鹿鳴館 (戯曲) – Wikipedia

鹿鳴館』(ろくめいかん)は、三島由紀夫の戯曲。全4幕から成る。三島の代表作の一つで、繰り返し上演され続けている人気の高い演目である[1]。明治19年の天長節に鹿鳴館で催された大夜会を舞台に、政治と恋、陰謀と愛憎の渦の中で翻弄される男女・親子の悲劇をドラマチックに描いた物語。修辞に富んだ詩的で高揚感のある台詞まわしと緻密な構成で、華やかな様式美の大芝居が楽しめる作品である[1][2]。三島は自作について、〈この芝居はいはば、私のはじめて書いた「俳優芸術のための作品」である〉と記している[3]

1956年(昭和31年)、文芸雑誌『文學界』12月号に掲載され、初演はその号の発売直後の11月27日、文学座創立20周年記念公演として第一生命ホールで上演された[4][5]。単行本は翌年1957年(昭和32年)3月5日に、東京創元社より刊行され、文庫版は新潮文庫で刊行された[6]。翻訳版は佐藤紘彰訳(英題:The Rokumeikan)、フランスのGeorges Neyrand訳(仏題:Le Palais des fêtes)で行われている[7]

作品成立・概要[編集]

『鹿鳴館』の舞台は、明治時代の落成間もない鹿鳴館で、登場人物は華族(維新の功臣で勲功華族ともいう)たちである。舞台当日の大夜会は、ピエール・ロティの『江戸の舞踏会』と、芥川龍之介の『舞踏会』に描かれた舞踏会が下敷きとなっている[3]。三島はその意味について、鹿鳴館で踊る日本人の滑稽な様を描いた当時の風刺画そのままの再現ではなく、われわれのイメージの中の〈現実よりはずつと美しい〉舞踏会[3]、〈ノスタルジヤに彩られて、日本近代史上まれに見る花やかなロマンチックな時代〉を描くことであるとし[8]、以下のように解説している。

もちろん時代の隔たりがすべてを美化したことが原因だが、それだけではない。こんな風に、或る現実の時代を変改し、そのイメージを現実とちがつたものに作り変へて、それを固定してしまふ作業こそ、作家の仕事であつて、それをわれわれは、ピエール・ロチ(日本の秋)と芥川龍之介(舞踏会)に負うてゐる。そこに更にこの『鹿鳴館』一篇を加へることを、作者の法外な思ひ上りと蔑せらるるや否や。 — 三島由紀夫「美しき鹿鳴館時代――再演『鹿鳴館』について」[8]

また、三島が自身の演出で上演したいと考えていたヴィクトル・ユーゴーの『ルクレツィア・ボルジアフランス語版』(リュクレース・ボルジア)の人物設定なども、藍本になっているのではないかという村松剛や今村忠純の指摘もある[9][10][11][注釈 1]。ちなみに、三島自身もボルジャ家について、〈私は生得ボルジャ家の代々が好きである。チエザレ・ボルジャもルクレツィア・ボルジャも好きである〉と語っている[12]

『鹿鳴館』の「大時代的」な風味や、台詞まわしには、三島が少年期から親しんでいた歌舞伎の影響もあり[1]、その「台詞で構築された、台詞を聞かせる、幾層にも張り巡らされた愛と陰謀のスリリングな悲劇」は、「伝統的でありながら、斬新」でもあり、劇場で芝居の楽しみを味わえる作品だと松本徹は解説し[1]、有元伸子も「緊密に構成され修辞に満ちた絢爛たるセリフによる緊張感と、シアトリカルで楽しめる大芝居の二つの要素を兼ね合わせている」作品だとしている[2]

三島は『鹿鳴館』を〈俳優芸術のための作品〉だとし[3]、作中の登場人物たちに、人が人を信頼すること、骨肉の情愛や憎悪、人が人を動かす政治についての怜悧な洞察のある長い台詞を吐露させているが、そういったところも聴きどころの一つで、俳優の力量が試される(ゆえに主演はベテラン俳優たちが演じることが多い)。また、ストーリー展開やドラマチックな要素で娯楽性が高い作品だが、「練られた台詞」に緊張感のあるため、「役者の技術だけでなく、身体性や経験、持ち前の雰囲気やパワーまでも総動員しなければ、通俗劇に堕する危険」があると佐藤秀明は指摘しており[13]、役者にとっては難しい芝居である。

執筆当時、文学座に籍を置いていた三島は、看板女優の杉村春子を念頭において『鹿鳴館』を書いたが[14]、1963年(昭和38年)に、戯曲『喜びの琴』の上演中止問題(喜びの琴事件)から、三島と文学座が絶縁となって以降は、文学座による上演は止められ、その後は劇団新派の代表作となり、初代・水谷八重子の八重子十種の一つとして、新派劇の主要な演目となった[2]。初代・水谷八重子没後の公演では、二代目・水谷八重子、市川團十郎の主演で上演された。近年は、劇団四季のレパートリー演目としても公演されている(演出・浅利慶太。主演・日下武史ほか)。

なお、1956年(昭和31年)の初演と1958年(昭和33年)の東京公演では、三島自身も3幕目で鹿鳴館を模様替えする大工・植木職人に扮し、今で言うカメオ出演をしている(三島自身は座興と述べている)。

テレビドラマ化は、1959年(昭和34年)に初演舞台と同じキャストでフジテレビで放映。1961年(昭和36年)は主演に佐分利信を迎え、それ以外は初演舞台とほぼ同じキャストでTBSテレビで放映。1970年(昭和45年)は岩下志麻・芦田伸介主演でNHKで放映。近年は2008年(平成20年)正月に田村正和・黒木瞳主演でテレビ朝日で放映された。映画化は1986年(昭和61年)に東宝によって菅原文太・浅丘ルリ子主演、市川崑監督でなされた。数億円を投じて東宝の大ステージいっぱいに再現された豪華な鹿鳴館セットが話題を呼んだ。

歴史背景・モデル[編集]

明治維新で武士は廃されたが、本来の華族(旧大名家や旧公家から成る諸侯華族)ではない将軍・大名の一族や、功労者(主に下級武士出身)にも国家への勲功により、1883年(明治16年)に爵位が与えられ、新華族となった。また、旧大名は維新後数年で、公卿は十数年で政治の実務からは外されており、1884年(明治17年)の内閣制度発足後に閣僚となったのは、功労者出身の新華族とこれに続く官僚、軍人のみであった。

『鹿鳴館』ではこういった華族、新華族、閣僚らが主要登場人物となり、実在、架空とりまぜて造形されているが、井上馨と井上武子夫人が主催した天長節夜会当日の1886年(明治19年)11月3日に、この作品内で起こるような事件は起こっていない。なお、外務大臣・影山悠敏伯爵と、「自由党」の壮士・清原永之輔のモデルはそれぞれ、井上馨と後藤象二郎であることは、三島の「創作ノート」から見て取れる。後藤象二郎はこの時期征韓論に敗れて野から自由民権運動を指揮していたが、それ以前は井上馨より早く参議(閣僚である卿より上席)に就いており、また後には伯爵に叙されて閣僚も歴任している。このように二人の関係が、権力者と草の根の反体制活動家ではなく、あくまで二人の大物政治家の政争である点は、劇中の影山と清原の関係にも投影されている。なお、井上と後藤は下級武士出身者が多い明治維新関係者の中では、比較的富裕な中級武士出身者であった(後藤は最終的には実質的な家老にまでのぼっている)点も共通している。

また、明治期にあっては、首相たちを含む政治家・貴顕たちは、芸者を愛人としただけでなく、正妻とすることも一般的に行われていた。朝子=影山伯爵夫人もその一人で、これは隠すべきことでも恥ずべきことでもなかった。三島の「創作ノート」には、「伊藤夫人、陸奥夫人―中心人物」と記されており、朝子のモデルは、井上武子よりも、伊藤博文の夫人・伊藤梅子の方から造形されたのではないかという見方も一部にはある[15]。井上武子が芸者であったかは不明だが、伊藤梅子が元芸者「小梅」であり、陸奥宗光の夫人・陸奥亮子も元芸者「小鈴」であったことはよく知られている。

あらすじ[編集]

時は1886年(明治19年)11月3日の天長節。

第1幕 – 午前10時。影山伯爵邸・庭内にある茶室潺湲亭。

天長を祝う観兵式が行われている日比谷の練兵場を見渡せる影山伯爵邸・庭内の茶室潺湲亭に集まった華族夫人たちの前に、元・新橋の芸者だった影山伯爵夫人・朝子が現われた。朝子は輝くような美しさと人当りのよさで華族夫人たちの中心となっていた。公卿の出、大徳寺侯爵夫人・季子も朝子を崇拝するひとりで、娘・顕子の恋人の問題で助言を求めてきた。恋人の名は自由民権運動家・清原永之輔の息子・清原久雄だという。その名を聞いた時、朝子は心臓が止まる程ショックを受ける。話を聞くと、久雄は何か危険な行動へ出ようとしているらしい。そして今、その久雄を呼んできているという。
朝子は久雄の危険な計画を止めさせようと、自分が久雄の実の母であること、芸者時代の自分と永之輔との愛とを打ち明ける。だが久雄は、自分が今夜暗殺しようとしている相手は影山伯爵ではなく、父・清原永之輔であると意外なことを言った。

第2幕 – 午後1時。同所。

朝子は、かつての恋人で今も愛している清原永之輔を邸に呼びつけた。清原が今夜の鹿鳴館の舞踏会に、自由民権運動の一党を引き連れ乱入して来ることを止めさせようとするためだった。しかし清原は朝子の説得を容易に聞き入れない。そこで朝子は、これまで鹿鳴館の夜会には出ないことにしていた主義を翻し、今夜は自分が主宰者として出ると宣言する。朝子は、私の夜会をぶち壊しにしないで下さい、あなたの命をお救いしたい一心の贈物ですと清原を説得し、承諾させる。
影山伯爵が側近の飛田天骨と観兵式から帰ってきて茶室にやって来た。外務卿の影山伯爵は、内閣切っての実力者と自他共に認める存在だった。清原を急いで帰らせた朝子と女中・草乃は木蔭に隠れ、影山伯爵と飛田が話している内容を聞いてしまう。清原永之輔の暗殺計画の首謀者は実は、夫・影山伯爵だったのである。身を現わした朝子は、今夜は壮士の乱入はありません、と夫にきっぱり宣言する。

第3幕 – 午後4時。鹿鳴館の2階。

実の母・朝子に舞踏会に出るように命じられ、正装した久雄が恋人・顕子と鹿鳴館の2階にいる。やがて2人は朝子と季子に伴われ広間へ移動し、代わりにそこへ影山伯爵と草乃がやって来る。影山伯爵は草乃を強引に籠絡し一切を聞き出す。清原率いる壮志乱入がないことが確実だと知った影山伯爵は、偽の斬り込み隊を乱入させ、草乃を使い清原に知らせて、彼をおびき寄せる計画をする。そして朝子の計らいで今夜、父は乱入しないと思っている久雄に対し、そんなものを信じているのかとそそのかし、彼にピストルを渡す。

第4幕 – 午後9時すぎ。鹿鳴館の2階。舞踏場。

華やかな舞踏会が始まった。やがて給仕が朝子へ壮志の乱入を知らせた。朝子は階段の上で凛として立ちはだかり、これを阻止する。本物の壮志乱入と思い込んだ久雄は自分の母を裏切った父に激昂し、戸外へ出ていく。銃声が2発轟いた。朝子は、とうとう久雄はやってしまったと思ったが、露台に現われたのは清原永之輔であった。自分との約束を破り、久雄まで殺した清原を朝子はなじるが、実は久雄はわざと弾をはずし、自分が父に撃たれ死ぬことを選んでいたのであった。そして清原は、自分が朝子との約束を破ったのではないこと、偽の壮志を仕向けたのは影山伯爵であると告げて去っていく。
朝子と影山伯爵は激しく言い合う。そして今夜かぎりで別れ、清原の元へ行こうと決心した朝子と影山伯爵はいつわりのワルツを踊る。そこへ戸外で銃声が一発轟く音がする。

舞台公演[編集]

初演[編集]

キャスト[編集]

ほか

初演以降のおもな公演[編集]

劇団四季 自由劇場 浅利慶太 野村玲子

テレビドラマ[編集]

1959年版[編集]

木曜観劇会『鹿鳴館』

フジテレビ 1959年(昭和34年)7月9日 木曜日 20:00 – 21:45(JST)
演出:松浦竹夫。音楽:石桁真礼生

キャスト[編集]

1961年版[編集]

近鉄金曜劇場『鹿鳴館』

TBS系列 1961年(昭和36年)12月1日、8日(全2回) 金曜日 20:00 – 21:00(JST)
脚色:松浦竹夫。演出;松浦竹夫、石井甫

キャスト[編集]

佐分利以外は、初演舞台版とほぼ同じキャストである。

1970年版[編集]

ドラマ『鹿鳴館』[17]

NHKテレビ 1970年4月25日 土曜日 22:10 – 23:40(JST)
脚色:松浦竹夫。演出:和田勉。音楽:冨田勲

キャスト[編集]

2008年版[編集]

テレビ朝日開局50周年記念ドラマスペシャル 『鹿鳴館』

テレビ朝日系列 2008年(平成20年)1月5日 土曜日 21:00 – 23:09(JST)
脚本:鎌田敏夫。監督:藤田明二
視聴率12.2%。

キャスト[編集]

ほか

スタッフ[編集]

遅れネット局[編集]

KNB 北日本放送(日本テレビ系列) 2008年(平成20年)2月2日土曜日14:50 – 16:55放送

東宝配給で1986年(昭和61年)9月20日に公開された。上映時間は125分。不動産会社の丸源が製作、数億を投じて再現された鹿鳴館の豪華セット、セリフを舞台風に読ませた大胆な演出などで話題になったが、現在権利上の問題で封印されている。作品そのものの版権と原盤のありかが不明確で、そのためソフト化はもちろん上映も困難だという[18]

なお、三島が存命中の1957年(昭和32年)にも、渋谷実監督により松竹で映画化の企画があったが、実現には至らなかった[19]

キャスト[編集]

スタッフ[編集]

おもな刊行本[編集]

  • 『鹿鳴館』(新潮社、1957年3月5日) NCID BA30933105
    • 装幀:駒井哲郎。紙装。赤茶色帯。193頁
    • 収録作品:「鹿鳴館」「大障碍」「道成寺」
    • カバー袖に「鹿鳴館」文学座公演の舞台写真6葉(撮影:剣持加津夫)。
    • 両見返しに伊藤熹朔による「鹿鳴館」文学座公演の装置平面図。
    • 帯(裏)に「杉村春子の名演技で、文学座の記念公演を飾った『鹿鳴館』は、好調渋谷実監督の文芸大作として松竹映画化鋭意進行中!」とあるが、この映画化は実現していない。
  • 文庫版『鹿鳴館』(新潮文庫、1984年12月20日)
    • カバー装幀:辰己四郎
    • 収録作品:「鹿鳴館」「只ほど高いものはない」「夜の向日葵」「朝の躑躅」
    • 自作解題:「作者の言葉(鹿鳴館)」「『鹿鳴館』について(文学座プログラム掲載)」「『鹿鳴館』について(毎日新聞掲載)」「あとがき(鹿鳴館)」「美しき鹿鳴館時代――再演『鹿鳴館』について」「『鹿鳴館』再演」「上演される私の作品――『葵上』と『只ほど高いものはない』」「『葵上』と『只ほど高いものはない』」「あとがき(夜の向日葵)」「『朝の躑躅』について」
    • のちにカバーに映画(1986年9月封切)のスチールを使用したものあり。
  • 『鹿鳴館』(ぬ利彦出版・名作舞台シリーズ、1990年10月27日)
    • 監修:戌井市郎。紙装。A5判。紫色帯。
    • 収録内容:「鹿鳴館」「美しき鹿鳴館時代――再演『鹿鳴館』について」
    • 付録:戌井市郎「『鹿鳴館』回想」。鹿鳴館上演記録
    • 口絵写真8頁8葉(歴代・影山朝子舞台写真7葉、舞踏会場面1葉)。本文中に舞台写真29葉。
  • 英文版『My Friend Hitler and Other Plays』(訳:佐藤紘彰)(Columbia University Press、2002年11月15日。他)

全集収録[編集]

  • 『三島由紀夫全集21(戯曲II)』(新潮社、1974年12月25日)
    • 装幀:杉山寧。四六判。背革紙継ぎ装。貼函。
    • 月報:矢代静一「とりとめもないこと」。《評伝・三島由紀夫 20》佐伯彰一「伝記と評伝(その11)」。《同時代評から 20》虫明亜呂無「『わが友ヒットラー』をめぐって」
    • 収録作品:「地獄変」「葵上」「若人よ蘇れ」「溶けた天女」「ボン・ディア・セニョーラ」「鰯売恋曳網」「班女」「熊野」「三原色」「船の挨拶」「白蟻の巣」「芙蓉露大内実記」「大障碍」「鹿鳴館」「道成寺」
    • 同一内容で豪華限定版(装幀:杉山寧。総革装。天金。緑革貼函。段ボール夫婦外函。A5変型版。本文2色刷)が1,000部あり。
  • 『三島由紀夫戯曲全集 上巻』(新潮社、1990年9月10日)
    • 四六判。2段組。布装。セット機械函。
    • 収録作品:「東の博士たち」「狐会菊有明」「あやめ」「火宅」「愛の不安」「灯台」「ニオベ」「聖女」「魔神礼拝」「邯鄲」「綾の鼓」「艶競近松娘」「卒塔婆小町」「紳士」「只ほど高いものはない」「夜の向日葵」「室町反魂香」「地獄変」「葵上」「若人よ蘇れ」「溶けた天女」「ボン・ディア・セニョーラ」「鰯売恋曳網」「ボクシング」「班女」「恋には七ツの鍵がある」「熊野」「三原色」「船の挨拶」「白蟻の巣」「芙蓉露大内実記」「大障碍」「鹿鳴館」「オルフェ」「道成寺」「ブリタニキュス」「朝の躑躅」「薔薇と海賊」「むすめごのみ帯取池」〔初演一覧〕
    • 下巻と2冊組での刊行。
  • 『決定版 三島由紀夫全集22巻 戯曲2』(新潮社、2002年9月10日)
    • 装幀:新潮社装幀室。装画:柄澤齊。四六判。貼函。布クロス装。丸背。箔押し2色。
    • 月報:小林信彦「同時代の一読者として」、岸田今日子「わたしの中の三島さん」、〔天球儀としての劇場2〕田中美代子「詩から戯曲へ」
    • 収録作品:「室町反魂香」「地獄変」「葵上」「若人よ蘇れ」「溶けた天女」「ボン・ディア・セニョーラ」「鰯売恋曳網」「ボクシング」「班女」「恋には七ツの鍵がある」「熊野」「三原色」「船の挨拶」「白蟻の巣」「芙蓉露大内実記」「大障碍」「鹿鳴館」「『溶けた天女』創作ノート」「『鹿鳴館』創作ノート」

注釈[編集]

  1. ^ ヴィクトル・ユーゴーの『ルクレツィア・ボルジア』は、先夫との間にもうけた子と、現在の夫の間で苦悩するルクレツィアの物語である。ルクレツィアが最後に、自分を実の母とは知らないその子に殺されてしまう戯曲である。「ああ、おまえは私を殺す……私はおまえの母ですよ」という台詞で幕が閉じられる[9]

出典[編集]

  1. ^ a b c d 「舞台の多彩な魅力――『鹿鳴館』の成功」(松本 2010, pp. 86–89)
  2. ^ a b c 有元伸子「緊密に構成された絢爛たる大芝居」(太陽 2010, pp. 68–69)
  3. ^ a b c d 「『鹿鳴館』について」(毎日新聞〈大阪〉 1956年12月4日号)。三島 1984, pp. 354–355、29巻 2003, pp. 334–335
  4. ^ 井上隆史「作品目録」(42巻 2005, pp. 377–462)
  5. ^ 山中剛史「上演作品目録」(42巻 2005, pp. 731–858)
  6. ^ 山中剛史「著書目録――目次」(42巻 2005, pp. 540–561)
  7. ^ 久保田裕子「三島由紀夫翻訳書目」(事典 2000, pp. 695–729)
  8. ^ a b 「美しき鹿鳴館時代――再演『鹿鳴館』について」(新派プログラム 1962年11月)。三島 1984, pp. 357–359、32巻 2003, pp. 137–138
  9. ^ a b 「III 死の栄光――『鏡子の家』から『英霊の聲』へ 二つの事件――脅迫と告訴」(村松 1990, p. 316)
  10. ^ 今村忠純「『鹿鳴館』についてのメモ」(国文学解釈と鑑賞 1992年9月号)。太陽 2010, p. 68
  11. ^ 今村忠純「鹿鳴館【研究】」(事典 2000, pp. 414–416)
  12. ^ 「戯曲を書きたがる小説書きのノート」(日本演劇 1949年10月号)。27巻 2003, pp. 222–229
  13. ^ 「第一部 評伝 三島由紀夫――第三章 問題性の高い作家 『鹿鳴館』」(佐藤 2006, pp. 91–92)
  14. ^ 「『鹿鳴館』について」(文学座プログラム 1956年11月)。三島 1984, pp. 352–353、29巻 2003, pp. 326–327
  15. ^ 冉小嬌 2012
  16. ^ 「年譜 昭和31年11月27日」(42巻 2005, pp. 203–204)
  17. ^ 番組表検索結果 | NHKクロニクル – NHKオンライン
  18. ^ 樋口尚文「80年代「異業種映画」の栄光と挫折」『1980年代の映画には僕たちの青春がある』キネマ旬報社、2016年、188ページ
  19. ^ 山中剛史「三島映画略説――雑誌、新聞記事から」(研究2 2006, pp. 39–43)

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]