バグワント・ダース – Wikipedia
バグワント・ダース Bhagwant Das |
|
---|---|
アンベール王 | |
在位 | 1574年 – 1589年 |
別号 | ラージャ |
|
|
出生 |
不詳 アンベール |
死去 |
1589年12月10日 ラホール |
子女 | マーン・シング |
王朝 | カチワーハー朝 |
父親 | バール・マル |
宗教 | ヒンドゥー教 |
バグワント・ダース(Bhagwant Das, 生年不明 – 1589年12月10日)は、北インドのラージャスターン地方、アンベール王国の君主(在位:1574年 – 1589年)。バグワーン・ダース(Bhagwan Das)とも呼ばれる。
アンベール王国の君主バール・マルの息子として、アンベールで誕生した[1][2]。
1562年、父バール・マルはムガル帝国の皇帝アクバルに娘ハルカー・バーイーを嫁がせ、同盟関係を結んだ[3]。これにより、バグワント・ダースは帝国の宮廷に出仕することとなった。
1567年10月、アクバルはメーワール王国の首都チットールガルを包囲したが(チットールガル包囲戦)、これにはバグワント・ダースも作戦参謀として加わっている。
1574年1月、父王バール・マルが死亡したことにより、王位を継承した[4][5]。
1585年、バグワント・ダースはカシュミール・スルターン朝の征服を命じられた[6]。これはカシュミールの君主ユースフ・シャーが皇帝アクバルとファテープル・シークリーで面会し敬意を伝えること、つまり服属を拒否したからであった[7]。
だが、真冬にシュリーナガルに兵を進めたため、バグワント・ダースの軍は寒さと雪、それに食糧不足に襲われた。そのため、独立を認める代わりとして、サフラン、織物、貨幣などの貢物、アクバルの名でフトバ(説教)を唱えることを条件にユースフ・シャーの申し出を受け入れた[8]。
しかし、アクバルはカシュミールを征服できなかったことに激怒し、まもなくカーシム・ハーンという武将を派遣し、1586年10月15日にシュリーナガルに入城し、この地を征服した[9]。だが、ユースフ・シャーの息子らが抵抗を続けたため[10]、バグワント・ダースはその後も帝国北西部にとどまった。
1589年12月10日、バグワント・ダースはラホールで死亡し、息子のマーン・シングが王位を継承した[11][12][13]。
- ^ JAIPUR (Princely State) (17 gun salute)
- ^ Jaipur (Princely State)
- ^ チャンドラ『近代インドの歴史』、p.252
- ^ JAIPUR (Princely State) (17 gun salute)
- ^ Jaipur (Princely State)
- ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.141
- ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.141
- ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.141
- ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.141
- ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.141
- ^ Cenotaphs Of Kachhawa Rulers
- ^ JAIPUR (Princely State) (17 gun salute)
- ^ Jaipur (Princely State)
参考文献[編集]
- アンドレ・クロー、杉村裕史訳 『ムガル帝国の興亡』 法政大学出版局、2001年。
関連項目[編集]
- アンベール王国
Recent Comments