Month: August 2020

リーチマイケル – Wikipedia

この名前は、日本の人名慣習に従い、名前を姓名順で表記しています。姓はリーチ、名はマイケルです。 リーチ マイケル(LEITCH Michael、1988年10月7日 – )は、ニュージーランド、クライストチャーチ出身のラグビーユニオン選手。2013年に日本に帰化した。JAPAN RUGBY LEAGUE ONEの東芝ブレイブルーパス東京に所属。旧表記「マイケル・リーチ」。 2014年から2021年まで日本代表のキャプテンを務め、ラグビーワールドカップ2015・2019での日本代表の躍進に貢献した。 プロフィール[編集] 15歳の時にクライストチャーチのセント・ビーズ・カレッジから留学生として来日し、札幌山の手高校に入学[1]。同校卒業後は、東海大学体育学部へ進学し東海大学体育会ラグビーフットボール部に所属。2008年に開催されたラグビージュニア世界選手権に日本代表として出場。同年11月16日、アメリカ戦で日本代表として初キャップを獲得。東海大学3年時に第46回全国大学ラグビーフットボール選手権大会[2]で準優勝。大学4年の大学選手権でもベスト4をそれぞれ経験。東海大学卒業後、チームメイトの三上正貴と共に東芝ブレイブルーパスに加入。同年開催のワールドカップの日本代表に選出され、予選プール全4試合、フランカーとして出場。 2013年、スーパーラグビーの強豪チーフスに期限付き移籍すると発表したが[3]、同年2月に腕を骨折していることが判明[4]したため、後にチーフスとの契約を解除された。加えて、同年6月1日に行われたフィジー戦で足首を脱臼骨折[5]した。同年7月25日に法務省から帰化の認可が下りた[6]ことから、今後は「日本人プレーヤー」として活動することが可能になった。それに伴い登録表記をそれまでの「マイケル・リーチ」から現在の「リーチ マイケル」に変更。またこの年東芝で主将を務める。 2014年4月、エディー・ジョーンズヘッドコーチから日本代表キャプテンに指名された。アンドリュー・マコーミックに続き2人目のNZ出身キャプテンに就任。 2015年、チーフスに再加入[7]。また同年開催のワールドカップの代表に選出された[8]。ラグビーの傍ら7月1日にはニュージーランドスタイルのカフェ「Cafe+64」をオープン[9][10]、名前は出身国ニュージーランドの国際電話の国番号に由来。 2019年8月、ラグビーワールドカップ2019の日本代表に選出された[11]。10月、ラグビーワールドカップ日本代表のキャプテンとして[12]、チームを史上初のベスト8に導いた。 11月3日、東京都府中市より市民栄誉賞および市民スポーツ特別栄誉賞を贈られる。 2022年3月13日、JAPAN RUGBY

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復古カトリック教会 – Wikipedia

この記事は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。そのため、中立的でない偏った観点から記事が構成されているおそれがあり、場合によっては記事の修正が必要です。議論はノートを参照してください。(2014年3月) ドイツの復古カトリック教会の聖堂 復古カトリック教会(ふっこカトリックきょうかい、ドイツ語: Altkatholische Kirche, 英語: Old Catholic Church)は、1870年の第1バチカン公会議で決定された教皇不可謬説などに反対し、ローマ・カトリック教会から分離して成立したキリスト教の教派。おもに1870年代に、ローマ・カトリック教会から離れた、ドイツ語圏のカトリック教会から構成された[1]。 オランダ・南ドイツ・スイス・オーストリアなど中欧圏を中心に信者がいるほか、アメリカなどにも教会がある。古カトリック教会とも。また同教会の運動・主張を指す場合、復古カトリック主義とも呼称される。初期の著名な指導者にドイツの神学者ヨハン・イグナツ・フォン・デリンガーがいる[2]。 「オールド・カトリック(Old Catholic)」の語は、オランダのユトレヒトでローマ司教(教皇)の教導権下に無いカトリック教会(Old Catholic Archbishop of Utrecht) を表すため、1853年最初に使用された[1]。(ユトレヒトでは、18世紀にドミニク・マリー・ヴァルレ(英語版)司教がローマ教皇の承認を受けないまま他の司教を叙階したため、司教らとその支持者はローマ教皇から破門されていた。)その後、ほとんどの学者は1870年からの、復古カトリック教会の運動をこう呼んでいる。 1870年の第1バチカン公会議で宣言された教皇不可謬説を、オーストリア・ドイツ・スイスの多くのカトリックの司教・司祭が拒絶し、ローマ・カトリック教会から離れた。彼らはユトレヒトの独立カトリック教会の支持を得て、後に正式に「ユトレヒト・ユニオン」を結んだ。1873年、教皇不可謬・教皇首位を認めないローマ教皇とは独立の教会組織である復古カトリック教会がコンスタンツにおいて形成された。教皇ピウス9世は同年の回勅で同派につき「教会の基礎を破壊する滅びの子たちである」と非難した[2]。 1908年に復古カトリック教会の司教はイングランドに渡った。教皇レオ13世がイングランド国教会の聖職者按手の使徒継承を無効であると宣言したためにイングランド国教会を去った聖公会の司祭が復古カトリック教会に来るだろうと考えたのである。国教会からの集団的な改宗の流れは起きなかったが、様々なカトリック教会が独立する動きを作った。 沿革・特徴[編集]

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立石憲利 – Wikipedia

立石 憲利(たていし のりとし、1938年3月7日 ‐ )は、日本の民俗学者、岡山県の民話研究家。岡山民俗学会名誉理事長、日本民話の会運営委員、岡山県語りのネットワーク会長。 岡山県津山市(旧久米町)生まれ。2004年久留島武彦文化賞、2007年岡山県文化賞、山陽新聞賞を受賞。 『岡山の伝説』日本文教出版 岡山文庫 1969 『岡山の童うたと遊び』日本文教出版 岡山文庫 1981 『岡山の艶笑譚』日本文教出版 岡山文庫 1983 『砂鉄の村の民話 岡山県美甘村の採訪記録』編著 手帖舎 1985 『息子は帰ってきた 戦争の民話』編著

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槇島城の戦い – Wikipedia

槇島城の戦い(まきしまじょうのたたかい)は、元亀4年(1573年)7月に織田信長と室町幕府の将軍・足利義昭のとの間で行われた戦い。この戦いで義昭が敗れた結果、京都から追放され、室町幕府は事実上滅亡した。 足利義昭と織田信長の対立[編集] 永禄11年(1568年)9月、織田信長に擁されて上洛し、室町幕府の第15代将軍に就任した足利義昭は当初は信長と協調関係にあった。だが、将軍権力の抑制を図る信長の一連の動き(永禄12年(1569年)1月に信長が出した殿中御掟等)により、次第に信長と対立するようになった。 元亀3年(1572年)9月、信長から義昭に異見十七ヶ条が突きつけられ、両者の対立は決定的になった。『信長公記』によれば、この時期には既に義昭が信長に対して反抗する意思を有していたことは、明白になっていたとされている。義昭は浅井長政・朝倉義景・石山本願寺などを扇動して、信長を攻撃しようと画策した(信長包囲網)。 元亀3年(1572年)10月、 武田信玄が上洛のために進軍を開始し(西上作戦)、 三方ヶ原で徳川家康の軍勢を破った(三方ヶ原の戦い)。だが、元亀4年(1573年)1月頃に信玄の体調が悪化し、武田軍の攻勢は停止している。 2月、義昭は信長に対して挙兵したが、石山城・今堅田城の戦いや二条御所の戦い、上京焼き討ちなどで織田軍に追い詰められた。その結果、4月に正親町天皇から講和の勅命が出されると、信長と義昭はこれを受け入れて講和した。 再挙兵までの出来事[編集] 信長はそのまま岐阜城には帰らず、近江の百済寺付近へと向かい、近辺の六角義賢が立てこもっていた鯰江城を攻撃した。信長は佐久間信盛・丹羽長秀・柴田勝家 ・蒲生賢秀に命じて、六角氏を城に追い詰めると、周囲に砦を築いて包囲した。 4月11日、信長は「百済寺が鯰江城を支援している」という情報をもとに、百済寺に放火して全焼させた。そして、その日のうちに帰還して、岐阜城に到着した。 4月12日、武田信玄が信濃の駒場で病死した。信玄の死は伏せられていたが、武田軍は本国の甲斐に退却した。 4月13日、義昭は二条御所を安全でないと考え、自身は内藤貞勝の丹波の城(八木城)に移り、内藤如安を二条御所に入れようと考えた。如安は「軽々しく動くことは怯懦」で義昭の評判を傷つけると意見し、一方で再び信長を敵とするべきではないと進言した。義昭はこの意見を受け入れず、槇島城に移ろうとしたが、如安が説得して取りやめになった。 4月20日、義昭は二条御所普請のため、吉田兼和の領地から人夫を徴収した。このとき、義昭は武田信玄が死去したことを知らなかった。 5月15日、信長は「義昭が再び挙兵した際には瀬田のあたりで道を塞ぐ」と予想し、大軍を湖上輸送するため、大工の岡部又右衛門を棟梁とし、佐和山で大船の建造を開始した。この船は全長30間×幅7間(約54m×約12m)、艪が100挺、船首と船尾に櫓(やぐら)百挺を備えた頑丈な船、という日本史上にも過去に例を見ないほどの巨船であった。この船は京都で返事が起きた際、岐阜から佐和山へ駆けつけ、船で一気に琵琶湖を渡ることにより、約一日分の工程を節約できた。 6月13日、義昭は安芸の毛利輝元に対し、兵糧料を要求した。だが、輝元は信長との関係から支援しなかった。 槇島城の戦いにおける織田信長軍の侵攻経路 7月2日、義昭は二条御所に三淵藤英(細川藤孝の異母兄)や政所執事の伊勢貞興、日野輝資、高倉永相などの昵近公家衆を入れて守らせた。一方、義昭は自身に味方した豪族・真木島昭光の進言に応じて、宇治五ヶ庄に移動し、槇島城に立て籠もった。槇島城は宇治川・巨椋池水系の島地に築かれた南山城の要害であり、昭光の居城であった。 7月3日、義昭は信長との講和を破棄し、槇島城において挙兵した。その兵力は3,700余であった。

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ラルフ・パケット – Wikipedia

ラルフ・パケット・ジュニア(Ralph Puckett Jr., 1926年12月8日 – )は、アメリカ合衆国の軍人。朝鮮戦争中、アメリカ陸軍の将校として第8軍レンジャー中隊(英語版)の指揮を執った。1950年11月25日、51人の隊員からなるレンジャー中隊は第205高地(Hill 205)を巡って中国人民志願軍と戦い、パケットはこの際の戦功から殊勲十字章を受章した[1][2]。最終階級は大佐。 2021年5月21日、第205高地での戦功について、ジョー・バイデン大統領から改めて名誉勲章を授与された[3]。 1926年、ジョージア州ティフトンにて生を受ける。 陸軍士官学校在学中は陸軍ボクシングチームの主将を務めていた。1949年、卒業と共に歩兵科少尉に任命され、第8軍が駐留する日本に派遣された。この直後、パケットはレンジャー部隊に志願したものの、第8軍側からは「レンジャー中隊に少尉は足りている」と伝えられた。しかし、パケットは「分隊長や小銃兵としてでもよい」(本来は少尉より下級の下士官兵が務める役割)と返答して再志願を行った。レンジャー中隊の編成を行っていたマギー大佐はパケットの積極的な姿勢に感銘を受け、通常は大尉が務める中隊長の職をパケットに与えた。1950年10月11日、第8軍レンジャー中隊は朝鮮戦争只中の朝鮮半島へと派遣され、昼夜を問わず敵軍への襲撃を実施した[4]。 第205高地[編集] パケットと第8軍レンジャー中隊の名は、1950年11月25日の第205高地を巡る戦いでの勝利によって広く知られることになった。第205高地は清川江(英語版)を見下ろす戦略的要衝である。戦闘が始まった時、戦力はわずか51人のレンジャー隊員のみで、最も近い友軍部隊でさえ1マイル以上離れており、その上で全周から完全に包囲されていた。一方、夕方の時点でパケットが砲兵隊との調整を終えており、夜間の支援砲撃は可能だった。 22時00分、迫撃砲の一斉砲撃と同時に中国軍の総攻撃が始まった。中国軍は4時間半に渡って6度の攻撃を行ったが、パケットは自分たちを加害範囲に含むごく至近距離に対しての砲撃支援を要請してこれを退けた。戦闘の最中、パケットは何度か負傷している。1度目は手榴弾の爆発によって、2度目は彼が隠れた蛸壺壕の目前で起こった迫撃砲弾の炸裂によってである。これらの負傷によってパケットは倒れ、レンジャー隊員のデイヴィッド・L・ポーラック(David L. Pollack)とビリー・G・ウォールズ(Billy G. Walls)の両上等兵によって救出された。その後、パケットは後送され、1年間に渡って入院生活を送ることになる。 朝鮮戦争後[編集] 朝鮮戦争の休戦後、パケットは陸軍歩兵学校レンジャー部の山岳レンジャー部隊に部隊長として2年間務めた。その後、最初のレンジャー部隊顧問としてコロンビアに派遣され、コロンビア陸軍レンジャー学校(英語版)の設立に携わる。西ドイツ駐留の第10特殊部隊グループ(英語版)(10th SFG)に移った後はBチームおよびCチームで指揮を執る。1967年、パケット中佐は第101空挺師団第502歩兵連隊第2大隊長としてベトナムに派遣される。同年8月、チューライ(英語版)近くにおける防衛指揮の戦功から2度目の殊勲十字章に推薦される。

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姫路女学院中学校・高等学校 – Wikipedia

姫路女学院中学校・高等学校(ひめじじょがくいんちゅうがっこう・こうとうがっこう)とは、兵庫県姫路市豊沢町にある学校法人摺河学園が運営する私立中学校・高等学校(女子校)。思いやりや心づかい、やさしさを育てる「心の教育」に重きを置いている。略称は、「姫路女学院」。校祖は摺河静男。校長は摺河祐彦。姉妹校に姫路ハーベスト医療福祉専門学校がある。 2020年(令和2年)4月に校名を兵庫県播磨高等学校から姫路女学院高等学校に変更した[1][2][3]。 また、2021年(令和3年)4月から姫路女学院高等学校と同一敷地に設置されている兵庫県播磨中学校も姫路女学院中学校に変更し、生徒募集を開始した[3][4]。 1921年(大正10年)、大正デモクラシーの中、摺河静男が勤め先からの帰路に県立女学校に入学できずに涙ぐむ少女の姿を見て、女子の進学の狭き門を痛感。「国家の繁栄と国民の幸福は教育の振興によらねばならない。とりわけ、女子教育こそ国家百年の盛衰に関わる緊要事である」との強い信念により、妻・ウメと共に創立。建学の精神には、社会の一翼を担い、一方で家庭において良き妻・賢き母として理想的な家庭を創っていくことのできる女性を育てたい、という創立者・摺河静男の思いが込められている。 学科・コース[編集] 普通科 特別進学国際教養コース 教養コース アスリートコース 商業科 普通科は特別進学国際教養コース、教養コース、アスリートコースを設置。アスリートコースでは、強化運動部(サッカー、バレーボール、ソフトボール、剣道)に所属し、国際舞台も視野に入れた自己実現を目指している。 商業科はプログラミング教育、全国商業高等学校協会の検定「8冠」をめざし、企業との商品開発、大学への進学にも積極的。 運動部[編集] ★サッカー部 ★剣道部 卓球部 ゴルフ部 ★バレーボール部 バスケットボール部 ★ソフトボール部

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ジャンヌ・アシェット – Wikipedia

ジャンヌ・レーネ(Jeanne Laisné、1454年頃[1] – ?)は、1472年のフランス・ボーヴェの攻城戦で勇敢に戦った女性である。ジャンヌ・フルケ(Jeanne Fourquet)とも呼ばれ、ジャンヌ・アシェット(Jeanne Hachette、手斧のジャンヌ)のあだ名で知られる。 ジャンヌは農民の娘だった[2]。 1472年6月27日、ブルゴーニュ公シャルルの軍隊によるボーヴェの占領を阻止したことで知られている。そのとき町を守っていたのは、ルイ・ド・バラニー(Louis de Balagny)が指揮する武装した兵士わずか300人だけだった。 しかし、ジャンヌは手斧を片手に、城壁を登って旗を立てたブルゴーニュ公の兵士に襲いかかり、堀に投げ込んで旗を引き裂き、ボーヴェ守備隊の勇気を取り戻した。フランス王ルイ11世はジャンヌの英雄的行為に感謝し、ボーヴェで「突撃の行列」と呼ばれる行列を制定し、ジャンヌと恋人コリン・ピロン(Colin Pilon)を結婚させ、2人に恩恵を与えた[3]。毎年6月の最後の週末には、ジャンヌの行いを記念してボーヴェの通りで行列が行われる[4]。 ボーヴェにはジャンヌの銅像(フランス語版)が建てられ、1851年7月6日に除幕された。ボーヴェの詩人ファニー・デノワ・デ・ヴェルニュ(英語版)(1798-1879)が『ジャンヌ・アシェットあるいはボーヴェの包囲』という詩を作り、除幕式で朗読した[5][6]。 文化において[編集] ^ “Jeanne Hachette, la guerrière” (2008年7月30日). 2020年7月5日閲覧。

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テープレコーダー – Wikipedia

Revox PR99 Mk II、1/4インチ・テープ・レコーダー テープレコーダー(英: Tape recorder)は、磁気テープなどのテープ状の記録媒体に、信号を記録(および再生)する装置である。普通、磁気テープに磁気記録の形で電気信号を記録する。 特に、音響機器(録音再生機器)としてのそれを指し、他をビデオテープレコーダやデータレコーダなどと区別して呼ぶことが多く、以下では主に音響機器について述べる。特にコンピュータの補助記憶装置は、音響用の流用(データレコーダなど)などの場合を除いてテープレコーダーとは呼ばない。 テープのベースには、ポリエステルなどのプラスチックフィルムが使われる。ポリエステル以前にはアセテートが使われた。初期には紙が用いられたこともある。 音響機器の名称としては、スピーカーやパワーアンプなどが付いて単体で音が出たり、小型のもの(録音機能を持ったテープメディアのウォークマンのようなもの)などを指し、オープンリール(オープンデッキ)の機器、コンポーネントステレオやミニコンポなどで他の音響機器を通して音を出す機器などはテープデッキ(コンパクトカセットなどのカセットテープではカセットデッキとも)と区別することもある。また、ラジオカセットレコーダー、ラテカセなどほかと一体となった機器において、テープ装置の部分だけを指す場合にもデッキと言う(1台でダビングのできるラジカセの「ダブルデッキ」など)。 日本では時に略してテレコと呼ばれることがあった[1]。 長所・短所[編集] 体積当たりのデータ密度が高く、信号の録音・消去が容易で、長時間録音に適するという長所がある。またアナログテープレコーダや一部の固定ヘッドデジタルテープレコーダでは、テープを直接切断して編集する「手切り編集」(電子編集に対する用語)も可能である。 一方で欠点も存在する。経年により磁性層の劣化、テープの伸び・切断などが起きやすい。また連続したテープを巻き取って行く構造上、ランダムアクセスが難しく、一部を再生する場合でも時間をかけての早送り・巻き戻しを必要とする。特にデジタル化と相性が悪い。 このため20世紀末以降は、後続の新技術 (CDレコーダー、ハードディスクレコーダー、MDレコーダー、デジタルオーディオプレーヤーやICレコーダーなどランダムアクセスが容易なデバイス) に道を譲りつつある。ディスク、および半導体メモリ等は管理領域が論理的・物理的に壊れると内容が事実上全て失われるのに対し、テープは生き残った部分だけでも再生できる利点があるものの、この特長が生かされるのはよほど特異なケースに限られる。 S-VHS、Hi8などのテープを用いたマルチトラックレコーダで単体で8~12トラックの録音再生が可能な機種をいう。必要に応じて同期用のケーブルで複数台をリンクして使うことにより同期を保ったままトラック数を拡張できた。ADAT、DTRS等の規格がある。デジタルオーディオワークステーション(DAW)を始めとするハードディスクレコーダの台頭により姿を消しつつある。テープ以外にMOなどのメディアを使用した物があるがテープ以外のメディアはマルチトラックレコーダの項を参照されたい。 ポールセンの磁気録音式ワイヤーレコーダー (1898年)

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溶融塩原子炉 – Wikipedia

溶融塩原子炉の構造 溶融塩原子炉(ようゆうえんげんしろ、英: molten salt reactor, MSR)は、溶融塩を一次冷却材として使用する原子炉である。 多数の設計が行われたがそのうち少数が建設された。第4世代原子炉としてのひとつの概念である。 フッ化ウラン(IV) (UF4)など溶融状態のフッ化物塩を一次冷却材としてそこへ核分裂物質を混合させ、黒鉛を減速材とした炉心に低圧で送り臨界に到達させる。高温の溶融塩は炉心の外へ循環させ二次冷却材と熱を交換させる。燃料の設計はさまざまである。液体燃料原子炉特有の複雑な問題の発生を回避するため、溶融塩内に核分裂生成物を含まない構造の新型高温原子炉(AHTR)も設計されている。 航空機用原子炉実験[編集] ORNLに建設された航空機用原子炉実験。後にMSREに改造 アメリカでの溶融塩型原子炉の研究は 2.5 MWth の原子炉実験装置を用い、高出力密度の動力源として原子力航空機に搭載する事を目的とした。計画は結果的にHTRE-l, HTRE-2,HTRE-3の3基の実験機を作って終わった。実験には溶融塩の NaF-ZrF4-UF4(53-41-6 mol%)が燃料として使用され、酸化ベリリウムが減速材、液体ナトリウムが冷却材として使用され、最高運転温度は860℃だった。1954年、1000時間運転された。実験にはインコネル600合金が構造と配管に使用された。 溶融塩原子炉実験[編集] オークリッジ国立研究所(ORNL)で1960年代に

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Vernalossom – Wikipedia

「AKS」はこの項目へ転送されています。数学の素数に関するアルゴリズムについては「AKS素数判定法」をご覧ください。 株式会社Vernalossom(ヴァーナロッサム、英文社名:Vernalossom Co.,Ltd.)は、東京都千代田区に本社を置く芸能プロダクションである。旧社名は株式会社AKS。 芸能プロダクションの経営ほか、音楽・映像ソフトの企画・制作・製造・販売、音楽出版、映画の企画・制作、アイドルグッズの販売なども手掛けている。AKB48グループに含まれる日本国外の8グループの運営を行う。 旧社名の株式会社AKSは、AKB48の主要創設者である秋元康(Akimoto)・窪田康志(Kubota)・芝幸太郎(Shiba)の頭文字を由来とする。 AKB48メンバーは当初「劇場所属」というスタンスを取っており、マネジメント業務は株式会社office48に委託していた[3]。しかし、今後見込まれる更なる人数の増加やそれに伴うメンバー個々のマネジメントへの負担[4]、劇場公演楽曲のリリース希望の声などの問題を解消すべく、新たにAKB48の運営管理を一括で行える会社が必要不可欠となり、AKSは設立された。 AKB48[注 1]・HKT48・NGT48のオーディションに合格した際、最初に所属するマネジメント会社(所属事務所)であった[注 2][注 3]。その後、大手芸能プロダクション等へ所属事務所を移籍するケースもあった。コンセプトは「平凡な少女が、夢を追いながらAKB48として活動し、事務所が決まり、スターになっていくというプロセスを歩むという芸能界の最も夢のある部分を見せる」とのこと。 SKE48メンバーらの株式会社ピタゴラス・プロモーションからAKSへの転籍(2011年11月1日付け)については、「AKB48と運営管理会社を同じくすることによって、知名度と認知度のさらなる飛躍を目指すことが目的である」と発表された[5]。2018年11月には、株式会社KeyHolderがSKE48事業の承継に向けた基本合意書をAKSと締結することを発表し、同年12月27日に事業譲渡契約締結を行い、株式会社KeyHolderが設立した子会社の株式会社SKEが2019年3月1日に事業を承継し再びAKSを離れた(ただし、AKSはSKEの株式20%保有。同年7月1日に株式会社ゼストに社名変更)[6][7][8][9]。著作権表示はピタゴラス・プロモーション時代は (©SKE48) 、SKE時代は (©SKE) となっている。 NMB48の運営については、一時期AKSが行っていたが、2019年6月1日付けで元の運営会社であるKYORAKU吉本.ホールディングス株式会社に戻った。NMB48の管理業務は、株式会社Showtitle(吉本興業の子会社。本社は東京に置かれているが、事務局は大阪に置かれている)が行っている。その経緯から、メンバーの宣材写真が映る場合、AKS所属グループは著作権表示が (©AKS) であるのに対し、NMB48は運営会社の名称ではなくグループ名の (©NMB48あるいは©NMB) となっている。STU48に関してもAKSではなく、新設された株式会社STUが運営管理しており[10]、著作権表示は

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