松平忠学 – Wikipedia
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凡例
松平忠学 |
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時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 天明8年7月19日(1788年8月20日) |
死没 | 嘉永4年7月10日(1851年8月6日) |
改名 | 栄次郎(幼名)、忠学、松翁 |
別名 | 左近(通称) |
戒名 | 大信院殿奥智徳松翁大居士 |
墓所 | 東京都港区虎ノ門の天徳寺 |
官位 | 従五位下・伊賀守、内蔵頭 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 信濃上田藩主 |
氏族 | 藤井松平家 |
父母 |
松平忠明、松平忠常娘 松平忠済 |
妻 | 松平忠済娘光柏院、林氏、佐田氏 |
子 | 忠和、忠優、三仙子、井上正春継室 |
松平 忠学(まつだいら たださと)は、江戸時代後期の大名。信濃国上田藩5代藩主。官位は従五位下・伊賀守、内蔵頭。伊賀守系藤井松平家7代。
天明8年(1788年)7月19日、上田藩主家分家で信濃更級郡5000石(塩崎知行所)の大身旗本である松平信濃守忠明の次男として誕生した。4代藩主・松平忠済の長男・忠英の早世から御家騒動が起こったため、宗家から忠済の養子として迎えられる。文化9年(1812年)5月6日、養父・忠済の隠居により家督を相続し、従五位下・伊賀守に叙位・任官する。
紅葉山火の番、桜田御門番などを歴任した。文化10年(1813年)に藩校・明倫堂を創設して文武を奨励している。
忠学は忠済の四男・忠和を養子としたが、忠和は夭逝する。このため文政13年(1830年)4月20日、代わって養子とした忠優(後の忠固)に家督を譲って隠居し、内蔵頭に遷任する。天保10年(1839年)10月に剃髪して松翁と号した。
嘉永4年(1851年)7月10日に死去した。享年64。
- 父:松平忠明
- 母:松平忠常娘
- 養父:松平忠済(1751年 – 1828年)
- 正室:光柏院 – 松平忠済娘
- 側室:林氏
- 側室:佐田氏
- 養子
- 男子:松平忠和(1791年 – 1828年) – 松平忠済の四男
- 男子:松平忠固(1812年 – 1859年) – 前名・忠優。酒井忠実の次男
- 女子:三仙子 – 松平忠固正室、松平忠徳娘
- 女子:井上正春継室
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