アキリーズ (軽巡洋艦) – Wikipedia

アキリーズ (HMS Achilles, HMNZS Achilles) は、イギリス海軍 (Royal Navy) が海軍休日時代に建造した軽巡洋艦[注釈 1]
リアンダー級軽巡洋艦の1隻[注釈 2]
艦名はギリシア神話のアキレウスに因む。日本語ではアキレスと表記することがある[注釈 3]。イギリス海軍の軍艦としては3番目[注釈 4]
第二次世界大戦開戦前に英連邦ニュージーランドに貸与される[注釈 5]
ニュージーランド海軍のアキリーズ (HMNZS Achilles) となった[注釈 6]。太平洋戦争終結後、インドに貸与されて、インド海軍デリー英語版 (INS Delhi) となった。

アキリーズはイギリス海軍の軽巡洋艦としてキャメルレアード社バーケンヘッド造船所で建造された。1931年(昭和6年)6月11日に起工、1932年(昭和7年)9月1日に進水、1933年(昭和8年)10月10日にイギリス海軍で就役した。リアンダー級軽巡洋艦および改良型のパース級軽巡洋艦は数隻が英連邦各国に貸与されており、ニュージーランドに割り振られたのが本艦と姉妹艦リアンダー (HMS Leander) であった。

1930年代中盤の時点で、イギリス海軍はダナイー級軽巡洋艦をニュージーランド戦隊に貸与していた。軽巡ディオメード (HMS Diomede, D92) がイギリス本国に帰投することになり、アキリーズは軽巡デュネディン (HMS Dunedin) のかわりにニュージランド支隊旗艦となる[注釈 5]
なお第2巡洋艦戦隊に所属していた本艦の代艦として、姉妹艦シドニー (HMAS Sydney) が編入されている[注釈 7]
アキリーズはジブラルタルからイギリス本土チャタムに戻って準備をおこなう[注釈 5]
1936年(昭和11年)9月6日、ニュージランド北島オークランドに到着する[注釈 8]。10月1日、ニュージーランド海軍へ貸与された。
1937年(昭和12年)3月31日からニュージランド戦隊に所属したため、乗員の約60%がニュージランド人だった。いったんイギリス本国に戻ったあとふたたびニュージーランドに派遣され、オーストラリア海軍と行動を共にした。

1939年(昭和14年)8月下旬、ニュージーランド海軍のリアンダー級軽巡2隻(リアンダー、アキリーズ)はオークランドに停泊していた。姉妹艦を残して8月29日にオークランドを出発、航海中に9月3日の第二次世界大戦勃発を迎えた。当初は南アメリカ大陸西岸で哨戒任務に従事する。10月13日にバルパライソを出港、マゼラン海峡を通過し、22日にフォークランド諸島のポート・スタンリーに入港した。南大西洋艦隊南アメリカ支隊に編入され、南アメリカ南東岸の哨戒任務に従事した。11月23日、H・ハーウッド代将(旗艦エイジャックス)が指揮するイギリス海軍のG部隊 (Force G) に編入された[注釈 9]。12月8日にモンテビデオ港で給油後に、モンテビデオ東方370kmで軽巡洋艦エイジャックス (HMS Ajax, 22) と重巡洋艦エクセター (HMS Exeter, 68) と合流、12日にラプラタ川河口沖に集結した。

12月13日朝、G部隊はドイツ海軍 (Kriegsmarine) のドイッチュラント級装甲艦(通称ポケット戦艦)アドミラル・グラーフ・シュペー (Die Admiral Graf Spee) を発見する。G部隊はシュペーに損害をあたえ、同艦をウルグアイのモンテビデオ港に追い込んだ。たがG部隊も大小の損害を受け、アキリーズでは至近弾や主砲射撃管制所への被弾などで乗員4名が死亡、負傷者も出した。ウィリアム・エドワード・パリー(William Edward Parry)艦長も負傷している。重巡カンバーランド (HMS Cumberland, 57) を加えたG部隊はモンテビデオ沖合を哨戒し、ポケット戦艦が脱出しないよう見張り続けた。

12月17日、シュペーは自沈した。エクセターとエイジャックスは修理のためにイギリス本土へ戻り、ハーウッド提督はアキリーズに将旗を掲げた。1940年(昭和15年)1月下旬、重巡ホーキンズ (HMS Hawkins, D86) が合流し、ハーウッド提督は旗艦を変更する。ニュージーランドに戻ったあと、アキリーズ乗組員はオークランドで歓迎会に参加した[注釈 3][注釈 10]
2月23日まで修理を受けた。修理後は南太平洋でドイツ海軍の通商破壊艦に対する哨戒任務に就いた[注釈 11]。その間に護送船団VK1の商船エンパイア・スター (Empire Star) 、ポート・チャーマーズ (Port Chalmers) 、エンプレス・オブ・ロシア (Empress of Russia) を護衛した。

1940年6月10日から14日まで「アキリーズ」はハウラキ湾で訓練や試験に従事した[31]。その間の6月13日夜にドイツ仮装巡洋艦「オリオン」がハウラキ湾で機雷敷設を行っているが、同艦乗員によれば「オリオン」のそばを「ニューカッスル」や仮装巡洋艦「ヘクター」などが通過していった、という[32]

日本との戦争が間近に迫ると、巡洋艦の不足していたイギリス東洋艦隊 (Eastern Fleet) に加えられることになった。フィジーへ兵員を輸送するWahineを護衛していたアキリーズは、スバに向かった後ポートモレスビー経由でシンガポールへ行くよう命じられた[33]

アキリーズは1941年12月8日にスバに到着し、同日中に出港してポートモレスビーへ向かい、12月11日にそこに到着した[34]。だが、この間に東洋艦隊(Z部隊)の主力艦2隻がマレー沖海戦で撃沈されていた。そして、アキリーズのシンガポール行きも中止となり、12月16日にニュージーランドのオークランドに到着した[35]。同日深夜にアキリーズは出港し、12月19日にアメリカ合衆国から東南アジアに向かっていたペンサコーラ船団英語版と合流した[36]
12月22日にアキリーズはオークランドへ向かったが呼び戻され、重巡洋艦キャンベラ (HMAS Canberra, D33) 、軽巡洋艦パース (HMAS Perth, D29) とともに12月24日にシドニーに着いた[37]

続いてアキリーズは豪州海軍各艦(オーストラリア、キャンベラ、パースなど)とともにポートモレスビーへ兵員を輸送する船団を護衛した[38]。船団は12月28日にシドニーを出発して1942年(昭和17年)1月3日にポートモレスビーに到着し、それからアキリーズはニューカレドニアのヌーメアへ向かい1月7日に到着した[38]。次いでアキリーズはオークランドからフィジーへ向かうZS6船団を護衛し、それからオークランドへ向かってそこで修理を受けた[39]。アキリーズは1月25日にオークランドを出港し、1月27日にアメリカの船団と合流[40]。そのうちの1隻をスバまで護衛し、それから航空機を運ぶアメリカ船と合流した[40]。2月3日に護衛を姉妹艦リアンダーと換わり、アキリーズはオークランドに戻った[40]

2月12日、重巡洋艦オーストラリア (HMAS Australia, D84) 、重巡シカゴ (USS Chicago, CA-29) 、軽巡洋艦(リアンダー、アキリーズ)などがスバに集まりANZAC戦隊英語版が作られた[41]ハーバード・リアリー英語版中将が指揮するANZAC戦隊は2月14日にスバから出港し、2月16日にアメリカ海軍のブラウン中将が指揮する第11任務部隊 (Task Force 11) と出会い、2月17日にスバに戻った[42]。空母レキシントン (USS Lexington, CV-2) を中核とする第11任務部隊はラバウルの攻撃に向かったが、2月20日にラバウル航空隊の一式陸上攻撃機と交戦する(ニューギニア沖海戦)。航空戦には勝利したが、奇襲効果が失われてラバウル攻撃は中止となった。ANZAC戦隊は2月17日にタンカーを護衛してスバを出港して2月22日に第11任務部隊と合流し、給油後スバに戻った[43]

1944年以降に撮られた「アキリーズ」。旧3番主砲塔が撤去されているのが判る。

ガダルカナル島攻防戦が終盤にさしかかった1943年(昭和18年)1月初頭、日本海軍の第十一航空艦隊と第八艦隊は、ニュージョージア島のムンダと、コロンバンガラ島ヴィラ・スタンモーア地区に飛行場を造成し、拡張工事をおこなっていた[注釈 12]
連合国の第67任務部隊(軽巡ナッシュビル、セントルイス、ヘレナ、アキリーズ、ホノルル、駆逐艦フレッチャー、オバノン、ニコラスなど)が、ニュージョージア諸島の日本軍を攻撃する新任務を敢行する。この第67任務部隊(指揮官ウォルデン・L・エインズワース少将)の一部兵力(軽巡3、駆逐艦2)が射撃隊として、日本軍ムンダ飛行場に艦砲射撃をおこなった[48][注釈 13]

そこそこの戦果を挙げて帰投中[注釈 14]の1月5日、ガダルカナル島南方海域で射撃隊と支援隊(巡洋艦4、駆逐艦3)が合流中に、日本海軍機の爆撃を受ける[51]。第67任務部隊に空襲を敢行したのは、ブインを発進した九九式艦上爆撃機と零式艦上戦闘機だったという[注釈 15]
F4F戦闘機の掩護もむなしく、九九艦爆2機撃墜と引き換えに軽巡ホノルル (USS Honolulu, CL-48) が至近弾3発を受け、アキリーズが3番砲塔に直撃弾をうける。

アキレーズは戦線離脱を余儀なくされた。エスピリトゥサント島で工作艦ヴェスタル (USS Vestal, AR-4) の世話になり応急修理をおこなったあと、本格的修理のためイギリスにむかうことになった。同年4月から1944年(昭和19年)5月にてポーツマスにて修理を受ける。その時に3番主砲塔は撤去されて4cm四連装ポンポン砲1基に換装された。本艦修理中の1943年7月中旬には姉妹艦リアンダー (HMNZS Leander) もコロンバンガラ島沖海戦で大破し、長期修理を余儀なくされる。イギリス海軍はフィジー級軽巡洋艦のガンビア (HMS Gambia, 48) を、ニュージーランド海軍に供与した。

修理完了後のアキリーズはニュージーランド戦隊に戻り、1945年(昭和20年)5月までイギリス太平洋艦隊 (British Pacific Fleet) に所属した。

アキリーズは1946年(昭和21年)9月17日にニュージランド海軍では除籍され、イギリスに返還された。1948年(昭和23年)にインド海軍 (王立インド海軍) に供与されて、デリー (INS Delhi) と改称した。1956年(昭和31年)にラプラタ海戦を元にした映画では「アキリーズ」役で映像に残った(詳細後述)。デリーは1970年に停泊練習艦となったが、インド海軍で1978年(昭和53年)6月30日に除籍後、7月5日に解体処分された。この折にアキリーズの4番主砲塔の一部はニュージーランド政府への贈り物としてデボンポート海軍基地内に展示された。

武装の転換[編集]

1936年にカタパルトを新型のE-II-H型に換装し、水上機はオスプレーからウォーラス水上機1機に更新した。

1939年に4.7cm単装機砲4基が撤去され、1941年に12.7mm四連装機銃3基が撤去されて、エリコンFF 20 mm 機関砲が単装砲架で7基が追加された。1944年5月に15.2cm主砲塔のうち3番主砲塔と2cm単装機関砲3基、水上機施設を撤去して対空火器が強化された。10.2cm単装高角砲は新型砲架のMk XVI型となり10.2cm連装高角砲4基、近接火器としてヴィッカース 4cm(39口径)ポンポン砲が4連装砲架で4基、エリコン2cm連装機関砲7基が搭載された。277型レーダーと281B型レーダー、282型レーダー、285型レーダー、293型レーダーを搭載した。1945年4月に2cm連装機関砲2基を撤去し、ボフォース 40mm機関砲を四連装砲架で1基、エリコン 2cm機関砲は新型砲架のMkIV型で1基を追加した。

創作への影響[編集]

1956年のイギリス映画、『ラプラタ沖海戦英語版(邦題:戦艦シュペー号の最後)』では、インド海軍所属の「デリー」(旧艦名アキリーズ)がアキリーズ役として出演した。本海戦時のパーリー艦長は、ジャック・グイリム (Jack William Frederick Gwillim) が演じた。

注釈[編集]

  1. ^ 二等巡洋艦 “レアンダー Leander 全要目{排水量7,040噸 速力32.5節 備砲15糎砲8門、10糎高角砲4門 魚雷發射管8門(水上53糎4聯装) 起工1930年9月 竣工1933年10月 建造所 デボンポート海軍工廠} 巡洋艦國英國の面目は繚蘭と花の如く列んだ二等巡洋艦に窺はれる。C級(カリプソ等Cによつて始まるもの) D級、E級といつた世界戰爭の所産である諸艦は目下上から下までの大改装若返り法をほどこされてゐるが、先づ新時代の英國海軍巡洋艦として眞先に誕生し、今日西海に謳はれてゐるのがこの“ネプチュン Neptune” “オリオン Orion” “レアンダー Leander” “アキレス Achilles” “エージャックス Ajax” の5艦である。簡略なしかも堅固なる新艦型は7,000噸輕巡の一方の闘将たるに申分はない。全長165.65米、幅16.81米、平均吃水4.87米。
  2. ^ 二等巡洋艦“オリオン Orion 全要目{排水量7,070噸 速力32.5節 備砲 15.5糎砲8門 10糎高角砲4門 魚雷發射管8門(53糎水上4聯装) 起工1931年9月 竣工1934年1月 建造所デボンポート海軍工廠} “レアンダー號”と同型艦。以上の要目の外に兵装として3ポンド砲4門その他小砲18門を有し、搭載飛行機は雷撃機1機、これが發艦用としてカタパルト1基を備へてゐる。/ 全長165.65米、幅16.81米、平均吃水4.87米。所謂ロンドン條約型と云はれてゐるもので現在米國の有つ既成二等巡洋艦中の最新鋭である。尚英國には建造中のものに“アンフイオン Amphion” “エージャックス Ajax” “アレスーサ Arethusa” “アポロ Apollo” “シドニー Sydney” “ガラテア Galatea” “ペネロープ Penelope”の7隻と未起工のもの5隻がある。未起工のものは何れも9,000噸型のもので15糎砲を搭載し恰も我が二等巡洋艦最上級に匹敵するものである。
  3. ^ a b こゝで一言せねばならぬのは巡洋艦アキレスのことだ。同艦はニュージーランド艦隊の一艦で、その乗員の大部は同方面の人である。一九三九年十二月十三日、プレート河沖合で獨艦アドミラル・グラフ・スペーの撃破に参加した時には、開戰初頭ニュージーランドから南大西洋に派遣されて、最後に燃料をつんだ所から數へて、十二萬四千浬を走つてゐる。翌年二月二十日僚艦のアヂヤツクスとエキセターの将兵がロンドン市を練り歩いたとき、アキレスの乗員は、ニュージーランドで非常に歡迎をうけてゐた。(以下略)
  4. ^ アキリーズの艦名を持つイギリス艦艇一覧
  5. ^ a b c 三 自治領海軍(ロ)新西蘭海軍支隊 ニュージランド首相、フォーブス氏は、一九三五年十月十六日次の如く發表した。『巡洋艦ヂオメード(船長グラハム大佐)は英國政府の要請により、本國海軍鎭守府の下に勤務することゝなり、其の方面に特派された。然かし同艦が出發するのは、全然一時的處置としてゞあつて、何等、濠洲が戰爭に巻き込まれると云ふ、有害な風聞を生ずべき筋合でないことは確信して居る』と。
     ヂオメードは十月三十一日シンガポールに、十一月四日コロンボに、同十一月にはアデンに到箸した。同十一月英艦アチレスは、ヂブラルターからチャタムに歸港して豫備艦となり、ヂイュネヂンの代りとしてニュージランド支隊の旗艦たるべき準備を行つた。ニュージーランド政府へ三年間貸附となる同艦の勤務士官名簿は、一九三六一月十六日の達號にて發表された。同名簿は、飛行士竝に、偵察将校の資格ある士官をも載せてある。ニュージーランド枝隊では、艦上航空機を持つ艦はアチレスが往つて始めてといふことになる。
  6. ^ 各自治領の海軍▲濠洲海軍(略)三月に至り巡洋艦アデレードは近代化艤装後、就役したが、油専焼罐に改造された。同艦は十一箇年も豫備艦であつたのである。英國海軍の新西蘭派遣支隊旗艦リアンダー(准司令官J・W・リヴェツト・カルナック)は、四月及び五月に亙る一箇月の巡航に於て濠洲艦隊と行動を共にした。八月には軍艦キャンベラ及シドニーは蘭領印度及び新嘉坡を巡航した。(略)英國軍艦アチレスは三箇月に亙り新西蘭派遣支隊に勤務したことのある艦で、一時英國に歸つてゐたが、一月に再び前任務に就くことゝなつた。新艦長としてはW・E・パーリー大佐が任命せられた。同艦は一月二十一日に新西蘭に向つて本國を發し、五月八日にオークランドに到着した。/ 准司令官J・W・リヴェツト・カルナックの旗艦リアンダーは四月及び五月に亙り一箇月間、濠洲艦隊に合して訓練を行つた。(以下略)
  7. ^ 三 自治領海軍(イ)濠洲海軍(略)巡洋艦シドニーは最初、英帝國政府一九三六年度建艦計畫の下にフエートンの艦名を以て起工され、後に濠洲政府に受繼がれて來たが、一九三五年九月に竣工し、十月一日には士官以下乗組員はJ.U.P.フィッツゲラルド大佐統率の下に、ロンドン市長によつて市會議事堂に迎へられ、同市關係者から午餐を受けた。之より先き一九三五年十一月一日 英海軍省は、濠洲政府がシドニーを英聯合王國の使用に供すべき申出でのあつたことを發表した。此の申出は承認されて、シドニーは一時的にヂブラルターに於ける内國艦隊第二巡洋戰隊のアチレスと交代した。(以下略)
  8. ^ 第三節 自治領海軍 三、新西蘭海軍分遣艦隊 軍艦アチレスはディオミードに代つて新西蘭艦隊に編入されてゐたのであるが、彼の地中海問題で其の實行が遅れてゐたところ、昨年九月六日にオークランドに到箸した。其の後暫く經て同艦は司令官旗艦となつた。/ 上記と同じ理由で、ディオミードも亦た新西蘭艦隊所属の儘でアデンに簡派されてゐたが、いよいよ三月に至り漸く英本國に歸還した。又リアンダーは、新西蘭艦隊のヂュネヂンに交代して、本年早期に英國を出發して其の任に就く筈である。
  9. ^ ハーウッド代将が指揮するG部隊は、11月下旬において重巡2隻(エクセター、カンバーランド)と軽巡2隻(エイジャックス、アキリーズ)で編成されていた。
  10. ^ 二月十五日エキゼターはプリマスに到箸し、同艦も亦盛なる歡迎を受けた。チャーチル氏は第一海軍軍事委員及びサー・ジョン・シムソンを伴ひ、同艦を歡迎する爲め同港に到り、乗員に對して一場の挨拶を行つた。二月二十三日アジャックス及エキゼターからの派遣隊は倫敦に到り、近衛騎兵觀兵式を擧行せられて國王の閲兵を受けた。此の時國王はリヴァープレート沖の會戰に際して功績ありし人々に對し勲章授與式を行つた。エキゼター、アジャックス兩艦の派遣隊は、それよりギルドホールに於いて倫敦市長の招宴に列し、同時にアキレスの乗員はオークランドに於ける市の時宜に適せる歡迎會に列した。/ 是等の祝典に相應はしき追記としてアドミラル・グラーフ・シュペーの殘骸は同地方にて解體して約千磅で賣却されたことが其の後發表された。(以下略)
  11. ^ 姉妹艦シドニー (EHMAS Sydney) は、オーストラリア西海岸でドイツ仮装巡洋艦コルモラン (Kormoran) と交戦、相討ちとなって沈没している。
  12. ^ ムンダ飛行場の総責任者は、戦艦霧島が戦艦ワシントン (USS Washington,BB-56) に撃沈された時の艦長岩淵三次大佐であった[46]
  13. ^ (昭和18年1月、一般情勢、敵軍情勢)[49](略)〔 一方「ソロモン」群島南方ニ於テ敵海上部隊ノ行動活溌化シ常ニ有力部隊ヲ遊弋セシメ其ノ機動部隊ハ一月四日「ムンダ」基地ヲ 一月二十四日「コロンバンガラ」基地ヲ砲撃シ常ニ攻勢ノ企圖ヲ有シツツアリ(以下略) 〕、同戦時日誌p.12(作戦経過概要)(略)〔 一月四日敵甲巡四隻ヲ基幹トセル機動部隊ノ砲撃ヲ受ケタルモ被害軽少 〕
  14. ^ 約55分間の砲撃で、戦死傷32名、滑走路修復所要時間約2時間、幕舎倒壊約10、飛行機損害軽微。
  15. ^ (昭和18年1月5日)[52]〔 5|0720「ガ」島S30′ニテFBG索敵Fハ「ガ」島ノS30′ニテC1×4 C2×2 d×数隻ガ26ktニテSEニ航行スベキヲ発見fb×4 fc×5ハ「ブイン」ヨリ攻撃敵巡洋艦郡|南東 26Sf/11AF|C1×2ニ250kg各一(直撃彈)他ノ一隻ニ至近彈×1 fc×5(グラマン) fd×1 fsv×1ヲ撃墜 被害fb×1未帰還 〕

脚注[編集]

  1. ^ The Royal New Zealand Navy, p. 117
  2. ^ ロバート・フォーチェック、宮永忠将(訳)『ドイツ仮装巡洋艦vsイギリス巡洋艦 大西洋/太平洋1941』大日本絵画、2011年、ISBN 978-4-499-23046-9、61ページ
  3. ^ The Royal New Zealand Navy, p.253
  4. ^ The Royal New Zealand Navy, pp.253-254
  5. ^ The Royal New Zealand Navy, p.254
  6. ^ The Royal New Zealand Navy, pp.254-255
  7. ^ The Royal New Zealand Navy, p.255
  8. ^ a b The Royal New Zealand Navy, p.256
  9. ^ The Royal New Zealand Navy, pp.257-258
  10. ^ a b c The Royal New Zealand Navy, p.259
  11. ^ The Royal New Zealand Navy, p.261
  12. ^ The Royal New Zealand Navy, pp.261-262
  13. ^ The Royal New Zealand Navy, pp.262-263
  14. ^ #ムンダ日誌(2) p.31(職員官指名)
  15. ^ #第八艦隊日誌(4) p.24〔 (ヘ)麾下及友軍ノ行動概要 (1)ソロモン方面(略) |敵|一-四|敵海上部隊(巡洋艦 駆逐艦計七、八隻ト推定)敵機ノ爆撃ニ引續キ猛烈ナル艦砲射撃ヲ受ク損害輕微|(以下略)〕
  16. ^ #ムンダ日誌(2) p.4
  17. ^ 第2次世界大戦略歴大東亜戦争経過概要(防衛省防衛研究所)昭和18年1月経過概要~昭和18年3月経過概要 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C16120724200 (昭和18年1月)〔 四日|「ムンダ」砲爆撃ヲ受ク 〕〔 五日|我航空部隊「ガ」島南三〇浬附近敵巡洋艦群ヲ發見攻撃 〕
  18. ^ 昭和17.10.1~昭和18.1.31 太平洋戦争経過概要その4(防衛省防衛研究所)18年1月1日~18年1月12日」 アジア歴史資料センター Ref.C16120634600  p.8

参考文献[編集]

  • 酒井三千生『ラプラタ沖海戦』株式会社出版協同社〈ハヤカワ文庫〉、1985年1月。ISBN 4-87970-040-1。
  • 「世界の艦船 増刊第46集 イギリス巡洋艦史」(海人社)
  • 編集人 木津徹、発行人 石渡長門「<第2部> 条約時代の巡洋艦」『世界の艦船 2010.No.718 近代巡洋艦史』株式会社海人社〈2010年1月号増刊(通算第718号)〉、2009年12月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで』第83巻、朝雲新聞社、1975年8月。
  • S. D. Waters, The Royal New Zealand Navy, Historical Publications Branch, 1956
  • 「Conway All The World’s Fightingships 1922-1946」(Conway)
  • 国立国会図書館デジタルコレクション – 国立国会図書館
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(4)』。Ref.C08030022800。
    • 『昭和17年12月~昭和18年2月 ムンダ基地戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030740800。
    • 『昭和17年12月~昭和18年2月 ムンダ基地戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030740900。
    • 『昭和17年12月~昭和18年2月 ムンダ基地戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030741000。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]