ナンヨウカイワリ – Wikipedia

ナンヨウカイワリ(学名:Carangoides orthogrammus)は広い生息域をもつアジ科の外洋性海水魚である。インド洋から太平洋の熱帯域に広く分布し、分布域は西はインド洋西部のモザンビークやセーシェル、東はハワイやレビジャヒヘド諸島といった太平洋の東部、中央部にまで広がっている。大陸棚でみられるのは稀で、外洋の島のラグーンや岩礁、サンゴ礁でみられる。比較的大型の種で、最大で全長75cm、体重6.6kgに達した記録がある。細かい解剖学的特徴のほか、黄色の斑点などで他種から区別することができる。しばしば小さな群れをつくり、様々な小魚や甲殻類を捕食する。漁業における重要性は生息域の全域においてそれほど高くはないが、トロール漁や延縄漁、その他様々な方法による沿岸漁業で漁獲され、鮮魚や塩漬けとして販売される。 分類と命名[編集] ナンヨウカイワリはスズキ目アジ科のヨロイアジ属(Carangoides)に分類される[1]。 本種は1881年に、レビジャヒヘド諸島から得られた標本をホロタイプとして、二人のアメリカの魚類学者デイビッド・スター・ジョーダンとCharles Henry Gilbertによってはじめて記載された[2]。彼らは本種をCaranx orthogrammusと命名しギンガメアジ属(Caranx)に分類したが、のちにアジ科魚類の分類について再検討がなされた際、本種はヨロイアジ属(Carangoides)に移動された。本種は独立に複数回再記載され、他の種の亜種として記載されたことも二度あった。John Treadwell Nicholsは本種をC. ferdau jordaniとして記載し、クロヒラアジ(C. ferdau)の亜種とした。のちにこの学名は独立した種C. jordaniに移行された[3]。アンダマンアジ(C. gymnostethoides)の亜種として記載されたこともあった。その他、C. nitidusとしても記載されている。本種は現在では独立した種として認められており、亜種としての学名、およびC. orthogrammus以降の全ての後行シノニムは国際動物命名規約に基づき無効とされている。英名は本種が外洋性であることに由来する”Island trevally”で[4]、種小名の”orthogrammus“はギリシャ語で「真っすぐな線の」という意味である[2]。 厚い唇は本種の特徴である 比較的大型の種であり、最大で全長75cm、体重6.61kgに達した記録がある[5]。クロヒラアジと非常によく似る。しかし本種にはよく目立つ黄色の斑点がある一方、クロヒラアジは斑点はもつが目立たないため、両種は簡単に識別できる[6]。本種は側偏した楕円形の体型をもち、背側の輪郭が腹側の輪郭よりもふくらんでいる。吻はふつうわずかに丸みを帯びる[7]。背鰭は2つの部分に分かれており、第一背鰭は8本の棘条を、第二背鰭は1本の棘条とそれに続く28本から31本の軟条をもつ。第二背鰭の伸長部は若魚ではやや鎌状になるが、その長さは頭部の長さよりは短い。臀鰭には前方に2本の棘条が遊離して存在し、その後方に1本の棘条とそれに続く24本から26本の軟条が存在する。腹鰭には1本の棘条とそれに付属する21本から22本の軟条がある[8]。側線は前方でごくわずかに湾曲しており、直線部と曲線部の交点は背鰭の15番目から19番目の軟条の下部に存在する。側線曲線部には96から106の鱗が、一方直線部には20から30の鱗と21から28の稜鱗(アジ亜科に特有の鱗)が存在する[8]。胸部の腹鰭基部までの領域には鱗が無いが、その中でも腹鰭前方部にはしばしば鱗のある小さな領域が存在する。この鱗の無い領域の後方部は、胸鰭基部にある鱗の無い領域と、一本の鱗の帯によって隔てられている。成魚では唇がかなり厚い。両顎には幅の狭い絨毛状歯からなる歯列が存在するが、これは加齢に伴い退化する。鰓篩数は28から32、椎骨数は24である[7]。

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仙台市都心部 – Wikipedia

仙台市都市部の夜景 仙台駅西口ペデストリアンデッキ 仙台市都心部(せんだいしとしんぶ)とは、宮城県仙台市の中心業務地区(CBD)や中心部商店街などで構成される業務・商業複合都心のこと。仙台都市圏における交通の要衝でもある。 仙台市都心部は、青葉区南東部を中心に、宮城野区南西部、若林区北西部にまたがって広がる[1][2]。これら3区の区境は六道の辻に集まっている。都心部は仙台市や宮城県の中心業務地となっている他、東北地方を管轄する国の出先機関や企業の本支店などが集中している。また、仙台市の物販・サービス機能が集積し、2000年頃からは、県内各地のみならず周辺県からの流入が顕著になった。そのため、仙台都市圏[3][4]のみならず、仙台経済圏の物販・サービスの中心地の様相を呈するようになった。 仙台市都心部は、江戸時代の仙台城下町(別称:仙台輪中[5]、仙府。以下、仙台輪中を使用)を基礎に発展してきたが、明治時代の仙台駅の設置、仙台市電の敷設、戦後の復興道路などによる人の流れや交通環境の変化によってその中心部は変化してきた。 歴史[編集] 江戸時代には、現在の国分町通(旧奥州街道…南北軸)と中央通(旧大町…東西軸)が直交する芭蕉の辻が中心であり、その四隅に同じ構造の楼閣が建てられ、城下一の商業地として賑わった(明治期の芭蕉の辻の写真)。 明治時代になると芭蕉の辻周辺には銀行などが出来、業務地区化し始めた。このため、物販・サービスについては、国分町通の1本東を南北に並走する東一番丁や、芭蕉の辻より東側の大町沿いが担うようになる。東北本線が開通すると仙台駅前(西口)の名掛丁などに集積が進み、仙台市電開業後は、芭蕉の辻と仙台駅とを結ぶ南町通の業務地区化が進んだ。 1941年に芭蕉の辻の一角に日本銀行仙台支店が置かれた。戦後に復興道路として新規に開通した広幅員の青葉通が、芭蕉の辻と仙台駅を繋ぐ道として金融街・オフィス街として発達した。また、復興道路として広幅員化した東二番丁(国道4号)や広瀬通なども次第に業務地区に組み込まれた。 仙台市が政令指定都市化したバブル景気期には、仙台市地下鉄南北線開通により都心部は路線沿いに拡大し、官庁街の勾当台公園周辺地区と都心の業務地区が一体化して、南北に北四番丁駅(勾当台地区北側)から五橋駅(五橋地区)までオフィスビルが立ち並ぶようになった。また、ITバブル期と仙石線地下化が重なった2000年前後には、仙台駅東口の宮城野通が「ITアベニュー」と呼ばれ、IT企業を中心に業務機能の集積が進んだ。現在は、一番町と仙台駅西口が2つの極となっているが、旧城下町部分(仙台輪中)を中心に面的に広がりを持って複合都心を形成している。 都市機能[編集] 官庁街[編集] 江戸時代、仙台藩の事務処理を行う施設は、仙台輪中の西端に位置する仙台城二の丸を中心に、広瀬川の右岸沿い段丘上に集中していた。戊辰戦争に敗戦すると、仙台城は官軍に占領されてそのまま常備軍が置かれ、仙台鎮台→陸軍第二師団→進駐軍占領→東北大学川内キャンパスと変遷している。 また、広瀬川左岸沿い段丘崖直上の片平丁に集中していた上級家臣などの屋敷も国が利用し、偕行社、裁判所、第二高等中学校、東北帝国大学などが設置された。現在は、西公園、仙台高等裁判所・仙台地方裁判所・仙台家庭裁判所、東北大学片平キャンパスなどに利用されている。裁判所がある片平地区には、仙台高等検察庁・仙台地方検察庁や弁護士事務所等が位置する。 他の軍事的要地も接収され、仙台輪中南東端(現:若林区)にあった若林城はのちに宮城刑務所となり、仙台輪中東端(現:宮城野区)の榴岡天満宮のある丘とその周囲も軍関連施設が置かれた。現在、丘の部分は榴ヶ岡公園(東公園)、仙台管区気象台など合同庁舎3棟、NTTなどになり、周囲の跡地は東北厚生局(本部は移転)、国立病院機構仙台医療センター、宮城野原公園総合運動場(宮城球場[6]など)等に利用されている。 このように、仙台藩の重要施設・要地のほとんどを国が押さえて、東北地方を管轄する行政機関を設置していったため、旧仙台藩地域を管轄する行政機関はそれまでの土地を追い出された形となった。廃藩置県以降の宮城県や仙台市を管轄する行政機関は、藩の施設としてわずかに残っていた養賢堂(現在の勾当台公園に所在)を県庁に転用し、隣接地に仙台市役所を設置することになった。以後、勾当台周辺が県・市関連の官庁街となり、現在は、勾当台公園の北側に宮城県庁(知事部局・議会・県警察本部)および、仙台市役所(本庁舎・議会)、青葉区役所、国の出先機関(東北経済産業局など)が入居する仙台第一・第二合同庁舎が位置している。周辺には公共事業や県や市の事業に関連する企業が集中立地し、オフィス街を形成している。 また、春日町には仙台法務局があり、周辺は司法書士や不動産関連の資格者の事務所が集まる。 オフィス街[編集] 中心業務地区は、仙台市地下鉄南北線の北四番丁駅から五橋駅までの区間を中心に都心部全体に広がっている。高層の賃貸オフィスビルは片側4車線の東二番丁通や仙台駅周辺に多く、銀行の本支店は青葉通に集中している。高層オフィスビルは、現行の仙台市の環境アセスメント条例の対象である100m以上のものが6棟(仙台トラストタワー、AER、SS30、エナジースクエア、ドコモ東北ビル、花京院スクエア)あり、オフィス・マンション含め、航空法、建築基準法施行令第36条、ガス事業法施行規則第106条などで様々な制限がかかる60m以上の建築物は、市内に30棟(建設中・計画中も含めると50棟ほど)ある。なお、仙台市内のほとんどの地域は、仙台空港の制限表面による規制を受けない(参照)。 仙台の都心部は長町-利府断層線西側の河岸段丘上にあるため(→仙台の地形)、高層ビル建設に不利な地盤ではないが、30年おきに発生すると言われる宮城県沖地震を考慮しなくてはならない[7]。また、仙台駅東口の土地区画整理事業[8]により、都心に今後大量に土地供給が予定されている。これらの背景や賃料相場などから、支店経済の仙台には30階建級が限界と見られてきた。

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伊東家の食卓 – Wikipedia

伊東家の食卓 ジャンル バラエティ番組 / 情報番組 演出 雨宮秀彦 ほか 出演者 伊東四朗五月みどり布施博RIKACO三宅健(V6)山口美沙トミーズ雅風見しんご磯野貴理子アンタッチャブル ナレーター 難波圭一伊倉一恵P子ちゃん(声 – 雨蘭咲木子)一龍斎貞友小倉久寛 製作 プロデューサー 菅賢治(CP、末期) 制作 日本テレビ 放送

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楕円有理関数 – Wikipedia

次数nが1, 2, 3, 4で選択係数ξが1.1の場合について,楕円有理関数をxの範囲が-1から1までのプロット。 注 この範囲では値は-1から1の間にあり、すべての次数でx=1のとき1となる。 楕円有理関数 (英: Elliptic rational functions)とは、実数係数を持つ 有理関数 の数列であり、フィルタ回路の一種である楕円フィルタの設計で利用される。楕円有理関数は、チェビシェフ有理関数 と呼ばれることもあるが、同名の別のチェビシェフ有理関数があるので注意が必要。 楕円有理関数は正の次数nと選択係数と呼ばれるパラメータξ ≥ 1 を持つ。次数nで選択係数が ξ{displaystyle xi } で変数がxの楕円有理関数は、次のようなヤコビの楕円関数を用いた表示を持つ:

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ワラバランス – Wikipedia

ワラバランスWARABALANCE メンバー 盛田シンプルイズベスト宮﨑拓也 結成年 2012年 事務所 吉本興業 活動時期 2012年9月1日 – 出身 NSC東京校17期 出会い NSC 現在の活動状況 テレビ・ライブなど 芸種 漫才 同期 オズワルド空気階段コットン

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秋元三左衛門 (9代) – Wikipedia

9代 秋元 三左衛門(あきもと さんざえもん、1858年7月7日(安政5年5月27日[1][注釈 1])- 1910年(明治43年)1月16日[1][2][3])は、明治期の醸造家、実業家、政治家。衆議院議員。通称・三左衛門桃渓[4]。 下総国葛飾郡流山村[4](千葉県[2]東葛飾郡流山町[3]流山[1]、江戸川町、流山町を経て現流山市[1]流山)で、味醂(みりん)醸造業・8代秋元三左衛門の息子として生まれる[1]。伊藤長有などから和漢学を学び、小学校普通小学科を卒業[4]。1875年(明治8年)7月に上京し、亀田保、島田重礼などに漢学を学んで、1880年(明治13年)3月に帰郷した[4]。家業の「天晴味醂」(あっぱれみりん)として知られた味醂醸造業を継承した[1][5]。その他、八十四銀行頭取、宝酒造監査役などを務めた[1]。 政界では流山村連合戸長を務めた[4]。1887年(明治20年)7月、千葉県会議員補欠選挙で当選し1892年(明治25年)まで在任した[1][2][3]。その他、所得税調査委員、流山村会議員、連合会議員、郡徴兵参事員なども務めた[4][2][3]。 1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙(千葉県第2区、立憲改進党)では落選したが、1893年(明治26年)4月の補欠選挙で当選し、衆議院議員に1期在任した[1][2][3]。 衆議院議員引退後は、1897年(明治30年)流山消防組頭、同年5月、東葛飾郡会議員(1899年2月まで在任)に就任[1]。治水対策の推進に尽力した[1]。 国政選挙歴[編集] 長男 10代秋元三左衛門(秋元良尚)- 実業家・町会議員・青年団長[5] 注釈[編集] ^ 『衆議院議員候補者列伝 第二編』916頁では安政6年5月27日、『議会制度百年史 – 衆議院議員名鑑』16頁では安政3年5月。

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毒姫 – Wikipedia

『毒姫』(どくひめ)は、三原ミツカズによる日本の漫画作品。『ネムキ』(朝日ソノラマ)にて2002年11月号から2012年11月号まで[1]連載された。単行本は全5巻。また、続編及び番外編である『毒姫の棺』(どくひめのひつぎ)が『nemuki+』(朝日新聞出版)にて2017年5月号から[2]2020年11月号まで連載され、単行本が上下巻で発行されている。 あらすじ[編集] 赤子の頃から少量の毒を摂取し続けることにより全身の体液が猛毒となった少女達「毒姫」。小国ミトラガイナは「毒姫」を生み出しては敵国に寵姫として送りこみ、要人を毒殺することで自国の繁栄を保っていた。毒姫のひとりリコリスも大国グランドルに送られるが、国王の毒殺に失敗して囚われてしまう。捕虜として生かされることになったリコリスは、グランドルの三つ子の王子ハル・マオ・カイトの秘密を知り、国同士の混乱に巻き込まれていくことになる。 登場人物[編集] 主要人物[編集] リコリス・ラディアータ=カンタレラ 主人公。火事の焼け跡でカンタレラ家に拾われ、毒姫として育てられた。その名の通り彼岸花のような赤毛が特徴。毒に対する耐性は高くなく、器量も良くないため毒姫の中ではみそっかす扱いだったが、生への執着から毒姫になる試練に耐え抜いた。毒姫として先輩にあたるベラドンナに憧れと尊敬の念を抱いており、ベラドンナの遺品である十字架のネックレスを身に着けている。国王暗殺の任務を受けグランドルに送られるが、失敗し捕虜の身となった。 ハル・トリアゾラム=グランドル グランドルの第一王子。生真面目な性格で『優秀な王子』として国民や臣下から強く期待されており、国王の影武者も務める。毒姫であるリコリスに対しては冷徹に振舞っていたが、懸命に生きようとする彼女の姿に努力を重ねてきた自身の子供時代を重ね、徐々に想いを寄せるようになる。 マオ・エフェドラ=グランドル グランドルの第二王子。一見軽い言動が多く、リコリスに対してもからかうような態度が目立つ。計算高い性格で金勘定と商売事に目聡い。次期国王であるハルを献身的に補佐し、毒味役を務めている。カイトの中の狂気に気付いており、疎ましく思っている。 カイト・ユビデカレノン=グランドル グランドルの第三王子。三つ子でありながら兄二人より外見が幼く、普段の言動もぼんやりしているため、王子としてはあまり期待されていない。だが内には父王ゆずりの狂気と頭脳が見え隠れしている。ミトラガイナからグランドルに向かう途中のリコリスと偶然出会い、惹かれ合っていく。 ミトラガイナ[編集] 小国ながら毒や薬の扱いに長け、その交易で栄えている女系国家。一般人にはただの伝説と思われている『毒姫』は、実はミトラガイナ最高の商品であり兵器でもある。作中で「毒姫には花の名前をつけるのがならわし」と説明されている他、毒姫以外の登場人物も植物[注釈 1]の名をもつものが多い。 ダチュラ・メテル=ミトラガイナ ミトラガイナの女王。自らの美貌に絶対的な自信を持つ。高慢な性格でプライドが高く、国王会議で自身に媚びる態度を見せなかったイカルスに並々ならぬ執着心を抱いている。毒と毒姫を駆使して他国を陥れる謀略家。 マンドレーク 毒姫を生み出すカンタレラ家を統べる老婆。方々から女の赤子を手に入れては毒姫として育て上げ、女王に献上している。冷酷で利益のためなら手段を選ばない性格で、毒姫たちからは「婆様」と呼ばれ敬われると同時に恐れられている。自身も元毒姫。

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春日昌預 – Wikipedia

春日 昌預(かすが まさやす、1751年3月17日(寛延4年2月20日) – 1836年7月17日(天保7年6月4日))は、江戸時代の町人・歌人。甲府町年寄の「山本金右衛門」と同一人物。通称は助三郎。 甲府八日町一丁目(甲府市中央)の商家・若松屋に生まれる。父は二代当主・加藤竹亭(翼)で、竹亭は山県大弐とともに酒折宮(甲府市酒折)に碑文を建立している。昌預は8人兄弟の3男。母は樋貝氏の娘。八日町は「府中一のよき所」甲府勤番士の記した甲斐国地誌『裏見寒話』に記される甲府城下の政治的・経済的中心地で、『甲府買物独案内』に拠れば若松屋は呉服や薬種や香具を扱い、桝屋と並ぶ大店であった[1]。生年月日は甲府町年寄相役坂田家御用日記による。 加藤家は『裏見寒話』に断片的な記述があり、竹亭の頃には上層商人であったという。享保9年(1724年)の甲斐一国幕府直轄領化で設置された甲府勤番支配の甲府城下では、商人層を中心に町人文化が栄えた。 昌預の父・竹亭も甲府に本格的な学芸文化を導入した国学者・加賀美光章や五味釜川に学んだ文人でもある。加藤家過去帳に拠れば、加藤家は甲斐武田氏の譜代家老・春日虎綱(通称「高坂昌信」)を先祖と位置づけており、春日姓を名乗っている。若松屋は竹亭の長男・昌融が3代、次男の昌齢が4代、8男の昌標が5代として継承し、昌預の兄弟も紀行文などを残している。 甲府町年寄の御用日記に拠れば、昌預は安永4年(1775年)に甲府柳町(甲府市中央)の山本家の養子となり、町年寄見習となる。山本家には子が無かったため昌預の養子縁組に先立って、山本家の養女を室に迎えている。山本家は坂田家とともに甲府町年寄を世襲し苗字帯刀を許されていた家柄で、はじめ松木氏を名乗り武田氏時代に巨摩郡乙黒村の山本家養子となる。江戸時代には宝永年間から町年寄役を務めている。 御用日記に拠れば、昌子預は天明4年(1784年)に養父の死去に際して甲府町年寄となり、文政13年(1830年)に高齢で退任するまで40年以上に渡り町年寄役を務めている。 昌預の家集に『丑年詠歌』がある[2]。『丑年詠歌』は1997年時点で確認される昌預最初期の家集。全部281種を収録する。成立年代は表題から「丑年」であると推定されるが、「松契齢」と題した127番目の和歌「ちはやぶる神の御前の松の葉を契る齢の有数せん」には「九月十一日元道六十賀 趣向宜候」と詞書が記されている[3]。「元道」は昌預が加賀美光章とともに師事した山本忠告を指していると考えられており、家集の成立年代は忠告の没年である安永2年(1773年)以前の丑年で、なおかつ昌預の年齢を考慮とすると明和6年(1769年)であると推定されている[4]。 内容は四季の順に和歌を配置し、『古今和歌集』『新古今和歌集』を基調としていると評される[5]。内容から山本忠告が主催する歌会で詠まれた和歌を自選したものであると考えられている[6]。 広瀬本万葉集の発見と昌預の和歌[編集] 昌預は青年期に加賀美光章の私塾環松亭に学び、光章の死後には光章の子光起に兄師し、光章・釜川に次ぐ山本忠吉にも学ぶ。光章同門には山県大弐や後に本居宣長に学んだ国学者の萩原元克がいる。天明元年(1781年)には萩原元克が京都から持ち帰った『万葉集』の書写や歌学書の研究を行う。 これは現在一般的である仙覚系写本とは異なる藤原定家校訂(「冷泉本万葉集」)の写本で、1993年(平成5年)には関西大学教授の木下正俊・神堀忍により、元同大学教授広瀬捨三所蔵の『万葉集』(広瀬本)が定家系写本であることが判明し、この奥書には萩原元克の書き入れや昌預の署名が見られることからその存在が注目された。広瀬本万葉集の発見や『万葉集』解釈や訓読研究の進捗を促したが、木下・神掘両教授の研究によれば筆跡から写本作業には7人以上が携わっており、元克や昌預を中心とするグループにより行われたと考えられている。 また、山梨県立図書館館長として同館所蔵の漢籍や国書の整理を行っていた吉田英也は、退任後の1991年(平成3年)に同館に寄贈された甲府商家大木家所蔵文書(甲州文庫、現在は山梨県立博物館に寄託)の整理過程の中で、広瀬本万葉集奥書に記される「春日昌預」と甲府町年寄の山本金右衛門が同一人物であることを発見し、飯田文彌と共同で発表し注目される。 昌預は町年寄時代から作歌に励み、晩年には年間千首以上の作歌を行い、現在伝わるだけで9冊の歌集、5000首以上の和歌を残している。昌預の和歌は『万葉集』などの影響を受けた花鳥風月の実景を題材とした自然詠が中心で、町年寄役として現地視察を行った荒川水害を詠んだ歌もある。吉田英也は県立図書館の頼生文庫や大木家文書などに含まれる昌預の和歌を翻刻して山梨郷土研究会誌『甲斐路』へ発表し、後に『春日昌預家集』としてまとめられている。 ^ 加藤家資料は山梨県立博物館に寄託 ^

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明治大学 – Wikipedia

明治大学(めいじだいがく、英語: Meiji University)は、東京都千代田区神田駿河台一丁目1番地に本部を置く日本の私立大学である。1920年に設置された。大学の略称は明大(めいだい)。 暁の鐘(岸本記念講堂) 大学全体[編集] 江戸幕府の洋学所の伝統を引き継ぐ大学南校から優秀な生徒を抜擢して設立された司法省明法寮で学び、司法省法学校の第一期卒業生となった青年法律家達が、「近代市民社会を担う聡明な若者を育成する」ことを目指し、1881年に創設した明治法律学校を前身とする[1]。日本で西洋近代法を習得した第一世代にあたり、明治期の日本の司法を支えることとなった、司法省法学校の第一期生の過半数が明治大学の創設に関与している。創立期のメンバーからは民法起草に携わった法曹や大審院院長などの他、西園寺公望(第12・14代内閣総理大臣)など、政治家や外交官として活躍した者などが多数誕生している。 有楽町数寄屋橋内の旧島原藩上屋敷「三楽舎」を校舎として開校したが、その後、1886年に駿河台に校舎を構え、以来、同地に本部を構え現在に至る。駿河台を含む御茶ノ水エリアは文教施設が集積し、「日本のカルチェ・ラタン」とも称される日本を代表する学生街となっている。本部以外に、東京都に2キャンパス、神奈川県に1キャンパスを設置[2]。10学部及び大学院12研究科と、高度専門職業人の養成を図る専門職大学院(ガバナンス研究科、グローバル・ビジネス研究科、会計専門職研究科、法務研究科(法科大学院))を擁する総合大学である。 和泉キャンパス(明大前) 入試に於いては、実志願者数[3] や、「生徒に人気の大学」ランキング[4] などで、例年トップクラスにランキングされている。 大学の略称は「明大」であり「めいだい」と発音するほか、 和泉キャンパス最寄には「明大前駅」が存在する。 学校法人明治大学は、大学名として商標「明治大学」 称呼「メイジダイガク、メイジ」 を商標登録(登録商標日本第3043764号)しているほか、略称として商標「明大」称呼「メイダイ、メーダイ」も商標登録(登録商標日本第6049745号)をしている。 理念[編集] 創立時からの伝統によって確立された建学の精神「権利自由、独立自治」[5] に基づき、自由と自治の精神を養うことを理念とし、「知の創造と人材の育成を通し、自由で平和、豊かな社会を実現する」ことを大学の使命としている[6]。 国際社会を牽引する「世界に開かれた大学」を目指すとしている[6][7][8]。大学の公式パンフレット等[9]

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カフェ アアルト – Wikipedia

カフェ アアルト (CAFE AALTO) は、フィンランドの喫茶店である[1][2]。ヘルシンキに本店がある他、日本の京都に支店がある[3][4]。企業形態は、有限責任会社である[5]。カフェ・アアルト、カフェ・アールト[7]などとも表記される。 ヘルシンキ店[編集] カフェ アアルト ヘルシンキ店 (CAFE AALTO Helsinki) は、カフェ アアルトの本店である[4][8]。ヘルシンキのポホヨイスエスプラナーディ通りの39番地にあるアカデミア書店の2階に所在する[9][10][11]。ヘルシンキ中央駅から徒歩で5分ほどのところにある[7]。 建築家のアルヴァ・アアルトによって設計され、1955年にケスクスカトゥ通り (fi:Keskuskatu (Helsinki)) 3番地に完成されたオフィスビル、ラウタタロ (fi:Rautatalo) の中に設けられた「大理石の庭」(Marmoripiha)

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