成漢 – Wikipedia

成漢

成漢の位置。

成漢(せいかん、拼音: Chéng Hàn、304年 – 347年)は、中国の五胡十六国時代に氐族の一派である巴氐族(または巴賨族とも呼ばれる)の李雄によって建てられた国。後蜀(こうしょく)と称されることもある[1]。国号は最初は「」(大成)であったが、後に「」に変更された事から合わせて成漢といわれている[2]

建国期[編集]

290年4月に西晋の始祖司馬炎(武帝)が崩御すると、西晋では八王の乱と称される内乱が発生。しかもこの内乱の最中である296年には氐族の斉万年の乱が起こって関中は大混乱となった[1]。三国時代に魏の曹操の命令で李虎中国語版は謂水上流の略陽(現在の甘粛省泰安県)に居住させられていたが、李虎の孫の李特(李慕の子)は連年の飢饉でこの地方に大量の流民が発生すると、297年に集団を率いて漢中に南下した[1]。李特はさらに巴蜀(現在の四川省)に南下する事の承諾を西晋に求めたがこれは許可されなかったので、李特は西晋から派遣された侍御史を買収して西晋に蜀への南下を建議させて認可を受け、合法的に蜀に入国した[1]。この際、李特の勢力は漢族などを合わせて10万人にまで達する強大なものとなっていた[1]

さて、当時の西晋の益州刺史趙廞は刺史を免職されるとそれを恨みに思い、西晋から自立して新任の益州刺史である耿騰殺害を企てたが、この反乱に李特も協力した[3]。ところが趙廞は李特やその弟の李庠の実力を恐れて301年にまずは李庠を反逆を理由に殺害した[3]。激怒した李特は趙廞を殺害する[3]。このような混乱を見て西晋では新たな益州刺史として羅尚を送り込んで体制の再建を図り、李特は綿竹(現在の四川省徳陽市)に拠り羅尚に従属した[3]。ところが流民の多くは李特に懐き、漢族の多くも李特を頼りとする者が増加したので、それを背景に302年5月に李特は大将軍と益州牧を自称して自立した[3]。この際に建初という年号も建てているので、これが実質的な成漢の建国と言われる[3]

この事態に激怒した羅尚は李特の討伐を決定し激しい攻防を繰り広げたが、羅尚には西晋や荊州刺史宋岱らの支援があるだけ優位であったため、303年3月に李特は殺害された[3]。その後、勢力は弟の李流に引き継がれたが間もなく病死し、李特の子の李雄が引き継いだ[3]。李雄は11月に反攻に出て羅尚から成都を奪い、304年10月には成都王と称した[3]。正式にはこれが成漢の起源とされている。

創設期から全盛期[編集]

李雄は306年6月に皇帝に即位し、国号を大成とした[3]。さらに漢中を占領するなど勢力を拡大したが、一方で巴郡(現在の重慶市)に逃れた羅尚との対立には苦しめられた。しかし、310年7月に羅尚が病死したので李雄の益州支配は完成した[3]

李雄は漢族からも広く人材を吸収し、また当時は永嘉の乱で華北が争乱状態のために成漢は中原からの流民の避難場所としての機能も果たしていた事がかえって幸いし[3]、多くの人材が成漢には登用された[2]。また李雄の治世が31年という長期間にわたって続いた事も、国内が比較的安定して、混乱する華北を尻目に別天地のような繁栄を享受する事になった。李雄は334年4月に死去した[2]

内訌と滅亡期[編集]

李雄の死後、皇位は兄の子、すなわち甥の李班が継いだが、これを李雄の四男の李期が認めずに内紛となり、334年8月に李期は李班を殺害して自ら即位した[2]。しかし338年4月には李特の甥の李寿の反乱を受けて李期が殺されるなど、短期間で皇帝が入れ替わる事態となった[2]。そしてこの李寿はひどい暴君で、即位すると国号を漢と改め、李雄の子を全て殺戮した[2]。さらに後趙の石虎と連携して急進的すぎる国政改革を行ない、かえって民衆への賦役を増大させ、反対する側近は排除し、内乱も発生した[4]。こうして成漢は急速に衰退した[2]

343年8月に李寿は死去し、長男の李勢が跡を継いだ[4]。しかし既に成漢は末期状態で、荊州から乱入してきた少数民族の反乱もあり衰退がさらに顕著になった[4]。347年2月、東晋の安西将軍桓温の攻撃を受けて李勢は敗北して捕縛され、成漢は滅亡した[4]。李勢は建康に送られて帰義侯とされ、361年に死去した[4]

統治体制[編集]

成漢の皇帝権力は必ずしも強大とは言えなかった。理由は巴人である李氏に秦州(現在の甘粛省東部)の土着勢力、益州の土着豪族により構成された連合政権であり、悪く言えば豪族反乱集団、一種の流寓政権とまで言えた[4]。政治機構は中国王朝に倣って丞相以下百官を設置し、地方には郡県制を導入した[4]。ただし安定したのは李雄の時代だけであり、その死後は政権内部が自立確保派と東晋帰順派に分裂して激しく対立した[2]。これは成漢の政権基盤に漢族が多く、晋が東晋として安定政権を築くと逆に成漢の正当性自体が問題化したためであり[2]、李雄没後の短期間にわたるクーデターにも常に東晋帰順派が絡んでいたとされている[4]。結局、李雄の死後、滅亡まで成漢は内部対立が解消できずに滅んだのである。

宗教[編集]

後漢末期から三国時代の争乱期において、漢中や巴蜀は五斗米道信仰の広まった地域だったので、李雄は在地勢力や在地社会に配慮して范長生という道士を天地太師として政権に迎えている[2]

成漢の君主[編集]

  • 李特は、武帝によって、始祖景帝と追号された。
  • 李特(在位302年 – 303年)
  • 秦文王(李流、在位303年)
  • 李雄(在位303年 – 304年)「成都王」を自称する。
  1. 太宗武帝(李雄、在位304年 – 334年)「成」(または「成蜀」)の皇帝と称する。
  2. 哀帝(李班、在位334年)
  3. 廃帝(李期、在位334年 – 337年)
  4. 中宗昭文帝(李寿、在位338年 – 343年)
    • 338年に国号を「成」から「漢」に改称した。
  5. 後主(李勢、在位343年 – 347年)

  1. 建興(304年-306年)
  2. 晏平(306年-310年)
  3. 玉衡(311年-334年)
  4. 玉恒(335年-338年)
  5. 漢興(338年-343年)
  6. 太和(344年-346年)
  7. 嘉寧(346年-347年)

注釈[編集]

引用元[編集]

  1. ^ a b c d e 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P53
  2. ^ a b c d e f g h i j 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P55
  3. ^ a b c d e f g h i j k l 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P54
  4. ^ a b c d e f g h 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P56

参考文献[編集]

関連項目[編集]