ハリウッド・キャンティーン – Wikipedia

ハリウッド・キャンティーンHollywood Canteen)は、1942年10月3日から1945年11月22日(感謝祭)までハリウッド近郊のカリフォルニア州ロサンゼルスのカウェンガ・ブールバード1451[注 1]に存在したクラブ。ハリウッドのスターたちがボランティアで、海外派兵される兵士たちに食事、ダンス、エンターテイメントを提供した。兵士のほとんどはアメリカ軍兵士だったが、アメリカ以外の連合国軍兵士、女性兵士にも開放した。入場券は着ている軍服で、すべてが無料。映画『ハリウッド玉手箱』(1944年)はここを舞台としたロマンティック・コメディ映画で、多くのスターが本人役でカメオ出演した。

東海岸にもステージドア・キャンティーンというクラブが作られ、ブロードウェイのスターたちが兵士をもてなした。ハリウッド同様、『ステージドア・キャンティーン英語版』(1943年)という映画も作られた[1]

ハリウッド・キャンティーン外観(1943年頃)

ハリウッド・キャンティーンの発起人となったのはベティ・デイヴィス、ジョン・ガーフィールド、それにMCA社長のジュールス・C・スタインで彼が財務委員長を勤めた。建物のリフォームにはエンターテイメント業界の複数のギルド、組合が労力と資金を提供した。運営はボランティア。オープンまでに3000人を越す俳優、映画監督、プロデューサー、裏方、ダンサー、ミュージシャン、歌手、脚本家、技師、衣装係、ヘア・スタイリスト、エージェント、スタントマン、宣伝マン、秘書、その他ラジオ・映画関係者がボランティアに登録していた。

スターたちは給仕に調理に洗い物に奉仕した。兵士たちにとってのハイライトは女性セレブとのダンスだった。また、ハリウッドの有名スター、ラジオスター、ビッグバンド、一発屋芸人たちの披露するエンターテイメントも人気だった。 1943年9月15日、100万人目の客がハリウッド・キャンティーンに来場した。この幸運な兵士カール・ベル軍曹はベティ・グレイブルにキスされたうえ、マレーネ・ディートリヒにエスコートされた。もう1人の幸運な兵士ハーマン・ハーニーはレイン・シスターズ英語版のローズマリー・レインと踊る機会を得た。

ハリウッド・キャンティーンの名誉の殿堂には、軍に奉仕した映画俳優たちの写真が壁に飾られていた。

1944年、ワーナー・ブラザースはジョーン・レスリー、ロバート・ハットン英語版主演、デルマー・デイヴィス監督・脚本で、ハリウッド・キャンティーンを舞台にした映画『ハリウッド玉手箱』(原題:Hollywood Canteen)を製作。実際にボランティアで働いていた多くのスターたちが本人役で出演した。

閉店までに300万人の兵士たちに利用された。

建物は現存していない。跡地は駐車場とCNNのビルがある。場所はサンセット・ブールバード英語版の真南に位置する。

ディートリヒの娘マリア・ライヴァ英語版によると、ヘディ・ラマーの誘いでディートリヒは皿洗いすることを決めたという。その時、ベティ・デイヴィスが2人を皮肉ってこう言った。「そこのクラウト2つ[注 2]を台所の外に出して!」[2]

ハリウッド・キャンティーンがノース・クレセント・ハイツ・ブールバード1284にあったという記述は誤り。そこはダスティン・ファーナム英語版の所有する家で、第2次世界大戦中が終わるまでアン・”マム”・レーアが兵士たちに食事と二段ベッドを提供していた。1948年にその家が取り壊された時、新聞がハリウッド・キャンティーンだと間違えた[3]

主なボランティア[編集]

注釈[編集]

  1. ^ カフエンガ・ブールバードとも呼ばれる。
  2. ^ ドイツ人の蔑称。とくに第1次世界大戦・第2次世界大戦中にドイツ兵に対して使われた。由来はザワークラウト

出典[編集]