富士スピードウェイ – Wikipedia

富士スピードウェイ株式会社
Fuji International Speedway Co.,Ltd
種類 株式会社
市場情報 非上場
略称 FSW(旧略称FISCO)
本社所在地 日本
410-1307
静岡県駿東郡小山町中日向694
設立 1963年12月19日
業種 サービス業
法人番号 9080101004446
事業内容 各種レースの主催・共催などの運営
レース場及びレース場の付帯設備の貸し出し
ドライビングスクールの経営
看板広告・プログラム広告など広告に関する業務
その他各項に関する業務
代表者 代表取締役社長 原口英二郎
資本金 7億円
売上高 28億5300万円(2021年03月31日時点)[1]
営業利益 ▲3億6300万円(2021年03月31日時点)[1]
経常利益 ▲3億7300万円(2021年03月31日時点)[1]
純利益 3200万円(2021年03月31日時点)[1]
総資産 97億5700万円(2021年03月31日時点)[1]
主要株主 トヨタ自動車株式会社 93.4%
三菱地所株式会社 4%
大成建設株式会社 2.6%
外部リンク www.fsw.tv
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富士スピードウェイ(ふじスピードウェイ、Fuji International Speedway )は、静岡県駿東郡小山町にあるサーキットである。略称は「FSW」。かつては運営会社の「富士スピードウェイ株式会社」の英文社名”Fuji International Speedway Co.,Ltd”にちなみFISCOと表記されていたこともあり、今も一部で併用されている。2000年よりトヨタ自動車の傘下に入る。2021年には「2020年東京オリンピック・パラリンピック」の自転車競技会場として使用された。

サーキット建設のいきさつ[編集]

富士スピードウェイの建設は、1960年代初頭に丸紅副社長森長英から河野一郎(建設大臣)に話があった事から始まる。その頃河野は名神高速道路の建設を担っており、長時間高速走行可能な国産車を開発する必要があり、また自動車の輸入自由化のこともあり、外国車の性能と比較しても遜色ない国産車を開発するには、サーキットの存在は大きな意味があった[2]

当時国内に存在していたパーマネントサーキットは数少なく、三重県にある鈴鹿サーキットはホンダが所有するサーキットで他の自動車メーカーが自由に使用できず、また当時は二輪レース用のサーキットと思われており、四輪レースにも十分な幅員を持つサーキットが望まれていた[3]

また第二次世界大戦前にオープンした、日本初かつアジア初のパーマネントサーキットで、当時は細々と草レースが行われていた神奈川県川崎市の多摩川スピードウェイは、すでに事実上廃止状態であり、また高度経済成長を受けて周辺に住宅が増えてきており、規模、拡張性ともに問題があった。

NASCARとの関係[編集]

日本でサーキット建設の計画が進んでいることを聞きつけたアメリカのNASCARが、当時日本でレース活動を行っており、のちにF1のシャドウ・レーシング・カーズのオーナーとなるドン・ニコルズをエージェントに売り込みした結果、NASCAR形式のレース開催を目的として設立された、富士スピードウェイ株式会社の前身「日本ナスカー株式会社」は1963年(昭和38年)12月に設立された[4]

翌1964年(昭和39年)1月にはNASCARとの間で、日本及び極東地域におけるNASCAR形式レースの独占開催権に関する契約を締結した。その後サーキット候補地の選定を開始し、同年6月にはサーキット候補地として静岡県駿東郡小山町大御神の150万坪の土地を選定し、地権者らとの契約にこぎつける。なお、富士スピードウェイの建設用地は99年間の借地権によるもので、建設費用は借入金によるところが大きいが、建設開始後の1965年に河野が逝去したため、日本ナスカー副社長となった息子の河野洋平は建設資金集めのために銀行や企業回りをし、非常に苦労する[5]

設計と建設[編集]

スターリング・モス(2012年)

コースレイアウトは、NASCARのレースが行われるアメリカのデイトナ・インターナショナル・スピードウェイに似たトライアングル・オーバルトラックを予定しており[6]、1964年7月にはデイトナを設計したチャールズ・マネーペニーが来日し、原案の製作に取り掛かった。しかし、日本ナスカーの招聘によって現地を視察したスターリング・モスが「こんな地形でオーバルコースを作るとはナンセンスも甚だしい」と指摘した通り、山麓の傾斜地という立地条件からオーバルコースの建設が困難なことが判明した。

1965年(昭和40年)には、NASCARとの間の開催権契約を白紙還元することで合意した。河野洋平によると、コース設計には様々な案があり、結局日本のレースにも適した現在のコースに決まり建設を開始したという。河野のアメリカ視察は建設開始後であった。また、NASCARの契約料は高額で河野たちは不満を持っていたし、NASCARの経営方式が日本で通用するとも思っていなかったので、NASCARとの契約をやめることにしたという。

これを受けて、改めてヨーロッパ式のロードコースとしてサーキットを建設することとなり、社名を現在の「富士スピードウェイ株式会社」に改めた。「サーキット」ではなく「スピードウェイ」という名をつけたのはオーバル計画の名残である[6]。それからサーキットの愛称について河野らは考えたが、呼びやすい愛称ということで、正式社名にはない「インターナショナル」を入れて「フジ・インターナショナル・スピードウェイ・カンパニー(Fuji International Speedway COmpany)」とした[7]

三菱地所傘下へ[編集]

コースの建設が進む中、同年7月には計画当初から中心的存在だった河野一郎が死去し、その後富士スピードウェイの副社長であった息子の洋平が後を継いで政界に入るために同社を退職した。

その後10月には、富士スピードウェイに隣接する土地を所有しており、そこで冨士霊園の経営を行っていた三菱地所が同社に出資するという方向で、富士スピードウェイ社長の鈴木九平と三菱地所との間の交渉がまとまる。これを受けて計画当初から経営に関わっていた丸紅と毎日新聞社、富士急行も手を引き、以後は三菱地所に経営を託すことになる[8]。なお、三菱地所は特に富士スピードウェイの借地内にあるゴルフ場「東富士カントリークラブ[9]」にも関心を持っており、こちらの経営も引き継ぐことになる。

オープン[編集]

第3回日本グランプリ(再現)

1966年(昭和41年)1月3日にオープン。最初のレースイベントは3月12日に開催された、アマチュアライダーによる2輪レースである「第7回全日本モーターサイクルクラブマンレース」だった。この時、まだ一部の観客席が建設中であったにもかかわらず、1万人の観客を集めた[10]。3月27日に行われた4輪の開業イベント「第4回クラブマンレース富士大会」にはF1世界チャンピオンのジム・クラークが来場し、F3マシンで展示走行を行った。

さらに5月3日に開催された第3回日本グランプリ決勝には9万5千人の観客を集め、サーキット周辺には大渋滞が発生したが[11]、レースは日産自動車、トヨタ自動車、プリンス自動車、いすゞのワークス対決で盛り上がった。

また、1966年の「インディアナポリス・インターナショナル・チャンピオンレース」(通称:インディ富士200マイル)や1968年、1969年の「ワールドチャレンジカップ・富士200マイルレース」(通称:日本Can-Am)のような海外招待レースも企画されるなど、船橋サーキット(1967年閉鎖)や1970年にオープンした筑波サーキットと並んで、関東、東海地方におけるモータースポーツの中心的な場所となった。

富士GCとF1開催[編集]

アメリカで導入された「大気浄化法(マスキー法)」対策のため自動車メーカーのモータースポーツ活動が停滞すると、富士は1971年(昭和46年)にプライベーター主体の「富士グランチャンピオンレース(富士GC)」を創設して看板イベントに育てる。またこの頃にはサーキットの周辺にメンテナンスガレージが集まるようになり、「大御神レース村」と呼ばれるようになった。

しかし、1973年(昭和48年)と1974年(昭和49年)には富士GCで死傷事故が起こり、名物の30度バンクが閉鎖された。さらに同年に起きた「オイルショック」で自動車メーカーによるモータースポーツ活動が冷え込むが、1977年(昭和52年)には耐久レースの「富士ロングディスタンスシリーズ(富士LDシリーズ)」もスタートする。

1976年(昭和51年)には、F1日本初開催となる「F1世界選手権イン・ジャパン」、1977年には正式に「日本グランプリ」の名を冠して第2回大会を開催した。第2回は星野一義や高原敬武、高橋国光などの日本人ドライバーの活躍もあったものの、1コーナーでロニー・ピーターソン(ティレル)のマシンと接触したジル・ヴィルヌーヴ(フェラーリ)のマシンが宙を舞い、立ち入り禁止区域にいたカメラマンとそれを排除しようとしていた警備員に激突、あわせて2名が死亡する事故が起きた。

運営の赤字やこの事故の影響により翌年の開催はキャンセルされ、1987年(昭和62年)に鈴鹿サーキットで開催されるようになるまで、F1の日本開催は9年間中断することとなった。

廃止の危機[編集]

1979年(昭和54年)7月、社団法人御殿場市青年会議所(御殿場JC)が富士スピードウェイの廃止を県に陳情したことがきっかけとなり、経営権を持ち大半の土地を所有する三菱地所によって、1980年代前半にサーキットの廃止とゴルフ場などを中心にしたレジャーランドへの転用が検討された。

この陳情の背景には、富士GCの観戦を目的とした暴走族(グラチャン族)が、サーキット周辺で集会や暴走行為などを繰り返すことにより周辺環境が悪化するという問題や、1983年(昭和58年)に再び富士GCで起きた高橋徹の死亡事故があった。また、当時の世間におけるモータースポーツの認知度の低さから、「モータースポーツ自体暴走行為を助長するものであり、好ましいものではない」との意見も一部には見られた。しかしながら、一方で地元で建設業に携わっていた者、つまりレジャーランドやゴルフ場の建設により利権を得る者たちが陳情の中心にあったという説もあり、実際に争議の後半においては陳情側がトーンダウンした状況が見られた。

これに対し1980年(昭和55年)には、レーシングドライバーやレーシングチーム、モータージャーナリストなどが「日本モータースポーツ振興会」を設立し廃止反対運動を開始。1985年(昭和60年)には「FISCO廃止問題連絡協議会」と改名し、サーキット廃止に反対する地権者達で構成される「富士スピードウェイ協力会」とタッグを組む形で反対運動を展開した。反対運動の中、高橋国光や星野一義、長谷見昌弘他レーシングドライバーやモータージャーナリスト、サーキット地権者等が都内で富士スピードウェイ廃止反対を訴えるデモ行進を行い、その後公開シンポジウムを開いたこともある[注 1]

1986年(昭和61年)には、三菱地所が富士スピードウェイのある小山町長に対し調停を申し立てたが、同年7月30日「この件は白紙に戻す」という町長裁定が下り、正式にサーキットの存続が決定した。

モータースポーツブーム期[編集]

1980年代に入ると、世界選手権の開催や海外の有力チーム・ドライバーを招いた「輸入レース」の企画も増加した。1982年(昭和57年)には世界耐久選手権の日本ラウンド(WEC-JAPAN)、1985年(昭和60年)にはツーリングカーのインターTEC、1990年にはF3のインターナショナルF3リーグといったイベントが創設され、それぞれが複数年開催され国内のレース関係者に刺激を与えた。

さらに1980年代後半から1990年代前半にかけては、バブル景気下でモータースポーツブームが起き、全日本F3000選手権や全日本F3選手権、全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権などの全日本選手権クラスのレースから下級カテゴリーに至るまで参戦台数、および観客数が増え隆盛を誇る一方、これらの全日本格式のカテゴリーの人気のあおりを受けて、バブル景気が頂点を迎えた1989年(平成元年)には富士GCが廃止された[12]

なお、前述のサーキット廃止の話は、廃止騒動終結とほぼ同時に始まったバブル景気と、またバブル景気と同時に始まったモータースポーツブームによる隆盛を受けて、その後一度も話題に上ることはなくなった。

これを受けて1992年には、1987年に全面改修された鈴鹿サーキットや、1990年にオープンしたTIサーキット英田(現岡山国際サーキット)などの、他の国際格式のサーキットに比べて施設の旧退化、老朽化が目立っていただけでなく、安全性にも問題があると指摘されていたピットおよびパドックエリア、コントロールタワーなどが初めて改修された。

老朽化[編集]

1992年にピットガレージやコントロールタワーなどが改修されたとはいえ、殆ど更新されないままでいた施設の全体的な老朽化は否めず、1997年(平成9年)の横山崇と光貞秀俊、1998年(平成10年)の太田哲也、2002年(平成14年)の道上龍の大事故にも繋がるソフト、ハード両面の旧態化が進行し、FIAの基準を満たしていない施設が幾つも存在していたなど安全性の面でも懸念が高まっていた。

さらに上記のように、屋根部分が少なくコンクリートむき出しのグランドスタンド席や汲み取り式トイレ、老朽化したレストランや建物など観客用施設は約30年前のオープン当時のままで、バブル期のモータースポーツブームが終わり集客に苦心していた中、子供連れや女性客の獲得だけでなく、バリアフリーの観点からも早急な改修を望む声が観客やエントラント側からも多く上がっていた。

しかし、バブル景気崩壊後にモータースポーツブームが去っただけでなく、親会社の三菱地所も地価の下落に苦しんでいたこともあり、多額の投資がかかる大幅改修は行われないままであった。

リニューアル・オープン[編集]

新たに舗装されたランオフエリア(100Rからヘアピン)
新築されたピットガレージ

2000年(平成12年)、トヨタ自動車が三菱地所から同社株式を買収して正式に傘下に収め、2003年(平成15年)9月から営業を停止して改修工事を開始し、2005年(平成17年)4月10日にリニューアルオープンした。なおこの際にトヨタ自動車の研修施設なども敷地内に設けられた。

新コースはセパンサーキット(マレーシア)や上海インターナショナルサーキット(中華人民共和国)など、1990年代後半から2000年代にかけて新規にF1を開催しているサーキットのほとんどでそのコースのデザインを担当しているヘルマン・ティルケの手によるものである。

旧コースの特徴の一つだった約1.5kmの直線は残されつつ、コースが現代的に改良された。大きな変更点としては、旧コースでは最終コーナーから直線にスムーズにつながっていた部分が、新コースでは急勾配のつづら折れとなって入り組んだ複合コーナーの連続に直されており、難易度が増している。ドライバー側はコーナーのイン側が見通しが悪い事が指摘されており、スピンしたマシンに後続車が接触する事故も見られる。

この他、ピットロード出口が以前と比べ1コーナー寄りに改められ、ピットアウト時のスピードを下げる工夫がなされている。また、ランオフエリアはほとんどが舗装され、安全性が向上した上、コース脇には緊急車両用の通路が設けられた。これらの改修により同サーキットはF1開催に必要な資格のグレード1を取得した。さらに、オープン当時から変わっていないグランドスタンドや、グランドスタンドとパドックを結ぶ地下通路、1992年に建て替えられたばかりのピットガレージを含み、ほとんどの旧施設が解体撤去され、新たに作り直された。

グランドスタンドや1コーナーの観戦スタンド、グランドスタンド裏やパドックエリア内のレストラン、お土産屋、自動販売機、トイレ、駐車場など、観客が利用する施設の質的向上やバリアフリー化も旧来に比べ著しい。

グランドスタンドの座席は一席ずつ区切られ、ドリンクホルダーが設けられるなど、観客が快適にレースを楽しめるような工夫が凝らされている。また、グランドスタンドに障害者用観客席とトイレが用意され、また専用駐車場も近くに用意された。パドックとグランドスタンドを結ぶ通路も新たに広く、開放的な通路が設けられ、上り専用のエスカレーターも設置された。なお、コントロールタワーは改修して継続使用している。

F1の復活と再撤退[編集]

2008年F1日本グランプリ

1987年(昭和62年)から鈴鹿サーキットで行われていたF1日本GPの契約が2006年(平成18年)シーズンで終了することから、富士スピードウェイはそれ以降の日本グランプリの誘致を決定し、FOA(フォーミュラ・ワン・アドミニストレーション)との交渉の末、2007年の開催権を獲得した。鈴鹿側も2008年以降の開催を希望したことから、FIAは2007年9月、2008年は富士での開催とし、以降は鈴鹿と富士が隔年で交互に開催することを発表するに至った[13]

F1開催にあたっては、周辺の道路・宿泊施設等の状況を鑑みて、観客を駅や駐車場からシャトルバスで往復輸送する「チケット&ライド方式」を採用した。しかし、復活初年度の2007年(平成19年)は悪天候によりバス輸送が大混乱に陥り、予選終了後に観客が長時間にわたって場内に閉じ込められたり、決勝スタートまでに来場できないという不祥事が発生した。その他にも1コーナー仮設観客席からコースが見えないなどの諸問題が露呈し、日本GPの歴史に汚点を残す結果となった。レース後に観戦者より民事訴訟を起こされた。2013年1月24日に東京地方裁判所は訴訟を起こしていた67人の原告に対し、内53人に約80万円を支払うよう命じた[14]

2年目の2008年(平成20年)は20数億円を投じて対策を行い[15]、1コーナー等の場内施設を改修。決勝観客動員数を14万人から11万人相当に縮小し[15]、シャトルバスを会場内や周辺に待機させる「留め置き方式」が採用されたことから、前年ほどの混乱はみられなかった。また、「チケット&ライド方式」並びに「留め置き方式」は、有観客で行われた2020年東京オリンピックの自転車競技の際にも行われた。

2009年(平成21年)7月7日、富士スピードウェイは日本GP開催からの再撤退を発表した[16]。世界同時金融危機以降の不況等に伴う経営環境の悪化のほか、「SUPER GTやフォーミュラ・ニッポンも含め、国内のレース観戦客数が激減している」、「看板スポンサーも減少している」ことを理由に挙げた[17]。これにより日本GPは2009年より再び鈴鹿で行われることになった。

現在[編集]

以降はF1世界選手権の開催こそなくなったものの、その後もFIAの「グレード1」を持つ[18]世界でもトップクラスの施設を持つサーキットとして人気を博し、FIA 世界耐久選手権などの世界選手権格式のレースや、GTワールドチャレンジ・アジアやアジアン・ル・マン・シリーズなどの国際レースシリーズ、スーパーフォーミュラやSUPER GT、全日本F3選手権やスーパー耐久などの全日本格式クラスの国内のトップカテゴリーのレースが開催され、それぞれが数万人の観客を集めるなどの盛況を見せている。

2018年6月、スーパー耐久シリーズ富士大会として、富士スピードウェイにとって50年ぶりとなる24時間耐久レースが開催され、以降はシリーズの1戦として毎年開催されている[19][20]

また、フォーミュラ4や富士チャンピオンレース、インタープロトシリーズ、トヨタやフェラーリ、ポルシェやランボルギーニなどの各メーカーのワンメイクレースのような、若手やアマチュア主体のレースまで様々なカテゴリーのレースが1年を通じて開催されており、それぞれが数十台から数百台の参加台数を集めている。

さらに自動車レースのみならず、自動車メーカーやメディア、オーナーズクラブなどによる関連イベントや自転車イベント、音楽イベントを含む各種イベントも1年間を通じて頻繁に行われており、東日本のモータースポーツの中心地の一つとして賑わいを見せている。また2021年には東京オリンピックの自転車競技(ロードレース及びタイムトライアル)会場として使用され、静岡県は緊急事態宣言の発令を受けていないことから、全ての競技が有観客で開催された。

2022年4月6日、トヨタ自動車やグループの東和不動産は、富士スピードウェイを中心にホテルやミュージアム、レース車のガレージなどを備えた複合施設「富士モータースポーツフォレスト」を2022年秋から順次開業させると発表した[1]

5種のコース[編集]

場内には「本コース」の他にも、「ショートサーキット」、「ドリフトコース」、「ジムカーナコース」、「カートコース」の、種目および目的別の合計5つのコースがある。

本コースは、全長1,475mという世界有数のロングストレートを持ち、コース幅も15〜25mと広い(鈴鹿は10〜14m)[21]。かつては直線と高速コーナーからなる超高速コースだったが、時代とともにコーナーを増やす方向で走行速度の減速が図られている。リニューアル前はトップスピードを重視して、マシンにドラッグの少ないウィングやボディカウルが装着されたほか、1990年から1993年にかけて開催されたインターナショナルF3リーグの際に海外から来たチームは、リアウィングのアッパー部分を外して速度を稼ごうとしていた。現在は、低速テクニカルセクションがあるため、ある程度ダウンフォースを付けたセッティングが必要となっている。

開業時[編集]

赤と青が1974年までのコース、緑と青が2000年までのコース、青(3コーナー付近は赤、11コーナー付近は緑)が2003年までのコース

ホームストレートは現在よりも長く、1,700m近くあった。ストレートから全開のまま、30度バンクに突入。ぐるりと半円を描き、バンクを通過すると右、左と大きく旋回するS字コーナーを抜けて、現在の2コーナー出口に位置していた合流地点へ。左の超高速コーナー、250Rを通過して右の100Rへ。フルブレーキでヘアピンを抜け、300Rから最終コーナーまでの長い全開区間からホームストレートへ戻り1周となる。1周は6kmであり、当時の鈴鹿サーキット (6.004km) とほぼ同距離。フルブレーキポイントはヘアピンのみというハイスピードコースであった。

なお、前述のインディ富士200マイルや1973年(昭和48年)の日本GPでは30度バンクを通らないショートコースを使用し、普段とは逆の左回りでレースが行われた。

30度バンク[編集]

富士スピードウェイの大きな特徴として、30度のカントがついたバンクコーナーがあった。これは前述の通り、元々同サーキットがオーバルコースとして計画されたことの名残と言われている。オーバルコースではコーナーでの減速を極力減らすため、コーナーにバンクを付けるのが普通である。

当時、国内でこのような急角度の路面舗装を経験した業者はひとつもなく、依頼された日本鋪道(後のNIPPO)は、ロードローラーをバンクの上からワイヤーで引っ張るという方法できり抜けた。しかし、もともと経験不足を起因とする勾配の設計が良くない上に、後に「馬の背」と呼ばれることになるこぶ状のうねりもあった。カントのついたオーバルコースで争われるオートレースの世界から転進した田中健二郎曰く、「完成当初にコース管理者に『基礎に杭を打ち込んだか?』と尋ねたら、『打ち込んでない』と言われ『こりゃ駄目だ』と思った」そうである。

直線から30度バンクへはほぼアクセル全開で飛び込むが、走行ラインは1本しかなく、バンク下から吹き上げる横風の影響も受けた[22]。また、路面のうねりでマシンが底打ちするため、フロアやサスアームを補強しなければならなかった[22]。重大事故も発生し、開業年の日本GPでは永井賢一が死亡。1973年(昭和48年)の富士GC最終戦では中野雅晴が死亡した。中野の事故では二重に設置されるはずのガードレールが一枚しかなかった不備と、ステアリングミスが重なったものだった。1974年(昭和49年)の富士GC第2戦中には風戸裕と鈴木誠一の2人が死亡、観客や後続の選手ら6人が重軽傷を負う大事故が起き[23]たことを契機に30度バンクは閉鎖された。

バンクの使用停止に伴い、以後のレースは全て右回りで行われる形に改められている。ただし、ファン感謝デーや全日本プロドリフト選手権(D1グランプリ)、自転車のロードレースなど、自動車レース以外のイベントで本コースが使われる場合には、現在でも左回りで周回することがある。

旧コース時代の末期にイベントの一環として、体験走行会が何度か行われている。現在は一部の路面がモニュメントとして遺されたメモリアルパークとなっている。

30度バンク廃止後[編集]

1974年に30度バンクが廃止され、前述のショートカットコースをメインとしたレイアウトとなる。1周は4.359km。ホームストレートは約1,500mに短縮され、1コーナーはヘアピンとなる。それ以外は前述と同じレイアウトである。バンクは無くなったとはいえ、超高速コースである事には変わりない。1976年と1977年のF1もこのコースが使われた。

1980年代には3箇所の改修工事が行われた。

ダンロップシケイン設置
1983年5月に佐藤文康が最終コーナーで練習中の事故で死亡。同年10月には高橋徹が富士グランチャンピオンレースの決勝レース中に最終コーナーで事故死し観客にも死傷者が出てしまう。これらの事故を受け、翌1984年に300Rから最終コーナーの超高速区間の速度抑制、最終コーナー進入速度の低下を目的とし、300R出口と最終コーナー入り口の間にある丘を削る形で右、左、右と大きく切り返すシケインが設置された。シケイン脇のウォール部分にダンロップの広告が設置され、ダンロップシケインと呼ばれる。1周は4.410kmに。
1コーナーの形状変更
1コーナーは本来は30度バンク時代に緊急連絡用のショートカットルートとして設けられたもので、レース用に設計されたものではなかった。ホームストレートからブレーキを残しながら回り込むので、入り口で接触事故が起きやすかった。1986年に30Rと60Rを組み合わせた鋭角なヘアピンへと改修され、ストレートエンドで十分減速してからコーナリングする形となった。1周は4.441kmに。
サントリーシケイン設置
1987年には100R手前の左250Rの超高速コーナーにシケインが設置される。コーナーを直進し、フルブレーキで左、右と切り返す形となった。これにより100Rは大きく狐を描くように右に回り込む形となり、難易度は大幅に増す事になる。サントリーがスポンサーとなり、1990年代以降は缶コーヒー「BOSS」の大看板が設置される。このシケインを「Aコーナー」、ダンロップシケインを「Bコーナー」とする簡略化した名称も一般的に使われるようになった。1周は4.470kmとなり、2003年までこのコースは使われる事になる。
なお、この時に1コーナーからバンクへと続く路面は剥がされ、ダートのランオフエリアとなった。

リニューアル後[編集]

富士スピードウェイの空中写真(2007年)
ダンロップシケイン手前

全面リニューアル後の2005年から使われており、FIAの「グレード1」を取得している現行のレイアウトは距離が4.563km、コーナー数は16に変更された。コース終盤の第3セクターを中低速コーナーが連続するテクニカルセクションに変更し、高速テクニカルコースとなった。

長い直線から最大のオーバーテイクポイントとなる1コーナーは、旧レイアウトよりも鋭角なヘアピンとなった。2コーナーからの坂はなだらかになり、3コーナーへ。サントリーシケインは廃止され、ブラインドの高速左90度コーナー(コカコーラ・コーナー)となった。

100Rはランオフ確保のため、旧レイアウトよりも手前に置かれ、大きな弧を描く高速右コーナーで、旧コースよりもカーブが緩くなり通過速度は高くなる。ヘアピンも若干手前に変更され、100R出口からヘアピン入り口の距離は縮み、ブレーキングが非常に難しくなった。

ヘアピンを抜けると右の超高速コーナー300Rへ入り、全開のままダンロップシケインへ入る。新しいダンロップシケインはフルブレーキから右に大きく切り返し、すぐに左に切り返す形となり、旧コースに比べて通過速度は下がっている。2018年7月20-22日に開催されたブランパンGTアジア第7戦では、シケインの舗装に剥離が生じたため、急遽、シケインをショートカットする直線部をコースとして使用した例がある[24]

コース終盤のテクニカルセクションは坂を上りながら、ブラインドでラインが複数ある難易度の高いつづら折りのコーナーが3つ連続で続く。最終コーナーはラインが複数あり、カテゴリーにもよるがインベタで回るドライバーもいれば、外を回るドライバーもおり、ここの脱出がストレートの速度に影響するため、非常に難しいコーナーとされている。

ピットレーン入り口はホームストレートの中間にあるため、ピットに入る速度を大きく抑制するためにシケイン状のコーナーになっている。このピット入り口のシケインを上手く通過する事でピットのロスも減らせる形になっている。

2016年より新たにネーミングライツが導入され、1コーナーは「TOYOTA GAZOO Racing」がスポンサーとなり「TGRコーナー」に、100Rはトヨペット店がスポンサーとなり「トヨペット100Rコーナー」にそれぞれ改称された[25]

立地[編集]

サーキットから眺める富士山

富士山の東裾野、標高545-580mの土地にあり、天候が不安定であることで知られる。夕方以降には気温が急激に下がることも多い。また、気圧が低い関係からターボチャージャー搭載車が有利となり得るため、一時期のSUPER GTでは自然吸気車にハンデが与えられたこともあった。霧の発生も多く、緊急時用のドクターヘリの飛行が困難になることもある。

霧の発生や大雨により、レースの中止やスタートの遅延などが起きる場合もある。全日本ツーリングカー選手権ではスタートが大幅に遅延し、午後5時過ぎになってようやく中止裁定が下されたり、フォーミュラ・ニッポンではスタート遅延後に僅か5周で「レース成立」として終了した事例もある[注 2]。悪天候に見舞われたケースは以下の例がある。

コースレコード[編集]

主な開催レース・イベント[編集]

現在開催中[編集]

FIA 世界耐久選手権(2012年)
サイクリングフェスティバル イン 小山(2006年)

過去に開催[編集]

F1日本グランプリ(2008年)

場内設備[編集]

コース[編集]

本コースストレートとグランドスタンド

場内には本コースの他に、ショートサーキット、ドリフトコース、ジムカーナコース、カートコースの、種目および目的別の4コースがある。

本コースでレース他イベントが開催されない際には、持ち込んだレース専用車(ナンバー付き車輌も含む)による時間貸しの練習走行枠が設けられている(サーキットライセンスの取得が必要)ほか、貸し切り走行や自家用車での走行、オフィシャルカーの同乗走行を行うことも可能である[27]

また、N1仕様のトヨタ・86やフォーミュラチャレンジ・ジャパン用のフォーミュラマシンのレンタルや、プロドライバーによるレッスンプログラムも用意されている(サーキットライセンスの取得が必要)[28]ほか、カートコースではレンタルカートによる走行も可能である[29]

観客スタンド[編集]

グランドスタンド観客席(写真右側)とコントロールタワー、Aピット

本コースストレート前に設けられているグランドスタンドは22,288席。ドリンクホルダーも備えられた観客席が多数設けられているほか、バリアフリー対応の観客エリア、エレベーターやバリアフリー対応のトイレ、おむつ交換台や授乳所、自動販売機なども多数備えられている。また、グランドスタンド最上部には貸し切りが可能な観戦ラウンジ「プラチナルーム」が10部屋設けられている[30]

グランドスタンド裏のエリアはイベント広場となっており、全日本格式クラスのレースの開催時には、グランドスタンド裏では様々なイベントが行われるほか、多数の飲食店や土産物店が展開される。また、地元の名物料理などの屋台の出店も行われる[31]。また、グランドスタンド裏には総合案内所が設けられている。

なお、グランドスタンド中央部には、コース内側のコントロールタワーやパドックエリア、アドバンコーナー付近との間を行き来するための歩行者用地下道が備えられており、上りのみのエスカレーターもある。

グランドスタンド以外にも1コーナー近辺に常設の観客スタンド(2,200席、屋根なし)がある[32]。またそれ以外にも観客エリアが複数設けられており、グランドスタンドを含む主な観客エリアの周辺には、バリアフリー対応のトイレや自動販売機、駐車場などが備えられている。グランドスタンド裏をはじめ、随所に廃コンテナを改造した喫煙スペースやバリアフリー対応のトイレが設置される等の、追加工事が随時実施されている。

コントロールタワー[編集]

本コースストレート前のグランドスタンドの向かい側(コース内側)、ピットビルAに併設される形で3階建てのコントロールタワーがある。内部には競技役員室やメディカルセンター、事務所がある。なおコントロールセンターは1990年代に、現ピットビルやグランドスタンドに先立って新築されたものである。

ピット及びパドックエリア[編集]

Aパドック[編集]

コントロールタワーに並んで、3階建てのピットガレージ(ピットビルA)と、電動シャッターと電源が備えられたピットガレージ(ピットビルB)が設けられている。ピットビルAには30(電動シャッターや電源、控室とトイレ、モニター付)、ピットビルBには15のピット(電動シャッターや電源、モニター付き)が備えられており[32]、ともに有料で借りることができる。

また、ピットビルAの2階には有料で貸し切りでき、メインストレートとピットが見下ろせる多目的ルーム「クリスタルルーム」が9部屋[30]とモニターと電源完備のメディアルーム、ブリーフィングルームや表彰台などが設けられている。ピットビルAの最上層階は吹き抜けながらも屋根が設けられており、ここからレースを観戦することが可能である。ピットビルB屋上からもレースを観戦することが可能である。またピットビルAは車いす対応、また車を入れることのできるエレベーターも設けられている。

ピットビルA裏のパドックエリアには、有料で貸し切りできる2階建ての「パドックスイート」(ソファーや机といす、トイレとシャワー室、厨房や冷蔵庫付き)が6棟12部屋用意されている[30]ほか、別棟にタイヤやパーツメーカー、ドライビングスクールの施設やオフィスなどが備え付けられている。

B/Cパドック[編集]

コントロールタワー脇のBパドックには、車検場やエネオスのガソリンスタンドがある。ガソリンスタンドから300R方面に向かうとCパドックがある。BパドックとCパドックにはピットガレージが設けられていない。

なお、AとBとCの各パドックと駐車場は、大規模なレースがあるときは入場制限(パスコントロール)が行われる。また、コントロールタワーやパドックエリアとグランドスタンド中央方面との間を行き来するための歩行者用地下道が備えられており、上りのみのエスカレーターもある。

ORIZURU[編集]

Aパドック横には、カレーライスやパスタ、麺類やハンバーグなどを提供する、約200席を持つセルフサービス式のレストラン「ORIZURU」と土産物店[33]が設けられている。

なお、全日本格式や世界選手権格式のレースやイベントの開催日には、Aパドックエリアは関係者以外に対するパスコントロールがかけられる、もしくは別途入場料金が設定されることが多いが、Aパドックエリアへの入場制限がかけられる際も、「ORIZURU」や土産物店へは入場制限がかからないことが多い。

モビリタ[編集]

敷地内にトヨタの交通安全センター「モビリタ」[34]が置かれており、企業、団体向けの交通安全教室が平日に開催されている他に、一般ドライバー向けの各種交通安全教室も開催されている。

レクサスカレッジ[編集]

東ゲート近くには、レクサス販売のための研修施設である「レクサスカレッジ」がおかれている。この施設はレクサス販売関係者のためのものであり、一般に公開はされていない。

ホテル[編集]

敷地内の西ゲート付近に「富士スピードウェイホテル」が東和不動産(運営はハイアット・ホテルズ・インターナショナル)により建設されている。2022年秋をめどに完成予定で、モータースポーツをテーマにした博物館も隣設する予定。

サーキット事務所[編集]

東ゲート脇に運営会社である富士スピードウェイ株式会社の本社とサーキット事務所が設けられており、サーキットライセンスの取得やコース貸し切りの申し込み、プレス受付や広告看板の掲出申し込みなどに対応している。また、コントロールタワーにも事務所が設けられており、サーキット走行券の購入などはこちらで行う。東京都千代田区内にも富士スピードウェイの東京営業所がある。

その他施設[編集]

「モビリタ」や「CGパーク」を含む各エリアは、レースやオーナーズクラブイベント、新型車試乗会などの自動車イベント以外にも、音楽イベントなどの様々なイベントの会場としても供用されている。なお、レースなどのイベントが開催されない時、特にオフシーズン時期には、一部の駐車場をトヨタ自動車の出荷前の新車のモータープールとしても使用していることがある。

西ゲート脇にはエネオスのガソリンスタンド(富士スピードウェイ西ゲートSS)が設けられている。なおこのガソリンスタンドはサーキット外にあるため、サーキット利用者以外の利用も可能である。また、2017年に西ゲート付近に「モータースポーツ顕彰碑」が建立された。

2017年7月に、トヨペット100R内側の森の中にティラノサウルスやステゴサウルス、イグアノドンなど、15種類以上の恐竜の実物大模型や骨格模型などが置かれた子供向け娯楽施設「富士ジュラシックウェイ」がオープンした[35]が、中華人民共和国から世界中に広まったCOVID-19による流行を受けて2020年に閉鎖された。

場内放送[編集]

レース開催時には周波数79.7MHzのミニFMで場内実況される[36]
また、2016年より一部レースが地元のコミュニティ放送局エフエム御殿場(富士山GOGOエフエム)でも場内実況が放送される。

過去には、テレビジョン放送の実験も行われた。東通が総務省のホワイトスペース特区募集に提案し[37]、特区として認定され[38]、2011年11月の富士スプリントカップからワンセグ放送を実験[39]、2012年5月のSUPER GTからワンセグ放送のほか、場内に設置されたデジタルサイネージへのフルセグ放送の実験も行われた。これらは実験試験局[40]によるものであった。実験結果より、地上一般放送局を開設するには設備投資の費用を捻出することが最大の課題とわかり広告収入のみで投資の回収は困難と判断[41]、結局エリア放送は開始されなかった。

入場料/走行料[編集]

入場料金[編集]

レースやイベントが開催されていない日でも入場が可能で、入場料は大人(18歳以上)が1,100円、高校生800円、中学生以下は入場無料である。入場料には場内駐車場代が含まれている。なお、サーキットライセンス所有者は入場無料である。日本自動車連盟(JAF)会員向けの割引もある。

全日本格式クラスや国際格式のレースやイベントが行われている日は、それぞれのレースやイベントの入場料に準じる。また、「ワールドチェカパス」と名付けられた、富士スピードウェイで行われるスーパーフォーミュラやSUPER GTなどの5つの全日本格式クラスのレースを一般観戦エリアで観戦できるパスが毎シーズン開幕前に販売される、さらに、「ワールドチェカパス」に、パドックパス(ピットウォーク含む)が付随したパスも同時に販売されている。

走行料[編集]

各コースごとに走行料金が設定されており、また安全のためにラップタイムやマシンカテゴリーごとに時間帯が区切られている。なお時間ごと、もしくは全日での貸し切りも可能である。またコース以外にもイベントスペースや駐車場エリアの貸し切りも可能である。なお、貸し切りイベントや貸し切り走行会以外で各コースを走る際には、サーキットライセンスの取得が必要である。

現在[編集]

富士スピードウェイに隣接して、かつて富士スピードウェイを運営していた三菱地所の子会社が所有しているゴルフ場「東富士カントリークラブ」と、大型公園墓地の「富士霊園」がある。なお以前は、「東富士カントリークラブ」へは、富士スピードウェイの西ゲートから入場するようになっていた。周辺には他にも複数のゴルフ場がある他、2020年の東京オリンピックの開催に合わせて近隣の設備が進められた。

東西ゲートの徒歩圏内に商店などは無いが、車で5-10分圏内には複数のコンビニエンスストアやレストラン、病院や郵便局、ガソリンスタンドなどが存在する。なお西ゲート周辺の大御神地域は、「ノバ・エンジニアリング」や「東名スポーツ」、「シフト」や「近藤レーシングガレージ」など多数のレーシングガレージやメンテナンス工場が集中しているため、「大御神レース村」と呼ばれている。

計画[編集]

2021年に完成予定の新東名高速道路の小山PA(仮称)とスマートICの開発に伴い、同エリアが「モータースポーツ関連産業エリア」として、再開発される計画もある[42]

アクセス[編集]

御殿場インターチェンジ

市街地や観光地に囲まれていることから、国内の他のサーキットと比べ交通手段は比較的恵まれており、高速道路のインターチェンジや複数のスマートICに至近な上に、近隣の複数の鉄道駅からのバス便もあるほか、鉄道駅からタクシーでもアクセスできる。

観客は「東ゲート」もしくは「西ゲート」の2つの入場ゲートから自家用車、シャトルバスもしくは徒歩でサーキット内に入るのが一般的である。ただし、営業日は常時開門している東ゲートと違い、西ゲートは大規模なレース開催日以外は閉まっている場合もあり、事前に確認が必要である[43]

また、西ゲートからグランドスタンドまでは徒歩で15分-20分程度だが、東ゲートからグランドスタンドまでは上り坂のみの徒歩で45分-60分程度かかるので注意が必要である[43]

自動車/オートバイ[編集]

自動車で来場する場合は西ゲート/東ゲートから入場し、場内に複数ある駐車場(15か所の自動車用駐車場と1か所のオートバイ専用駐車場。A、B、Cパドック内の関係者用のものは除く)が使用できる。また、大規模レースの際は場外に臨時駐車場が設けられ、各ゲートと主要観客席、駐車場を結ぶ場内シャトルバスが運行される[44]

なお、元々近傍にある東名高速道路は非常に交通量が多い上、休日ともなると富士山や富士五湖などの観光地に向かう観光客や、御殿場プレミアム・アウトレットに向かう買物客、ゴルフ客がこれに加わること、またサーキット周辺の一般道で幹線道路は国道246号と国道138号(御殿場バイパス)ぐらいで抜け道も少なく、抜け道自体が片側一車線の市道であることから、レース開催時には御殿場インターチェンジやぐみ沢交差点付近での渋滞が発生しがちであった。

また2012年(平成24年)には、新東名高速道路の御殿場ジャンクション以西が一部開通したために交通事情の改善が期待されたが、大規模レースの観客と行楽客が重なり大きな渋滞が発生し、サーキット出口から御殿場インターチェンジまで1時間以上かかることもあった。

しかし2019年に、最寄りの東名高速道路の足柄サービスエリアにスマートICが設けられ、東名高速道路の上下路線への所要時間が大幅に短縮された。

さらに将来的には、新東名高速道路の小山PA(仮称)とスマートICが、東西ゲートからそれぞれ数百メートルの距離に完成する予定であり、これによる利便性の向上が期待されている[45]。しかし、小山はスマートICで処理能力に限界がある上に、東西ゲートから近すぎることから、大規模レースの終了時に場内で渋滞が発生する可能性も取りざたされている。

鉄道[編集]

JR御殿場駅(富士山口側)

複数の鉄道駅から公共交通手段(路線バスもしくはタクシー)を使ってアクセスできる。なお、臨時バスが出ない通常時に路線バスでゲートまで直行できるのはJR御殿場線の御殿場駅もしくは駿河小山駅に限られる。交通系ICカード利用の場合JR東から御殿場線へ乗り換えの際そのまま乗り換えることはできないが、TOICAの利用可能範囲が国府津駅まで拡大されたため、一旦下車し専用の改札口より入場することで交通系ICカードを利用することができる。

バス[編集]

JR東海御殿場線の御殿場駅(富士山口側5番)や駿河小山駅から冨士霊園行きの富士急行の路線バスに乗車し、バス停「スピードウェイ東ゲート」又は「スピードウェイ西ゲート」で下車というルートの他に、御殿場駅(富士山口側5番)から上野行きの富士急モビリティの路線バスに乗車し、「スピードウェイ東ゲート」で下車というルートもある[47]。いずれも各ゲートまでの所要時間は30分-40分程度である。交通ICカード可

さらに、全日本格式や国際格式の大きなレースの際には、JR御殿場駅(富士山口側7番)からの臨時バスのほか、小田急小田原線開成駅から新松田駅経由の臨時バスも運行される。

タクシー[編集]

JR御殿場駅や駿河小山駅からタクシーでアクセスすることも可能である(各ゲートまで20分-25分程度)[47]。なおサーキット内にはタクシー乗り場はない上に、流しのタクシーもほとんど走っていないが、電話で場内に呼ぶことが可能である。

ヘリコプター[編集]

西ゲートを入った横にヘリポートがあり、事前に予約することで一般のヘリコプターが有料で利用することが可能である[48][49]。なお、パドック/グランドスタンドまで徒歩で15分-20分かかる。東京ヘリポートまで30分、中部国際空港まで50分程度である。これとは別に最終コーナー内側にもヘリパッドがあるが、こちらはドクターヘリ専用で一般の利用はできない。

前述のように、2022年秋をめどに、富士スピードウェイの敷地内の西ゲート付近に「富士スピードウェイホテル」が東和不動産により建設されている。また、地元の小山町[50]及び御殿場市周辺は元々避暑地や富士山登山の拠点であり、ビジネスホテルやシティホテル、リゾートホテルや旅館、民宿やユースホステルの他にも、会員制リゾートホテルをはじめとする宿泊施設が多数点在する。また、周辺には山中湖や河口湖、箱根といった日本有数の観光宿泊施設の集積地があるため、通常時は宿泊施設の確保が比較的簡単にできる。

しかし、富士スピードウェイの世界選手権大会や全日本格式のレースの開催日や連休、富士急ハイランドでの野外コンサート、御殿場市のゴルフ場でのプロゴルフトーナメント[51]の時期は、観客や関係者により早くから予約が埋まるので注意が必要である。

富士スピードウェイが登場した作品[編集]

映画
テレビドラマ
ゲーム

参考文献[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 漫画家のしげの秀一は『バリバリ伝説』(『週刊少年マガジン』)のタイトル頁で、主人公巨摩郡が「FISCOなくなったら困るぜ!みんなで反対しよう!」と呼びかける形で反対運動に賛同した。
  2. ^ 正式に中止となったレースではチケットの払い戻しや振り替えなどが行われるが、形式上「レース成立」となったレースはチケットの払い戻しは行われなかったため、来場者などから不満の声が上がったこともある。
  3. ^ 濃霧のため決勝レースが2周で打ち切りとなった。詳細は[26]等を参照。
  4. ^ 豪雨とそれに伴う濃霧のためセーフティーカーランのレッドフラッグでレースらしいレースのないまま途中打ち切り、16周で成立。FIA 世界耐久選手権#日本開催
  5. ^ a b 1984年と1987年のコース改修でシケインが設置される以前の記録。
  6. ^ 1999年に再計測され、4.400kmに改められた。1999年のル・マン富士1000kmもJSPC時代より4周多い228周で争われた。

出典[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]