Month: April 2018

デジマグラフ – Wikipedia

デジマグラフは、長崎県長崎市のデザイン事務所。代表・羽山潤一[1]。 2011年設立[2]。長崎市に本拠を置いて広告制作・パッケージデザインや商品企画を行うほか、長崎美術館でデザイナー向けの講座「デジ勉」も開催している[3]。2017年に株式会社化[4]。 所在地:長崎県長崎市勝山町7[5] 「五島の食の魅力を全国に広めたい」という依頼[2]の元にデザインした五島手延うどん「BARAMON」のパッケージで九州アートディレクターズクラブアワード2012のグランプリを受賞[6][7]。「BARAMON」のパッケージデザインは長崎デザインアワード2013年の大賞も受賞している[8]。長崎デザインアワード2017では紙袋やパッケージデザイン(長崎チョコ模様)を担当した「加加阿伝来所」が金賞を受賞[9]。 ^ “羽山 潤一” (日本語). 九州ADC|九州アートディレクターズクラブ. 2018年8月18日閲覧。 ^ a b 地域発 ヒット商品のデザイン. パイインターナショナル. Paintanashonaru. (2014.3). ISBN 9784756244499. OCLC 879172380. https://www.worldcat.org/oclc/879172380 

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メッカ・メトロ – Wikipedia

メッカ・メトロ(英: Mecca Metro)またはマッカ・メトロ(アラビア語: قطار المشاعر المقدسة、英: Makkah Metro)は、サウジアラビア王国(通称:サウジアラビア)の都市マッカ(メッカ)にて計画中の、マッカ・マス・レール・トランジット社 (MMRTC:Makkah Mass Rail Transit Company) が所有する4路線のメトロ・システムである。 当メトロは、統合バス・サービスも含まれる、620億リヤルのマッカ公共交通プログラム (MPTP:Makkah Public Transport Programme) の一部を成している[1][3][4]。

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梥本一洋 – Wikipedia

梥本 一洋(まつもと いちよう、1893年(明治26年)11月29日 – 1952年(昭和27年)3月9日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 京都中京区油小路四条上ルで、染色図案を営む家の4人兄弟のうち長男として生まれる。本名は謹之助。弟も日本画家の梥本武雄。家は祖父の代から日本画家を出すことを志しており、父吉次郎も菊池芳文に入門し芳樹と号した。しかし、途中で諦め息子たちを日本画家になるよう教育した。1899年(明治32年)本能小学校入学、1905年高等小学校に進む。1910年(明治43年)京都市立美術工芸学校に進学。卒業した後、1912年(明治45年)京都市立絵画専門学校に進み、1915年(大正4年)に卒業する。卒業後山元春挙の画塾早苗会に入門、一洋の号を名乗る。春挙死後は川村曼舟に師事、同会の重鎮となり歴史画を得意とした。 1915年(大正4年)の第9回文展で「壬生狂言の楽屋」初入選、1919年(大正8年)の第1回帝展で「秋の夜長物語」が入選を果たすと、以降、帝展において常連となった。1927年(昭和2年)の第8回帝展で「蝉丸」、1928年(昭和3年)の第9回帝展において「餞春」で連続で特選を獲得している。これ以降の帝展・新文展では無鑑査となり、しばしば審査員を務めた。一方で、1924年(大正13年)京都府立美術工芸学校教授に就任、翌年京都市立絵画専門学校助教授となり、1936年(昭和11年)から同校教授として1949年(昭和24年)まで後進の指導にあたっている。1943年(昭和18年)には早苗会を解散、新たに耕人社を結成する。第二次世界大戦後は日展において活躍、1949年(昭和24年)に依嘱となり、1950年(昭和25年)から日展運営参事となった。しかし翌年、肺癌により上京区の自宅で死去。享年58。法名は寂常院釈一洋、墓所は寶蓮寺。 古典を題材とした物語絵や歴史風俗画を得意とし、新興大和絵風の作品が多い。 作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 年代 落款 出品展 備考 今年竹 絹本着色 四曲一隻

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旅客輸送局 (イギリス) – Wikipedia

旅客輸送局(英語: Passenger Transport Executive)とは、イギリスの大都市圏において公共交通をつかさどる機関である。旅客輸送局は合同行政機構に対して責任を負う。 なお、同様の役割はロンドンにおいてはロンドン交通局が、大都市圏以外のイングランドについては各カウンティが、2005年以降のスコットランドにおいては地域交通組合(英語版)(全域に設置)が担っている。 1968年運輸法[編集] 旅客輸送局は1960年代後半に1968年運輸法(英語版)に基づいて初めて設置された。また、上位機関として各旅客輸送局にPassenger Transport Authorityが設置されている。旅客輸送局は当時公共交通を担っていた自治体や企業間の連携不足の解消を目的としており、管轄内の公営バスを統合するとともに、地域の鉄道網の管理権を負った。 1968年運輸法によって設置された旅客輸送局は以下のとおりである。 なお、当初の管轄エリアは現状とはやや異なる。 1970年代の自治体再編[編集] 1972年地方自治法(英語版)により、イングランドでは1974年に地方自治体の再編が行われた。この一環として大都市圏に6つのメトロポリタン・カウンティが設置され、その範囲に合わせる形で旅客輸送局の管轄範囲の拡大及び改称とサウス・ヨークシャーとウェスト・ヨークシャーへの新設が行われた。 同時に、上位機関であったPassenger Transport Authorityが廃止され、新設されたメトロポリタン・カウンティ・カウンシルに引き継がれた。 1975年に行われたスコットランドの自治体再編では、9つのリージョン(英語版)が新設され、グレーター・グラスゴー旅客輸送局はそのうちのひとつであるストラスクライド(英語版)の範囲に合わせて管轄を拡大、ストラスクライド旅客輸送局に改称された。なお、イングランド同様Passenger Transport Authorityは廃止され、リージョナル・カウンシルが上位機関となった。 1985年地方自治法・1994年スコットランド地方自治等法[編集]

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ルートヴィク・アウフ・デア・マウアー – Wikipedia

スイスの政治家 ルートヴィク・アウフ・デア・マウアー Ludwig Auf der Maur アロイス・フォン・レディンクとともにアールブルク要塞に投獄されているアウフ・デア・マウアー将軍 生年月日 1779年8月25日 出生地 ナポリ王国ナポリ 没年月日 1836年2月12日 死没地 復興スイス連邦シュヴィーツ州シュヴィーツ 親族 ドン・フランチェスコ(父) シュヴィーツ州知事 在任期間 1813年

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尿中一般物質定性半定量検査 – Wikipedia

この項目では色を扱っています。閲覧環境によっては、色が適切に表示されていない場合があります。 尿試験紙 医学的診断 マルティスティックス™尿試験紙と判定表(標準色調表) 目的 尿の異常の簡便な定性・半定量的評価。 尿中一般物質定性半定量検査(尿一般検査、尿中一般検査、英: urine dipstick test, urinalysis[※ 1])とは、尿を検体として、尿試験紙や屈折計などの簡便な方法で実施する臨床検査であり、医療や健診で多用されている[1]。 主要な尿中一般物質定性半定量検査とその基準値・検査法[編集] 項目名 基準値[2] 一般的な検査法[3] 蛋白半定量 (-)~(±)[2] 試験紙法(pH指示薬の蛋白誤差法) 糖半定量

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ジュアン (オングト部) – Wikipedia

ジュアン(モンゴル語: J̌u’an,中国語: 朮安,? – 1313年)は、14世紀初頭に大元ウルスに仕えたテュルク系オングト部族長。『元史』などの漢文史料では朮安(zhúān)と記される。 オングト人は代々ネストリウス派キリスト教の教徒であったが、ジュアンの父コルギスはモンテ・コルヴィノの布教によりカトリックに改宗した。その際、モンテ・コルヴィノの本名「ジョヴァンニ(聖人ヨハネに由来しするイタリア語名)」にあやかって「ジュアン」と名付けられたという[1]。 ジュクナンはチンギス・カンに投降したオングト部族長アラクシ・ディギト・クリの4世孫高唐王コルギスの息子に当たる。13世紀末にオングト部族長の地位を継承したコルギスは文武両道に長けた優秀な人材であったが、カイドゥ・ウルスとの戦いで捕虜になってしまい、カイドゥに投降することを拒否したために遂に釈放されることなく亡くなってしまった[2]。 コルギスが捕虜となった時、息子のジュアンは未だ幼かったため、代わりにコルギスの弟ジュクナンが1299年(大徳3年)に地位を継承することとなった[3]。ジュクナンもまたコルギスに劣らず文武に長けた人材で、兄の事業をよく守りオングト部の統治を安定させた。ジュクナンは兄の遺児であるジュアンを自らの息子以上に可愛がり、その教育に大きく力を注いだだけでなく兄の遺産をよく守って成長後に欠けることなく引き渡したという。1309年(至大2年)、新たに即位したクルク・カーン(武宗カイシャン)の政策によってジュクナンは最高ランクの趙王とされたが、翌1310年(至大3年)には趙王の地位をすぐにジュアンに譲ってしまった[4]。 新たにオングト部当主となったジュアンは始祖アラクシ以来の伝統として晋王カマラの娘を娶り、キュレゲン(婿)と称した。ある日、ジュアンは王博のトゴンと司馬の阿昔思を呼んで「先王(コルギス)は旅先の荒遠の地で亡くなったが、神霊の加護はあるだろうか。願わくばお上の助けを得て父の遺体を取り戻して先祖代々の墓地に葬りたいものだ」と語ったという。トゴンらがこの言葉を知院を通じてクルク・カーンを伝えたところ、クルク・カーンは「ジュアンはまさに孝子」であると称賛してコルギスの遺体を取り戻す事業を支援するよう命じた。このようにコルギスの遺体の回収が行えるようになったのは、即位前のクルク・カーンの活躍によってカイドゥ・ウルスが解体し中央アジア方面への旅行が容易になったためと考えられている[5]。 こうしてトゴンの息子シクトゥル、ジャルグチのエセンら19人はジャムチ(駅伝)を乗り継いでコルギスの埋葬地に赴き、現地で駐屯するオチチェルやトガチ・バートルの軍団の護衛を得て一行は目的地に辿り着いた。掘り返したコルギスの遺体はまだ生きているかのようであり、一行は遺体を連れて帰って先祖代々の墓地に改めて葬った[6]。 これ以後のジュアンの事績についてはほとんど知られていないが、1312年(皇慶元年)を最後に史料上に名前が見えなくなること[7]、1314年(皇慶3年/延祐元年)に新たな趙王が立っていること[8]などから、1312年〜1314年頃に亡くなったものと見られる[9]。 オングト駙馬王家[編集] ビヌイ(Binui >Bīnūīبینوی)…アラクシの兄 高唐王アラクシ・ディギト・クリ(Alaqši Digid Quri >阿剌兀思剔吉忽里/ālàwùsītījíhūlǐ,اولاقوش تیکین قوری/Ūlāqūsh

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永山時雄 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “永山時雄” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年12月) 永山 時雄(ながやま ときお 1912年2月11日 – 1999年7月11日)は、神奈川県出身の官僚。旧通商産業省初代大臣官房長。 来歴・人物[編集] 神奈川県立小田原中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)、第一高等学校 (旧制)、1935年東京帝国大学法学部卒業。同年、商工省入省。入省同期に、斎藤正年(特許庁長官)、小出栄一(共石社長、経済企画事務次官)、鹿子木昇(アジア経済研究所所長、大阪通産局長)、小山雄二(中小企業庁長官)、油谷精夫(東京通産局長)など。 戦後、商工省外局の貿易庁に、時の貿易庁長官に就任した白洲次郎が貿易庁と共に商工省も解体し新制・通商産業省へと改組する構想を松田太郎商工次官が掴み、当初その動向を監視するため、当時商工省物資調整課長であった永山が筆頭課長である貿易課長として送り込まれた。その後、逆に白洲らと歩調を合わせ「通商派」、「外交派」と括られることとなる。 当時の日本経済は、経済安定本部や復興金融金庫による経済引締政策から方向転換し、ジョゼフ・ドッジにより経済の自由化へ舵を取り始めたばかりであった。それら潮流に合わせるように自由経済の下で輸出促進・経済復興を図ろうとした白洲の意を汲んだ永山が初代官房長(1949年5月-)に、新制通産省通商局長のポストを占めていた外務官僚の武内龍次、黄田多喜夫、牛場信彦(これらはのち外務事務次官)らが、通商行政の中心にいた。のち朝鮮特需により日本経済が回復基調に入ることにより、商工省の「統制派」の流れを汲む主流派に主導権が移り、繊維局長(1954年7月-1955年12月)のポストで退官。

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田辺・弁慶映画祭 – Wikipedia

田辺・弁慶映画祭(たなべ・べんけいえいがさい)は和歌山県田辺市で毎年開催される映画祭。 映画祭名称の由来[編集] 田辺・弁慶映画祭の名称は開催地である和歌山県田辺市の田辺と、田辺市に縁の深い人物である武蔵坊弁慶に由来している。武蔵坊弁慶は田辺市にて出生したと伝えられており、市内各所に、弁慶の父である熊野別当湛増ゆかりの闘鶏神社や弁慶の腰掛石、弁慶松等の史跡[1]がある。 主催は、田辺・弁慶映画祭実行会で2007年に第1回を開催し、以降毎年11月頃に開催。 新人監督を対象としたコンペティションを実施。審査員には、映画有識者を特別審査員、映画検定合格者を映検審査員として迎え、2012年より市民審査員を募集し、市民も交えて受賞作品を決定している。映画検定合格者を審査員としている映画祭でもある。 2008年より東京国際映画祭と提携、田辺・弁慶映画祭のコンペティション部門の作品に対する東京国際映画祭からの賞を創設。東京国際映画祭の日本映画スプラッシュの受賞作品を田辺・弁慶映画祭にて上映する等、相互の交流を図っている。 2009年まではアジアの新人監督を対象としていたが、2010年以降は日本の新人監督の発掘に特化しコンペティションを継続。 コンペティション部門にて受賞の沖田修一(第2回 市民審査賞)や瀬田なつき(第3回 東京国際映画祭チェアマン特別奨励賞)、加藤行宏(第4回 特別審査員賞・映検審査員賞)、今泉力哉(第4回 市民審査賞)が、その後商業映画デビューを果たすなど活躍しており、インディーズの登竜門となる映画祭[2][3] である。また、各賞の中には映画検定1級、2級合格者で構成される映検審査員20名が審査にあたる映検審査員賞が、2016年まであった。2017年からは、「過去1年6ヶ月の間に、劇場で50本以上の映画を鑑賞した者」で構成されるキネマイスター審査員によるキネマイスター審査員賞に変更されている。 2011年より田辺市や和歌山県内で撮影された映画や、田辺市・和歌山県出身者が制作した映画を対象に募集し応援作品として上映。2014年にはコンペティション作品、招待作品、応援作品の他、アニソンライブが開催された。 2016年で開催10回を迎え、記念映画「ポエトリーエンジェル」が制作、同映画祭にて上映された。また第10回のコンペティション部門では塚田万理奈の「空(カラ)の味」がグランプリ・女優賞を含む4冠[4]を達成した。 第10回開催記念映画[編集] 2016年(平成28年)に第10回開催となることを記念し、記念映画を制作するための「企画コンペ」を実施[5]。 22監督から計27企画の応募があり「独裁者、古賀。」で第8回コンペティション部門に入選した飯塚俊光の「ポエトリーエンジェル」[6]が最優秀に選ばれた。 本映画は、岡山天音と武田玲奈のダブル主演となっており、「詩のボクシング」を題材とした作品。7月30日に田辺市内でクランクイン、首都圏近郊でもロケを行い、第10回同映画祭にて初上映された。 オンライン開催[編集]

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岡山市立岡山後楽館中学校・高等学校 – Wikipedia

岡山市立岡山後楽館中学校・高等学校(おかやましりつ おかやまこうらくかんちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、岡山県岡山市北区南方にある公立中高一貫校。 1999年(平成11年)に公立学校としては日本で最初に中高一貫教育を開始した、併設混合型中高一貫校。 岡山市立岡山商業高等学校、岡山市立岡山工業高等学校の定時制高等学校を統合し、1999年(平成11年)、公立(市町村立)で日本で最初の中高一貫教育校として新設された[2]。文部省の研究開発学校の指定を受けたこともあり、全国的にも名前が知られている。 教科・科目群は、国際文化、情報科学、健康福祉、工業技術の4系列からなる。総合学科として約130種に上る科目(普通、商業、工業、福祉など)を開講し、単位制である。中には心理について学ぶ「カウンセリング」、世界で起きている様々な問題について自ら考える「地球の未来 (ESD)」などのユニークな開設科目もある。 2学期制(前期・後期、区切りは10月第2週)であり、2012年度高校入学生より定時制から全日制に移行した。半期ごとに単位認定を行い、前期の卒業式もある。そのため、授業の形態はフレックス制の大学に近い。唯一の違いは、大学と違い中間考査があることくらいである。 生徒が主体的、意欲的に取り組むことを目指しており、学校全体では細かな校則はなく、「社会のルールとマナー」を校則として掲げているのも特徴。したがって中高ともに制服・生徒手帳は存在しない。正装は社会人同様スーツである。 中高一貫校らしく、中学生と高校生の繋がりを大切にしており、入学式、文化祭、体育祭、芸術鑑賞会などの大型行事は、中高合同の行事として行われる。入学式、文化祭と卒業式は校舎・体育館で行われるが、体育祭は岡山ドームで行っている。 ボランティア活動が盛んな学校で、表彰されることもある。また、バレーボール部が全国大会へ出場、優勝するなど部活動にも力を入れている。 また、吹奏楽部は全日本吹奏楽コンクール中国大会で2008年から3年連続金賞を受賞する強豪校となっている。 2013年から旧南方小学校の跡地に完成した7階建ての新校舎に移転した。 校名は、日本三名園の一つである後楽園と所在自治体名である岡山(おかやま)から採られた。校章は後楽館・後楽園の頭文字、「K」を基調とし、岡山の名産品「白桃」の形をイメージしている。 1990年 – 「岡山市立高等学校の将来の在り方について」を発表する。これが岡山後楽館が出来る前身となる。 1999年1月1日 – 市町村立としては全国初の中高一貫教育校として天神町および丸の内に創立。同年4月に第1回入学式を挙行、7月には開校記念式典を行っている。 2000年10月6日

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