Month: June 2021

天狗ノ森 – Wikipedia

天狗ノ森 北北西から望む天狗ノ森愛媛県道303号猪伏西谷線から撮影 標高 1,485.0 m 所在地 愛媛県上浮穴郡久万高原町・高知県高岡郡津野町・吾川郡仁淀川町 位置 北緯33度28分51秒 東経133度0分55秒 / 北緯33.48083度 東経133.01528度 / 33.48083; 133.01528 山系 四国山地 天狗ノ森 (高知県)

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シェイプ・オブ・ユー – Wikipedia

「シェイプ・オブ・ユー」(Shape of You)は、イギリスのシンガーソングライター、エド・シーランが2017年に発表した楽曲。1月6日にカムバック・シングル及びアルバム『÷』からのリード・シングルとして「キャッスル・オン・ザ・ヒル」と共にリリースされた[2]。 トロピカル・ハウスのテイストが採り入れられた曲で、トーキング調の歌唱法が用いられている。また、「ゴールウェイ・ガール」と同じくジューク・ボックスでヴァン・モリソンの楽曲をかける場面が描かれている[1]。 全英シングルチャートやBillboard Hot 100チャートなど、主要な音楽チャートで首位を獲得し[3][4]、第60回グラミー賞で最優秀ポップ・ソロ・パフォーマンス賞を受賞した[5]。 曲の誕生[編集] 歌詞は当初リアーナやリトル・ミックスのために書いた楽曲で、シーランは「曲を書き始めた当初は、リトル・ミックスやリアーナのためだった。自分ではそう考えていたけど、自分自身のために書いた曲でも他のアーティストのプロジェクトのために提供することだってある。」と語っている[6]。 本作の作詞作曲に携わったスティーヴ・マック(英語版)は、「エドが『÷』の第1弾シングルに良いと思っていた曲を僕に聴かせてくれて、それがとても良かった。そこから作曲を始めて、わずか2時間くらいでこの曲が出来上がった。でもその段階では僕らは、この曲がエド・シーランの曲になるだなんて予想だにしていなかった。ただちょっといいポップソングだと思っていたんだ。」と語っている。所属レーベルのアトランティック・レコードの社長であるベン・クックは、他のアーティストに提供せずに、『÷』からのリード・シングルとして発売するべきだと訴えた[7]。 ミュージック・ビデオ[編集] 「シェイプ・オブ・ユー」のミュージック・ビデオは、2017年1月30日に公開された。監督はジェイソン・クーニックで、シアトルを舞台に来るビッグ・ファイトに向けてトレーニングに励みながら愛を育むシーランの様子が描かれている[8][9]。ミュージック・ビデオにはジェニー・ペゴウスキ[10]や元力士の山本山龍太らも出演している[11]。 ミュージック・ビデオは、2017年8月8日の時点で再生回数20億回を超え、8月3日付の「YouTube 国内トップトレンド音楽動画 2017年上半期版」で5位にランクインした。なお、同ランキングの上位5位に入ったのは本作が唯一で、YouTubeでの視聴回数が20億回を超えたのは、シーラン自身にとっても初の例となった[12]。 本作は、1月19日付の全英シングルチャートで初登場1位を獲得[13]。同日付のランキングでは同時発売された「キャッスル・オン・ザ・ヒル」が2位に入っており、自身初の全英シングルチャートでの初登場1位・2位独占を果たした[14]。また、1月28日付のBillboard Hot 100チャートでも初登場1位を獲得し、自身初の全米シングルチャート1位獲得となった[14]。 日本においても、2017年9月25日付のBillboard Japan

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ハリヴァルマン – Wikipedia

この項目では、チャンパ王国の君主について説明しています。インドの仏僧については「訶梨跋摩」をご覧ください。 ハリヴァルマン1世(サンスクリット語: हरिवर्मन् १, ラテン文字転写: Harivarman I, 生年不詳 – 820年)は、チャンパ王国(環王国(中国語版))第5王朝の第4代国王(在位:801年 – 820年)。 インドラヴァルマン1世の妹婿[1][2]。先王の死後、王位を継承した[1]。803年1月[3]に唐の安南都護府の管轄する驩州・愛州に侵攻して攻め落とした[4]。809年10月5日にも安南に侵攻した[1]が、安南都護の張舟の反撃を受けて大敗を喫し、占領していた驩州と愛州を奪回された[3]。 ほぼ同時期に将軍のセーナーパティ・パルに命じてジャヤーヴァルマン2世(英語版)治下のクメール王朝に侵攻し、クメール軍を打ち破った[1]。817年にパルはヤンプナガラのポー・ナガル塔(英語版)に寄進を行っている[1]。819年には黄洞蛮の手引きを受けて、交州に侵攻した。 ハリヴァルマン1世の死後、子のヴィクランタヴァルマン3世(中国語版)が王位を継承した[1]。 ^ a b c d

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橘在列 – Wikipedia

橘 在列(たちばな の ありつら)は、平安時代中期の貴族、漢詩人。大和権守・橘秘樹の三男。官位は従五位下・弾正少弼。 橘家氏公流であり大和権守や尾張守を務めた橘秘樹の3男として生まれる[2]。『本朝文粋』巻一に収録されている「秋夜感懐 敬獻二 左親衛藤員外将軍一 」によると、「吾は是れ北堂の士、十歳にして始めて書を読む。書皆読んで業未だ成らず、茲に三十余。馳遅遅として手を空しうし帰る。帰り去って吾が廬に臥す。家貧しくして親知ること少なく、身賤しくして故人疎なり。唯長安の月のみ有って、夜夜閑居を訪ふ。」という記述がある通り、幼少期より学業に励んでおり博識抜群あったが、門閥に縁がなかったために30歳に至るまで官途に恵まれなかった。 30歳にようやく文章生に補せられて、後には安芸介から弾正少弼へ累進するが、「栄を朝市に厭ひて、心を釈門に栖まひ」として栄達が叶わない官僚社会を嫌悪して仏教に傾倒する様子を見せた[2]。944年(天慶7年)10月に「遂に俗綱を脱れ」として比叡山に登り50代で出家し、その後は法名を尊敬上人と号した[2][4]。946年(天慶9年)8月には、当時法華堂内にあった善無畏三蔵や静観僧正などの32名の高僧・知識が記された壁画を賞賛した詩である「東昧堂壁画大師賛」を作成している[5]。953年(天暦3年)頃に60余歳にて死去する[4]。 歌人である源英明とは文章生時代より親交があり、英明が左近衛中将を務めていた承平年間には「華閣月亭」(花見・月見の席)に在列を招いて詩宴をもったほどであった。英明は人物評として「橘卿は実に天才なり」と座客に語るほど在列を高く評価していた。『扶桑集』巻七には在列と英明との唱和詩が22首も収められている。 在列の詩をまとめた詩集として、弟子にあたる源順が編纂した『沙門敬公集』7巻や『尊敬記』などがあった。しかし、多くは散逸し現在ではわずかな詩文を遺すのみである。 出典[編集] ^ a b c 柿村重松註釈『本朝文粋註釈: 下冊』第3巻 内外出版 、1922年、83頁。 ^ a

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串木野純也 – Wikipedia

串木野 純也(くしきの じゅんや、1954年4月5日 – )は、日本の元プロボクサー。本名は、串木野 光夫( – みつお)。宮崎県東諸県郡出身。元日本ウェルター級王者。現役時代は宮崎ボクシングジムを経て進光ボクシングジム所属[1]。 右ストレートを武器とするハードパンチャー[2]。13度の防衛戦では12試合にKO勝利を収めた。これには日本王座の最多連続KO防衛記録となる10戦連続KO勝利が含まれる。また、王座獲得前からの通算では12戦連続KO勝利であった。 1972年11月29日、プロデビュー戦には3RTKO勝利を収めた。2戦目で判定負けを喫して引退し、自衛隊に入隊。自衛隊体育学校時代の1975年には全日本選手権及び全日本社会人選手権で3位の成績を残し、翌1976年に再デビューを果たした[1]。6戦目から10回戦を戦い、25戦目まではウェルター級 からミドル級の契約で、日本人選手以外に朱虎、林載根、李萬徳、黄忠載など韓国の世界ランカーとも対戦を重ねた[2]。これらの対戦にはOPBF東洋太平洋ジュニアミドル級、OPBF東洋太平洋ウェルター級、日本ジュニアミドル級の各王座挑戦も含まれるが、いずれも失敗に終わった。 1980年7月1日の21戦目では亀田昭雄の持つ日本ウェルター級王座に挑戦したが、ボディを強打されて8RKO負けを喫し[2]、25戦目を終えての戦績は14勝 (10KO) 11敗 (6KO) というものだった。26戦目となった1981年9月7日、日本ウェルター級タイトルマッチで亀田昭雄に再挑戦。結果は小差判定負けに終わったが、9Rには右フックから左右の追撃で世界挑戦の決まっていた亀田からダウンを奪い、この試合を転機として強打に精神的余裕が生まれ、豊富な練習を重ねて技術を向上させた[2]。同年10月13日、亀田の返上した日本ウェルター級王座をダイナマイト松尾と争った決定戦では判定負けとなったが、翌1982年1月18日の松尾との再戦で9RKO勝利を収めて同王座を獲得した。 1985年6月6日、尾崎富士雄に判定負けを喫して王座を失うまで、3年半近くの在位期間中に10戦連続KO防衛の日本記録、全12KOを含む13度の防衛を果たした。同年8月29日、尾崎からの王座奪取に挑戦したがTKO負けを喫した。眼疾を発症していたため[1]、この試合を最後に現役を引退した。 アマチュアボクシング:不詳 プロボクシング:44戦29勝 (24KO)

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イオンマリナタウン店 – Wikipedia

大規模小売店舗表示板 イオン マリナタウン店(イオン マリナタウンてん)は、福岡県福岡市西区にある大型商業施設(ショッピングセンター)である。ダイエー時代の店番号は0692。 福岡市西区の住宅地、西福岡マリナタウンに隣接する商業施設としてダイエーがショッパーズモールマリナタウンを開業。 1995年春に敷地が決定。その後近隣住民から建物などについて様々な要望が出され、またダイエーがGMS(総合スーパー)としての新たな道を探ろうとしていた時期であったことから、店舗の作り方を考え直し[1]、日本初のサーキットモール型のショッピングセンターとして開業した[2]。当店の建物はハートビル法認定建築物でもある。 かつてこの敷地が炭坑のボタ山として使われていたことにちなみ、当時のダイエーの中内功会長からは、「砂と山のイメージ」という注文が出された[1]。設計コンセプトは、アメリカ合衆国南西部の景観都市サンタフェの街並み[2]。 さらに、当店は日本の商業施設としては初めて、建設資金の調達にあたりSPC(特定目的会社)を利用した。ダイエーはまず地主との間で20年の借地契約を結び、当店の建物を建設。この借地権と建物を信託銀行に信託し、さらにその信託受益権をSPCに売却、SPCとダイエーや各専門店との間でテナント契約を結ぶというスキームをとった。このSPCは三井不動産が約27億円を優先出資して海外で登記している。この手法によりダイエーは初期投資資金を総事業費の約4割である約30億円に低減している[1]。 施設内は、ダイエー マリナタウン店の売場が「フーズタウン」「ファッションタウン」「ホームワールドタウン」「キッズワンダータウン」に分散していたが、アカチャンホンポなどの大型テナントの入居により、現在は「フーズタウン」「ファッションタウン」に集約された(文具やインテリアなどはファッションタウンで取り扱っている)。「スポーツギャラリー」ゾーンには、オレンジワン マリナタウン(現コナミスポーツクラブ福岡マリナタウン)が入居。 2015年9月1日にイオン九州にショッパーズモールマリナタウンの営業権が承継され「イオン マリナタウン店」となった[3]。 テナント[編集] 出店全店舗一覧は公式サイト「フロアガイド」を参照。 アクセス[編集] 2008年まで九州観光バス運営による姪浜駅への無料シャトルバスが運行されていた。現在も西鉄バスの停留所の近くにあり、便利である。 関連項目[編集] 外部リンク[編集]

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茨城県道102号長沢水戸線 – Wikipedia

茨城県道102号長沢水戸線常陸大宮市長田(2014年4月) 那珂市戸(2012年5月) 茨城県道102号長沢水戸線(いばらきけんどう102ごう ながさわ みとせん)は、茨城県常陸大宮市長沢から同県水戸市に至る一般県道である。 常陸大宮市長沢の茨城県道29号常陸太田那須烏山線より分岐南下し、同市小野、那珂市下江戸と経て、国田大橋にほど近い水戸市下国井町の茨城県道63号水戸勝田那珂湊線・国田大橋東交差点に接続する延長約27キロメートル (km) の南北に延びる路線。常陸大宮市東野ではJR水郡線玉川村駅前を通過し、玉川交差点で国道293号と交差する。常陸大宮市三美 – 小野で一部重複となる茨城県道21号常陸大宮御前山線以南から終点までの約16 kmの区間は、那珂川の流れに沿って左岸(東側)に伸びるルートを取っており、那珂川を挟んで右岸側の国道123号と対をなす道路になる。 路線データ[編集] 1959年(昭和34年)10月14日:現在の路線が県道長沢水戸線として路線認定される[3]。 1975年(昭和50年)4月20日:国道118号の千歳橋開通に伴い、水戸市中河内地内の国道118号旧道と県道中河内青柳曲尺手線[注釈 2]の道路の一部区間(868 m)の道路を編入。終点が国道118号新道との交点(中河内交差点)に移る[4]。 1982年(昭和57年)12月20日:那珂郡山方町大字長田 – 同字宮下の狭隘路を拡幅改良する道路区域(1.38 km)を指定[5]。 1986年(昭和61年)10月20日:那珂郡山方町大字長田の土地改良事業区域内の区間(1.14 km)の道路改良区域決定[6]。 1987年(昭和62年)10月1日:那珂郡山方町大字長田 –

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大韓民国気象庁 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “大韓民国気象庁” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年11月) 冠岳山気象レーダー 気象庁(きしょうちょう、Korea Meteorological Administration)は韓国の環境部傘下の国家行政機関。役割は日本の気象庁とほぼ同じ。日本政府機関が設置した観測所をルーツに持ち[1]、1949年8月に「国立中央観象台」が発足し、1990年12月に中央気象台から気象庁へと昇格した。本庁はソウル特別市銅雀区気象庁通り45にある。 日本による観測時代[編集] 朝鮮における近代的気象観測の始まり[編集] 気象観測事業の始まり[編集] 1904年3月 – 日露戦争に際し、日本軍の要求によって、大日本帝国文部省が釜山、木浦、仁川広域市、龍岩浦、元山に臨時観測所を設置し、中央気象台に臨時観測所官制が施行された (明治三十七年三月勅令第第六〇号)[3][4][5][2]。

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樟脳と台湾 – Wikipedia

樟脳と台湾では、樟脳をめぐる台湾の歴史について記述する。台湾において樟樹(クスノキ)栽培による製材や製脳は、清代台湾の重要な山林産業の一つであり、当初は主に生薬や防腐剤に使われたが、19世紀にセルロイド(人口象牙)の発見により、工業原料として台湾の独占的商品として、世界の注目を集めるようになった[1]。 清国統治時代[編集] 1858年6月の天津条約によって台南・安平(アンピン)港や基隆港が欧州列強に開港される前には、イギリス商人ジャーディン・マセソン商会及びデント商会が、清国官吏と結託して台湾島内で産出される樟脳を輸出し、巨額の利益を得ていた[2]。その後多くの西洋列強各国の商人が樟脳輸出に参加し、利益を独占していた。清国政府は、台湾の樟脳の輸出を官業独占とすることを二度試みたが、西洋列強各国(特にイギリス)の商人および各国領事の反対にあって果たせなかった。列強各国商人の独占的地位は確固たるものがあった[2]。 外国商人独占から日本政府の専売へ[編集] 1895年 (明治28年)の下関条約に基づいて台湾が清朝から日本に割譲され、日本による台湾統治が開始されると、日本政府は樟脳に関する外国商人の独占的地位を駆逐することを目論んだ。1895年(明治28年)樟脳製造取締規則を定め、翌1896年(明治29年)樟脳税制を定めて一定の課税を課したが、外国商人からの抗議を受け、その目的を果たすことはできなかった。1899年(明治32年)6月、樟脳の専売制度を開始すべく、勅令第246号をもって台湾樟脳局官制を公布した[3]。樟脳および樟脳油の収納、売渡、検査と製造に関する事務を掌理するため台北、新竹、苗栗、台中、林圯埔、羅東に樟脳局が設置された[3]。ここにようやく樟脳商権は、外国商人独占から政府の独占に引きあげられた[2]。しかしながら、この時点では輸出に関しては、輸出業者の競争入札により、イギリスのサミュエル・サミュエル商会一社のみが落札しており、専売実施後も樟脳輸出に関してはなお外国資本の独占に属した[2]。(なお、樟脳局は、1901年(明治34年)6月に阿片専売の台湾総督府製薬所と塩専売の塩務局とともに総督府専売局に統合された[3]。)1908年(明治41年)に総督府が、その販売方法を変更して直営として、三井物産に委託販売させたことにより、初めて樟脳商権は日本資本家に帰することになった[2]。 樟脳と台湾財政[編集] 上記のとおり、樟脳は台湾の特産品となるだけでなく、台湾総督府の財政の健全化に大きな役割を果たしている[4]。日本による台湾統治の初期において、台湾の財政は日本政府の巨額の国庫補助が必要であった[4]。1896年(明治29年)の台湾総督府歳入965万円中日本政府の国庫補助は694万円をしめた。翌1897年(明治30年)の歳入1128万円中国庫補助は596万円を占めた。1898年度(明治31年度)からは、台湾特別会計による国庫補助が開始されている[4]。このような中、台湾の財政的な自立が、台湾統治上の最大の眼目になっていた[4]。1899年(明治32年)に塩とともに樟脳の専売制度が開始された。台湾財政の独立化が専売制度に負うところが大きい[4]。翌1900年(明治33年)から10年間の間、樟脳専売の平均収入は385万円であり、台湾の経常歳入のおよそ19パーセントを占めて、総督府の財政の主たる財源となった[1]。 なおこの時、樟脳を扱う多くの業者が専売制度に反対の意向を示したのに対し、金子直吉率いる鈴木商店が賛成に回り反対派の切り崩しを行ったことは有名。鈴木商店はこの功績により、樟脳の精製時に出る樟脳油の再製について台湾総督府との間で請負契約を結ぶことに成功し、後の総合商社化への基盤を固めることになる[5]。 福建省の樟脳専売[編集] 樟脳と台湾の関係は、台湾島内にとどまらず、台湾の対岸地域とりわけ福建省の樟脳にも影響を及ぼした。 1901年(明治34年)、台湾名望家の林朝棟が清国の福建省当局から樟脳専売権を獲得しようとした。しかし林は、資金を集めることに困難を来たしたので、総督府に資金援助を求めた。当時の台湾総督児玉源太郎は、これを「天与の恵み」と考えた。福建省の樟脳独占専売による利益が得られるのみならず、台湾の樟脳原木資源の温存ができ、またそれにより樟木生産地である「蛮地」との緊張を緩和することができるからである。のみならず台湾の対岸である福建省を始め中国大陸南部における新たなコロニーの確保による日本の勢力拡大が期待されたからである。そこで総督府は、「三五公司」という表面上は日本と中国の合弁会社の形態をとるが、実際は国家的色彩の強い機関を設立した[6]。その責任者として愛久澤直哉をあてた。まず、愛久澤は林に設備の弁償金として2万円を支払い、林を福建省樟脳専売事業より切り離した上で、新設された「官脳局」の技師となった。「官脳局」すなわち実質的には三五公司の樟脳の移出・輸出量は1907年(明治40年)には、約2700斤に上り、1901年の設立時のそれの17倍となり、ピークを迎えた。しかし、総督府による福建省の樟脳の専売は西洋列強各国の反発を招いた。清国政府にとっても「官脳局」は自己に何ら利益をもたらさない厄介者であったため、「官脳局」撤廃の要求が高まることになった。そのため1910年(明治43年)には三五公司による樟脳専売は中止された[7]。 樟脳と佐久間総督による「理蕃」事業[編集] 樟脳の需要が増すに連れて、樟脳採取用のクスノキの良木が高山でしか手に入らなくなり、日本資本の製脳業者からは原木採取の要求が高まっていた。そこで、第5代台湾総督の佐久間左馬太は、山地に住む先住民族の軍事的制圧を行うことにした。当時先住民族は「蕃人」と呼ばれ、「隘勇線」の外側にあるものを「熟蕃」、「隘勇線」の内側にあるものを「生蕃」と呼んだ。「隘勇線」とは、先住民族の住む山地を砦と柵で包囲して閉じ込めるものであり、電話線を架設し、必要な地点には砲台の設備があり、高電圧鉄条網、地雷なども使用されていた。総督府は、「隘勇線」を圧縮して先住民族の生活圏を狭め、その武装抵抗を誘発した。「熟蕃」側も採脳により生活圏を荒らされていたので、反乱を起こした。1900年(明治33年)のタイヤル族の反乱、1902年(明治35年)のサイシャット族パアガサン社の反乱、1905年(明治38年)の大豹社の反乱である。 とりわけ1904年(明治37年)の鳳紗山方面の隘勇線圧縮作戦はクスノキを確保するために「生蕃」を高山に追い上げて食料を断ち、餓死を迫る残酷な作戦だった。1909年(明治42年)には、5カ年計画で軍隊を投入して総攻撃を行い、全島の隘勇線を圧縮して包囲網を狭めて「生蕃」を標高3000メートル級の高山が連なる台湾脊梁山系に追いあげ、かつ追いつめ、餓死か降伏かの択一を迫るという作戦を展開した。5年目の1914年(大正3年)には、脊梁山系の西側から台湾守備隊の兵力の大部分(3,108名)を投入し、東側から警察隊を投入し(3,127名)、最後の包囲圧縮を行い(太魯閣番の役)、5カ年計画を終了させた(同年8月19日)[8]。 ^ a b 李(2010)182ページ ^

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