土井利隆 – Wikipedia

土井 利隆(どい としたか)は、下総古河藩の第2代藩主。江戸幕府の若年寄。土井家宗家2代。

元和5年(1619年)、下総佐倉藩主(後の古河藩初代藩主)・土井利勝の長男として江戸で生まれる。寛永7年(1630年)12月6日に従五位下・遠江守に叙位・任官する。父利勝が江戸幕府の老中・大老として幕閣の中でも最有力実力者であったことから、父の後押しを受けて寛永12年(1635年)10月29日に酒井忠朝と共に小姓組番頭に任じられ、後には太田資宗・阿部重次・三浦正次らと共に若年寄にまで列せられた。だが寛永15年(1638年)11月5日に利勝と酒井忠勝が大老に就任すると、酒井忠朝と共に若年寄を罷免された。

寛永21年(1644年)に父が死去したため家督を継ぐ。このとき、弟の利長と利房にそれぞれ1万石ずつを分与し、同じく弟の利直にも5000石を分与したため、古河藩は16万石から13万5000石となった。正保3年(1646年)には父・利勝の冥福のために正定寺に鐘を寄進建立している(この鐘は、戦前期まで古河地方の時刻を知らせたり、非常時の早鐘に使われるなど地元から大いに慕われたが、第二次世界大戦による徴集で無くなった)。

しかし、もともと利勝の後押しを受けて坊ちゃん的に育ったためか、父には遠く及ばず無能・暗愚だった。特に素行がかなり悪く、あまりのことに家老・大野仁兵衛が諫言したにもかかわらず、利隆のわがままや素行は改まらず、利隆は大野の江戸家老職を罷免して国許で隠居させようとし、大野も逆に反対派を結成して利隆に隠居を迫り、激しい政争の末に大野は諫死した(ただし大野の自害が土井家の記録に無いため、実話か後世の創作か問題視されていたが、古河市の郷土史家である岡村実の研究によって自害したことが明らかになった)。この大野の自害はかえって利隆の立場を窮地に追いやることになり、一連の騒動により土井一族内でも利隆に対する反発が強まって慶安4年(1651年)に利隆は病気を理由に(実際は不行跡)重臣らによってほぼ強制的に原御屋敷に移されて、分家の弟利直を名代として藩政の実権を譲渡することを余儀なくされた。万治元年(1658年)9月7日には家督を長男の利重に譲って隠居することとなった。晩年には、子の利重や利久らが早世し、土井氏が無嗣断絶の危機に立たされるなどの不幸にも遭っている。

貞享2年(1685年)2月28日に死去。享年67。

参考文献[編集]

  • 早川和見 『古河藩』 現代書館〈シリーズ藩物語〉、2011年2月。