鳴戸 (給油艦) – Wikipedia

鳴戸
横須賀を出港する「鳴戸」(1932年5月29日)[1]

横須賀を出港する「鳴戸」(1932年5月29日)[1]
基本情報
建造所 横須賀海軍工廠[2]
運用者  大日本帝国海軍
艦種 運送艦[3](給油艦[4])
級名 隠戸型[5]
建造費 予算 3,628,265円(1923年11月時)[6]
母港 1924年時 横須賀[4]
最終時 舞鶴[7]
艦歴
計画 大正10年度[2](大正12年度艦艇補充計画[注釈 1])
発注 1922年1月21日製造訓令[8]
起工 1922年4月11日[9][10]
進水 1923年1月30日[9][11]
竣工 1924年10月30日[9][12]
最期 1944年3月15日放棄
除籍 1944年4月30日[7]
要目(主に1925年)
軽荷排水量 5,406.9トン[4]
基準排水量 公表値 14,050トン[9]
常備排水量 公表値 15,400トン[9][注釈 2]
満載排水量 15,440トン[4][注釈 3]
総トン数 7,630総トン[4]
全長 470 ft 9 in (143.48 m)[4]
垂線間長 455 ft 0 in (138.68 m)[4]
最大幅 58 ft 2+34 in (17.75 m)[4]
吃水 公表値 8.08m[9]
軽荷平均 10 ft 4+916 in (3.16 m)[13]
満載平均 26 ft 6 in (8.08 m)[14]
ボイラー 宮原式水管缶 6基[4] または4基[注釈 4]
主機 3段膨張式蒸気機関[4] 1基[9]
推進 1軸[4]
出力 計画 5,850馬力[15]
4,543馬力[4][注釈 2]
速力 12.9ノット[4][注釈 2]
公表値 12ノット[9]
経済速力 8ノット[4]
燃料 石炭満載1,767.3トン +庫外420トン[4][注釈 2]
航続距離 5,350カイリ / 8ノット[4]
乗員 竣工時定員 157名[16]
1928年公表値 160名[9]
搭載能力 重油 8,096.386トン +サマータンク2,082.350トン[4]
缶水 439.8トン、雑用清水635.3トン、飲水146.3トン[4]
獣肉、魚肉、野菜、氷の各冷蔵庫[4]
兵装 50口径三年式14cm砲 単装2門[4]
40口径三年式8cm単装高角砲 2門[4]
(竣工時に砲は装備していない[17])
搭載艇 内火艇1隻、カッター2隻、通船1隻[4]
その他 2トン・デリック4本[4]
便乗者寝台 2床[4]
トンは全て英トン
計画、公表値は隠戸型給油艦の要目も参照
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鳴戸(なると)は、大日本帝国海軍の特務艦で、隠戸型給油艦の3番艦。艦名は「鳴門海峡」にちなんで名づけられた[18]。「鳴戸」は「鳴門」の古表記である[18]

大正12年度艦艇補充計画により、横須賀海軍工廠で1924年(大正13年)10月30日に竣工し、横須賀鎮守府籍となる[19]。しかし、就役後間もない1926年(大正15年)2月1日には早くも第四予備特務艦となり、横須賀軍港で浮きタンクとして活用される[20]。1927年(昭和2年)5月1日付で再就役し、武装装備等の工事終了後6月30日に青島に到着して、国民党の北伐や山東出兵、南京事件などで混乱する中華民国に対する警戒にあたっていた遣外艦隊への支援を行った[20]。この支援活動では本来の給油艦としての活動のほか、給糧艦としての活動や漢口への海軍陸戦隊の輸送なども行った[21]。平時においては石油輸入に従事した。

1940年(昭和15年)11月15日付で連合艦隊付属となる[22]。1941年(昭和16年)11月18日に呉を出港し、ジャルート環礁に進出する[23]。ジャルートとクェゼリン環礁で補給活動を行った後、12月28日に柱島泊地に帰投した[23]。1942年(昭和17年)1月から3月にかけてはフィリピン、ボルネオ島方面で行動し[23]、5月27日には柱島を出撃してミッドウェー海戦に参加する[23]。6月20日に柱島に帰投後呉海軍工廠で修理を行い、修理後は9月1日にショートランドに到着してソロモン諸島海域で行動する[23]。ショートランド在泊中には連日のように爆撃を受け、11月12日には爆撃により損傷する[24]。呉での修理の後は再び南方に進出し、1943年(昭和18年)1月17日にラバウルに到着後は補給任務に専念、いつしか重油タンク代用として活用されるようになった[25]。南東方面艦隊(草鹿任一中将・海軍兵学校37期)指揮下の駆逐艦や潜水艦に対する燃料供給源となったが[25]、1944年(昭和19年)1月14日の空襲により大破擱座すると重油タンクとしての活用も困難となり、駆逐艦や潜水艦はラバウルを捨ててトラック諸島を補給基地として活動する事となった[25]。大破擱座後、固定係留の上対空戦闘の従事したが[22]、3月15日にいたって総員退却の上放棄される事となった[22]。4月30日に除籍[22]

特務艦長[編集]

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

艤装員長
特務艦長

注釈[編集]

  1. ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1pp.320-323
  2. ^ a b c d #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第四その二「昭和十三年三月調艦艇要目等一覧表 その二 潜水艦、水雷艇、特務艦、特務艇、新造艦船」では排水量13,800、馬力5,500、速力15ノット、炭油庫容積(定量) 44(改行)1,372となっている。
  3. ^ 数値が常備排水量とほとんど変わらず、転記ミスの可能性もある。
  4. ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第二その三「大正十二年三月調艦艇要目等一覧表 その三 潜水艦、水雷艇、特務艦」、同書付表第三その三「昭和六年三月調艦艇要目等一覧表 その三 潜水艦、特務艦、掃海艇」による。同書昭和13年調べの要目等一覧表では6基となっている。

出典[編集]

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 特務艦鳴戸『昭和二年第一遣外艦隊 特務艦鳴戸任務報告』(昭和2年第1遣外艦隊特務艦 鳴戸 任務報告(1)(2)(3))レファレンスコード:C04015651900、C04015652000、C04015652100
    • 『大正13年 公文備考 巻21 艦船/特務艦早鞆製造一件』。Ref.C08051091800。
    • 『大正13年 公文備考 巻21 艦船/特務艦鳴戸製造一件』。Ref.C08051091900。
    • 特務艦鳴戸『昭和一六、一一、一八〜一八、四、五 運送艦鳴戸行動図』(運送艦鳴戸行動図 昭和16年11月〜18年4月)レファレンスコード:C08050113600、C08050113700
    • 軍務局第二課『大正14年 公文備考 巻42 艦船止/特務艦要目』。Ref.C08051419000。(特務艦要目表)
    • 『自昭和19年1月 至昭和19年7月 内令/昭和19年4月(2)』。Ref.C12070195100。
  • 『海軍制度沿革 巻八』明治百年史叢書 第180巻、海軍省/編、原書房、1971年10月(原著1941年)。
  • 『海軍制度沿革 巻十の1』明治百年史叢書 第182巻、海軍省/編、原書房、1972年4月(原著1940年)。
  • 『海軍制度沿革 巻十一の2』明治百年史叢書 第185巻、海軍省/編、原書房、1972年5月(原著1941年)。
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝 全八六〇余隻の栄光と悲劇』光人社、1993年、ISBN 4-7698-0386-9
  • 『世界の艦船 増刊第47集 日本海軍特務艦船史』海人社、1997年3月号増刊

* 福井静夫『日本補助艦艇物語』光人社、1993年、ISBN 4-7698-0658-2

  • 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』戦史叢書第31巻、朝雲新聞社、1969年。
  • 防衛研究所戦史室編『戦史叢書83 南東方面海軍作戦(2) ガ島撤収まで』朝雲新聞社、1975年
  • 防衛研究所戦史室編『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年
  • 写真 日本の軍艦 第13巻 小艦艇I』雑誌「丸」編集部/編、光人社、1990年8月。ISBN 4-7698-0463-6。
  • 『横須賀海軍工廠史(3)』明治百年史叢書 第331巻、横須賀海軍工廠/編、原書房、1983年8月(原著1935年)。ISBN 4-562-01380-X。

関連項目[編集]