珪酸でできた石が蛇の骨のようであることからこの名がついた。川沿いに遊歩道があり、秋は紅葉が楽しめる。 太閤石風呂 – 秀吉の小田原攻めの際、将兵が利用したと伝えられる石風呂。天然の洞窟で、蒸気浴だったとされる[21]。現在は川の対岸から石碑の見学のみ[22]。この故事にちなんで毎年夏に「太閤ひょうたん祭り」が開催され、底倉の太閤石風呂の前で神事をしたのち、宮ノ下の会場で芸能人のショーなどが行なわれる[23]。 新田塚

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縁起寺 – Wikipedia

この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2020年5月) この記事の出典や参考文献は、一次資料や記事主題の関係者による情報源に頼っています。信頼できる第三者情報源とされる出典の追加が求められています。出典検索?: “縁起寺” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年5月) この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “縁起寺” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年7月) 縁起寺(えんぎじ)

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四正勤 – Wikipedia

四正勤     まだ生じないもの 生じたもの   不善 起こさないよう勤める 遺棄する 善 起こすように勤める 維持する       四正勤(ししょうごん、巴: cattāro sammappadhānā, チャッターロ・サンマッパダーナー)とは、仏教における修行内容の1つ。「三十七道品」の中の第2の行法で、4種の正しい努力のこと[1][2]。「四精勤」(ししょうごん)[3]、「四正断」(ししょうだん)[4][1]、「四意断」(しいだん)[1]とも訳される。 四正勤の内容は以下の通り[1][2][3]。

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真・三國無双7 – Wikipedia

『真・三國無双7』(しん・さんごくむそう7)は、コーエーテクモゲームスより2013年2月28日に発売されたPlayStation 3用ゲームソフト。真・三國無双シリーズの第7作。日本国外版タイトルは『Dynasty Warriors 8』。 キャッチコピーは「無双のすべてを超える──アルティメット一騎当千。」。 ナンバリングタイトルとしては、2年ぶりの発売となる。過去作のシステムをベースにしたシステムが各所に幾つか盛り込まれている。 なお、BGMは真・三國無双シリーズ最多の100曲以上となっている[1]。 基本システム・主な変更点[編集] 基本操作体系 チャージ攻撃アクションと、2武器を随時切り替えるヴァリアブル攻撃は前作『6』のものをそのまま踏襲しているが、本作ではジャンプチャージが復活。 無双乱舞 空中無双乱舞と地上無双乱舞2がすべての武将に用意された。レベルアップにより使用可能になる。また、『6』と違い味方が吹き飛ばなくなった。 「覚醒」状態中に使用すると、『真・三國無双5』までのようにゲージ量分の時間まで攻撃し続けられる「覚醒乱舞」になる。それを一定数以上ヒットさせることで超強力な「真・覚醒乱舞」に進化する。 覚醒 プレイヤーの攻撃でのみ増える専用の「覚醒ゲージ」を満タンにしL3ボタンを押すと発動。 無双ゲージが最大まで回復し、一定時間能力と攻撃スピードが飛躍的に上昇。 得意武器と天稟 Ex攻撃を使える得意武器が本作では全キャラクター一人に一つずつ用意され、武器種の重複がなくなった。 『素早さ』『力』ステータスが廃止され、武将毎の武器適性は複数武器で共通する天稟アクションの「軽功」「旋風」「無影脚」「転身」それぞれに直接対応するものとなった。 武器適性が低くてもモーションは鈍化しなくなったが、代わりに適性の高さに応じて攻撃力が上がるようになった。また性別制限も『6empires』同様に撤廃され、全所持武器を全武将が装備できる。

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壁井ユカコ – Wikipedia

壁井 ユカコ(かべい ゆかこ、5月18日 -)[1]は、日本の小説家。女性。東京都在住。長野県出身。学習院大学経済学部経営学科卒業[2]。 1998年、『子供たちは深淵を見た』で第二回ソノラマ文庫大賞最終選考に残る。 2001年、『カスタム・チャイルド』で第2回電撃hp短編小説賞最終選考に残る。 2003年、第9回電撃ゲーム小説大賞(現電撃小説大賞)受賞作『キーリ 死者たちは荒野に眠る』でデビュー[2]。 2007年、デビュー以来書いてきた電撃文庫以外にも執筆の場を増やし、少女向けレーベル・ルルル文庫でも執筆開始。 作品リスト[編集] キーリ[編集] キーリ 死者たちは荒野に眠る(2003年2月 電撃文庫) キーリII 砂の上の白い航跡(2003年5月 電撃文庫) キーリIII 惑星へ往く囚人たち(2003年8月 電撃文庫)

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トコハナ – Wikipedia

「トコハナ」は、やなぎなぎの楽曲。やなぎが作詞、齋藤真也が作曲を手掛けた。やなぎの8枚目のシングルとして2014年6月4日にNBCユニバーサルから発売された。 背景・音楽性[編集] 本曲はテレビアニメ『ブラック・ブレット』のエンディングテーマに起用された。ヘビィでアグレッシブな曲で、冒頭にはコーラスが取り入れられている。 制作は原作を一通り読んだ上で行われたが、やなぎはその中で蓮の花に関するエピソードが気に入ったためこれを歌詞に反映させたという。なお本作ではやなぎ自身も斎藤に様々な注文をしたという。そしてレコーディングではサビに掴むものを感じたため、心に引っ掛かる感じが出るまで撮り直しを行ったという。 シングルリリース[編集] 2014年6月4日にNBCユニバーサルから発売された。やなぎのシングルとしては前作「三つ葉の結びめ」から4か月ぶりのリリースとなる。 販売形態は初回限定盤(GNCA-0342)と通常盤(GNCA-0343)の2種リリースで、初回限定盤には本曲のPVおよび2014年2月22日に東京国際フォーラムにて行われた「やなぎなぎ1st album発売記念ワンマンライブ「エウアル」アンコールツアー」のダイジェスト映像を収録したDVDが同梱されている。 2曲目「忘れない為に」は、ストリングスとピアノが活躍するバラードソング。同アニメ第4話のエンディングテーマとして使用された。 3曲目「クロスロード」は、アイルランド民謡「Londonderry Air」のカバー曲であり、Z会CMアニメ『クロスロード』の主題歌。やなぎが同作品の主題歌に起用されたのは実は監督の新海誠がやなぎを指名したことによる。新海はレコーディング時やなぎに「Z会の講師のような見守っているような感じで歌ってほしい」とアドバイスしたという。なおやなぎは元々新海のファンであるため、オファーを受けた際快く引き受けたという。ちなみに当曲自体はCMやTwitterなどで話題になっており、特にTwitterに至っては1000回以上ツイートされる程である。 シングル収録内容[編集] CDシングル[1] # タイトル 作詞 作曲 編曲 時間 1.

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ひがもえる – Wikipedia

この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “ひがもえる” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年2月) ひが もえる(本名:比嘉 崇(ひが たかし)、1974年11月4日[1] – )は、日本のお笑い芸人。沖縄国際大学中退[1]。所属事務所はソーレアリア[1]。沖縄県出身[1]。 興南高校の同級生である小波津正光(まーちゃん)と[2]、1994年にお笑いコンビ「ぽってかすー」(沖縄弁で間抜けの意)を結成[3](現在は活動休止中[1])。沖縄時代はFECオフィスに所属。コンビではシーサー比嘉の名前を使用。有吉弘行や小籔千豊と同期。 沖縄のローカルタレントとして活動していたが、1999年に東京進出[4]、ソーレアリアに所属。上京後に先輩芸人のトークライブ「アニメ会」を観たことをきっかけにアニメにハマり、同人誌制作まで始めるほどになる。2008年に相方の小波津が沖縄に戻り再びローカルタレントに転向したが、秋葉原通いを続けたいがために東京に居残り続けており、そのためにコンビは活動休止状態にある。ピン芸人として、主にライブやアニメ、アイドル関連の仕事をこなしている。 身長176cm[1]、体重80kg[1]。趣味はアニメとギャルゲー[3]。同人誌製作もしている[3]。SKE48のファン。 アニメ芸人が集まって結成されたトークユニット「アニメ会」のメンバー。 滑舌が悪く、かなりの率で滑舌の悪さについていじられる。

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