吉沢秀和 – Wikipedia

吉沢 秀和(よしざわ ひでかず、1945年5月13日 – )は、長野県出身の元プロ野球選手(投手)。1967年までの登録名は吉沢 勝

来歴・人物[編集]

北海高等学校では2年生の時、控え投手として1962年の春夏の甲子園に出場。春の選抜では1回戦で御所工に敗退[1]、吉沢の登板はなかった。夏の選手権では準々決勝に進み、伊藤久敏投手を擁する久留米商と対戦。先発した3年生エース松谷栄司が5回に負傷退場し、吉沢は急遽リリーフに立つが、9回に3点を取られ逆転負け。苦い甲子園デビューとなった[2]。同年の岡山国体では1回戦で先発。作新学院の八木沢荘六、加藤斌に投げ勝ち完封勝利を飾る。しかし2回戦(準々決勝)で鹿児島商の浜崎正人に抑えられ敗退。チームメートに1年上の中村之保遊撃手、同期の谷木恭平中堅手がいた。

翌1963年の春の選抜にエース、四番打者として連続出場。接戦を続けながらも勝ち進み、準決勝では優勝候補の早稲田実業を相手に、自らのサヨナラランニングホームランで劇的勝利をおさめた。決勝では池永正明投手擁する下関商と対戦するが、四連投の疲れもあり、相手打線に打ち込まれ0-10で大敗[1]。しかし初めて準優勝旗が津軽海峡を越えることとなった。同年夏の南北海道大会でも決勝に進出するが函館工に敗退、甲子園出場を逸する。

大型左腕投手として各球団から注目され、巨人と阪急の間で契約を巡っての争いまで起こるが、結局はコミッショナー裁定により、1963年に巨人入団。翌1964年のジュニアオールスターにも出場するが、その後は伸び悩む。1967年は10月13日にサンケイを相手に初登板。8回表の1イニングを無安打無失点に抑え、味方がその裏に逆転しプロ唯一の勝利を記録した。しかしその後も活躍の場に恵まれず、1968年限りで引退した。カーブ、シュートが武器の投手だった。

1969年には中南米に設立されたグローバルリーグの東京ドラゴンズに参加するが、現地に赴く前に退団している。

現在は郷里の長野県で少年野球の指導に携わっている。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]

背番号[編集]

  • 77 (1963年)
  • 50 (1964年 – 1967年)
  • 63 (1968年)

登録名[編集]

  • 吉沢 勝 (よしざわ まさる、1963年 – 1967年)
  • 吉沢 秀和 (よしざわ ひでかず、1968年)
  1. ^ a b 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  2. ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 北海高等学校野球部史制作委員会編『北海野球部百年物語 北の球児、闘いの記録 』、2009年8月