寬仁親王妃信子 – Wikipedia

称号: 親王妃
敬称 殿下(妃殿下)
Her Imperial Highness the Princess

寬仁親王妃信子(ともひとしんのうひ のぶこ、1955年〈昭和30年〉4月9日 – )は、日本の皇族。寬仁親王の妃。身位は親王妃。敬称は殿下[1]。お印は花桃(はなもも)。勲等は勲一等宝冠章。旧名は麻生 信子(あそう のぶこ)。

伯爵・牧野伸顕の曾孫。第45・48 ・49・50・51代内閣総理大臣・吉田茂の孫。第92代内閣総理大臣麻生太郎の末妹。子女に彬子女王、瑶子女王がいる。

生い立ち[編集]

1955年(昭和30年)4月9日、麻生セメント会長の麻生太賀吉の三女として生まれる。母は第45代内閣総理大臣吉田茂の長女・和子。兄に麻生太郎がいる。

松濤幼稚園に入園する。聖心女子学院初等科、中等科を経て、英国・ランカシャーのインデペンデント・スクール、ロスリンハウス・コレッジ(Roselyn House College)へ入学した。

卒業後は、彼女自身も通っていた松濤幼稚園に英語講師として勤める。

親王妃として[編集]

結婚[編集]

1972年(昭和47年)2月、16歳の時に寬仁親王(当時26歳)から求婚されたが、当時はまだ高校生で若すぎるということもあり、8年後の1980年(昭和55年)4月18日の皇室会議を経て婚約。同年の11月7日に成婚した。同日付で勲一等宝冠章を受章した。この時から、東京都千代田区三番町の仮寓所に居住する。

翌1981年(昭和56年)12月20日に長女彬子女王、1983年(昭和58年)10月25日に次女瑶子女王の女子2人を出産した。

日本赤十字社名誉副総裁のほか、社団法人東京慈恵会総裁、一般社団法人日本童謡学会名誉総裁、財団法人日本ばら会名誉総裁などに就任している。料理を得意としており、料理に関する著作もある。特に次女・瑶子女王は「とても自慢」と記者会見で語ったほどである[2]

静養[編集]

2004年(平成16年)5月に一過性脳虚血の発作が起こり、7月より長野県軽井沢町の相馬家(元子爵・実姉の婚家)の別邸にて療養した。更年期障害も重なり静養を続けていたが[3]、2006年(平成18年)に新年の祝詞を述べるため一度帰京した。再び軽井沢にて療養に入るも症状が治まったため、5月帰京を予定していた。しかし寬仁親王の体調不良から延期され、同年8月に2年ぶりに宮邸に戻ったものの[4]、式典への欠席が続いていた。

さらに2008年(平成20年)暮れになると気管支喘息を患い、入退院を繰り返していた。姉や兄たちの別邸に長期療養し、東京に戻っても宮邸には戻らず、宮内庁長官公邸(千代田区三番町)に住まうなどしていた[5]

2012年(平成24年)6月の寛仁親王薨去に際しては、表に出ることはなく、喪主を第一女子の彬子女王が務めることになった[6]。また、信子妃も彬子女王も寛仁親王家の当主を継承することがないまま、寬仁親王家が三笠宮本家に合流することになった[7]

寛仁親王薨去後[編集]

2013年(平成25年)11月に、ようやく公務復帰を果たしたと報じられた[3][8]

さらに2014年には、義弟・桂宮宜仁親王の薨去に際し、同宮邸に弔問に訪れていたことも報じられた。10月12日には日本青年会議所第63回全国大会松山大会へ出席、10月29日のオランダ国王夫妻歓迎の宮中晩餐会へ11年ぶりに出席、11月6日の園遊会には2004年春以来10年半ぶりに出席、2015年1月2日の一般参賀には19年ぶりに出席した。

2019年には、ライフワークとして寛仁親王とともに尽力してきた「童謡」の再興を掲げる日本童謡学会の名誉総裁に就任し、同団体を通じた被災地支援活動にも積極的に参画している。

系図2
大久保利通からの系図。

日本[編集]

外国[編集]

名誉役職[編集]

宮号の表記に関して[編集]

1947年(昭和22年)10月14日に11宮家が離脱する前までは、宮家の数が多く、現在の悠仁親王のように「嗣子であるためあえて宮号を受けていない親王・王」を有する宮家が複数あったため、そのような「嗣子たる親王・王」のことを「○○若宮」(○○のわかみや)と呼ぶ慣習があったが、現憲法下では皇室制度に詳しい人々の間でもこの呼称はほとんど用いられない。慣習に従えば、寬仁親王は「三笠若宮」、同妃信子は「三笠若宮妃」となる。

なお、政府による正式表記(内閣告示や宮内庁告示など)では皇族に宮号が冠されることはない(「皇太子」を除く)ため、それらの告示が掲載される官報での表記は必ず「寬仁親王妃信子」とされ、「三笠宮」が冠されることはない。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]