Month: July 2018

風の探索者 – Wikipedia

風の探索者(かぜのたんさくしゃ)はGruppo Oneが発売したコンピュータゲーム。ロールプレイングゲームのシリーズ作品である。『風探』(かぜたん)と略して呼ばれる。 代表取締役の富樫克美をはじめ、綱島貴博、小川勝弘、下枝孝夫、山田淳、梶谷幸人、藤井大介、岩崎美奈子など、日本ファルコムを退社した社員が、シリーズを通して制作に携わっている。 シリーズ作品[編集] ゲームシステム[編集] この作品のシステムはローグライクゲームに似ているが、アイテム使用を含めた全ての行動に時間が設定されているという大きな特徴がある。また、自分たちが1歩歩く間に敵が複数歩歩く場合もあり、また行動中に敵が近づいてきて戦闘になることもある。 戦闘もターン制ではなくコマンドを指定して実行されるまで待つという先行入力式の時間制システムを採用している。 戦闘から逃げる際はボス戦も含め、回り4方向のうち敵と壁や宝箱などのオブジェクトのない方向にのみ逃げることができる。 逃げることができる方向には敵が乱入してくる恐れがあるため、わざと退路を断ち乱入を防ぐことも重要である。 またダンジョン探索中はレベルアップすることはなく、町に帰ってお金か経験値を使ってスキルレベルを上げることでキャラクターを成長させる。 死亡すると蘇生時にこのスキルが低下するため、何回も死亡させているとダンジョンの攻略が不可能になる場合もある。 細かい点においては、第一作(Gland Slam)とそれ以降の作品および第一作のアップデート版で大きく異なるシステムが採用されている。 具体的には、 満腹度が90以上の時、一定時間ごとに体力が0.2ずつ回復していく Shadow Kingdomではこのとき満腹度の消費が2倍になる。この結果体力が全回復しても何か行動が完了するまで満腹度消費は2倍のままである。 アイテムをまとめることの可能化 Gland Slamではアイテムをまとめることができず、荷物の数に制限があったがそれ以降はアイテムをまとめることでより多くのアイテムを持てるようになった。

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クリスティー・ターリントン – Wikipedia

クリスティー・ターリントン クリスティー・ターリントン(Christy Turlington、本名:クリスティー・ニコル・ターリントン(Christy Nicole Turlington)、1969年1月2日 – )は、アメリカ合衆国・カリフォルニア州ウォールナッツクリーク出身のファッションモデルである。身長178cm。 目次 1 人物 2 経歴 3 映画 4 外部リンク パンアメリカン航空に勤務するイギリス人のパイロットの父とキャビアテンダントであったエルサルバドル人の母親の間に三人姉妹の次女として生まれ、カルフォルニア州のダンブルで育つ。 13歳の時、乗馬をしていたところをエージェンシーに見出されてモデルになった。所属事務所はニューヨークのトップモデルエージェンシー、『エリート・モデル・マネジメント』の看板モデルでもある。 高校卒業後に本格的なモデル活動を開始し、1987年カルバン・クラインの香水のイメージモデルとして有名になった。それ以降1990年代を代表する歴史で最も成功したスーパーモデルのひとりとして上げられる。 ジョルジオ・アルマーニやメイベリンの広告モデルとしても有名で、他シャネル、ジャンニ・ベルサーチ、グッチあらゆる有名ブランドの顔としてコレクションに出演、広告の為のファッションデザイナーのドキュメントフィルムにもいくつか出演した。

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ヴィラーマ – Wikipedia

ヴィラーマ(サンスクリット語: विराम、virāma)は、ブラーフミー系文字において使用される記号で、子音のあとに母音が続かないことを示す。 ヴィラーマはサンスクリットの名称であり、じっさいには言語ごとに名称が異なる。たとえばヒンディー語ではハラント(हलंत)と呼ぶ[1]。 デーヴァナーガリー文字などのブラーフミー系文字はアブギダであり、子音字(アクシャラ)は、何も記号をつけなければ暗黙の母音aが続くものと見なされる。したがって、語末の子音や子音連結を表すには特別の方法を用いる必要がある。 デーヴァナーガリー文字によって例を示すと、記号なしの क は ka を表し、これに対して क् と下に記号をつけると k になる。この記号がヴィラーマである。 いっぽう、子音連結は結合文字(合字)によって表される。たとえば पर は para であり、pra は合字 प्र

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フルート – Wikipedia

この項目では、楽器について説明しています。その他の用法については「フルート (曖昧さ回避)」をご覧ください。 フルートは、木管楽器の一種で、リードを使わないエアリード(無簧)式の横笛である[1][2]。 今日一般にフルートというと、銀色または金色の金属製の筒に複雑なキー装置を備えた横笛、つまりコンサート・フルートを指すが、古くは広く笛一般を指していた。ルネサンス音楽からバロック音楽の時代にあっては、単にフルートというと、現在一般にリコーダーと呼ばれる縦笛を指し、現在のフルートの直接の前身楽器である横笛は、「トラヴェルソ(横向きの)」という修飾語を付けて「フラウト・トラヴェルソ」と呼ばれていた[3]。17世紀後半のフランス宮廷で、ジャック=マルタン・オトテールとその一族が改良した横笛フルートが高い人気を博し、その後ドイツやイタリアにも広まったため、表現力に劣る縦笛は次第に廃れてしまい、フルートといえば横笛を指すようになったのである。かつてはもっぱら木で作られていたにもかかわらず、現在は金属製が主流となっているが、フルートは唇の振動を用いないエアリード式の楽器なので、金属でできていても木管楽器に分類される[1]。 現代のフルート(モダン・フルート)は、バス・フルートなどの同属楽器と区別する場合、グランド・フルートまたはコンサート・フルートとも呼ばれ、通常C管である。19世紀半ばに、ドイツ人フルート奏者で楽器製作者でもあったテオバルト・ベームにより音響学の理論に基づいて大幅に改良され[4]、正確な半音階と大きな音量、精密な貴金属の管体、優美な外観を持つに至った。このドイツ生まれのフルートは、最初にフランスでその優秀性が認められ[5]、ついには旧式のフルートを世界から駆逐してしまった。今日単にフルートと言った場合は、例外なく「ベーム式フルート」のことである。 フルートはキーを右側にして構え、下顎と左手の人さし指の付け根、右手の親指で支える(三点支持)。両肩を結ぶ線と平行に持つのではなく、右手を左手より下方、前方に伸ばす。奏者は正面ではなくやや左を向き、右に首をかしげて唇を歌口に当てる。 発音にリードを用いないため、ほかの管楽器よりもタンギングの柔軟性は高い。運動性能も管楽器の中では最も高く、かなり急速な楽句を奏することも可能である。音量は小さい方であるが、高音域は倍音が少なく明瞭で澄んだ音なので、オーケストラの中にあっても埋もれることなく聞こえてくる。フルートの音色は鳥の鳴き声を想起させることから、楽曲中で鳥の模倣としても用いられる。有名でわかりやすい例として、サン=サーンスの組曲『動物の謝肉祭』の「大きな鳥籠」、プロコフィエフの交響的物語『ピーターと狼』などが挙げられる。 主にクラシック音楽の分野で用いられるが、ジャズやロックなど、他の音楽ジャンルで使用されることもある。しかし、ジャズ専門のフルート奏者は少なく、サクソフォーンなどのプレイヤーが持ち替えるか、クラシックとジャズの両方で活動するというケースが多い。 古代〜ルネサンス時代[編集] フルートを広義にとらえて、「リードを用いず、管などの空洞に向かって息を吹き付けて発音する楽器」とするならば、最も古いものとしては、およそ4万年前のネアンデルタール人のものと推定されるアナグマ類の足の骨で作られた「笛」がスロヴェニアの洞窟で発見されている。また、ほぼ同じ頃現生人類によって作られたと推定される、ハゲワシの骨でできた5つの指穴のある笛が、ドイツの洞窟で発見されている。それほど古いものでなくとも数千年前の骨で作られた笛は各地から出土しており、博物館などに収められている。しかし、世界各地で用いられていた原始的な笛は、ギリシャ神話の牧神パンが吹いたとされるパンフルートのような葦などで作られた縦笛か、オカリナのような形状の石笛(いわぶえ)や土笛がほとんどであった。 それでは、現在我々が使用しているフルートにつながる横向きに構える方式の笛が、いつどこで最初に用いられたのかというと、これも確かなことはわかっていないが、一説には紀元前9世紀あるいはそれ以前の中央アジアに発祥したといわれており、これがシルクロードを経て中国やインドに伝わり、さらに日本やヨーロッパにも伝えられていったと考えられている[5]。奈良・正倉院の宝物の中に蛇紋岩製の横笛があり[6]、東大寺大仏殿の正面に立つ国宝の八角灯籠には横笛を吹く音声菩薩(おんじょうぼさつ)の像がある[7]ことなどから、奈良時代までに日本にも伝わっていたことは明らかである。 『喜びを与えん』作者不詳(1520年頃) 西洋では、現在リコーダーと呼ばれている縦笛が古くから知られており、当初はこちらが「フルート」と呼ばれていた。12-13世紀ごろに東洋から6孔の横笛が入り、縦笛の技術を応用して作られたものが主ににドイツ地方で使われ、「ドイツの笛」と呼ばれていた(ドイツでの呼び名は「スイスの笛」)[8]。13世紀になるとフランスに、「フラウスト・トラヴェルセーヌ(フランス語: flauste traversaine;「横向きのフルート」の意)」といった名称が散見されるようになる[9]。ルネサンス期に入っても、ヨーロッパでは横笛はあまり一般的な楽器ではなく、軍楽隊や旅芸人などが演奏するだけのものであった。16世紀に入る頃から、市民の間で行われるコンソートと呼ばれる合奏の中で、横笛も次第に使われ、教科音楽でも用いられるようになった。左図はオーストリアのローラウ城ハラッハ伯爵家所蔵の『喜びを与えん』と題する絵画で[5][10]、横笛とリュート、歌唱によるブロークン・コンソートの様子が描かれている。この絵の横笛はテナーであるが、マルティン・アグリコラの「Musica instrumentalis deudsch」(1529)[11]にあるように、他にもソプラノ、アルト、バスといった種類があり(ただし16世紀半ばにはアルトはテナーに吸収されている)、これらを持ち替えながら演奏を行い、ホール・コンソートも行われていた。現在では、このような横笛を「ルネサンス・フルート」と呼んでおり[5]、古楽器として今も復元楽器が製作されている。 ルネサンス・フルート(テナー、復元楽器) 少数がイタリアのヴェローナなどに残っているオリジナルの物は、木製の管で、内面は単純な円筒形ではなく、複雑な波型になっており、外面は歌口側がやや太い円錐形である。基本的に一体成型されて分割できないものが多いが、大型のバス・フルートなどには2分割構造のものもある。テナーの横笛の最低音はD4で、D-dur(ニ長調)の音階が出せるように作られており、いわゆるD管である。トーンホールが6つ開いているだけのシンプルな構造なので、キーを必ず右側にして構えるモダン・フルートとは異なり、左側に構えることもできる。軽快によく鳴るが、音域によって音量や音色がかなり変化する[5]。アグリコラの著作に記された運指法では半音は指孔半開で出せると記されているが、通常の演奏で半音を出すのはかなり難しい(内部が円筒形の復元楽器ではなく、オリジナルの物は内径の形状によっては半音が比較的出しやすいものもある[12])。 バロック時代[編集]

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栽培 – Wikipedia

栽培(さいばい、英: cultivation)とは一般に、野菜や樹木などの植物、キノコ、藻類などを植えて育てることである[1]。育った植物を観賞したり、収穫して花や葉や果実などを食用・薬用・観賞用などの様々な用途に利用したりするなどの目的で行われる。 栽培手法[編集] 植物を自然の土地や畑、つまり大空のもと、屋根やハウス無しで育てることは「露地栽培」と言い、植物を地面の上に作ったビニールハウス(いわゆる「ハウス」、木、竹、鉄材などで骨組みをつくり、これに塩化ビニルやポリエチレンなどのフィルムをかぶせた簡易式の建物のようなもの)の中で栽培することは「ハウス栽培」と言う。また土を使わないで、植物の根を水に浸す方法で栽培することは「水耕栽培」と言う。 一方、人間が栽培していないのに自力で増えたり成長している植物を野生植物と言うが、そうした野生植物に人間が手を加えること、野生と栽培の中間的な状態で育てることを「半栽培」と言う。 上記以外にも、以下のように様々な栽培手法が存在する。 有効積算温度[編集] 作物を植えてから収穫するまでの全期間の温度として日平均気温10℃以上の期間の日平均気温を積算したものを有効積算温度(単位:度日)という。例えばムギは800-2000度日であり、イネは2800-3800度日であり、ムギは寒冷地に向き、イネは温暖地に向くことがわかる[2]。 樹木など大きく育てあげることや一から育てること、長年に渡って育てることなどは「育成」と言って区別する場合がある。また植物に限らず、魚介類などを養殖して育てる場合にも「栽培」と言うことがある(これについては「養殖」を参照のこと)。 ^ コトバンク ^ 農業土木学会誌 谷 信輝 「最近の気象変化と関連づけて」 『気象と農業』Vol. 49 (1981) No. 4

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純祖 – Wikipedia

純祖(スンジョ、じゅんそ、순조、1790年7月29日 – 1834年12月13日)は、李氏朝鮮の第23代国王(在位:1800年 – 1834年)。諱は玜(コン)。字は公宝(コンボ)。号は純斎(スンジェ)。諡は淵徳顕道景仁純禧体聖凝命欽光錫慶継天配極隆元敦休懿行昭倫熙化浚烈大中至正洪勲哲謨乾始泰亨昌運弘基高明博厚剛健粋精啓統垂暦建功裕範文安武靖英敬成孝大王(清国からの諡号は宣恪王[1])。元の廟号は「純宗」だったが、1857年に「純祖」とあらためられた。 正祖の次男。実の母は綏嬪朴氏で、孝懿王后の養子。兄の文孝世子の死後、1800年に世子になり、同年に即位した。英祖の妃である貞純王后の摂政で僻派が政治を主導したが、1805年には純元王后の本貫でもある安東金氏による勢道政治が始まっており、次代国王憲宗、次々代国王哲宗まで続くこととなる。純祖は安東金氏を牽制するために豊壌趙氏を重用して、1827年、孝明世子(憲宗の父)が摂政になったが、1830年に孝明世子の死のために失敗した。1834年11月に死去、享年45(満44歳没)。 陵はソウル特別市瑞草区内谷洞にある仁陵。 純祖の命令により編纂された『万機要覧』には、松島(現在の竹島)が于山島[3]だとする『東国文献備考』からの転記があることから、大韓民国は竹島(独島)領有の根拠の一つとしている。 后妃[編集] 後宮[編集] 王后との間に2男3女、朴氏との間に1女、合わせて2男4女を儲けたが、孝明世子は孫にあたる憲宗を残して早世。憲宗の娘1人(純祖からみて曾孫)も夭折。純祖の娘たちも子供が早世したり、未婚のまま死去したりと、子孫を残せなかったため、純祖の子孫は現在に伝わっていない。また、孫の憲宗の死去により、父の正祖の男系子孫も断絶した。 純祖の親類・近親・祖先の詳細 璿源系譜紀略(荘祖懿皇帝子孫) 荘献世子━━━┳懿昭世孫 ┃     ┣22代正祖━23代純祖━孝明世子(翼宗)━24代憲宗        ┃        ┣恩彦君━全渓大院君━25代哲宗        ┃

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