Month: April 2020

マイク・ロンゴ – Wikipedia

マイク・ロンゴ (Mike Longo) として知られた、マイケル・ジョセフ・ロンゴ(Michael Josef Longo、1937年3月19日 – 2020年3月22日[1])は、アメリカ合衆国のジャズ・ピアニスト、作曲家、著作家。 生い立ち[編集] ロンゴは、オハイオ州シンシナティで、音楽をたしなむ両親のもとに生まれた[2]。父はベースを演奏し、母は教会でオルガンを弾いており、彼は幼いうちから音楽の手ほどきを受けた。後年マイクは、シュガー・チリ・ロビンソン(英語版)がブギウギ・ピアノ(英語版)を演奏するのを見たときのことを、「彼を初めて見て、ノックアウトされたよ。そのとき3歳か4歳だったはずだけど。彼は、カウント・ベイシーのショーの後に演奏していたんで、すぐに家に帰って、ブギウギのベースラインを真似し始めたんだ。」と語っていた[3]。彼の両親は、正式な音楽教育を受けさせるために、4歳でシンシナティ音楽院(英語版)に入学させた。その後、程なくしてフロリダ州フォートローダーデールへ移り住んだ[2]。 ロンゴのキャリアは、15歳で父親のバンドで演奏することから始まったが、やがて高校に音楽の指導に来ていたキャノンボール・アダレイに見出されて、共演するようになった[4]。アダレイとの関係は、アダレイがバンドリーダーとして活動するようになる前から始まっていた。ロンゴの父は、当時としては例外的なことに、黒人である無名時代のアダレイを、自身のバンドに加えていた[2]。アダレイは、自分が属していた教会における演奏にピアニストが必要で、ロンゴに近づいたのであった。当時、町では人種隔離が広くおこなわれており、白人であるロンゴが、黒人教会で演奏していたというのは尋常なことではなかった。やがて1950年代に、アダレイとレコーディングをするようになったが、その時点ではアダレイと一緒にクラブに出向くにはまだ若すぎた。ロンゴは、後に映画『ポーキーズ』に描かれたストリップ小屋のモデルとなった「Porky’s Hideaway,」で演奏していた[2][3]。その後ロンゴは、ウェスタン・ケンタッキー大学(英語版)でクラシック音楽のピアノ演奏を学び、1959年に学士 (BA) を得て卒業した[2]。 大学卒業後、ロンゴはニューヨークへ移り、1960年代に入ると、ロンゴはマイク・ロンゴ・トリオ (Mike Longo Trio) を結成し、その後42年間活動し続けた。また、一時期にはナンシー・ウィルソンの伴奏者を務めていた[5]。。 ディジー・ガレスピーは、ニューヨークのホテル・メトロポール(英語版)でロンゴの演奏を聴いていた。「下の階でレッド・アレン(英語版)と演奏していたら、そのとき上の階でやってたのがディジーのバンドだった。だから、彼が休憩で外に出たいときは、階段を降りてきて俺たちが演奏しているとこを通り抜けなきゃならなかったわけさ。通りの反対側にカッパー・レール

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北花田町 – Wikipedia

北花田町(きたはなだちょう)は、大阪府堺市北区にある地名。2020年3月現在、現行行政地名は北花田町一丁から北花田町四丁。住居表示は未実施[5]。 堺市の北東部に位置する。東は松原市天美我堂、南は新堀町、船堂町、西は東浅香山町、宮本町、北は常磐町に接する。 河川[編集] 地名の由来[編集] 中世から近世にかけて、灯油などの原料に使われるアブラナ、エゴマの栽培がおこなわれ、当地周辺は、開花時には一面の花盛りになったことから、「花田」と呼ばれるようになったという[6]。 沿革[編集] 本節では関連する地名についても記述する。 北花田(1889年 – 1939年)[編集] 北花田町(1939年 -)[編集] 1939年(昭和14年) – 堺市五箇荘村大字北花田が改称して成立。同年、一部が宮本町となる。 1965年(昭和40年) – 一部を東浅香山町1 – 4丁・大豆塚町1

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日本都市ファンド投資法人 – Wikipedia

日本都市ファンド投資法人(にほんとしファンドとうしほうじん)は、東京都千代田区にある投資法人である[1]。東証上場(J-REIT)。旧日本リテールファンド投資法人。 資産運用会社は、三菱商事とUBS Asset Management AGとの共同出資の「三菱商事・ユービーエス・リアルティ」である。 2002年3月12日に、初の商業施設特化型リート「日本リテールファンド投資法人」として上場した。 当初は、三菱商事との関連の深いイオングループのショッピングセンターを中心に資産運用を行い[2]、それがイオングループの資産のオフバランス化などの効率的な資産運用や資金調達につながり、急速な店舗展開を後押しする形となっていた。現在はイオンショッピングセンターやイオンモール(特にイオンと三菱商事の共同出資事業である旧 ダイヤモンドシティの店舗)の一部の資産を保有・運用している。単なるイオングループの支援を目的と見られることを避けるため、あえて競合するイトーヨーカ堂系の物件も取得している。しかし、それらは系列のダイヤモンドシティに委託していた(イオンモールとの合併決定まで)。かつ、それ以外の投資傾向を見ても、過去に存在した髙島屋のグループ企業と共同運営していた福岡市の物件などの例外はあるものの、ならファミリー(近鉄百貨店とダイヤモンドシティとの合弁、現在は近鉄百貨店が営業を継続するも資本的には撤退)やイオンタウンなどを含め圧倒的にイオングループ向けの比率が高かったため、リスク分散の面でこの点が問題視されることもあった。 2021年3月1日に、MCUBS MidCity投資法人を吸収合併したことで資産規模は1兆円を超えた。また、合併に伴い「日本都市ファンド投資法人」に商号変更した。 主要物件[編集] 旧日本リテールファンド投資法人保有物件 旧MCUBS MidCity投資法人保有物件 日本都市ファンド投資法人に改称後 売却済[編集] ^ “JRFの特徴”. Mitsubishi Corp.

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八太舟三 – Wikipedia

八太 舟三(はった しゅうぞう 1886年(明治19年)12月3日 – 1934年(昭和9年)1月30日)は、日本の思想家、無政府主義者。三重県津市分部町生まれ。 戦前の日本で展開されていたアナキズム思想を知るうえでの重要人物であり、また、労働組合に重きを置くアナルコ・サンディカリズムを批判し、純正アナキズムを主張、大杉栄亡きあとのアナキスト界に影響力を持った。 若い頃はキリスト教の牧師であった。 七人兄弟の末っ子として生まれる。神戸商業学校(現兵庫県立神戸商業高等学校)で学ぶも、家からの仕送りが途絶えたため三年で中退。中退後、上京し新聞配達をしながら苦学した。その後間もなく船員となったが台湾に脱船。そこにいた姉夫婦の世話になり台北郵便局に勤める。そして、八太は熱心なクリスチャンになった。 ところが、局長と喧嘩をして郵便局を退職。東京へ向かい1905年に明治学院普通部に編入学、その後高等部を経て神学部に入学した。しかし、神学部二年の時に教師と衝突して中退した。 その後、キリスト教の伝道をしながら神戸神学校を卒業。卒業後も引き続いて日本各地で伝道をするも、やがてキリスト教に幻滅を感じ、社会革命思想への関心が芽生えるようになった。クリスチャンからアナーキストに転向を果たした八太は、関東大震災のおりに殺害された大杉栄の追悼集会を広島の教会で警察の包囲下において開く。しかしこれが町民の怒りを買い、町会からは追い出され、教会からも追われた。妻からはキリスト教の伝道に戻るよう諭されたが、八太は「自分はアナキズムの宣伝者として一生を終わる。それが不服なら別れるほかない」と言って妻と離別した。 1924年9月、広島から東京へ再び戻る。そこで八太は黒色青年連盟の結成に奔走した。次いで全国労働組合自由連合会を組織した。また、再婚し子供をもうけている。 その後アナキズム運動を続けるも、1934年1月30日に死去。48歳没。 マルクス主義全般を強く批判し、特に唯物史観や弁証法を強く批判した。八太はマルクス主義的な理屈では無産者は解放されないと主張した。無産者の解放は茶碗と箸の持ち方をわかるレベルであれば誰にでも理解できるものでなければならないとした。 ソビエト連邦について、労働者は何も解放されておらず、ロシア帝国時代と全く変わっていないと主張。ソ連を国家資本主義と定義し、皇帝のかわりに共産党が横暴な支配者となっているだけとした。 レーニン主義的な前衛党概念など、革命の際に指導的役割を果たすとされる組織を否定し、大衆の自然発生性を重視した。誰にも指導されないで行う大衆による革命こそが正しいとした。この点から、八太はボリシェヴィキが主導したロシア革命を「一大詐欺」と呼んだ。 参考文献[編集] 八太舟三著作集1 純正無政府主義 黒色戦線社、1970年 八太舟三と日本のアナキズム ジョン・クランプ(John Crump)著、碧川多衣子訳、渡辺治解説、青木書店、1996年

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と畜場法 – Wikipedia

この記事は特に記述がない限り、日本国内の法令について解説しています。また最新の法令改正を反映していない場合があります。ご自身が現実に遭遇した事件については法律関連の専門家にご相談ください。免責事項もお読みください。 と畜場法(とちくじょうほう、昭和28年8月1日法律第104号)は、と畜場の経営及び食用に供するために行う獣畜の処理の適正の確保のために公衆衛生の見地から必要な規制その他の措置を講じ、もつて国民の健康の保護を図ることを目的とする(第1条)日本の法律である。通称は屠場法(とじょうほう)。 1906年(明治39年)に制定された「屠場法」に代わって制定された。 この記事において、と畜場法の条文は単に「第〇条」と表す。 「と畜場法」の「と」は、漢字では「屠」であるが、「屠」は当用漢字でなかったため、ひらがなで表記された(漢字制限)。 規制の対象となる獣畜は、牛、馬、豚、めん羊及び山羊である(第3条)。この法律により、と畜場以外の場所での獣畜のと殺・解体は規制される(第13条)。これは、獣畜からの感染症の蔓延を防止するための規制であり、例えば、自らの所有地でかつ自ら所有する牛であっても、許可なく食用のためにと殺・解体することは禁じられている。 と畜場の種類[編集] 「一般と畜場」- 通例として、牛・馬(生後一年以上)または一日に十頭を超える獣畜をと殺・解体する規模のもの。なお、「通例として」というのは平均ではなく、通常の場合においてという意味とされる[1]。 「簡易と畜場」- 一般と畜場以外のもの(一日に十頭以下の獣畜をと殺・解体する規模もの)。豚・羊を専用にと殺・解体すると畜場である。 なお、「簡易と畜場」は、従前「羊豚専用簡易屠場」として許可[2]されていたものを、本法の制定により法的に明確にされたものである。 設置の許可[編集] と畜場の設置には、都道府県知事の許可が必要である(第4条)。このとき、人家の密集している場所や飲料水が汚染される場所など公衆衛生上の危害を生ずるおそれがある場合、許可は与えられない(第5条第1項)。なお、と畜場の規模に応じて、一日当たりの処理頭数の上限が決められる(第5条第2項)。 また、都道府県知事は、法律に違反した場合などには、許可を取り消すことができる(第18条)。 と畜場の使用[編集] と畜場は、正当な理由なく、農場からの獣畜の搬入を拒むことはできない。また、正当な理由なく、と殺・解体の依頼を断ることもできない(第11条)。また、と畜場が生産者に対して求める代金である、と畜場使用料やと殺解体手数料については、都道府県知事の認可が必要である(第12条)。 これらは、と畜場が単なる営業の施設ではなく、公共の必要性があって設置される施設であるため、設けられた規定である。 衛生管理責任者[編集] と畜場は、食肉を生産する食品工場であり、衛生的な管理が求められる(第6条)。そのため、と畜場における衛生管理の責任者として、と畜場ごとに、衛生管理責任者を置かなければならない(第7条)。この資格には、獣医師、または畜産学科を卒業した者でなければならない。

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脳神経倫理 – Wikipedia

脳神経倫理学(のうしんけいりんりがく)または神経倫理学(しんけいりんりがく)とは、ニューロエシックス (Neuroethics) に対応する訳語である。この言葉は、二つの異なる意味で用いられる。先に紹介する意味の方がより一般的である。 神経科学の倫理 (ethics of neuroscience) これは神経科学についての倫理学的考察である。環境倫理学や医療倫理学などと並ぶ応用倫理学の一分野として、神経科学の研究・発展と関わる道義的・倫理的問題を考察する。とりわけ生命倫理との関連性が高い分野で、神経科学(脳科学。以下、神経科学と統一)の急速な発展に伴い、神経科学に対する倫理的考察の必要性のもと誕生した比較的新しい学問分野である。2003年に欧米で表立って議論が始まり、その流れを受け、2005年からは日本においても議論が活発に展開されている。この分野では神経科学と関わる道徳的な問題、例えば動物実験の問題や、認知機能を高める薬物の使用の問題、自由意志の有無と法的な責任能力の有無とに関わる問題、などが話し合われる。これは従来の生命倫理の議論の延長線上にあり、これまでの生命倫理の議論が少なからず適応可能であるとされる。 倫理の神経科学 (neuroscience of ethics) こちらは倫理メカニズムを、神経科学的に探求する行為を意味する。神経科学的手法を用いて、脳に存在するとされる倫理的メカニズムを自然科学的に明らかにしようとする試みである。神経科学の一分野として、道徳的な問題に対する判断が脳内でどのようにして実現されているのか、という問題が研究の対象となる。たとえばトロッコ問題について判断を行っている人の脳をfMRIで観察し、その時の脳内での活動領域を調べる、といったことが行われている。倫理メカニズムが明らかになった後、従来の倫理的議論・価値観に変更を迫る可能性があることも指摘されている。 参考文献[編集] N. Levy(2007)”Neuroethics” Cambridge University Press ISBN

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南條史生 – Wikipedia

南條 史生(なんじょう ふみお、1949年4月21日[1] – )は、日本の美術評論家、キュレーター。東京都出身。森美術館特別顧問。 目次 1 経歴 2 著書 3 脚注 4 参考文献 5 関連項目 6 外部リンク 1949年、東京都生まれ。慶應義塾普通部[2]、慶應義塾高等学校[3]を経て、1972年に慶應義塾大学経済学部を卒業[4]。三井銀行に入行し、1年後に退職[5]。1976年、慶應義塾大学文学部哲学科美学美術史学専攻卒業[4][5]。 国際交流基金勤務(1978年~1986年)、ICAナゴヤ・ディレクター(1986年~1990年)、ナンジョウアンドアソシエイツ(現:エヌ・アンド・エー株式会社)(1990年~2002年)を経て、2002年4月森美術館副館長。2006年11月同館長就任[6](2019年12月末で特別顧問に退く)。また建築の展覧会、医学と芸術などの独自のヴィジョンを持った展覧会に興味を持つ。

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完全方陣 – Wikipedia

完全方陣(かんぜんほうじん)または汎魔方陣(はんまほうじん)[1]・汎対角線方陣(はんたいかくせんほうじん)・超魔方陣(ちょうまほうじん)[2]とは、条件を追加した魔方陣の一種である。 通常の魔方陣は、縦列・横列及び対角線上の数の和が一定の値(定和)となる。完全方陣はそれに加え、対角線を平行移動させた列(以下「汎対角線」と呼ぶ)の和も定和になる。 0 1 14 4 15 8 11 5 10 13 2 16 3 12 7 9 6 移動

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