Month: October 2019

サスペンション – Wikipedia

この項目では、機械装置について説明しています。液体については「懸濁液」をご覧ください。 この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “サスペンション” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2011年5月) サスペンション(英: Suspension)または懸架装置(けんかそうち)は、主に車両において、路面の凹凸を車体に伝えない緩衝装置としての機能と、車輪・車軸の位置決め、車輪を路面に対して押さえつける機能を持つことで、乗り心地や操縦安定性などを向上させる機構。その他の機械類における、防振機構(インシュレーター)のことを指す場合もある。 自動車のサスペンション[編集] コイルオーバーの例 黎明期以来さまざまな方式のサスペンションが考案され実用化されているが、一般的な自動車のサスペンションは、基本的構成として車軸の位置決めを行うサスペンションアーム、車重を支えて衝撃を吸収するスプリング、スプリングの振動を減衰するショックアブソーバー(ダンパー)で構成される。欧米ではスプリングとショックアブソーバーが一体となった部品をコイルオーバー (英: Coilover) と称することもある。 乗用車(特にフロント)では、低コストなストラット式サスペンション(マクファーソン・ストラット式)が最も多く用いられている。乗り心地の向上やタイヤの接地条件やクルマの姿勢(ロールセンターやアンチダイブ、アンチスクワットなど)を細かくコントロールする目的で、ジオメトリー自由度の大きいダブルウィッシュボーン式や、さらなる安定性を得るためにマルチリンク式なども多く用いられている。 サスペンションの特性は同じ方式でも一様ではなく、使われる部品の固さや寸法に大きく依存する。一般に「サスペンションが硬い」と表現されるものは、車重に比してばね定数が高い場合やダンパーの減衰力が高い場合が多い。サスペンションが柔らかい方が路面の凹凸による衝撃を吸収しやすく、乗り心地を重視する乗用車ではサスペンションが柔らかくされる傾向にあり、スポーツカーやレーシングカーなどの自動車では旋回時や加減速時の車体挙動を抑えるためにサスペンションは硬くされる傾向がある。俗に「サスペンションがへたる」と表現される現象は、ほとんどの場合はショックアブソーバーの減衰力が低下したり、サスペンションアームの軸部に用いられているブッシュの弾力性が失われたりすることで発生する。

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広尾学園小石川中学校・高等学校 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “広尾学園小石川中学校・高等学校” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年2月) 広尾学園小石川中学校・高等学校(ひろおがくえんこいしかわちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、東京都文京区本駒込二丁目に所在する私立高等学校。略称は広小(ひろこ)。設置者は学校法人村田学園。2008年度より中高一貫教育を開始したが、2016年度から中学校の募集を停止した。2018年度から東京都港区の広尾学園中学校・高等学校と教育連携し、グローバル教育に力を入れている。2021年4月より広尾学園小石川中学校・高等学校に改称し、男女共学となった。また、中学校の募集も再開している。 1909年(明治42年) – 銀行会社事務員養成所が設立。 1921年(大正10年) – 村田簿記学校と改称(2007年に村田経営義塾に改称、2011年に東京経営短期大学へ継承)。 1931年(昭和6年) – 村田簿記学校内に村田女子計理学校が設立。 1937年(昭和12年)

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関西 – Wikipedia

この項目では、日本における概念的地域について説明しています。現代日本の地方区分については「近畿地方」を、その他の用法については「関西 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 関西(かんさい)は、日本の地方を指す言葉である。関西に含まれる府県は大阪府・京都府・兵庫県・滋賀県・奈良県・和歌山県の2府4県である[1][2]。関西広域連合では鳥取県・徳島県を加えた2府6県を関西と定義し[3]、情報発信を行っている。日本の地方区分では「近畿地方」に該当する。 「関東」という概念は古来の日本から畿内の住民の間にあったが、その一方で「関西」という概念は存在せず、「関西」という用語の使用例もほとんどなかった。これは現在「関西」と呼ばれる地域が長らく日本の中心地であり、地方的な意味での「関西」という概念が存在せず、畿内以外では「上方」などの地域名称を用いたためである。現在のような「関西」という概念は、明治維新による江戸の東京への改称以後(特に大正末期・昭和初期以降)になって畿内や上方に代わる表現として醸成され、さらに畿内近隣の地域区分として従来用いられた近畿が、「ねじれた」「変態の」といった意味がある英語の “kinky” に発音が似ていることから、国際化が進展した平成以降の日常的な使用に拍車がかかったものである。その背景にある歴史変遷は後述のとおりである。日本では現在のところ「関北」や「関南」は実在しない。 時代による概念の変遷[編集] 古代[編集] 古代律令制期に畿内を防御する目的で設置された東海道鈴鹿関、東山道不破関、北陸道愛発関の三関から東を「関東」と呼んだ。これに対し「関西」という概念は存在しなかった。なぜなら朝廷の存在する都にとって、自身の地が日本の中心であり東も西もなかったからである。 平安時代に越前愛発関が廃止され、代わりに近江国逢坂関が置かれると、逢坂関以西が「関西」と認識されるようになった。ただし、朝廷にとって異質な世界だった「関東」に対する認識と比べると、「関西」は畿内=中央であるためそれほど強く意識されていた訳ではなかった。 中世[編集] 鎌倉時代に入り、「関東」が鎌倉幕府自体および幕府が直接統治した三河国・信濃国・越後国以東の「関東」に相対する存在としての「関西」が発生したことを物語っている。そのため、「関西」の指し示す範囲は決して一定ではなく、朝廷が直接統治権を及ぼす尾張以西の西日本全体を指すこともあれば、従前どおり逢坂関以西の西日本全体を指すこともあった。 近世[編集] 江戸時代になり、「関東」の範囲が幕府所在地の江戸を中心とする坂東8か国(関八州)と認識されるようになると、対する「関西」もまた京都・大坂を中心とする上方諸国を指すと認識されるようになった。しかし、「関西」の指す範囲はやはり大まかなものであり、場合によって上方諸国、畿内近国、鈴鹿関以西の西日本全体、逢坂関以西の西日本全体などと使い分けられた。 近代・現代[編集] 明治維新以降は、江戸時代以前と比べて「関西」の指す範囲は固定化され、それまで畿内や上方と呼ばれていた地域、つまり大阪を中心に見据えた京阪神とその周辺地域を指すことがほとんどとなった。東海・北陸で刊行された医学雑誌『関西医界時報』(1912年-43年,1946年-64年)は、「関東」への対義語として京阪神以外で使われたまれな実例である[4]。 関西と近畿については、「近畿地方#名称」も参照。 「関西」と冠する主な企業・学校[編集] 官庁関連では、国立国会図書館「関西館」がある。また、経済産業省・近畿経済産業局の英文呼称は “The

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西鉄300形電車 (軌道) – Wikipedia

この項目では、西鉄福岡市内線向けに製造されたボギー車について説明しています。 小倉電気軌道が導入し西鉄に継承された2軸車については「小倉電気軌道の電車」をご覧ください。 北九州線からの転属時に「300形」へ一時的に改番された車両については「九州電気軌道100形電車」をご覧ください。 西鉄300形電車(にしてつ300がたでんしゃ)は、かつて西日本鉄道が所有していた路面電車路線(福岡市内線、北九州線)に在籍していた電車。旧型の木造車両の機器を一部流用する形で製造が行われた[5]。 「300形」と言う形式名を持つ福岡市内線の路面電車車両としては、1947年から1952年まで北九州線から転属した118形が一時的に「300形」と改番されていたため、この項目で解説する車両は2代目にあたる[8]。 1950年から1954年にかけて、福岡市内線開業時から使用されていた2軸電車の置き換えと輸送力増強のため、同じく西鉄が所有していた路面電車路線である北九州線の木造ボギー車(100形)が転属した。だが、1910年代から1920年代初期に製造された事による車齢に加え、全車とも木造車体であった事から1960年代には老朽化が進行していた。そのため鋼製ボギー車や連接車の導入によって置き換えが進んだ一方、これらの車両の機器を流用することで安価なボギー車を製造する計画が立てられた。これに基づき、西鉄の子会社であった九州車輌によって作られたのが300形である[5]。 車体は全長11 m級で、前面は連接車(1001形・1201形・1301形)に類似した、運転台前面の中央部に大窓が設置された変則三枚窓で、側面に7枚設置された2段窓は上部がHゴムで固定されたバス窓であった。2枚折戸式の乗降扉も含めて車体は全金属製だった。座席は全席ロングシートで、車内の壁面はライトグリーンで塗られたデコラ仕上げの軽金属板が張られ、車内照明には蛍光灯が用いられた[5]。 台車は北方線の連接車である331形用の付随台車を基に開発された日立製作所製のKL-11形が新造され、軸箱支持装置には軸ばねが用いられた。主電動機や抵抗器、補助電源装置(電動発電機、MG)、空気圧縮機に関しても、流用先の機器の老朽化が予想以上に進行していた事で新造品が使われた結果、100形から流用されたのは制御装置や制動装置などごく僅かな部品に過ぎなかった[5]。 福岡市内線時代[編集] 1963年に2両(301・302)、翌1964年に3両(303 – 305)が製造されたが、前述の通り100形から流用可能な機器が想定よりも少なく生産コストが嵩んだ結果、合計5両で改造は打ち切られた。1968年 – 1970年には福岡市内線のワンマン運転開始に伴う対応工事が実施され、向かって右側の乗降扉付近の窓の上段を潰し方向幕やスピーカーが搭載される、先頭中央窓に自動ワイパーや下部通風口が設置され縦方向の長さが縮小する等多岐に渡る改造が行われた。 利用客減少に伴い福岡市内線の一部路線の廃止(第1次廃止)が1975年11月に実施された事を機に、300形は全車とも北九州線へ転属した。 北九州線時代[編集] 転属にあたり、廃車となった車両から流用された主電動機(45 kw)を用い車両出力が90 kwに増強され歯車比も変わった他、前面右側窓にワイパーが増設されるなど外見にも若干の変化が生じた。そして1977年から北九州線での使用が始まった。以降は他形式との共通運用に用いられ、塗装変更も実施されたが、1985年10月20日の一部廃止と共に全車とも廃車された。

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フクザワ – Wikipedia

フクザワ(3月11日[1] – )は、日本のイラストレーター[2]。兵庫県出身[1][3]。 大学4年生時にCOLD KITCHIENのCDジャケットをきっかけに活動開始[4]。 CDジャケット、バンド・アーティスト・イベントグッズなど、音楽関連のデザインのほか[5][2]、自身もライブステージに立ち、音楽アーティストの隣で、与えられた時間内に1枚の絵を仕上げるパフォーマンスとしてライブペインティングの活動も行っている[4][5][2]。 作品リスト[編集] CDジャケット[編集] グッズ[編集] 連載[編集] 四コマ漫画「タイトル不明」(連載終了、ETOPICA) 四コマ漫画「軽音楽部高校2年生「ナナ(主人公)」の、ゆるい日常 」(連載終了、マイナビ進学U17) イラストコラム「あの曲のイメージイラスト」(2014年 – 連載中、Skream![8]) 書籍[編集] 君の音と僕の色 (2017/6/30,KADOKAWA,978-4047346741,4047346748) 胸ギュン(HAJIME

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高松大学 – Wikipedia

高松大学(たかまつだいがく、英語: Takamatsu University)は、香川県高松市春日町960番地に本部を置く日本の私立大学である。1996年に設置された。大学の略称は高大(たかだい)。。 建学の精神(校訓・理念・学是)[編集] 高松大学では4ヶ条からなる「建学の精神」を制定しており、目指す大学像が提示されている[1]。また、高松大学では「教育理念」を定めており、高松大学の教育について実現すべき4項目が示されている[2]。これらの「建学の精神」や「教育理念」に基づき、具体的な「教育目標」を定めている[3]。 高松大学は、平成27年度に公益財団法人日本高等教育評価機構による大学機関別認証評価を受審した結果、機構の定める大学評価基準に適合していると「認定」された。 教育および研究[編集] 経営学部では、教育方針の1つに地域に貢献できる職業人の育成を上げている。そこで講義においても、1年生から4年生の全学生がゼミナールに所属し、教員から「人間力」を向上させるための指導を受けている。また、講義の中でも企業におけるインターンシップに重点を置いている。インターンシップ教育としては1年生には「職業とは、企業人とは」といった概念を持たせ、2年生にはグループで企業に派遣してのインターンシップ教育を行っている。また、3年生には本人の進路希望も考慮した企業でのインターンシップを行っている。 発達科学部では、子どもの教育・保育にあたるための「理論」と「実践力」を兼ね備え、子育て支援社会を支える豊かな心と創造力を身に付けた人材の育成を目指している。発達科学部の特色は4つある。①乳幼児から学童期における子育てにかかわる問題を総合的に勉強する。②対話をベースにする教育を重視し、1年次から少人数制のゼミナールに所属する。2年次からも一人の教員の指導を受けながら卒業論文作成を目指す。③早期から教育現場を経験する豊富な実習時間を用意している。④多様な免許・資格(保育士、幼稚園教諭一種免許状、小学校教諭一種免許状、特別支援学校教諭一種免許状)が取得できる。 年表[編集] 1968年 学校法人高松学園が認可される。 高松東幼稚園経営 1969年 高松短期大学を開学、児童教育学科が開設される。 1971年 法人の名称が四国高松学園に変更される。 高松短期大学保育科第二部が開設される。 1972年 高松短期大学専攻科(児童教育学専攻)が開設される。 1976年 高松短期大学音楽科が開設される。

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福岡県立伝習館高等学校 – Wikipedia

福岡県立伝習館高等学校(ふくおかけんりつ でんしゅうかんこうとうがっこう)は、福岡県柳川市本町にある県立高等学校。 略称は「伝習館」(でんしゅうかん)、「伝習」(でんしゅう)。ふくおかスーパーハイスクール(FSH)指定校。 伝習館高等学校所在地 伝習館高校の起源は1824年(文政7年) 柳川藩第九代藩主立花鑑賢(あきかた)により創設された柳川藩藩校伝習館にあるが、その発祥は、1660年頃(寛文・元禄期)の鎮西の鴻儒であった安東省庵及びその子孫が藩儒となり、藩士子弟を指導していた家塾にある。1824年(文政7年)の伝習館創設後、安東節庵が教授となり学規学則を定め、学校の組織内容を確立した。1868年(慶応4年)には藩政の大改革に際し、一時学館を廃止したが、1869年(明治2年)に、さらに規模宏大な文武館を建設した。西洋学術を取り入れるなど時代に則した人材教育を行ったが、発足して3年余にして廃校となった。廃校後、英学校、師範学校を経て県立中学校となり、現在の伝習館高校となった[1]。 「伝習館」の名は1824年(文政7年) 柳川藩第九代藩主立花鑑賢(あきかた)により設立された藩校の名に由来する。その由来は、論語学而篇の中の「曾子曰く、『吾、日に吾が身を三省す。人のために謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝ふるかと。』」にある[2]。1871年(明治4年)の廃藩置県により藩校は廃止されたが、のちに学制の下で学校を設立する際、再び「伝習館」の呼称が用いられた。 1824年(文政7年) – 藩校伝習館(旧字:傳習館)設立。 1879年(明治12年) – 福岡県立柳河中学校(旧字:福岡縣立柳河中學校)設立。 1886年(明治19年) – 福岡県立柳河中学校を廃止、山門郡町村連合により中学伝習館(旧字:中學傳習館)設立。 1887年(明治20年) – 中学伝習館を私立学校に改組し、尋常中学橘蔭学館(旧字:尋常中學橘蔭學館)と改称。

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望月邦夫 – Wikipedia

望月 邦夫(もちづき くにお、1918年(大正7年)2月27日[1][2] – 1990年(平成2年)3月5日[1][2][3])は、昭和期の建設技官・官僚、政治家。参議院議員、水資源開発公団(現水資源機構)総裁、工学博士[3]。 滋賀県[3]甲賀郡水口町(現甲賀市)で生まれる[1][2]。1942年(昭和17年)京都帝国大学工学部土木工学科を卒業した[1][2][3]。 戦後、建設省に入省し、河川局開発課長、同河川計画課長、国土総合開発審議会専門委員、建設省大臣官房技術参事官などを歴任し、1968年(昭和43年)近畿地方建設局長(現近畿地方整備局)に就任[1][2][3]。退官後、水資源開発公団理事を務めた[3]。 1974年(昭和49年)7月の第10回参議院議員通常選挙に滋賀県地方区から自由民主党公認で出馬して当選し[1][2][3][4]、参議院議員を1期務めた[1][2][3]。この間、参議院文教委員長、第2次大平内閣・国土政務次官、全国河川総合開発促進期成同盟副会長、自民党科学技術副部会長、同治水治山海岸対策特別委員会副委員長、同下水道対策特別委員会副委員長などを務めた[3]。所属会派は自由民主党・自由国民会議であった[3]。その後、第12回通常選挙に立候補したが落選した[4]。 1982年(昭和57年)5月から1986年(昭和61年)4月まで水資源開発公団総裁に在任し[1][3][5]、その後、ダム技術センター理事長を務めた[1][2]。 1989年、勲二等旭日重光章受章[6]。 小林泰との共著『コンクリートダム施工法』〈最新土木施工法講座 第8〉山海堂、1959年。 ^ a b c d e f g

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秋田県立矢島高等学校 – Wikipedia

秋田県立矢島高等学校(あきたけんりつやしまこうとうがっこう)は、秋田県由利本荘市に所在する公立の高等学校。 1926年(大正15年)矢島町立農業専修科として設立された。その後1948年(昭和23年)第22期卒業生をもって専修科を廃止。同年6月に新制秋田県立矢島高等学校(定時制課程)に移行した。1952年(昭和27年)に全日制課程(農業科、家庭科、普通科)を設置、1989年(平成元年)に全日制普通科のみとなった。また、かつては川内分校(定時制)と笹子分校(定時制のち全日制に移行)の2つの分校を有していたが、前者は1973年(昭和48年)に、後者は1999年(平成11年)に閉校した。 現在の校舎は2009年(平成21年)3月に竣工しているが、これは由利本荘市立矢島中学校と棟続きの同一の建物であり(矢島高校は建物正面右側、矢島中学校は建物正面左側)同年4月から中高連携がスタートしている。これは、地域の少子化に伴う高等学校再編の流れから矢島高校の存続を図るため、当時の矢島町が矢島中学校(当時は矢島町立矢島中学校)改築と高校改築を一体の事業として推進し、複合的教育ゾーンの形成を目指したことによるものである。中高連携の共通テーマとして、立・錬・情が掲げられており、中学校教員とのチーム・ティーチング(TT)授業や相互授業参観などの学習指導での協力の他、学校行事への共同参加も開始されている。なお、県立高等学校と市立の中学校が一体型校舎で連携するのは全国初の事例であるとされる。 1926年(大正15年)4月 – 矢島町立農業専修科設置。 1948年(昭和23年) – 専修科廃止、秋田県立矢島高等学校(定時制課程)設置。 1951年(昭和26年)7月 – 笹子分室、川内分室(ともに定時制)開設。 8月 – 笹子分室が分校となる。 1952年(昭和27年) – 全日制課程設置(農業科、家庭科、普通科)。 1954年(昭和27年)6月 –

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