小樽市立緑小学校 – Wikipedia

小樽市立緑小学校(おたるしりつみどりしょうがっこう)は、北海道小樽市花園5丁目にあった公立小学校[1]。略称は「緑小」[2]。国語教育を特色としていた[1]。市の統廃合計画により2018年(平成30年)2月10日に閉校し、小樽市立山の手小学校に統合された[1]

1920年(大正9年)4月に「緑尋常小学校」として、児童417名で開校した[1][3]。国語教育に力を入れており、「国語の緑」として、日本全国的に見ても先駆的な存在であった[1]。大正末期には、教育者の芦田惠之助が、3代目校長が芦田の弟子という縁で、本校で国語教育を行った[4]。芦田が本校を訪れた回数は、死去の2年前である1949年(昭和24年)まで、18回に達した[4]。この記念として1954年(昭和29年)、芦田の直筆の「共に育ちましょう」の碑文が刻まれた記念碑が校内に建てられ、この碑文は緑小の憲法にもなった[4]。平成期においても、読書で声に出して読む音読に力を入れており、すべての学級で毎朝の日課とされていた[5]。緑小の著による書籍として『読解力から表現力へ向かう学力』(東洋館出版社)もある[6]

著名な生徒として、小樽出身のアメリカ軍将校にして反戦主義者のオーテス・ケーリがいる(4年生のとき神戸へ転校)[7]。ケーリは緑小3年のとき、当時の軍国主義教育のもとにもかかわらず、「せんそうのはるい(悪い)事」と題した作文で、反戦の意思を主張していた[7]

また終戦直後には、小樽出身の小説家である早川三代治が、師である島崎藤村から貰った掛け軸を、終戦翌日の1945年(昭和20年)8月16日に、「心の苦しみ、魂の悩みに対する慰安と勇気づけに役立ててください」と、緑小の校長と教員を励ますために贈ったという逸話もある[8][9]。この掛け軸は、早川の未発表原稿「敗戦前後」が発見された2015年(平成27年)に、緑小に保管されていることが確認された[9][10]

小樽市の人口減少や少子化に伴う統廃合計画により[11]、2018年2月に閉校し、同年にすでに閉校していた小樽市立最上小学校、小樽市立入船小学校と共に、同2018年4月開校の小樽市立山の手小学校に統合された[1]

北海道立図書館による市町村活動支援事業の一環「学校ブックフェスティバル」が、小樽で初めて開催された学校でもあり[2]、閉校後は市立小樽図書館に事業が受け継がれて「おたる学校ブックフェスティバル」として、小樽市立長橋小学校などで開催されている[12]

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