アブドル・バハ – Wikipedia

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アブドル・バハ[1](/əbˈdʊl bəˈhɑː/; ペルシア語: عبد البهاء, 1844年5月23日 – 1921年11月28日)は、バハイ教の創始者バハオラの長男であり、1892年から1921年までバハイ教の指導者としての役割を担った。アブドル・バハは後に、バハオラとバブとともに、この宗教の3人の中心人物のうちの最後の人物として神聖視され、アブドル・バハにより書かれた書物[2]や講演の記録[3]などは、バハイ教の聖なる経典の一部とみなされている。

アブドル・バハは、テヘランの貴族の家に生まれた。8歳のとき、政府によるバビ教徒への弾圧で父親が投獄され、一家の財産は略奪され、事実上の貧困状態に陥ったという。その後、父親は祖国イランから追放され、一家はバグダッドに9年間滞在した。その後、一家はオスマン帝国に召還されてイスタンブールへ移動、エディルネでの滞在を経て、アッカの監獄都市で再び政治犯として監禁され、すごした。

1892年、アブドル・バハは父の遺した遺訓(遺言)により、その後継者としてバハイ共同体の指導者に任命される。これは、宗教上の継承の争いを避け、分裂を避け、経典から派生する教えをより完全な形で保存することにより信教の発展の基礎を築くために講じられた策であり、バハオラはこの概念を「聖約」と命名している。アブドル・バハが著した『聖なる計画の書簡』は、北米のバハイが新しい地域にバハイの教えを広めるのに役立ち、彼の「遺訓と遺言」は現在のバハイ行政秩序の基礎を築いた。彼の著作、祈り、書簡の多くは現存しており、西洋のバハイとの会話の記録からは1890年代後半までの信仰の成長の様子をうかがうことができる。

1908年に64歳でトルコ人革命によって解放されるまで、アブドル・バハはバハオラの40年間におよぶ流刑と投獄をともにし、成人したころから父の側近としてだけでなく、バハオラを守る盾として、そしてバハイ教の主な代理として様々な役割を果たした。

第一次世界大戦の勃発により、1914年から1918年まではハイファに滞在。バハイ教が拠点を置くハイファは、第一次世界大戦中はバハイ教に対し敵対的だったオスマン帝国の統治下にあったが、終戦によりイギリス委任統治領へと変わった。アブドル・バハは戦後の飢饉を回避するために貢献したことで、後にイギリスから爵位を授与されている。

アブドル・バハの出生時に与えられた名前は、アッバスであり、文脈によって、ミルザ・アッバス(ペルシャ語)、アッバス・エフェンディ(トルコ語)と表記されるが、これらはどちらも日本語での、アッバス卿という表現と等しい。彼自身は、アブドル・バハ(「バハのしもべ」という意味で、「バハ」は父であるバハオラを指す)の称号を好んだ。一般に、バハイ教の書籍や文献では、アブドル・バハは「師」という言葉で言及されている。

アブドル・バハは、1844年5月23日にイランのテヘランで、バハオラの長子として生まれた。バブが顕示者としてその使命を宣言したまさに同じ日の夜のことだった。名前のアバスは、有力貴族だった彼の祖父ミルザ・アバス・ヌリにちなんだものである。彼の幼少期は、傑出したバビ教徒だった父の立場によって形成された。バビのタヘレと出会った時のこと、膝に載せて愛撫し、話しかけてくれた時のこと、とても深く憧れていたことを、後年述懐している。アブドル・バハは幸福でのびやかな幼少期を送った。家族で住んでいたテヘランの家も、田舎の邸宅も、快適で美しい装飾が施されていた。仲睦まじかった妹と一緒に庭園での遊びに興じた。妹のバヒイー、弟のミーディと共に三人で、幸福で快適な特権的環境で暮らしていたのである。父が宮廷の大臣職を辞退したのは彼の少年期の時だった。女性と子供たちのために邸宅の一画を病棟に改造することを含め、アブドル・バハの目の前で、両親は様々な慈善事業に取り組んでいた。

アブドル ・バハは系統的な教育を子供時代に受けていない。貴族はその子弟を学校に通わせないことが当時の慣習だった。聖典、修辞学、書道、そして基礎的な数学の教育を、広く浅く、家庭で受ける貴族が大半だったからである。多くの貴族が教育を受けたのは、宮廷で宮仕えする人生への準備のためだった。7歳時の一年間、伝統的な予備学校に通ったが、アブドル ・バハは正式な教育を受けなかった。成長していく彼を教育したのは、母と伯父だった。しかし、彼の教育の大半は父からもたらされた。後年の1890年、エドワード・グランヴィル・ブラウンはアブドル ・バハをこのように描写した。「より雄弁に演説し、弁論の準備をより万端に整え、例示能力により優れ、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖典により精通した人物、… 雄弁な論客を集めても彼ほどの弁士は滅多に見出せない」

アブドル ・バハは7歳の時に、結核にかかった。予期された死は免がれ、病弊は消えていったが、人生の最後まで発作に悩まされた。

子供時代のアブドル ・バハを大きく揺さぶった出来事は、8歳の時の父の投獄だった。その結果、一家は貧困に陥り、よその子供たちから路上で攻撃されるようになった。悪名高き暗黒の地下牢シヤチャールに投獄されたバハオラを、アブドル ・バハは母にお供し、面会に訪れた。「私の目に映ったのは、暗く勾配が険しい場所でした。小さくて狭いドア口から入り、階段を二段降りましたが、それより先は何も見えません。階段の中頃まで降りると、突然、父、バハオラの声が聞こえました。『その子をここに来させてはいけません』。そこで、私は連れ戻されました。」

バグダッド[編集]

バハオラは最終的に釈放されたが、追放を命じられた。当時、8歳だったアブドル ・バハは、父に随伴し、バグダットへの旅(1853年1月から4月)に参加した。時は冬。旅の間に凍傷にかかった。バハオラは、困難に満ちた一年の後、ミルザ・ヤーヤとの抗争を続けるよりもむしろ、身を引くことを選び、スライマーニーヤの山々に密かに隠遁した。1854年4月、アブドル ・バハが10歳の誕生日を迎える1ヶ月前のことだった。苦難をいつも共にしてきた彼も、母も、妹も、悲しみに沈んだ。アブドル ・バハは母と妹とは特に親密だったが、母は彼の教育と養育に積極的に参加してくれた。父不在の二年間、成年の歳(中東社会では14歳)を迎える前でありながら、アブドル ・バハは家庭の諸事管理を務めたことが知られている。そして、読書に没頭し、手書きによる写本が主な出版手段の時代ゆえ、バブの書物の書写にも取り組んだ。乗馬術にも関心を持ち、成長するにつれ、優れた騎手として知られるようになった。

1856年、おそらくバハオラと思われる禁欲的生活を送る人物が、地方のスーフィズムの指導者と談論を重ねているという知らせが、彼の家族と友人の元に届いた。家族も友人たちも、行方がつかめないこの修道僧の捜索にただちに出向いた。そして3月、バハオラはバグダットに戻された。父の姿を目にするなり、アブドル ・バハは膝まずき、「どうして私たちを置き去りにしたのですか?」と、大声をあげて泣いた。母も妹も同じだった。彼はほどなくして父の秘書となり盾となった。バグダッドに滞在する間に、アブドル ・バハは少年から若者へと成長した。「驚くほどに端正な姿をした若者」として注目され、その思いやりと親しみやすさで人々の記憶に刻まれた。成人の歳を過ぎると、バグダッドのモスクで宗教の話題と聖典について一人の若者として議論している様子が常に見られた。その滞在期間、父の要望に応え、アリ・ショウカット・パシャという名のスーフィズム指導者のために、「私は隠された宝だった」というイスラム教の伝承を論評した。アブドル ・バハはこの時、15か16歳だった。11000語以上のこの評論を受け取ったアリは、この年齢にしては見事な出来栄えだ、と称えた。1863年、レズワン庭園として知られるようになった場所で、父、バハオラはごく少数の者に、自分は神の顕示者であり、バブが予言していたその到来を神が明らかにする者であることを公表した。滞在した12日間の八日目の晩だった。アブドル ・バハはバハオラがその主張を明らかにした最初の人物であると信じられている。

コンスタンティノープル/アドリアノープル[編集]

アブドル・バハ(右)と弟のミルザ・ミディ

1863年、バハオラがコンスタンチノープルに召喚されたことで、当時19歳になっていたアブドル ・バハを含む家族が、110日間にわたる旅に随伴した。追放先となるコンスタンチノープルへの旅も疲弊する旅だったため、皆の体調が崩れないようアブドル ・バハが助けた。彼の立場がバハイの中でさらに傑出するようになったのは、コンスタンチノープルにおいてだった。バハオラが自著の「枝の書簡」で息子の美徳と地位を常一貫して称揚することで、より強化された。しかし、到着して滞在を始めたものの、アドリアノープルへの追放令がまもなく発せられ、アブドル ・バハも家族と共に同行した。凍傷に再びかかった。

アドリアノープルでのアブドル ・バハは、家族の唯一の、特に母親の慰め役として見なされていた。この時点で、アブドル ・バハはバハイからは「師」、一般社会からは「アバス卿」の呼称で知られていた。バハオラが自分の息子を「神の神秘」として言及したのは、アドリアノープルにおいてだった。「神の神秘」という称号は、バハイによれば、アブドル ・バハは神の顕示者でないが、人間の性質の比類なき特質と、常人を超える知識と完全性が、アブドル ・バハという人物の中でいかに混合されてきたか、そして、いかに完璧に調和していることかを示唆するものである。当時のアブドル ・バハは、肩に流れる黒髪、大きな青い眼、血色良い白く滑らかな肌、形良い鼻の持ち主として知られていた。バハオラが息子に与えた称号は他にも数多い。「最大の枝」「聖なる枝」「聖約の中心」そして「愛しい存在」が代表する。アブドル ・バハ(師)は、彼を含む家族がバハオラとは別々に追放される、という知らせを聞いた時、大きく落胆した。しかし、その構想は彼の嘆願により撤回され、家族皆が共に追放されることが許可された。

24歳の時、アブドル・バハは父の最も近い側近であり、バハイ共同体の傑出した一員であった。バハオラとその家族は、1868年、(当時の)パレスチナの監獄都市、アッカに追放され、そこで彼らは死に絶えるだろうと予想されていた。家族と、彼らと共に追放された者たちにとって、アッカへの到着は悲惨極まりないものだった。彼らは、周囲の人々の敵意に満ちた環境の中に迎えられ、アブドル・バハの妹と父は、命に関わる病気にかかった。岸へ上陸する際、女性は男性の肩に座ってくるものだと言われた時、アブドル・バハは椅子を用意して女性を担ぎ、アッカの入り江まで運んだ。彼は、苦労して麻酔剤を手に入れることができ、病気の者を看病した。バハイたちは、汚物と泥にまみれた監房という恐ろしい場所に投獄された。アブドル・バハ自身も、赤痢にかかり、危険な状態に陥ったが、同情的な兵士が、医者に治療を施すのを許可したことにより一命を取り留めた。アッカの人々は、バハイたちを避け、兵士も同様に振る舞ったので、アザリ派の人々の画策は実を結ばなかった。アブドル・バハの末の弟、ミルザ・ミディが不慮の事故によって22歳で亡くなったことは、アッカに送られた一行にとって、気力を更に削ぐ、辛い出来事だった。その死は、家族、特にその母と父に非常な苦しみをもたらした。そして、嘆き悲しむアブドル・バハは、弟の遺体に寄り添って一晩、寝ずの番をした。

バハオラとその家族が収監されたアッカの牢獄

アッカでのその後[編集]

アブドル・バハは徐々に、追放されたバハイたちの小さな共同体と外の世界の間の関係を取り持つ責任を担うようになった。バハイたちによれば、アブドル・バハとの交流を通して、アッカの人々はバハイの無実を認識するようになり、その結果、投獄の状況も緩和された。ミディの死から4ヶ月後、家族は、刑務所から出てアブードの家に移ることができた。アッカの人々は次第に、バハイを、特にアブドル・バハを尊敬するようになった。アブードの家の隣に住んでいたカマールは、バージに邸宅を持っていた。後に、1879年頃、伝染病を避けるために、カマールとその家族がよそに移った時、アブドル・バハは、家族のためにバージの館を借り、家族はそこに移った。

アブドル・バハはすぐに監獄都市において、とても有名な存在となり、その様子が、裕福なニューヨークの弁護士、マイロン・ヘンリー・フェルプスによって次のように描写されている。「人々の群れ…、シリア人、アラブ人、エチオピア人、その他にも大勢」がみんなアブドル・バハと話をしようと待っていた。フェルプスは、バビ教の歴史を『旅人の話』を1886年に出版し、後にケンブリッジ大学のエドワード・グランヴィル・ブラウン博士によって翻訳され、出版された。ブラウン博士は、次のようにアブドル・バハを描写している。

これほど感銘を与える外見をした人物を見ることは滅多になかった。背が高く、がっしりとした男性で、矢のように真っ直ぐに立っていた。白いターバンと衣服を着て、ふさふさした黒髪はほとんど肩まで届き、広く力強い額が、揺るがない意思と組み合わされた強い知性を表し、目は鷹のように鋭く、非常に目立つ、しかし人好きのする特徴を兼ね備えている ――これが、アッバス・エフェンディ、「師」に対して私が抱いた最初の印象だった。[4]

結婚と家族生活[編集]

24歳のアブドル・バハ

アブドル・バハが若かった時、バハイたちの間で頻繁に憶測が交わされたのは、彼が誰と結婚するのかということだった。数名の若い女性が結婚相手として候補に上がったが、アブドル・バハは結婚に気が進まないようだった。1873年の3月8日、父からの勧めで、28歳のアブドル・バハは、イスファハンの上流階級出身の25歳のファテメ・ナハリー(1847–1938)と結婚した。彼女の父は、イスファハンのミルザ・ムハンマド・アリ・ナハリーであり、著名なバハイであった。ファテメは、バハオラとその妻のナバブが、彼女がアブドル・バハと結婚することに関心を示した後、ペルシャからアッカまで送られて来た。イスファハンからアッカまでの非常に疲れる旅を経て、1872年に彼女は兄弟たちに護衛されて、ついにアッカに到着した。若い二人は、結婚生活を開始する約五ヶ月前に婚約した。婚約期間の間、ファテメは、アブドル・バハの叔父、ミルザ・ムサの家に住んだ。後年の彼女の回顧録では、ファテメはアブドル・バハを見て恋をしたという。アブドル・バハ自身はファテメに会うまで、結婚に関して特に察していなかった。ファテメはバハオラによって、「輝く」という意味のムニレという称号を与えられた。

結婚によって、二人は9人の子どもをもうけた。最初に生まれた長男、ミディ・エフェンディはわずか3歳で亡くなった。彼の後に生まれたのは、ズィアイエ・カヌーム、フォディエ・カヌーム(2, 3歳で死亡)、ルハンギーズ・カヌーム(1893年に死亡)、トゥバ・カヌーム、ホセイン・エフェンディ(1887年に5歳で死亡)、トゥバ・カヌーム、ルハ・カヌーム(モニーブ・シャヒードの母)、モナヴァール・カヌームである。子どもたちの死、特に、息子、ホセイン・エフェンディの死は、母と叔父を亡くした辛い時期に起こったので、アブドル・バハに計り知れない悲しみをもたらした。生き残った子どもは全て娘であり、次の4人である。ズィアイエ・カヌーム(ショーギ・エフェンディの母、1951年に死亡)、トゥバ・カヌーム(1880-1959)、ルハ・カヌーム、モナヴァール・カヌーム(1971年に死亡)。バハオラは、バハイたちがアブドル・バハの例に倣って、徐々に一夫多妻制をやめるよう願っていた。アブドル・バハの一人の女性との結婚と、一夫一婦であり続けたその選択は、父の助言と彼自身の願いによるものであったが、当時まだ一夫多妻制が正しい生き方だと考えている人々にとって、一夫一婦制を適法なものとしたのである。

指導者としての任期の初めの頃[編集]

バハオラが1892年5月29日に亡くなった後、バハオラの遺訓と遺言により、アブドル・バハが聖約の中心、後継者、バハオラの書物の解説者として指名された。

バハオラは、自らの後継者を次の文節で指名している。

聖なる遺言者の遺言はこれである。すなわち、アグサン、アフナン、およびわが親族は皆、例外なく、最も偉大なる枝にその面を向ける義務がある。我が、わが最も聖なる書に顕したことを熟考せよ。「わが現存の海が引き、わが啓示の書が終わったとき、神の定め給うた者、この古(いにしえ)の根より生えた者に汝らの面を向けよ」 この聖句の指している者は最も偉大なる枝(アブドル・バハ)に他ならない。我はこのように恩寵深くわが強力なる遺言を著した。我は誠に恩寵深く、すべてに恵み深き者である。まことに、神は、大いなる枝(モハメッド・アリ)の地位を最も偉大なる枝(アブドル・バハ)の地位の下に定め給うたのである。彼こそは定め給う御方、全賢者である。全知者、すべてに見識ある御方なる彼が定められたように、我は「大いなる」を「最も偉大なる」の後にしたのである。
―― バハオラ(1873-92)[5]

『聖約の書』(ケタベ・アード)の翻訳は、文法逸脱に基づいて訳されている。しかし、AkbarとAʻzamは、それぞれ、「偉大な」や「最も偉大な」を意味しない。この二つの言葉が完全に別の「3つの子音を含む語根」(Akbarは、 k-b-r から、また、 Aʻzam は ʻ-z-mから)に由来するだけでなく、アラビア語には、比較級と最上級の明確な違いのない、等級の段階を表す絶対最上級(強意)がある。「遺訓と遺言」において、アブドル・バハの異母弟、モハメッド・アリは、アブドル・バハに従属する名前で言及されている。モハメッド・アリはアブドル・バハに嫉妬し、自分の兄弟のバディウラとズィアウラの支援を受けて、自らを新しい指導者として権威を確立し始めた。モハメッド・アリは、当初、秘密裏に、イランのバハイたちと文通を始め、アブドル・バハへの疑念を彼らの心へと植え付けた。大多数のバハイがアブドル・バハに従ったが、少数の人々がモハメッド・アリに従った。その中には、アメリカへバハイを布教した初期のメンバーである、ミルザ・ジャヴァードやイブラヒム・ジョージ・ケイララもいた。

モハメッド・アリとミルザ・ジャヴァードは、公然と、アブドル・バハは権力を持ちすぎている、自らをバハオラと同等の地位である「神の顕示者」だと信じているに違いないと非難した。この頃、アブドル・バハは自らに向けられた告発の偽りを証明すべく、西洋への書簡で、自らは「アブドル・バハ」として知られ、この称号がアラビア語で「バハのしもべ」を意味すること、自分は「神の顕示者」ではなく、その地位はあくまで隷属に過ぎないことを明確に記述した。アブドル・バハは、その遺訓と遺言で、行政機構の枠組みを打ち立てた。彼が確立した二つの最高位の機構は、万国正義院と守護者制度であり、守護者としてショーギ・エフェンディを指名した。モハメッド・アリは、アブドル・バハとショーギ・エフェンディを除く、バハオラの親戚の生存していた全ての男性の支援を取り付け、その中には、ショーギ・エフェンディの父であるミルザ・ハジ・シラジも含まれていた。しかしながら、モハメッド・アリとその家族の声明は、一般的に、バハイたちにほとんど影響を及ぼさなかった。アッカの地域において、モハメッド・アリの信徒はせいぜい6家族で、彼らは一緒に宗教的な活動をすることもなく、ほとんど完全にムスリム社会に同化していった。

最初の西洋の巡礼者[編集]

1898年の終わりまでに、西洋の巡礼者たちがアブドル・バハを訪問するためにアッカへやってくるようになった。フィービー・ハーストを含む、この巡礼者のグループは西洋で育ったバハイたちがアブドル・バハに会った最初の時だった。最初のグループが1898年に到着し、1898年の終わりから1899年の初めにかけて、西洋のバハイたちは単発的にアブドル・バハを訪問した。グループは、比較的若く、上流のアメリカ社会に属する主に二十代の女性を含んでいた。西洋人のグループの訪問により、当局は疑いをもち、結果としてアブドル・バハの幽閉状態が厳しいものとなった。これに続く十年間の間、アブドル・バハは世界中のバハイたちと継続的なコミュニケーションを持ち、信教を教えるよう彼らを励ました。それらの人々の名前の一部をここに挙げる。パリのメイ・エリス・ボールズ、英国人のトーマス・ブレイクウェル、アメリカ人のハーバート・ホッパー、フランス人のヒッポライト・ドレイファス、スーザン・ムーディ、ルア・ゲッチンガー、アメリカ人のラウラ・クリフォード・バーニー。長年に渡って、ハイファへの幾度もの訪問においてアブドル・バハに質問をしたのがラウラ・クリフォード・バーニーであり、後にその質問と答えが集められて、「質疑応答集」となった。

アブドル・バハの葬儀、ハイファ、1921年

1901年から1912年[編集]

19世紀の最後の年、アブドル・バハは公式にはいまだに囚人であり、アッカに幽閉されていたが、バブの遺体をイランからパレスチナに移送することを計画した。そこで、バハオラがバブの遺体を安置する場にするようにと指示していたカーメル山で土地を購入し、廟堂建設の段取りを計画した。このプロセスはさらに10年の歳月を要した。アブドル・バハを訪問する巡礼者が増加したことで、モハメド・アリはオスマン帝国の当局と共謀し、囚われの身にあるアブドル・バハへの面会条件を、1901年8月に改めて厳しくした。けれども1902年を迎えるまでにはアッカの知事が肩入れするようになっていたことで、状況は大きく緩和された。おかげで、アブドル・バハがこの監獄都市に幽閉されていても、巡礼者たちは以前と同じように訪問することができた。1903年2月には、バディウラとセイイェド・アリィアフナンというモハメド・アリの従者二人がアリと絶縁した。二人は彼の陰謀の詳細を本と手紙に書き記し、アブドル・バハについて流布している話はでっち上げであることを指摘した。

1902年から1904年までの期間、アブドル・バハは指揮をとっていたバブの廟の建設に加え、二つの事業の実施を開始した。イランのシーラーズにあるバブの家の復元と、トルクメニスタンのアシガバートでの最初のバハイ礼拝堂の建設である。1844年にバブがムラ・フセインに宣言した時の状態にバブの家が復元されるよう、アブドル・バハはアクァ・ミルザ・アクァに作業の調整を依頼した。礼拝堂建設は、ヴァキール・ダフリーに委任した。

この時期、アブドル・バハは、オスマン・トルコ帝国皇帝アブデュルハミト2世の統治に反対する数多くのトルコ人青年と連絡を取り合っていた。ナムク・ケマル、ズィヤー・パシャ、ミドハト・パシャを含む青年たちは、バハイの思想を彼らの政治的イデオロギーに取り入れ、拡散しようと試みていた。アブドル・バハは、「自由を求め、解放を愛し、平等を望み、人類の幸福を願い、人類の和合のためなら命を犠牲にする覚悟ができている」のがバハイであり、取り組みが青年トルコ人たちよりも広範であることを強調した。統一と進歩委員会の創設者の一人であり、バハイ信教をイスラム教が究極的に放棄されるまでの中継ぎ的段階にあるものと考えていたアブドゥラー・ジェヴデトは、彼が創刊した定期刊行物の中でバハイを擁護したために裁判にかけられようとしていた。

アブドル・バハは、ブルサリ・メフメト・タヒア・ベイとハサン・ベドレディンを含む軍事指導者たちとも接触した。後者は、皇帝アブデュルアズィズの王座転覆に加担した者である。ベイチ・パシャとして一般に知られ、ペルシャ語のアブドル・バハイの出典ではベイチ・ベイとして言及されている。アブドル・バハが記した書物をフランス語に訳したバハイだった。

アブドル・バハは、イスラム教現代主義とサラフィー主義の重要人物の一人であるムハンマド・アブドゥフとも、ベイルートで会談した。双方ともがオットマン帝国の学者に対抗し、宗教改革という近似した共通の目標を持っていた時のことだった。ラシード・リダーは、彼がベイルートに来訪していた期間に、アブドル・バハがアブドゥフの研究会によく顔を見せていたと断言している。アブドル・バハとムハンマド・アブドゥフの会談については、ショーギ・エフェンディがこのように断言する。「有名なシャイフのムハンマド・アブドゥとの数度の対談により、共同体の威信が大いに高められ、最も傑出したメンバーの名声が国外に広がった。」

アブドル・バハの政治的活動と、モハメド・アリが申し立てた告発を受け、調査委員会がアブドル・バハへの聞き取りを1905年に行った。その結果、フェザーンへの追放がほぼ決定された。アブドル・バハはこれへの抗弁として、信者は政党政治には関与しないこと、彼のスーフィズムの修行によって多くのアメリカ人がイスラム教(イスラム圏?文化?)に導かれたことを、皇帝に宛てた手紙に記した。翌年からの数年間、それまでの圧力からアッカは比較的解放され、巡礼者がアブドル・バハの元に来訪することができた。そして、1909年までには、バブの廟の霊廟が完成した。

西への旅[編集]

米国に滞在中のアブドル・バハ

1908年に64歳でトルコ人革命によって解放されたアブドル・バハは、1910年から1913年にわたる西洋への旅へと出立した。イギリス、フランスに滞在してから、アメリカ東海岸に渡り、カナダを訪問した後に北米大陸を横断した。西海岸に到達した復路で東海岸に戻ると、海路で再びイギリスを訪れ、フランス、ドイツ、ハンガリー、オーストリアを巡った後に最初の訪問地エジプトに戻った。彼の西洋への旅はバハオラの教えの広がりとヨーロッパと北米のバハイ共同体の確立に大きく貢献した。双方の大陸での彼の演説は、社会状況を懸念し、平和、女性の権利、人種偏見の撲滅、社会改革、道徳の発展に献身する著名人たちから高い評価をもって歓迎された。訪問する先々でアブドル・バハがもたらしたメッセージは、古来から約束されていた人類が和合する時代が到来したことを告げるものだった。彼は平和の確立に必要な社会状況と国際的な政治機関を創設する必要性を繰り返し述べた。そして、この旅行から2年も経たない内に、第一次世界大戦が現実に勃発したのである。

旅の途上での二人の日本人との出会いを紹介する。 

荒川子爵との会見

1912年、スペイン駐在の日本大使であった荒川子爵夫妻の切望に応じ、アブドル・バハは一日中長時間の活動で疲れ切り、悪天候であったにかかわらず、夫妻が滞在していたパリのホテルへと出向いた。アブドル・バハは荒川夫妻に、日本の状態、その国の国際的な重要性、人類への大なる奉仕、戦争廃止のための努力、労働者の生活条件の改善、男女共に教育の機会を与える重要性などについて語り、「宗教の理想は人類の福祉のためのあらゆる計画の精髄をなす。宗教は決して党派的政治の道具に用いられてはならない。神の政策は強大であり、人間の政策は微弱である」と述べている。[6]

成瀬仁蔵氏との会見[7]

日本で最初の女子大学である日本女子大学の創立者、成瀬仁蔵学長はアブドル・バハと面会した数少ない日本人の一人である。日露戦争後の社会不安が残る当時、成瀬仁蔵は自らが中心となり、さらに渋沢栄一、姉崎正治らの学者・実業家らを発足人に加え、宗教者同士の相互理解と協力を推進する組織として1912年に「帰一教会」(コンコーディア)という運動の中核を作った。その目的は、あらゆる国民が和合し得る共通の進行の基盤を探すことであった。その運動のため世界一周の旅についた成瀬仁蔵は、著名帳をたずさえ、訪問先の異なった国ぐにの著名人より善意のことばを集めた。

1912年、成瀬学長はロンドン滞在中のアブドル・バハを訪れ、オリエンタル・レビューに掲載された日本でのコンコーディア運動についての記事をみせた。アブドル・バハは、バハイの大業の原則について語り、それらの原則を実行するために、いかにわれわれが神の力を必要としているかを語った。そして、「ちょうど太陽が太陽系におけるすべての光の源であるように、今日ではバハオラが人類の和合と世界平和の中心である」と述べ、日本に帰ってこれらの崇高な理想をひろめるよう、成瀬氏に熱心に懇請した。以下はアブドル・バハが成瀬氏の著名帳に残した祈りである:「おお神よ!宗教間、国家間、及び人々の間、の論争、不和、戦争の暗黒は真実の地平線を曇らせ、真理の天をおおい隠した。世界は教導の光を必要としている。それ故、おお神よ、実在の太陽が東西両洋を照らすよう汝の恩恵を授けたまえ」[8]

晩年(1914–1921)[編集]

巡礼者たちと共にカルメル山上に立つアブドル・バハ、1919年

戦後[編集]

晩年のアブドル・バハ

爵位を授与される式典でのアブドル・バハ、1920年4月

死と葬儀[編集]

アブドル・バハは、1921年11月28日、ハイファで没し、葬儀には、約一万人が参列した。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教とを含む多種多様な人々が集まった。「自己犠牲の生きる模範」であり「平和を打ち建てる柱」であり、人類を「真理の道」へと導いた人であると、多くの賛辞が送られた。

伝記[編集]

アブドル・バハは生涯を通じて総数(推定)27,000通以上の書簡を執筆しているとされるが、多くの物は翻訳されていない。アブドル・バハの著書と呼ばれるものは2つのグループに分かれており、1つ目は彼が直接書いたもの、2つ目は講演や会話の記録である。 第一のグループには、1875年以前に書かれた『聖なる文明の秘訣[9]』、1886年頃に書かれた『旅人の話』、1893年に書かれた『統治術に関する説教』、『信仰者の記念品』、そして、西洋の知識人を含む様々な人物に宛てられた書簡が含まれる。2つ目のグループには、アブドル・バハが聖地で巡礼者を迎え、巡礼者から出される問いに答える形での会話が『質疑応答集』[10] という形で残されている。また、晩年の欧米訪時の演説をまとめた『パリ講話集』[11]『アブドル・バハのロンドン講話集』[12]『万国平和の普及』[13]などが書籍として出版されている。これらは厳密な意味での著書ではないが、アブドル・バハが後に内容を確認し承認したものであるため、バハイ教の聖典の一部とみなされている。

参考文献[編集]

文献[編集]

外部リンク[編集]

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