Month: October 2019

鎧通し – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “鎧通し” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年4月) 鎧通し(よろいとおし、よろいどおし)は、日本刀の一種。その名の通り、組み打ちで敵を鎧の隙間から刺すことに特化した短刀である。 刃の幅が狭く、手元部分の重ね(刃の厚み)が極端に厚く、先が薄い。極めて頑丈な造り込みの、寸の詰まった短刀である。刃長は七寸前後であるが、まれに五寸以下のものもある。刀身の全長に対し、中子が長いことも特徴である。鍔はつけない[1]。 多くは九寸五分であり[2][3]、『富樫記』『大友興廃記』に記述がみられる。 実用と役割[編集] 格闘に際し、相手に組みついて鎧の間隙から刺突する用途により、この呼称がついた。左腰に太刀あるいは大小を差している場合には帯間の煩わしさを避ける目的からも、多くは馬手差(めてざし)または右手差(めてざし)と称される拵に収められている[4]。これは右腰に逆差しに佩用して瞬時の使用に利のあるよう、配慮がなされていたという。 技法は甲冑術(柳生心眼流など)に併伝されている。 鎌倉時代末(14世紀)から打物合戦が増加し、組み打ちなど接近戦が盛んになると、鎧上からの刺突を考慮し、刃渡り短く、無反りで、重ね厚に鍛える風が流行し、鎧通しと称するようになった[5]。 鎧通しは刺刀(さすが)から発展した刀である。刺刀から反りが無くまたは少なく、重ねが厚い(刀身の断面形状が厚い)「鎧通し」と呼ばれる短刀の形式に発展した(室町時代には用いられた[6])。刺刀の反りが増したものは脇差や反りが増し、長くなったものは打刀と発展していく。 ^ 『世界大百科事典 31

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ウィリアム・ピケンズ – Wikipedia

ウィリアム・ピケンズ(William Pickens、1881年1月15日 – 1954年4月6日)はアフリカ系アメリカ人の雄弁家、教育者、ジャーナリスト、エッセイスト、NAACPのメンバーだった。 彼は2つの自伝を書いた。最初に書いたのは『奴隷の相続人』(1911年)、第二は『爆発する柵(しがらみ)』(1923年)で、1919年の暴動における、アフリカ系アメリカ人に対する人種差別的攻撃と、1921年のリンチ事件をあつかった。 解放奴隷の息子として1881年1月15日にサウスカロライナ州で生まれ、アーカンソーで育った。 複数の学校で学んだ。タラデガ・カレッジ(1902年)とエール大学(1904年)から学位を、フィスク大学(1908)から修士号、セルマ大学(1915年)から博士号を獲得。 ミニー・クーパー・マカルピンと結婚し、3人の子供がいた。 ピケンズはメソジストだった。 彼は、妻といっしょに豪華客船RMS「モレタニア」号(1938年建造)に乗って漫遊旅行をしている最中に死に、海に水葬された。[1][2] マイルス・デイビスの自伝によると、ピケンズはデイビスの大叔父に当たり、ピケンズがマーカス・ガーベイを批判していたために、(ガーベイを支持する)デイビスの父親はピケンズを嫌っていた。 ラテン語、ギリシャ語、ドイツ語に堪能で、母校タラデガ・カレッジやワイリー・カレッジで教鞭をとった。 また、モーガン州立大学の社会学教授・学部長だった。 また、「有色人種の進歩のための協会」(NAACP)の雄弁会員で、米国財務省の防衛貯蓄部門の長官を務めた。 エイブラハム·リンカーン、人間と政治家、1909 奴隷の相続人、1910年から1911年(最初の自伝) フレデリック·ダグラスと自由の精神、1912 奴隷解放の50年、1913 分離政策・究極の効果、1915 新ネグロ:彼の政治的・市民的・精神的状態、および関連エッセイ、1916

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阿曇氏 – Wikipedia

阿曇氏(あずみうじ、安曇氏とも)は、「阿曇(安曇)」を氏の名とする氏族。 海神である綿津見命を祖とする地祇系氏族。 『記紀』に登場し、『古事記』では「阿曇連はその綿津見神の子、宇都志日金柝命の子孫なり」と記され、『日本書紀』の応神天皇の項に「海人の宗に任じられた」と記されている。その他、『新撰姓氏録』では「安曇連は綿津豊玉彦の子、穂高見命の後なり」と記される。 「阿曇」と「安曇」の表記について、田中卓は、本来は「阿曇氏」であったのが、天平3年(731年)以前に「安曇氏」と書かれるように変更されたと発表した。ただし、全てが一度に変更されたのではなく、安曇広麻呂のように、どちらの表記も用いられる場合もあったという[1]。 それに対して、青木治は和銅6年の好字二字令の時であるとした[2]。 氏人として、『高橋氏文』にある崇神朝に初めて御膳を奉った大栲成命(大栲梨命とも)、『肥前国風土記』に記録される景行朝の阿曇百足(『播磨国風土記』では孝徳朝の人物とされるが、史料ごとに時代に大きく差があるのは、百足が安曇氏の祖としての伝説上の人物であったからである[3])、応神天皇三年紀や『筑前国風土記』に登場する大浜宿禰、履中天皇即位前紀に見える阿曇浜子、舒明朝に百済へ派遣された阿曇比羅夫、斉明朝・天智朝に活動した阿曇頬垂などがいる。 全国の阿曇部を管掌した伴造として知られる有力氏族で[4]、発祥地については筑前国糟屋郡阿曇郷・志珂郷(現在の福岡市東部)説、淡路島説などがある[5]。 安曇氏は、日本各地に個々に成立していた海人集団の長が、6世紀以降王権に隷属する過程で1つの氏に統合されたと考えられられる[6]。 以下の記述は『日本書紀』、『風土記』による[7]。 景行天皇82年には、熊襲征伐に向かう途中、筑紫において、土蜘蛛を討伐しようとしたが、抵抗が激しかったため、志我神を祀ったという。また、『肥前風土記』によると、景行天皇が巡幸したとき、供者の安曇連百足に命じて、近くの島を視察させたところ、大耳、垂耳という土蜘蛛がいたため、百足は彼らを捕らえた。彼らは貢物をすること約束したので、天皇は赦免したという。その島は後の値嘉嶋であった。 仲哀天皇9年に、神功皇后は、新羅へ出征するために、磯鹿の海人・草を偵察に遣わしたという。 応神天皇3年には、各地の海人が騷いて、命令に従わなかったため、阿曇連の先祖・大浜宿禰が遣わされて、その騒ぎを平定し、その功で海人の宰となったという。また神功皇后が新羅へ向かった際に、阿曇大浜と阿曇小浜の2人が従軍している。さらに、応神天皇期には海部が設置されたとされる。 履中天皇即位前年には、住吉仲皇子が、仁徳天皇の皇太子である去来穂別皇子に反乱を起こした際に、阿曇浜子が淡路の能嶋の海人を率いて仲皇子側に付いている。その後、浜子は捕らえられ、「浜子の罪は死刑に値するが、恩を与えて、死を免じて「墨(ひたいにきざむつみ)」を与える」として、その日のうちに目の下に入れ墨を入れられた。これにより、入れ墨をした目のことを「阿曇目」と呼ぶようになったという。 推古天皇31年には、阿曇連(欠名)が新羅から賄賂をもらい、蘇我馬子に新羅に派兵するように促したという。また、翌年には同一人物と見られる阿曇連(欠名)が法頭に任じられている。 阿曇比羅夫は、舒明天皇期に百済に使者として派遣されていたが、同天皇13年(641年)の天皇の崩御に際し、翌年に百済の弔使を伴って帰国した。またこのとき百済の王子である翹岐を自分の邸宅に迎えている。斉明天皇7年(661年)には百済救援軍の将軍となり、百済に渡っている。翌662年には、日本へ渡来した百済の王子豊璋に王位を継がせようと水軍170隻を率いて王子と共に百済に渡った。大錦中に任じられた。天智天皇2年(663年)8月に、白村江の戦いで戦死したという。 律令制の下で、宮内省に属する内膳司(天皇の食事の調理を司る)の長官(相当官位は正六位上)を務めている。 安曇氏の分布[編集] 『播磨国風土記』によれば、阿曇百足は難波の浦に住んでおり、のちに揖保郡に移住したという。百足が難波で住んでいたのは、平安時代に東大寺領安曇江荘があった現在の大阪市西成区堀江地区であり、『日本書紀』に見え、後に安曇氏が氏寺とした「阿曇寺」は、大阪市中央区安堂寺町にあったと考えられている。このことから、安曇氏は摂津国西成郡をも拠点としていたことがわかる[8]。 また、『日本書紀」履中即位前紀によれば、阿曇浜子は淡路島の「野嶋之海人」を統率していたとされ、安曇氏は淡路島にも拠点を持っていたことを示唆している[9]。 他には、隠岐国、備中国、周防国、阿波国、伊予国から安曇氏あるいは安曇部によって海産物が貢納されており、安曇氏は海人集団として西日本を中心に分布していたことがわかる[10]。

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恐眠症 – Wikipedia

恐眠症(きょうみんしょう、英:Hypnophobia[1])は、眠ることに対する不合理で過剰な恐怖を抱く現象である。寝台恐怖症や睡眠恐怖症と呼ばれることもある。これは、眠ることでコントロールのできない状態になったり、悪夢を繰り返し見ることへの不安や、「寝る時間を作業に充てられたのではないか」「もっと遊べたのではないだろうか」という時間の損失に対する不安によるものであると考えられる。英語のHypnophobiaの接頭語Hypnoは、ギリシャ語で眠りを意味するhypnosから来ている。[2] 治療法については、「恐眠症#治療」を参照。 恐眠症の原因となりうるものとして、睡眠に対して恐怖を抱いている人を見ることや、引き金となる出来事をテレビで見たり直接的に目撃することが挙げられる[3]。 一般的な症状[編集] 一般的に、恐眠症には身体に影響を及ぼす症状がたくさんある。 これらの症状は、患者の身体と精神の両方に影響しうる。 睡眠のことを話したり考えたりするだけで不安を覚える患者も多い。 恐眠症は、不安障害に比較的よく認められる症状の一つであるが、治療は困難である[4]。 呼吸促迫 息切れ 錯乱 発汗 パニック・恐怖 眠気 口の渇き 傾眠状態 振戦 不整脈 悪心[3] 症状やその発現は患者によって異なる。処方薬は色々あるが、副作用や離脱症状は重度となる場合がある。

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ヘリウム化二ナトリウム – Wikipedia

ヘリウム化二ナトリウム(へりうむかになとりうむ)は、化学式Na2Heで表される化合物である。世界で初めて発見・合成された熱力学的に安定なヘリウムの化合物である[1][2][注釈 1]。 ヘリウムやネオンは第18族元素の中でも極めて反応性に乏しく、ヘリウムのイオン化エネルギーはすべての元素の中で最大であり24.59 eVにも及ぶ[2][1]。ヘリウムやネオン以外の第18族元素の化合物は以前より見つかっていた[2]が、ヘリウムの化合物はヘリウム化二ナトリウムの発見までヘリウム原子がファンデルワールス力で結合したファンデルワールス分子や包接化合物以外はほとんど見つかっておらず[1]、理論的には予想されていた[注釈 2]が実験的な合成は極めて高圧な状態が必要であり合成された例はなかった。 しかし、2017年にXiao Dongらの研究チーム[注釈 3]が「USPEX」と呼ばれるアルゴリズムを用いて存在を予測したヘリウム化二ナトリウムの合成に成功したと発表した[1]。これはヘリウムとナトリウムの単体を入れた容器にカーネギー研究所(アメリカ)のダイヤモンドアンビルセル(通称:DAC)と呼ばれる高圧実験に用いられる機器を用いて113 GPa以上の高圧状態の下でレーザーで加熱するというものであり[1][3]、以下の反応が起こる[2][1]。

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ジュゼッペ・ベッツォーリ – Wikipedia

ジュゼッペ・ベッツォーリ(Giuseppe Bezzuoli、1784年11月28日 – 1855年9月13日)はイタリアの画家である。フランス出身の画家、ジャン=バティスト・フレデリク・デマレー(Jean-Baptiste Frédéric Desmarais: 1756–1813)に学び、「新古典主義」の画家に数えられる。 フィレンツェの農家で生まれた[1]。姓はBazzuoliであったのを古代からのフィレンツェの名家の姓、Bezzuoliに変えた[2]。1796年に12歳で、フィレンツェの美術学校に入学した[3]。フランス出身の新古典主義の画家、ジャン=バティスト・フレデリク・デマレー(Jean-Baptiste Frédéric Desmarais: 1756–1813)や、ピアッツォーリ(Gaetano Piazzoli)、ペドローニ (Pietro Pedroni)に学んだ。1812年に。美術学校から3年間の奨学資金を得て、ローマに留学し、巨匠の絵画を模写して修行し、ミラノやボローニャ、ナポリへ旅した。 フィレンツェに戻った後、1816年からプッチ宮殿やピッティ宮殿の壁画を制作した。 1830年代にはフィレンツェの美術学校で教えはじめ、1844年に校長のピエトロ・ベンヴェヌーティが亡くなった後、教授の称号を得た。ベッツォーリが教えた学生にはジョヴァンニ・ファットーリやジュゼッペ・ラッジオ、エンリコ・ポラストリーニ、カルロ・アデモロらがいる。 バストージ宮殿の装飾画( Ottavio Bandinelliと共作) 参考文献[編集]

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陣内流柔術武闘伝 真島クンすっとばす!! – Wikipedia

『陣内流柔術武闘伝 真島クンすっとばす!!』(じんないりゅうじゅうじゅつぶとうでん まじまクンすっとばす)は、にわのまことによる日本の格闘アクション漫画。漫画雑誌『週刊少年ジャンプ』(集英社)にて、1995年11号から1998年まで連載された。全15巻。 2009年4月15日発売の『コミックBREAK』(日本文芸社刊)創刊号より、約6年後を舞台にしミステリーの要素を取り入れた続編『陣内流柔術流浪伝 真島、爆ぜる!!』の連載が開始される。2009年10月の7号をもって『コミックBREAK』が紙媒体刊行終了したため、以降は『週刊漫画ゴラク』(同社)2009年11月20日号より移籍連載された。2014年『別冊漫画ゴラク』(同社)にて連載。その後にWEBコミック『ゴラクエッグ』にて連載され、2021年4月末に連載終了した。累計販売部数は160万部を突破している。 「真島クンすっとばす!!」では柔術を学ぶ少年がライバル達との戦いで成長していく姿を描いている。柔術を総合格闘技として捉えているが、打撃メインの光臨館編、次いで投げと極めメインの向道館編を経てから総合格闘技のGIGAバトル編となる。終盤はそれまで行われていたランキングバトルから外れて、裏社会に身一つで挑まんとする主人公に今まで戦ったライバルたちが加勢に現れる急展開で終わる。 「真島、爆ぜる!!」では総合格闘技とミステリーを絡めたストーリーが展開される。前作ラストの少年誌らしい終わりは否定され仲間は生死不明の重傷を負い主人公も敵の手に落ちたことで精神を操作されている。WEB移行後の真島、爆ぜる!!は更新ペースが落ちており、2018年後半から2019年後半までは1年間未更新だった。こちらも最終話は駆け足で完結する(一応の区切りはつけている)。 あらすじ[編集] 本編「真島クンすっとばす!!」[編集] 戦国時代に合戦の組打から生まれた武術・陣内流柔術。その使い手である主人公真島零は中学生時代は不良であったが、高校生になって陣内流史上最強と言われる八代目宗家・城之内将士を超えるため、世界最強の格闘家を目指す。その過程で様々な武道・流派と闘い、成長していく。 続編「真島、爆ぜる!!」[編集] この節の加筆が望まれています。 陣内流柔術[編集] 戦国時代、仙台藩御留流家臣、陣内佐十郎重直が興した流派。500年の歴史を持つ。他門に敗れたことはないとされ、格闘家の間で一目置かれる存在。モデルは柳生心眼流であり、実在する技も作中に登場している。 手技 楔(くさび) 相手の打撃に対して肘で受ける。カウンター狙い。 獅子噛(ししかみ) 瞬転当。最も攻撃しやすい体勢に持っていく。 鉄菱(てつびし)

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眠狂四郎 – Wikipedia

眠狂四郎(ねむり きょうしろう)は、柴田錬三郎の剣豪小説シリーズ、その主人公の剣客。1956年から『週刊新潮』に『眠狂四郎無頼控』として連載開始し、たびたび映画化、テレビドラマ化、舞台化された。 『大菩薩峠』(中里介山著)の主人公机竜之助に端を発するニヒル剣士の系譜と、柴田の作風を貫くダンディズムが融合した複雑な造形がなされている。転びバテレンと日本人の混血という出自を持ち、平然と人を斬り捨てる残虐性を持つ。その生い立ちを背負い、虚無感を持ちつつ豊臣秀頼佩刀と伝わる愛刀「無想正宗」を帯び「円月殺法」という剣術を用いる。五味康祐『柳生武芸帳』と並んで剣豪ブームを巻き起こした。映画評論家の佐藤忠男が指摘するように歌舞伎の伝統では恋愛するのは二枚目で、立役は恋愛しないことになっているのが、西洋の騎士道と違うところで、このシリーズは明らかに伝統を破っている。 執筆と人気[編集] 昭和30年代の週刊誌ブームの先駆けとして、1956年に『週刊新潮』が創刊され、創刊号からは谷崎潤一郎『鴨東綺譚』、大佛次郎『おかしな奴』、五味康祐『柳生武芸帳』の3本が連載された。しかし『鴨東綺譚』はモデルの女性から抗議されたことで連載中止となり、代わりにこの年の芥川賞を受賞していた石原慎太郎「月蝕」を掲載した。続いて編集長の斎藤十一は柴田錬三郎を訪れ、柴田が過去に大衆小説評で「こんなものが大衆小説なら、いつでも束にして書いてみせる」と述べていたことに触れて時代小説の連載を依頼し、さらに1回ずつの読切で20話、主人公は腕の立つ剣客という注文をつけた。柴田は1951年に直木賞を受賞したのちは、1954年に初の長編時代小説「江戸群盗伝」連載、1956年に塚原卜伝の修行時代を題材にした「一の太刀」などを執筆しており、『週刊新潮』1956年5月8日号に『眠狂四郎無頼控』の第一話「雛の首」を掲載した。この眠狂四郎は中里介山『大菩薩峠』の主人公机竜之助を念頭に考案した、混血の出生やニヒリストの自虐を持つ人物像だったが、読者からの手紙が殺到し、編集部から20回でなく当面書き続けて欲しいと要望され、1958年5月まで100話を連載、1959年1月から7月に続30話が連載された[1]。 柴田は執筆に際して、それまでの時代小説の主人公が「求道精神主義者か、しからずんば正義派であった」ことの逆を取ろうとし、陰惨な生誕をもつニヒリストで、「眠狂四郎が、剣を修行したのも、剣を抜くのも、従来の求道精神的図式の埒外」「近代人の所有する自虐精神から生まれたもの」としている[2]。「眠狂四郎」の人気の理由について遠藤周作は、従来の大衆小説の要素に加えて、スピード感と、ドンデン返しのある刺激的な構成、サディズムとマゾヒズムの加味されたエロティシズムを挙げ、「虚無も孤独も悉く運命感と宿命感とを背負わされている」ことの魅力だと述べている[3]。 箱根の塔ノ沢にある、柴田が眠狂四郎を執筆した旅館には、「眠狂四郎御定宿」という木札が掲げられている[4]。 ストーリー[編集] 江戸時代の将軍徳川家斉の頃、狂四郎は祖父の大目付松平主水正の長女千津が、オランダ医師で転びバテレンのジュアン・ヘルナンドに犯されて生まれた。15歳で母千津と死別し、剣法修行に励み、20歳の時に出自の糾明のため長崎へ行く。その帰途に船が嵐にあって孤島に泳ぎ着き、そこで出会った老剣客に1年あまり学んで円月殺法を編み出し、島を去る時に老剣客より極意秘伝書がわりに無想政宗を与えられた。『独歩行』の中で、円月殺法は「剣は、敵の闘魂を奪う働きを示す」「敵をして、空白の眠りに陥らしめる殺法」という催眠剣法として説明されている[5]。 老中水野忠邦の側頭役・武部仙十郎に雇われ、忠邦による幕政改革(天保の改革)を妨げる水野忠成をはじめとする勢力との暗闘の渦中にあって、狂四郎は次々と敵方の隠密らを斃してゆく。『独歩行』では、徳川家康直属の忍者集団であった風魔一族の末裔が幕府転覆を図る陰謀を、武部の依頼で狂四郎が阻止する。『殺法帖』では佐渡金山に関わる不正を調べに赴き、加賀の豪商銭屋五兵衛による密貿易の秘密を暴きだす。『無情控』は、大阪落城の際に運び出された太閤の御用金を探しに来日した安南の日本人町の人々に加担することになり、様々な勢力との暗闘に飛び込んでいく。『異端状』では、飢餓に苦しむ秋田藩による密貿易に関わって南支那海に現れる。 出版リスト[編集] 『眠狂四郎無頼控』(1-7)新潮社 1956-58年(新潮文庫(1-6) 1960-65年) 『眠狂四郎無頼控 続三十話』新潮社 1959年(新潮文庫版『無頼控』(6)) 『眠狂四郎独歩行』(前後編)新潮社 1961年(新潮文庫 1968年)

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