萬古焼 – Wikipedia

萬古焼(蕎麦猪口)

萬古焼(ばんこやき、万古焼)は、陶磁器・焼き物の一つで、葉長石(ペタライト)を使用して耐熱性に優れた特徴を持つ。陶器と磁器の間の性質を持つ半磁器(炻器)に分類される。

三重県四日市市の代表的な地場産業であり、1979年(昭和54年)1月12日から経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定されている。その耐熱性の特徴を活かした紫泥の急須や土鍋が有名であり、特に土鍋の国内シェアは約8割を占める[1]。また、豚を模った蚊遣器「蚊遣豚」でも有名である。四日市市内の橋北地区と海蔵地区で萬古焼が盛んである。四日市市指定無形文化財[2]

萬古焼は江戸時代中期に桑名の豪商沼波弄山によって生み出され、文人趣味によって発展した焼き物であった(古萬古)。古萬古がいったん廃絶した後、各地で萬古焼の再興が試みられた。四日市の萬古焼も、幕末期に再興されたもののひとつで、明治時代に地場産業として定着した。以後、半磁器式の硬質陶器など新たな技術を用いた新たな商品が開発された[3]

古萬古[編集]

萬古焼は、桑名の豪商沼波弄山(ぬなみろうざん)が、元文年間(1736年〜1740年)に朝明郡小向(あさけぐん おぶけ、現在の三重郡朝日町小向)で創始した[4][3]。弄山は自身の作品自身のブランド名である「萬古」の印を押した。弄山の時代の作品は、現代では古萬古と呼ばれる。

萬古焼は京焼の技法に倣ったもので、茶碗の写し物から始まった[3]。やがて、華麗な色絵と異国趣味を特徴とするようになった萬古焼は江戸でも好評を博し、江戸小梅に窯を設け(江戸萬古)、弄山も江戸に移住するに至った[3]

安永6年(1777年)に弄山が没した後も続いたが、後継者がいなくないり萬古焼は一時途絶えた[3]

萬古焼の再興[編集]

天保年間(1830年〜1843年)、桑名の陶器師森有節らによって萬古焼が再興された(有節萬古)。華麗な粉彩による大和絵の絵付と、木型成形法によって製造された斬新な急須は桑名の名物となり、桑名藩も製造を奨励した[3]

桑名では有節萬古を模倣・追随する陶芸家も多く現れた[3](桑名萬古焼)。現在、桑名萬古焼は三重県伝統工芸品となっている[5]

また、弄山の弟子の沼波瑞牙が津で安東焼(後の阿漕焼)、射和村の竹川竹斎は射和萬古を興した[4]

四日市萬古焼[編集]

四日市萬古焼は山中忠左衛門の尽力によって興り[4]、阿倉川や末広に最初の窯が建った[6]

もともと阿倉川では、唯福寺の住職田端教正が陶工を招き、文政12年(1829年)に信楽焼風の雑器を作る窯を開いた(海蔵庵窯)[3]。隣村末永の庄屋であった山中忠左衛門は、海蔵庵窯で焼き物の手ほどきを受け、憧れる有節萬古を研究するため、嘉永6年(1853年)に自邸内に窯を開いた[3]

明治時代には山中忠左衛門らによって洋皿やコーヒーカップ等の洋食器の研究や地域住民への製作指導、海外輸出も行われるようになった。陶土として使っていた四日市の土は赤土であり、輸出向けの白地の食器を作ることが困難であったため、日本各地から陶土・陶石を移入して対応した[6]。昭和に入る頃には日本国内から萬古焼の陶土に適した土がなくなってしまったが、1936年(昭和11年)に開催された国産振興四日市大博覧会を通して朝鮮に適した陶土があることが分かり、取引の具体化が始まった[7]

第二次世界大戦前、生産額の60%は対米輸出が占めていた[3]。対米輸出が途絶えた戦時期には、耐火煉瓦や、軍需優先で不足した金属製品の代用品の製造などを行った[3]。1945年(昭和20年)6月18日の四日市空襲で、製造設備の8割と販売業者の施設のほとんどが焼失する大きな被害を受けた[3]

戦後、萬古焼の復興は速やかに進んだ[3]。1959年(昭和34年)頃には高熱を加えても割れない陶土の開発に成功し、「割れない土鍋」として国内シェアを伸ばした[1]

輸出の最盛期であった1980年(昭和55年)には出荷額が202億円に上ったが、1998年(平成10年)には85億円まで落ち込んだ[6]。一方国内向けの出荷額はほぼ横ばいを続けている[8]。2016年(平成28年)5月26日から5月27日にかけて開催された第42回先進国首脳会議(伊勢志摩サミット)では、萬古焼の盃が首脳陣の乾杯の際に使用された[9]

四日市市内陶栄町には萬古神社が築かれ、森や山中の記念碑が建てられている。また5月第2週の土日には萬古祭りが開かれ、様々な陶器が売られている。

萬古焼の作品は桑名市博物館のほか、私立のパラミタミュージアム(三重県菰野町)、BANKO archive design museum(四日市市)[10]などに所蔵・展示されている。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]