磯又右衛門 – Wikipedia

磯 又右衛門(いそ またえもん、天明6年(1786年)または文化元年(1804年) – 文久3年7月15日(1863年8月28日))とは、天神真楊流の流祖である。前名は岡本八郎治、名は正足(まさたり)である。号は柳関斎(りゅうかんさい)[1]

正足の生年は、正足が嘉永6年(1853年)に作成した磯家『由緒書』に「磯又右衛門 丑歳五十」と記しているので、文化元年(1804年)となるが、天明6年(1786年)生まれとする説もある[1]。しかし、文化元年だと修行年数が合わなくなることや、78歳で没したという説もあり何年に生まれたのかはっきりしない。

伊勢国松坂(現三重県松阪市)で紀州藩士の家に生まれる。幼年のころから武術を好み、文政元年(1818年)に江戸に出て一柳織部義路について楊心流柔術を数年学んだ。しかし、義路の死にあい、ついで本間丈右衛門環山正遠について真之神道流を学んで奥義を極めたのち、武者修行に出て、諸藩の柔術名家と試合をしたが一度も不覚を取ることがなかった。

武者修行中のこと、近江国草津(現滋賀県草津市)に滞在して柔術を教授していたとき、たまたま人を助けるために、百余人の悪者どもと闘わなければならないことがあった。このとき、高弟西村外記之輔と二人で、多年修練の秘術を尽くしてこれを追い散らし、被害者を救った。

この闘いで、真剣勝負では真の当て身を体得していなければ、勝利を得ることが困難であることを悟り、その後はもっぱら当身の工夫を行って新しい分野を開いた。

主な弟子に近江国草津で百余人の悪者と戦ったときに磯と共闘した西村外記之輔や、他流試合で三人同時に相手にした松永清左衛門、彰義隊の今泉八郎(真蔭流)などがいる。

  • 西村外記之輔 (にしむらげきのすけ)
  • 寺崎認之
  • 西鎌太郎
  • 上田権平柳玉斎清
  • 藤田銀八郎(柴真楊流)
  • 富山登(柳心介冑流)
  • 谷鹿之助
  • 磯又一郎正光
  • 松永清左衛門(磯正智)
  • 八木貞之助
  • 川渕長左衛門
  • 城田亀司
  • 長島直吉柳玄斎行忠
  • 原田要人之輔柳容斎源正徳
  • 今泉八郎柳定斎定智(真蔭流)
  • 吉田伝左衛門柳藤斎直義
  1. ^ a b デジタル版 日本人名大辞典+Plus

参考文献[編集]

  • 天神真楊流柔術極意教授図解 p19 「真楊流元祖の略伝」
  • 今村嘉雄編『日本武道全集』 第五巻 
  • 老松信一『楊心流、真之神通流、天神真楊流について』順天堂大学体育学部紀要

関連項目[編集]